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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

云ふ闇

作者: 干間 貫

プロローグ


「おはよう。慧くん。」

「おはようございます。」

「今日はまた一段と早いねぇ。どうしたの?」

「ええ、今日は日直の日なんです。だから早くから色々とやる事があって。」

「そうなのかい。気をつけてねぇ。」

「はい、ありがとうございます。行ってきます。」

外に出れば僕に沢山の人が挨拶してくれる。挨拶は大事だ。人とのコミュニケーションは仲間意識をもたせ、人間の結束を強める。僕がよく挨拶されるのは僕自身が礼儀正しいのもあるのだろうが、しっかり地域清掃などの活動に参加しているからだろう…そう考えているうちにもうバス停に着いた。地方都市のバスは少々気まぐれで、ただでさえ本数が少ない上にいつも時間通りとは限らないが、今日はその限りでは無かったようだ。すぐにバスが到着し、僕を乗せて出発した。今日の天気は日本晴れで、地方ならではの空気の美味さが際立っていた。


『おはようございます。朝のニュースです。昨日午後八時ごろ、東京都I区で一軒家が燃える火事があり、焼け跡から四人の遺体が発見されました。警視庁によると、四人はこの家に住む一家であり、心中を図ったものと見られます。なお、この一家はとある宗教団体と関わりがあった模様です。』




1


その朝は、いつもと何ら変わらなかった。少しばかり暖かくなってきて、昨日の夜なんて布団を一枚減らしたくらいだった。それでも朝はまだ寒く、身体の先端が冷える。僕は誰もいない教室に着いた後、日直の仕事を始めた。朝の校舎はほとんど誰もおらず、教室には、部活の朝練だろうか、時折グラウンドから来る運動部の連中の声と僕の作業の音だけが響いていた。やがて、日直の仕事を終えると今日の予習を始めた。しかしこれは形ばかりで、他に登校して来る生徒に分からない所を教えてもらうように見せかけて、大部分を教えてもらう魂胆だ。僕は学校の中でも結構下の成績、所謂劣等生と言われるタイプの生徒なのだが、なぜか人に好かれているのを利用して、テスト前にノートを見せてもらったりしてなんとか赤点スレスレで凌いでいる。

「はぁ…」

思わず溜息が出た。文字と記号の羅列をじっと眺める。どうして教科書の制作者は、こう簡単に人を飽きさせられるような教科書を作れるのだろうか。ノーベル賞に“飽きさせる教科書部門”があったら数多くの制作者たちが受賞するだろう。だいたい、今の教育は間違っている。やれ小学生の時からプログラミングだの、英語教育だの…プログラミングなんてどうせ社会に出ても必要ないだろうし、人格や、思考の形成にもまったく役立たない。英語教育に至っては、最近の学生には日本語すら疎かなのもいるのに英語なんて習わせてしまったら益々レベルが下がってしまうのではないか。それより生徒と教師の垣根を低くし、質問等しやすい環境を作るべきだ。余りにも信頼関係の乖離が年々ひどくなっているし、我が校の教師たちは近寄り難い人ばかりだ。まあ、過度に信頼するのもどうかと思うが。

ガラガラガラッ。

教室の扉が開く。

「よぉ。」

「横谷。なんだ、またバスか。」

「うん。マジでバスの数増やして欲しいわ。いつもの時間帯でも少ねえのに。」

考え事をしているとクラスメイトの横谷が来た。この横谷とは毎回の日直のペアなのだが、彼はよく遅刻する。一番の理由が彼の寝坊にあるのだが、彼はいつもバスの本数が少ないせいにしている。しかしこれでも成績はトップなのだから、不思議なものだ。

「それよりなんか東京のI区で火事があったってニュースでやってたぞ。I区って、前にお前が住んでたところじゃ無かったっけ?」

「確かに住んでたけど…」

スマホを取り出して記事を確認すると…あった。昨日の夜八時。

(あれ…?)

ふと気がついた。この見覚えのある周りの建物は。

(まさか燃えたのってトキヤの家じゃ…?)

すぐさまSNSでサーチする。個人の呟きや近くに住んでいる人からの情報が集束されていることもあり、事件の詳細など、こういった細かいことを調べるのにSNSは最適だ。


やはり、死んだのはトキヤ一家だった。しかも一家心中と報道されていた。まさか宗教団体と関わりがあったなんて…だが、そういえば思い当たる節があった。トキヤと遊ぶ時はいつも外。彼の家の前までは行けても、中には絶対に入れなかった。彼は「ちらかっていてきたないから…」と言っていたが、何かその団体がらみのものでも置いてあったのだろうか。しかし考えれば考えるほど僕は困惑した。彼と彼の家族は、そういう団体に入っていることを考えさせないほど全くもって普通だった。クリスマスなどは普通に参加していたし、特に悪い噂も聞かなかった。勧誘みたいなこともしなかったように思う。なのにどうして…

「おい、大丈夫か?」

横谷だ。

「あ、うん。大丈夫。区の中でも住んでたところから結構遠いところだから、多分関わりは無いと思う。」

「そっか。ならいいんだが…」

キーンコーンカーンコーン…

気づくと周りにはもう殆どのクラスメイトがいて、チャイムは遅刻しそうな生徒を急かすのみとなっていた。もうそろそろ朝のホームルームが始まる。僕はスマホの電源を切り、一限の授業の準備をした。

授業中、頭はずっとトキヤのことを考えてた。元よりあんまり授業は聞いていない人間だが、今日に関しては全くもって受け付けなかった。鮮明にトキヤとの思い出が蘇って来る。

初めて彼と出会った小一の時。初めて彼と喧嘩した日。その日から一週間ほど彼と話さなかったが次第に壁が壊れていった。そして、引っ越しのため彼と別れた小学校の卒業式。あのトキヤが死ぬなんて。だが、僕は泣かなかった。というより、泣けなかった。彼と別れる時も、おじいちゃんが死ぬ時も、中学の卒業式も、一回も泣かなかった。その都度親には「気持ち悪い」と言われた。自分でも分からない。ただ、今日は少しばかり顔には出ていたようで、授業中に横谷が何度もこちらを見てきた。

昼時になると、ほとんどの学生が仲間たちと机をくっつけて一緒に弁当を食べる。僕はどうせ弁当は支給されないし、今日は人と一緒に食べるのも気が引けて購買へパンを買いに行った。

教室に帰ると、僕の机がやたら広くなっていた。横谷が机をくっ付けたのだ。

「共林。」横谷がご飯を頬張りつつ話しかけて来る。

「なんだよ。そんなに今朝の遅刻が申し訳ないと思ってるんだったら購買でなんか買ってきてくれよ。」

「違う違う。今朝の事件についてだ。やっぱりなんか関わりがあったんじゃねぇか?お前、授業中ずっと顔暗かったぞ。」

「そんなんじゃないって。だって同年代だぜ?もしこれが自分だったら…そう考えると、顔が暗くなるのも当たり前だろ?」

「考えすぎなんじゃねぇか?確かにこの事件は俺もちょっと動揺したけど、こんな物騒な世の中で一々気にしてたらストレスで死んじまうぞ。」

「そうかも知れないけど…」

横谷はストレスや事件など、ネガティブという言葉とはまるで無縁の人間だ。彼のポジティブさに僕も時々元気を貰っているが、今日ばかりは受け付けなかった。そうか。そんなに顔が暗かったか。これ以上横谷に関わられるのも嫌なので、五、六時限目は寝ることにした。

やがて、帰りのホームルームが終わり、生徒たちは各々の家へと帰っていった。僕はというと、図書室にある個室の自習スペースで勉強するふりをしながら、スマホでトキヤ一家が関わっていた宗教団体について調べていた。

その宗教団体は、宗教団体といっても特にそれと言った怪しい側面は無かった。全国にハウスと呼ばれる支部があって寄付や慈善活動をしているだけと言った感じで、事件なども調べる限りでは一つも起こさず、調べれば調べるほどどうして彼の一家が心中したのか分からなくなってきた。色々調べたが何も出てこず、やがて、生徒の帰宅を促す最終下校のチャイムが鳴った。

帰り道の空は見事なまでの夕焼けで、まるで空がトキヤの死を悼んでいるかのようだった。だが空とは裏腹に、僕の心の中は濃厚なタール状のもので覆われたかのようにどんよりとしていた。

(トキヤ一家はどうして心中なんかしたんだ?)

何かしらの理由があるに違いない。だが、解き明かそうにも一地方都市から東京は高校生にとってはあまりにも遠過ぎた。

家に着き、手洗いうがいを済ませて部屋着に着替えると、テレビでニュースをチェックしながら夕飯を食べた。トキヤ一家については特に詳しく報道されず、すぐにラーメン屋の特集に入った。食事中、親がテストのことについて聞いてきた。地獄の始まりだ。

「こないだのテストはどうだったんだ?」

父さんだ。

「それなりに取ったよ。」

「それなりに、だと?どうせお前は赤点ギリギリに決まっている。嘘をつくな。雄太は学年一位ぐらい容易く取れたのにどうしてお前は取れないんだ。まったく、ホントダメ息子だな。」

「どうしていつも公立ごときのテストで一位が取れないのかしら。雄太は最難関私立に行ってもどんな時も一位だったのに。雄太は全く迷惑をかけなかったのに慧ときたら。いつもいつもこんな感じで親に苦労させて。なんてこんな子に育ったのかしら。」

自分たちですら学年でトップじゃなかったくせに相変わらずこの人たちは何様のつもりなんだろう。それに、たとえ一位を取ってやっても「何回も取れないと意味がない」とかほざいてくるに決まってる。学年一位を取ることが大事じゃない。

「で、話はそれだけ?」

「今度、予備校に入れる。お前のために探してやったんだからな。感謝しろ。」

「雄太は予備校に行かなくてあの成績だったんだから。そこんところをしっかり考えて勉強しなさいよ。」

いつもこんな感じで、兄の雄太ばかり贔屓する。それもそうか。現役で、予備校にも行かずに医学部に合格するんだからそりゃ“自慢の”息子だろう。神が与えた贈り物は誰しもが、大事に、大切に扱うに決まっている。

「はいはい、分かったよ。じゃもう僕皿洗って“お勉強”しなくちゃいけないから。」

適当に皿を洗い、すぐに自室に戻った。リビングで何やら話している声が聞こえるが、どうせ僕の悪口だろう。うちの親はいつもこうだ。兄さんが出来たことをすぐ僕へと押し付けてくる。うちの学校のトップクラスの成績の連中でさえ到底出来そうにないことを、ましてやこんな劣等生が出来るわけがないだろう。昔、僕が中学で学年五位以内に何度も入ったときも、書道で賞を取ったときも、まるで見向きもしなかった。本来なら兄弟に均等に注がれるはずの愛情は、はなっから兄さんの方に偏っていた。そんなおめでたい兄さんはもうそろそろ医学部を卒業する。彼女もいる。そのうち結婚して、子供も産まれるだろう。その孫に向けるであろう笑顔を、あの人たちはかつて僕に向けたことがあるだろうか。

ベッドに仰向けになり、SNSをチェックする。リビングで声が聞こえている間、親は自室には入ってこないことが分かるため悠々とスマホいじりができる。トキヤ一家が所属していたという宗教団体についてサーチしたが、どこにもその団体への批判は見受けられなかった。それもそうだ。欠点という欠点が無い団体を批判する方がおかしく見えるだろう。彼の一家の心中は、本当にその宗教団体が関わっていたものだったのだろうか?実は一家に何らかの問題があったんじゃないのかーーー

違う。トキヤの両親はうちのとはまるっきり正反対で、彼はいつも両親の話をうれしそうにしてくれた。確か父親は銀行員で、母親は元役所勤めだったっけか。授業参観や卒業式など、学校の行事にはいつも顔を出していた。うちの親は、僕が小学生に上がって暫くしてから行事には来なくなった。卒業式の時も、あくまでも義務だと言わんばかりに、顔色一つ変えず無表情だった。

リビングから声が聞こえなくなった。そろそろ親が来るだろう。僕は身体を起こし、机へと向かう。棚から教科書を何冊か適当に引っ張り出して無造作に広げる。間接照明を点け、ペンを持って無機質な登場人物と睨めっこをした。

コンコン。

ドアがノックされる。

「どうぞ。」

ガチャッ。

「慧。」

「何?母さん。」

「さっきあなたに予備校に入ってもらうって言ったけど、そこでは当然成績トップ取ってもらうからね。どうせ大したところじゃないんだし。」

「なるべく善処しますよ。」

「少しでもトップから外れたら、私立じゃなくて、金のかからない近場の国立に行ってもらうから。あなたにかける金なんて無いんだからね。ただでさえ、英語と地学の勉強が同時にできるわけ無いじゃない。雄太じゃないんだし。」

バタン。

ドアが閉められた。

「何だよ。それ。」

天井を見て呟く。

「なんだよ。」

ボソッと発した声が、一瞬で消えていく。

僕の将来なんてお構いなしだ。僕は兄さんの領域に到底到達できるわけがない。僕が地に堕ちれば堕ちるほど、兄さんが輝く。親もそれを、知っていて僕に接して来る。


かっこうが産みつけた金色の卵は、産みつけた先の鳥のつがいを魅了した。その金の雛は、他の雛を蹴落としはしなかったものの、大事に育てられ、巣立っていった。後にはもう一匹の雛と親鳥が残ったが、雛が急に金色に輝けるわけでもなく、親鳥に疎まれるのみとなった。抑圧は羽根を殺し、未来を掴む脚をも折った。飯を取れない鳥は、外の世界を見ることができない鳥は、ただ死にゆくのみだ。




2


トキヤ一家が心中してからもう数日が経った。僕はというと、この数日の間に親に半ば強制的に入らされた予備校で、わざとかと思えるくらい執拗に眠気を誘う棒読みの授業に辟易していた。この古びた予備校は街の外れの、所謂歓楽街に位置していて周りには風俗店やホテル、いつも叫んでいるハゲオヤジが生息している汚い居酒屋やバー、パチンコ店や怪しい人間がいる事務所など、まさに人間の欲望や見栄の見本市のような場所だった。

僕は高校での成績はあまり芳しく無かったが、だからといって頭が悪いのかというと決してそうでは無い。ただ、ちょっと面倒くさかっただけなのだ。いつも赤点スレスレで切り抜けてやれば、留年する事は無くなるし、最低限の努力で済む。それに私立の大学だったら、内申はどうせ見られないだろうから単純に学力で勝負出来る。僕が本気になったときの吸収力は兄さんのこともあってか、今までほとんど周りには見せて来なかったが、ここ一発のスプリントでは誰にも負けない自信がある。まあ、あの親が僕に私立大を受験するのを許可してくれればの話だが。


残り六分ほどで今日の最終の授業が終わる。帰ったら復習などはせずにすぐに風呂に入って寝ることにしよう。そう計画を練っていたその時、ぼうっと眺めていた窓に何かが付いた。水滴だ。雨が降ってきたのだ。

(しまった。そういえばスマホの天気予報で今夜は雨って表示されてたか。)

まずいことに、今日は傘を持ってこなかった。どうせあの親なんだし、車で迎えにくるはずがない。過去に僕が風邪をひいた時も、病院にすら連れて行かずに放置し、嘘だと相手にしてもらえなかった。今風邪を引いてしまったら絶対看病はしてくれないだろう。それにそんな姿はまったく想像出来ない。

(頼む。お願いだから止んでくれ。)

しかしそんな僕の切実な思いも虚しく、雨足は強くなるばかりだった。ボソボソと小さい教師の声を雨がだんだん掻き消していく。この予備校の入り口には雨宿り出来そうなスペースも少なく、そもそも授業が終わったらすぐに帰らされてしまう。どこか、しばらく雨宿りできる場所を探さなくては。


しばらく経った後に授業が終わり、傘を持って来ていた他の生徒たちと同じように外に吐き出される。雨足はさっきよりどんどん強くなり、まるでバケツをひっくり返しているかのような降りっぷりだった。僕は出来るだけ身体が雨に当たらないようにしながら、雨宿り出来そうな場所を探すために走り出した。


しばらく走ったが、全然見つからない。そもそも、こういう場所で高校生が居酒屋や風俗店で雨宿りしていたらなんて言われるだろうか。最悪の場合、警察に補導されかねない。補導されたら当然親に連絡が行く。そうなってしまったらあの二人は怒鳴るどころじゃなくなるだろう。全力で走っていても、身体がどんどん冷えていく。焦燥に駆られる中、パチンコ店の庇の下にいい感じの場所を見つけた。ここだったら、暗がりになっているお陰で外からはよく見えない。中からも、丁度窪みのような感じで、僕を隠してくれるだろう。やっとの思いで、庇の下に滑り込んだ。

一呼吸すると同時に、全身を安堵の温もりが包んだ。心が落ち着いていく。呼吸が次第に整っていく。雨が少しでも収まるだろうその時を待つ間に、僕はしばらくこの場所で雨に翻弄される歓楽街の住人を眺めることにした。

風俗店から出てきたばっかりのサラリーマン、居酒屋の酔客、バーのママ、カップルとは到底呼べない禿げ上がった小太りの中年と妙に若く見える女性…ここにはさまざまな人間がいる。もちろんここに住居を構えているという人間は少ないだろうが、毎日こんなことがここでは起きているのだろう。この街が、ここの人間にとっての“家”なのかもしれない。

その時、二人組の大柄な男たちが、すぐそばのパチンコ店の入り口から出る気配がした。

「あー…結構降ってますね。これ。高木さん。どうしますか。」

「いやー…降ってんなあ。どうすっかなぁ…俺たち傘持ってきてねぇよな。」

「安城さんに電話して車持ってきてもらいますか。」

「うん。よろしく頼むわ。」

カチッ…カチッ…シュボッという音が聞こえる。どちらかがタバコを吸い始めたのだろうか、すぐにきつい匂いがこちらに漂って来た。僕はむせかけたが、咳でもしてしまうと二人に存在がバレてしまうため、火事の避難訓練でハンカチを忘れた時みたいに服の袖を口に押し当てた。

(妙だ。何故だろう…なんか違和感を感じる。)

なぜか二人ともこの街には不釣り合いなぐらいの清潔感の、高級感のある服装だった。“その世界の”人間には見えないし、かと言って普通のサラリーマンとかでも無いだろう。

「安城さん、今出たそうです。まあ、ハウスからなんで、十五分くらいはかかりそうですけど。」

「ま、俺たち待つのは嫌いじゃねぇしな。」

「そうですね。こないだ、また新しい信者がドカっと増えたのもあってか安城さん結構忙しそうでした。」

(ハウス…あれっ…?どこかで聞いたような…いったいこの二人は何者なんだ…?三十代ぐらいに見えるが…?)

おかしい。何かがおかしい。僕は、二人の会話がもっと聞こえるように、耳に全神経を集中させた。

「そういえばよぉ。ハウスと言えば、こないだ、うちんとこの団体の信者だったとかいう一家が心中で死んだみてぇじゃねぇか。」

「あぁ、えーと…I区でしたっけ。東京の。なんか迷惑な話ですよね。ホント。まるでうちの団体のせいみたいに報道されて。まぁ、あながち間違ってもなさそうですけど。」

「うちんとこでさえこの有様だからな。東京のお偉いさんがたはもっとヤバいことやってんじゃねぇの?」

「かもしれないですね。」

(間違いない。トキヤ一家のことを話している。するとこの二人は例の宗教団体に属していて、しかもその団体は公には到底言えないような、何かよからぬ事をやっているということになるが…やっぱり彼の一家はその団体がらみのことに巻き込まれてしまったのだろうか…?)

その男たちは会話を続けた。

「そういや、今週の土曜にその東京のお偉いさんがうちんとこに来るらしいな。」

「そうでしたね。こんな田舎に一体何の用件でいらっしゃるんですかね…全く不思議です。もしかしたら、その例の心中に関するものなのかも知れないですね。」

「さあな。まあ、どうせ何かやらかしちまったんだろう。ここと違って東京はいろいろ危ないんだろうし。」

二人はそのまま、今度出るらしいパチンコの新台へと話を変えたが、僕の頭の中はその宗教団体のことでいっぱいだった。

(今度東京の幹部がこの街に来る…?何か大事なものを隠しに…?その幹部の人が何をしているのかが分かれば、もしかしたらトキヤ一家のことも分かるんじゃ…?)

しばらく二人は新台について話していたが、その後、男たちのうち敬語を使っていた方に電話がかかってきた。

「もしもし?花村です。…はい。……はい。わかりました。今高木さんとそちらに向かいます。失礼します。」

「安城さん来たようです。ここに横付けできないらしいんですぐ近くの路地に停めているそうです。」

「うん、分かった。なら、ちょっと走らなきゃいけねぇな。」

高木と呼ばれた男がタバコを消すと、二人は小走りで駆けていった。すぐに見えなくなってしまい、僕は暗がりにひとり残された。袖を口に押し付けるのをやめ、二人が見えなくなったあたりをじっと見つめた。


そして僕は、ある決心をした。

(土曜日にその“ハウス”とやらへ行ってみよう。トキヤ一家がどうしてああなってしまったのか確かめるんだ…)


その後、いくら待っても雨はまったく止む気配が無かった。

なんとか家に着いた時、身体はひどく濡れていた。しかし、僕の心は興味という名の魔物に支配されていたため、身体のことなどはまったく意に介さなかった。すぐに風呂に入り、冷めた夕飯を掻っ込むと、皿を洗って自室へ篭り、スマホで二人が言及していたハウスの住所を調べ始めた。

あの歓楽街から少し離れたところにあるそのハウスは、見た目には全く怪しさという怪しさは感じられず、街中でたまに見る普通の教会と言った感じだった。ただ一つ違いを挙げるとするならば、普通の教会にはあるはずの十字架が無いことぐらいだろうか。

(こんなところに、本当にこの団体の幹部が来るのか…?しかしあの二人があんなところで嘘をつくメリットはないはずだ…)


突如、ドアの外に気配を感じた。僕がすぐさまスマホを隠すと、間髪入れずにドアが空いた。

ガチャッ!

「おい!」

「はい。」

「お前、こんな遅くまでどこで何をしていたんだ。」

「どこ…って、丁度最後の授業が終わった後に雨が降り始めたからしばらく雨宿りして、それでも全然止まなかったからしょうがなく帰ってきただけだけど…。」

「あんな場所で雨宿りだと?お前がもし警察に補導でもされたりしたら、雄太に迷惑がかかるじゃ無いか。雄太の将来はどうなるんだ。まったく…授業が終わったら真っ直ぐ帰ってこいよ。雨に濡れてもお前なんか知ったこっちゃないんだから。」

「じゃあ、父さんはどうしてあんな所にある予備校に僕を行かせたの?」

「そんなの安いからに決まってるだろ。お前ごときに金をかけてられるか。雄太だったら、どんな環境でもトップになれるのに。」

僕は兄さんじゃない。僕だ。

「それに、帰ったらすぐに勉強しろよ。これ以上世間に恥を晒せるわけないだろう。」

バタンッ。

ドアが勢いよく閉まり、若干だが部屋が揺れた。

(モノは大事に扱えよ…)

そう思ったが、父さんはそもそも自分の次男すら大事に扱えないような人間だった。そのような、人をぞんざいに扱う人間にはモノですら大事に扱えるわけがないに決まっている。

「はぁ…」

大きなため息をつく。やはり強めの雨に長時間降られてひどく疲れたからだろうか、眠気がどっと押し寄せてきた。しっかり暖かくして寝なければ、風邪をひいてしまう。看病はもちろん期待出来るわけがないし、もし風邪が長引いて土曜日に外に出られなかったら、トキヤ一家の真相が分かるかもしれない機会を僕はみすみす逃してしまうことになるだろう。

僕は歯を磨いてベッドに入った。しばらく今日のことを考えていたが、流石に睡魔には勝てずに眠りについた。




3


土曜日になった。数日降った雨は夜中に止み、ひさしぶりに陽光が顔を出していた。

僕はいつも、学校が終わった後は最終下校のチャイムが鳴るまで自習スペースに篭りきりだ。しかし今日はあえて下校の時間を外すことにした。人が少ない時間帯に下校することで、ハウスに行ったのをバレさせない狙いがあった。しかも、丁度今日は予備校の授業も無かったので絶好の潜入日和だった。

タイミングを見計らい、校門から外へ出る。僕は、あの二人組が言及していた“ハウス”へ行くために、いつもとは違うバス停でバスを待っていた。

「あれっ…?もしかして共林くん?」

突然声をかけられた。同じクラスメイトの金本だ。彼女は僕にいつもノートを見せてくれるので、仲がいいクラスメイトの中でも特段よく会話する。人がいる時間は外したつもりだったが、詰めが甘かった。

「金本さん。どうしたの?」

「いや、共林くんがこの時間に帰るなんて珍しいなぁと思って…。それに、共林くんいつも登校する方向違ったよね?」

まずい。変に疑われると面倒なことになる。

「あぁ、ちょっと市街の方まで買い物に。金本さんは?」

「私はこれから予備校。ルークゼミっていうとこ。」

「ルークゼミって言ったら結構有名なところじゃないか。やっぱりいい大学狙ってるの?」

「ううん。いいところに行くからルークゼミに入った訳じゃないの。親が自分の好きなところに行ってやりたいことをやりなさいって。大学はどこに行くか、じゃなくて、何をするかで決めなさいって言われたの。」

「そうなんだ。第一志望に受かったら、やりたいこと出来るといいね。」

バスが来た。市街行きということもあってか結構混んでいたが、運悪く金本と近くになってしまう。案の定、金本が話しかけて来た。

「共林くんのお兄さん、東帝大学の医学部なんだってね。」

出た出た。いろんな人が会うたびに兄さんのことを聞いてくる。

「あー…うん。もうそろそろ卒業するみたい。」

「すごいなぁ。共林くんは、どこの大学狙ってるの?」

「あー…えっと、僕は…そこそこのところに行こうかなって。」

「そう。何か大学でやりたいこととかある?」

「えーっと…今は特に決まってない…かな。」

気まずい空気になる。たとえ行きたい大学があって、やりたいことがあったとしてもあの親は間違いなく入学を許してくれないだろう。

もし僕が兄さんだったら…何不自由ない生活、将来、名声。いとも簡単に手に入るだろう。

物理的な鎖は無くとも、精神的な鎖がいつも僕を雁字搦めにする。

呼吸に違和感がある。まるで痰が絡んだ時のように、呼吸自体は出来るがスムーズではないあの感じ。兄さんの話を他の人にされた時はいつもこうだ。

「じゃ…じゃあごめん。僕ここで降りるから。」

「うん…。また来週、学校でね。」

この空気に耐えきれず、目的地のはるか手前のバス停で停車ブザーを押す。停車すると同時に、逃げるようにバスを飛び出した。


あの空気から抜け出せたはいいものの、ここからハウスまで結構ある。次のバスが来るのを待つのも億劫になってしまい、僕は歩き出した。

この場所は、僕の通う予備校があるあの汚らしい歓楽街とは違い、上品で、活気に溢れていて、清潔な場所だった。金本が通っているというルークゼミも、こういう場所にあるのだろうか。金本はさぞかし家族に愛されているんだろうな。

「大学はどこに行くか、じゃなくて何をするか、か…」

金本がさっき言っていたことをボソッと声に出してみる。彼女にとっては現実味があり、明確にビジョンが見えているだろうが、僕にとっては夢物語だ。

果たして、ここの通りを歩いている内の何人が僕みたいに精神的な鎖に囚われているのだろうか。みんな幸せそうで、苦痛とは全く無縁に見える。幼稚園児だろうか、まだ年端もいかない子供たちの集団が、二人一組で手を繋ぎながら引率の先生にひょこひょこ付いて行く。付き合いたてのように見える初々しい若いカップル、定年を過ぎ、余生を楽しんでいる仲良し老夫婦。僕は、ここの人間とは余りにも不釣り合いだ。

いつかーーーもしあの親の呪縛から解き放たれたら、僕はここを歩いている人たちみたいに幸せになれるのだろうか?自分がやりたいことを追い求められるのだろうか?

僕は自問自答したが、勿論その場で答えが出るはずもなかった。


暫く歩いた後、本体降りるべきだったバス停に到着した。そして、あらかじめチェックしていた近くの公衆トイレに入ると、個室に鍵をかけてバッグに入れて持って来ていた普段着に着替える。もし高校の制服が団体に分かってしまえば、後々厄介なことになるかもしれない。そういった理由で、うちの学校の通学バッグが自由なのは僕にとっては非常に助かった。着替えを済ませてトイレから出ると、僕はスマホの地図アプリを開き、ハウスまでの行き方を再確認する。スマホをしまい、歩き出して二、三歩すると、ふとあることに気づいた。

(ハウスに着いたとしても、その後どうするんだ…?)

僕は恥ずかしいことに、ハウスに着くまでのプランは建てていても、着いた後のことは何も考えていなかった。大体、その幹部がやってることを知ろうとするといってもどうするんだ?本人に「何をやっているんですか?何のために今日は来たんですか?」と直接聞くのか?馬鹿らしい。

どうすればいいんだ。考えれば考えるほど、策が浮かばない。もしこの機会を逃したら、トキヤ一家が心中した理由を知れるチャンスを二度と掴めなくなるかもしれない…

(とりあえず、ハウスに行ってみよう。方法はそれからだ…)

数分後、ハウスが見えてきた。調べてきた通り、その“ハウス”は一見何の変哲もなく、看板が無かったらここは宗教施設だということは誰にも分からないような外見をしていた。どうやって中に入ろうかと思案していたが、幸いなことにこの日はこのハウスにとっての礼拝の日だったらしく、続々と信者っぽい人たちが開いた門から続々と入っていく。この人たちに紛れ込めばなんとか中には入れそうだが、入り口には受付があった。ここを何とか突破しないと…そう考えるうちに、何でもない入り口が、まるで江戸時代にあった箱根の関所みたいに思えてきた。入り鉄砲に出女。僕はさしずめ鉄砲だろうか。

プーーーーーーーーーーーーーーー

突如、車のクラクションが受付の裏あたりで鳴った。車の運転手にとっては入り口付近にいる信者が通行の邪魔だったのかもしれないが、僕にとってはまさに救いの一手だった。街中を歩いていてクラクションが鳴ると咄嗟に反応してしまうように、受付どころかこの場にいるほぼ全員の視線が車の方へと向いた。僕はその一瞬の隙をついて、ハウスの中に入った。


“ハウス”の中に関しても、外と同様に、特に何かが変だ、といったことはなかった。小綺麗な建物で、礼拝所らしきところの他には事務所やトイレなどしかなく、無駄なところの一切を省いた感じでいて、逆にそれが怪しく思えた。

(その幹部とやらを見つけるには…まず、こないだパチンコ店にいた二人組を探してみるか…確か、花村と高木とかいう名前だったな…)

信者は、老若男女といった感じでさまざまな年齢層の人がいたので、こないだの二人組を見つけるのにはそれほど苦労はしないだろう。

(確か三十代っぽい感じだったような……)

いた。事務所の前あたりでひそひそと話をしている。今日来るであろう幹部のことを話しているのだろうか、時折辺りを確認しながら、深刻そうな顔で会話していた。僕はバレないよう近くまで寄り会話を盗み聞きしようとしたが、丁度その時、日本では聞かないようなメロディがあたり一面に響いた。この外国風のメロディは、ハウスにとっての礼拝の合図だったみたいで、信者たちがぞろぞろと礼拝所らしき会場の中へと入っていく。

(まずい。二人の会話を盗み聞きしようとしても、人がいないんじゃすぐにバレてしまう。疑われないためにもここはひとまず、礼拝所の中に入るしかない。)

僕は信者たちの後にくっついて会場の中へと入っていった。昔、中学校の時に校外学習かなんかで県庁所在地のキリスト教の教会に行ったことがあったが、ここの放射状にずらっと並べられた椅子と演壇は、礼拝所というよりは学校の講堂を思い起こさせた。信者たちは席に着き始めていたが、僕は真ん中や前の方の席に座るのもどうかと思い、一番後ろの席へと座ることにした。その隣の席は丁度右後ろの端っこの席になっていて、そこには結構な年齢をした敬虔そうな信者の男性が背筋をぴしっとさせて座っていた。

(一体ここで何が始まるというんだ…?そもそもあの二人組は今頃何をしているんだ…?)

僕は困った。

(違和感を悟られないために会場に入ったものの、もし何らかの理由でバレたらどうなってしまうんだ…)

周りに目をやると、感じるストレスなどまるで無いかのように全員が笑顔だった。作ったような笑顔ではなく、心からの。

笑顔は時として恐怖を産む。その笑顔を見て僕は背筋が凍った。

(どうしてここまで笑顔でいられるんだ…?)

それでも、周りの信者と同じように何とか笑顔を作る。

やがて、会場を拍手が包んだ。壇上に若い女性が上がり、話し始める。

「皆さまこんにちは。本日はお集まりいただき誠に有難う御座います。先ずは、毎度の事ながら本会の理念からお話しさせていただきます。本会は、………」

その後はホームページで見たのと同じような感じのことが話された。弱者への慈愛、周囲への感謝、道理を守る、そうすれば幸せになれる等…

その時だ。右隣にいたさっきの老人に男が近づいていった。高木だ。そしてそのまま話しかける。

(この老人が幹部だったのか…!全く気が付かなかった…)

「…さん、後で事務所の……」

「…うん、分かった…」

マイクを大音量にさせて壇上の女性が話しているせいか、二人の会話が途切れ途切れにしか聞こえない。だが、「事務所」とだけははっきりと聞こえた。

礼拝はどんどん進行し、やがて号令がかかり祈りが捧げられた。僕は目立たないように細心の注意を払いながら、周りの人たちに合わせて合掌した。


礼拝が終わると、中庭で信者たちが雑談を始めた。昨日あった不思議な体験、どこどこへ何百万円寄付をしたかなど全員が全員同じような事を話していた。僕はというと、雑談する人混みに紛れながら、事務所の入り口の側へと近づいて高木とその幹部が来るのを待った。すると、事務所の中で何者かの気配を感じた。

聞き耳を立てると、中で誰かが話していた。高木と幹部だ。いつの間に事務所に入ってきたんだ?

「えーっと、鉢屋さま。今日は、えー…どのようなご用件で?」

「本部にガサ入れが入った。」

「一体何が…あっ…証拠隠滅…ですか。例の一家の。」

(証拠隠滅?トキヤ一家はやっぱり団体に殺されたのか…?)

「ああ。うちは他の宗教団体とは朝違ったクリーンという体でやっているのに、ガサ入れでバレてしまったらたまったものじゃないからな。ただでさえ各界に信者がいて、色々良くしてもらってるのに。一時的にとある場所に隠しておいたが、そこにも捜査が入るらしく、持ってきた。本部のガサ入れが終わった後、幹部のほぼ全員でそれぞれ日本全国バラバラに視察という名目でハウスに行った。勿論それは嘘で、証拠隠滅をするためにな。警察どもはわざと泳がしたのだろうが、あいつらはたとえ最高幹部とかには尾行やら何やらしていてもこんな末席のジジイはマークされんだろう。俺は今日、何軒も別のハウスを回ってきたし、それにこんな所のハウスなら警察の目にも引っかからないからな。」

「それで…その問題の物って言うのは…?」

「うん。これだ。」

鉢屋が何かを高木に見せた。

「書類…何のですか…?」

「あそこの一家の父親は銀行員でな。」

「まさか横領…ですか…?」

「そうだ。ずっと指示を素直に聞いていたのに金盗るの無理になったって急に弱音吐いてきたし、あいつ、それで罪軽くするために内部情報を外にバラそうとしてたから殺すことになったんだ。殺人については色々コネを使ってなんとか揉み消せたが、横領と内部情報に関しては結構引っ掻き回されてしまったからな。ガサ入れが入る前にキチンと処分出来なかった。」

「そうなんですか…」

「まぁとりあえずここでこれ保管しといてくれればそれで良いから。処分する時になったら連絡する。」

「…はい。承知しました。」

「それと、この書類から話は変わるが、本部の今後の運営方針は………」

二人は話を変え、団体の運営方針について会話を続けたが、僕はその場所からゆっくりと離れると、人気のない階段の踊り場に座り込んだ。

(なんて事だ。トキヤ一家は殺されたんだ。しかも口封じで。銀行の金を横領させていたなんて…それに、内部情報だと…?横領なんてやらせているんだから絶対に良くない物に違いない…トキヤは何も知らないまま殺されたんだ。未来を絶たれた彼に比べれば、僕の悩んでいることはなんとちっぽけなんだ…)

僕はしばらくそこに座っていた。

なんと、人生の不条理なことか。父親が内部情報を漏らそうとして、口封じのためだけにトキヤは短い生涯を終えるなんて。さぞかし無念だったろう。このままでは、このことは一生闇に葬られてしまい、トキヤは浮かばれない。そのためにもーーー

「おい、君そこで何をしているんだ?」




4


急に誰かに声をかけられた。一瞬で顔の血の気が引いていく。心臓が早鐘を打っているのを感じる。身体中に小型の心臓がくっついてしまったかのようにバクバクと音を立てていく。まずい。もしやここでバレてしまうのだろうか。

「おい、どうしたんだ?」

声をかけてきた方へ恐る恐る顔を向けると、声の主はなんと花村だった。思いっきり睨まれている。これは、絶対に疑われている。どうやら僕を不法侵入者として認識しているようだ。まあ正解なのだが。

「あっ…えーと…その…」

「君、ここの信者じゃなさそうだな。確か入り口には受付があったはずだが。こんな所で一体、何をしているんだ?不法侵入だったらこっちだって色々考えるけど?」

まずい。このまま黙っているようでは色々詰問されたときにさっきの盗み聞きもバレてしまうかもしれない。これではトキヤ一家の時と同じように、僕も、消される。

「にゅ、入信希望なんです。僕。」

咄嗟についた嘘だったが、それでも効果はあったようだ。急に花村の顔が明るくなった。

「…!あぁ、なんだ!君、入信希望だったのか!でもどうやって中に入ってきたんだ?」

「すみません。実は、勝手がいまいちよく分からなくて。自分でも分からないまま入って来てしまって。ごめんなさい。でも僕、ホームページとかで調べた時、ここの理念とか、慈善活動とかにすっごく感動したんです。それで、何とか入信したいなって。」

「そうだったのか。それなら入信希望者向けのパンフレットがあるんだよ。もし良ければ今持って来ようか。」

「あ、お、お願いします。ありがとうございます。」

花村は広報室だろうか、事務所とは逆に階段を急ぎ足で昇っていった。

実は、僕は気が付いていなかったが花村以外にも僕のことが視界に入っていた人は何人かいた。悩みとは“無縁”な信者たちは、道端に落ちている小石に目がいかないようにただ僕に気が付かなかっただけだった。

花村は、すぐにどこかからパンフレットを持ってきて、僕に手渡した。

「ありがとうございます。」

「はい、パンフレット。君みたいな若い子が入信したいって言ってくれてとても嬉しいよ。もしよかったら君のご家族やご友人も誘ってみてね。」

「はい。ありがとうございます。」

僕にパンフレットを渡し終えると、花村は満足げにどこかに去っていった。


花村が完全にいなくなるのを確認すると、僕は蹲りたくなるのを堪えながら何とか階段の手すりに寄りかかった。

助かった。何とか助かった。全身から変な汗がどばどばと出てくる。手汗で手すりがじんわりと濡れて掴む手が滑っていくのを感じる。足がガクガク震えていて止まらない。

(これ以上ここにいるのはまずい…また見つかってしまうだろう。今度こそは、逃れられないかもしれない…)

さっきまで中庭にたむろしてた信者たちはもう各々の家へと帰ったのだろうか、入り口の受付には誰もいなかった。僕はパンフレットをそそくさとバッグに仕舞うと、閉じられた門を静かに開けて、今がチャンスとばかりに、内外の人間に気取られないよう慎重にハウスを出ていった。


ハウスを出て、またバス停近くの公衆便所へと入った。バッグのチャックを開けるのに手間取りながらも、中からシャツをなんとか取り出した。震える手で何度もしくじりながらボタンを閉めていった。

パタンッ。

手が滑り、上着をトイレの床に落とす。僕は結構潔癖ぎみなので、普通このような汚い場所の床などに落としてしまった服は絶対もう一度着ようとはせずすぐに洗濯してしまうのだが、全然気にも留めずにそのまま着てしまった。それほど僕の気は動転していて、着替え終わるのに行きの時とは倍くらい時間が掛かっているぐらいだった。

バスに乗った後も、僕はずっと生きた心地がしなかった。車に酔ったような、あの感覚。それが乗ってる間中ずっとしていて、別に運転士の運転がとてつもなく下手というわけでも無いのにひどく気持ちが悪かった。なんとか手すりに掴まってやり過ごしたが、それでもまだ胃がムカムカしていた。

(危なかった。もし、ほんの少しでも言葉を間違えていたら今頃僕はここにはいなかっただろう。多分花村自身は、こないだのパチンコ店での会話を誰にも聞かれてなかったと思っていたからすぐに僕が入信希望者と判断して態度が良くなったのか。それに、警察に電話すると言わなかったのは例の書類を隠し持っているのがバレるのを恐れたからだろうか…どちらにせよ、助かった。僕はまだ六文銭を持ち合わせていなかったみたいだ。)


既に時間は夕方に差し掛かっていて西日が傾いていたが、まだ家に戻るには少しばかり早いようだった。

(早く帰ってしまうとまた何か小言を言われるかもしれない。どこかで、しばらく時間を潰す必要があるな。)

僕は、河川敷のすぐそばのバス停で降りた。夕方の河川敷は犬の散歩やスケッチをしている人の他には誰もおらず、一人で歩くにはまさに最高の場所だった。

ハウスの中では、その構造の簡素さと信者たちの無機質さから来る狂気、それにバレたと思っていた時の緊張のせいでとても息苦しかったが、この河川敷は鳥の声や、風で草木か擦れる音が聞こえていて生気に満ち溢れていた。僕は目を閉じて何回か深呼吸をしてみた。一回一回呼吸をするたびに鼓動が落ち着いていく。目を開くと、だいぶまともに呼吸が出来るようになってきた。

晩冬の陽光に照らされて、身体が次第にぽかぽか温まる。さっきからずっと続いていた硬直が少しずつ解けていくのを感じる。

僕はズボンのポケットに手を突っ込むと、ゆっくりと、またゆっくりと足を踏み出した。


トキヤを失った痛みは、他のどのようなものでも例えられなかった。もし……もし、トキヤ一家が宗教団体に属しておらず、彼がこのような非業の死を遂げることがなかったら。トキヤは東京の高校でこれからも元気に暮らし、適度に壁に当たり、その都度破り、そして成長し、一人前の男になっていっていつかは結婚し、子供が出来、その子供が巣立った後は、こないだ見た街の老夫婦みたいに幸せな余生を送っていく未来だったのだろうか。トキヤだったら、老いた姿でも容易に想像出来る。

足元の小石を無意識に蹴り飛ばした。小石はぼてぼてと転がっていき、やがて土手の斜面を滑り落ちていった。下まで行って動かなくなった小石を眺めていると、急にトキヤの面影が重なる。僕は無神論者だが、もし神という存在がこの世にあるとするのなら、なんとまあ不平等なことだろうか。運命というものは、あまりにも残酷だ。今までどのくらいの数の人が、特定の人だけしか信じることが出来ずに死んでいったのだろうか。神というものがいなくとも、信じられる者がそもそも少ない、もしくは他に信じられる者とのコンタクトが取れない時に人は盲信的になる。トキヤは最期の最期まで親以外に頼れる人はいたのだろうか。

僕がこの街に引っ越して来てから、彼と電話する回数は次第に減っていった。もうここ半年は話していなかったし、最後に電話した時もあまり話さずにすぐに電話を切ってしまった。もし、今でも彼との電話を続けていたら、トキヤが死ぬその日まで他愛のない話でもしていたのだろうか。それとも、最近上手く行ってない事はないか、なにか変わった事はなかったかとしつこく聞けばよかったのだろうか。

どちらにせよ、僕はトキヤという人間と真摯に向き合っていなかった。彼が持っていたかもしれない悩みがあるとすれば、兆候は僅かながら出ていたはずだ。僕はそれを見逃していたのだろうか。長年の友人なのに気が付かなかった。常に明日があることを信じて疑わずに今まで生きてきた。しかし今更何を考えようが、もうそれはただの言い訳にしか聞こえないだろう。

(今日僕がハウスで知ってしまったこととトキヤとの思い出は、これからも一生消える事は無い。)


ふと何かを感じて顔を上げると、トキヤの死を知ったあの日と同じ炎のような夕焼けが空全体を覆っていた。ゆったりと、妖しく輝いている。風が流れ、雲がゆらめき、それはまるでオーロラかのように静かに靡いていた。

昔、小学校時代に東京で暮らしていた時は、四方を建物に阻まれていたせいもあってかこんな夕焼けは滅多に見なかった。もしかしたら、このような夕焼けはあったのだがただただ僕自身が見ようとしなかっただけかもしれない。この夕焼けの他にも、見落としていたものはいっぱいあったのかもしれない。

突然、空が不自然に歪む。瞼が徐々にじんわりしていく。頬をなにか熱いものが伝う。気付かないうちに僕は泣いていた。今までどんなことでも泣けなかったはずなのに。感情が理性のダムを決壊させて、涙がどんどん溢れてくる。泣きながら、ふと考える。

(僕はどうしてこんなに泣いているんだろう?トキヤが死んでしまったから?)

しばらく経って答えが出た。

(いや違う。僕は、僕は…)


(トキヤが死んだから、じゃなくて…僕が今こうやってのうのうと生きているから泣いているんだ)


僕は涙を袖でゴシゴシと拭うと、再び歩き出した。疑問が解消されたことにより、脳内がすっと晴れていく。緊張が弛緩していく。感情の暴風はだいぶ収まり、さっきと同じように心の荒波が鎮まっていく。

そうだった。トキヤが死んで泣いているのなら、彼の死を知ったあの時にはもう既に涙を流しているはずだ。その時に泣いていないということは、案の定僕は“泣けなかった”ということだ。これは僕自身の成長や、僕の、僕に対する同情から来る涙だったのだ。

相変わらず空は夕焼けに覆われていたが、端っこの方はもう夜がちらりほらりと顔を覗かせていた。星々が煌めき始め、夕方とは違った景色が見られることを示している。時間的にはもう帰っても大丈夫そうだが、涙で腫れた目を見られてしまうと余計な詮索をされる気がする。もう少し、時間を潰して行こう。

僕は、夕焼けを背にして歩き出した。この時期でも日光は身体を温めてくれるが、月光はその限りではない。徐々に身体が冷えていくだろう。だが、身体の芯のそのまた芯を燃やす炎だけは燃え尽きない。いや、燃え尽きさせない。

バス停に着き、バスを待つ。既に夜の帳は下り、寒風が吹いていた。バス待ち用のベンチに座り込み、腕を組んで道路の一点をじっと見つめる。やがて、ゆっくり目を閉じて瞼の裏を覗き込む。超ミニサイズの芋虫のようなものがうねうね動いていたり、何か形容し難い幾何学模様や、カラフルな粒の集まりが見えたり…瞼の裏の宇宙は、僕に色々な表情を見せてくれる。寺で四季や天候を問わず僧が坐禅を組めるのと同じように、この宇宙を眺めることが僕にとっての瞑想だった。


(トキヤの無念を晴らすにはどうすれば良いのだろうか。たとえその方法が見つかったとしても僕の自己満足になっていないだろうか。もし成功したとしても果たしてそれで、トキヤは浮かばれるのだろうか。)


トキヤの無念を晴らす決意自体はみなぎったものの、肝心の、無念を晴らす方法自体は結局浮かばずじまいだった。やがて、付近に大型の車が停車する音を耳が感じとり、目を開く。バスが来たのだ。

バスに乗ってからも、僕は考え続けていた。トキヤ一家の殺害は、幹部全体の意向というわけではないだろう。必ず指示した人間が数人程度いる。今日ハウスに来た幹部、鉢屋はトキヤ一家の殺害には直接関わっていない様な言い方をしていたが、あの喋り方だと他にも殺害された人がいるかも知れない。幹部が何人いるのかは全く分からないが、恐らくまともな人間は一人もいないだろう。見た目には美しくても、中身は腐りきっているというわけか。

(トキヤの無念を晴らすために、殺害を支持した幹部たちになんとかして報復するか…それとも今後トキヤ一家の様に殺害される人たちを出さないためにも団体の全体を潰すべきか…?いや、待て待て…団体は日本中に支部があるんだぞ?僕なんかに潰せるのか…?)

まず、殺害を支持した幹部たちだけを探し出すのはとてつもなく時間がかかってしまう恐れがあるから難しいだろう。現時点ではその幹部たちが何人いるのか分からないし、もし捕まえ損ねてしまったら…かと言って団体を根こそぎ解体するのも… 恐らく、今日見た書類があれば両方出来なくはないだろうがもし僕がやったとバレた後が大変だ…なんとかバレないようにリークしなければ、無念を晴らすどころの話じゃない。トキヤ一家の二の舞になってしまう。

しかし、これで今後すべき目標がまず一つ出来た。なんとか“ハウス”の中にあった事務所に忍び込んで、例の書類のデータを何らかの方法で得るということだ。それから先は、データを入手してから考えることにしよう。もしここで書類を入手した後の綿密な作戦を練っていたとしても、いざ本番になったらうまくいかないのが関の山だから。


家に着くと、またいつものように風呂に入り、ご飯を食べ、皿を洗い、自室に篭った。なるべく親と顔を合わせたくないので、こういう時のルーティンは我ながら洗練している。

一応、パンフレットの内容を撮影しておく。いちいちパンフレットを出して確認しようとすると、いつか親に存在がバレてしまう危険がある。撮影し終わったパンフレットは、棚の奥の奥、誰にも見つからないように仕舞った。

幸いなことに、今日は親は一言も声をかけてこなかった。これが普通の親子にしてみれば異様なことだが、怒鳴られたり無視されたりすることが当たり前のうちでは寧ろ嬉しいことだった。


翌朝、いつものように隣人に挨拶をして、図書館へ行った。本来であれば、適当に窓際の席に座って芝生でも眺めながら時間を潰すのだが、今日に限ってはやるべきことがあった。パソコンスペースに入り浸り、団体に関しての本を集められるだけ集めてこないだ調べ損ねたことが無いか入念にチェックした。ハウスで鉢屋が言っていた通り、この団体には各界に信者がいた。芸能、スポーツ、政治…中にはあの大物まで。予想以上に、団体は日本に根を下ろしていた。木を引き抜こうとしても土の中にまだ大量の根が残ってしまうように、何とかして団体を解体できたとしても残党が数多く残ってしまうだろう。それにスケールが大きすぎて残党と呼べるかどうかも怪しい。

(もし一度でも隙を見せてしまえば一巻の終わりだ。やるとしても一瞬で潰さなければならない。しかしどうやって?どうやって悪事を暴けばいいんだ?どうやって団体を?何か、とてつもなく巨大な力が働けばもしかして。国家?いや、大臣にまで信者がいる。それにこんな一高校生は誰にだって相手されないだろう。警察?だとしても国家に抑えられてしまえば一巻の終わりだ。週刊誌とかにリークするのも良いがそこの会社や記者を危険に晒してしまうかも知れない。誰にも被害が及ばないように…いや、最低でも僕だけに被害が及ぶようにしないと。もし僕に被害が及ぶとしたら…生半可な事では済まされない。僕は殺されてしまう…のか?)

死ぬ覚悟は、当たり前だが今の僕には無かった。死ぬ人の九割九分九厘は覚悟など無く、生を渇望する人たちだろう。自分を犠牲にしてまで何かを成し遂げるということは、なんと難しいのだろうか。団体に関する本がある本棚までの間に伝記コーナーがあったことが思い起こされる。伝記に数多く書かれている偉人たちは、果たしてそのような覚悟があったのだろうか。

つづいて、この宗教団体の入会方法について調べてみた。昨日パンフレットを渡されたときに花村からは何の説明も無かったし、パンフレットにもそんなに丁寧に書かれているわけではなかったが、一つだけ説明しているサイトがあった。特にこれといった難しい点は無く、住所すらも書く必要は無かった。説明しているサイトが一つしかないのもこのためだろう。信者が多いのも、入信しやすいが故か。登録する情報が少ないと、家族にもバレずに入信出来るのだろうか。僕は好奇心で、ついでに退会の方法も調べたがどこにも書いてなかった。それほどこの団体は、”退会したくなくなるほど素晴らしい”のだろう。


結局、団体のことを書いている本を読み漁っても悪く書いてある本は特に無く、成果は得られなかった。棚に本を戻し、窓際の席に移動する。今日は気温が比較的高く、蝶々が花に集まっていた。

ほぼ名前を書くだけで入信できるという手軽さに加え、毎週土曜日とは設定されているものの基本的には自由参加の礼拝。そして勧誘も強制ではない。このライトさが、信者を各界に拡げている。特に礼拝の対象となるような偶像は無く、他人への感謝や慈善活動という、真面目な人間ならいかにも好きそうな理念を軸とする。そりゃ自由参加と言えども礼拝にあれほどの数の信者が参加するわけだ。土曜日の昼から夕方にかけてなら、仕事は殆ど休み。学生も丁度学校が終わっている時間帯だろう。僕みたいに。

「はぁ…」

僕はため息をついた。日曜日の昼間の図書館は時間がゆっくりと流れていた。家族連れや、勉強中の人で溢れていて、みんなそれぞれの用事に傾注している。こんなことを調べているなんて僕ぐらいだろう。あの団体の牙城はあまりにも堅固だ。トキヤの仇をとると決意したものの、どうやって。ここ数日ずっとそのことについて考え続けている。次の土曜日もハウスに行かなければ。例の書類とやらはまだあるだろう。鉢屋と話していたのなら高木があのハウスのトップだ。高木の話し方からして性格は面倒くさがりだろう。結構適当な所があって、上の人間に対しては媚びへつらう指示待ち人間だ。鉢屋としては、警察を撒いたことを自慢げに話していたところを見るとあの書類は絶対に見つかってはいけないものだろう。完全にほとぼりが覚めてからしっかりと書類を処分したいはずだ。そしてあのハウスの構造の簡素さから鑑みると、不特定多数の信者が集まる礼拝所や、隠すところが無いトイレは書類を隠すに適してないだろう。高木の性格や、隠し易さを考えても事務所にある。問題はここからだ。昨日行った時、ハウスには監視カメラがあったし、いくら高木といっても不在の時には事務所に鍵をかけて行くだろう。こんなことなら昨日のうちになんとか書類を盗み出しておくべきだった。だが今更後悔してももう遅い。考えるべきは次の土曜日の作戦だ。信者に紛れれば事務所の近くまでは行けるだろうし、いくら監視カメラと言えども死角はある。そこを突く。鍵に関してはどうにかするしか無い。




5


数日が経ち、土曜日になった。もうそろそろ春休みに差し掛かる。教室の雰囲気もどことなくそわそわしていた。家とは違い、学校では何の制約もなく話ができる。

「おい、最近出来た新しいSNS知ってるか?」

横谷だ。毎回彼は無関係な話題から会話を始める。いつもなら付き合ってやるのだが、今日ばかりはその気になれずに話題を変える。

「SNSより、四月のこの行事についての方が気になるんだけど。これって何?」

「あぁ、来年度からまた新テストが追加されるんだ。」

「えぇ…マジかよ…」

「まぁ、また分かんないとこがあったらノート見せてやるよ。」

「おぉ、ありがとう。いつも悪いな。」

そう言うと横谷はまた別のクラスメイトに話しかけた。

自然に話題をすり替えるのは僕の得意技だ。ただでさえ今日はハウスのことで頭がいっぱいなのに、他の人に構っていられるような暇は無い。


学校が終わると、僕は先週の時と同じ轍を踏まないように誰にも見られないように十分気をつけてからバスに乗車した。こないだと同じく公衆トイレで着替え、ハウスへと向かった。

先週は車のクラクションに助けられて受付を突破できたが、今の僕は不審者なんかではなく、この団体に興味を持った入信希望者に見られている。受付の人に入信希望者向けパンフレットのことを話すと二つ返事で通してくれた。

ハウスの中に入るとそこには花村がいて、僕を待っていた。

「やあ。こんにちは。来てくれたんだね。いきなりだけど、入信の手続きをしようか。」

「はい。よろしくお願いします。」

花村は、事務所の隣の会談スペースに僕を連れてくると、テーブルに入信手続きの紙を広げた。

昨日図書館で調べた通り、手続き書の記入欄には名前と性別、電話番号と入信するきっかけ等しか無かった。他の宗教ではこうもいかないだろう。僕はさっと記入を済ませると、花村に紙を渡した。

「よし。これで君もハウスの一員だね。この後は礼拝の時間だけど、ちょっと準備とかがあって忙しくてね。悪いけど一緒に参加出来ないんだよ。」

「いえ、礼拝には先週参加したので一人でも大丈夫です。わざわざお気遣いありがとうございます。」

「そうか、そういえばそうだったね。分かった、じゃあ僕はこれで。入信してくれて本当にありがとうね。」

そう言うと、花村は紙を持って事務所の方へ行った。

案の定彼は鍵を開けて中に入っていった。となると、鍵を持っているのは花村と高木だけ。よくてもう一、二名程度だろう。鉢屋は、こんなところは警察になんかマークされないと言っていたがそれでもこのハウスがきちんとしているのを見越していた。その老獪な立ち回りに僕は思わず舌を巻いた。

これはもう万事休すか。僕は横目で中庭の監視カメラを気も確認したが、ほぼほぼ死角はない。強いて言うなら、壁沿いに匍匐でもすればギリギリカメラからは見えないだろうが、そんなことをしたらここの人間に一瞬でバレてしまうだろう。中庭で匍匐している人がいたら怪しいに決まっている。

(そうか、トイレだ。)

天啓が降りた。礼拝が開始されるその時までトイレに居てやり過ごせばいいんだ。花村は準備で忙しいだろうし、どうせ会場は人が多いから一人くらい居なくたって気付かれない。僕ははやる気持ちを抑えながら、トイレへと向かった。トイレの周辺にはカメラが無く、入ったことに気づかれない。さらに幸運なことにトイレの窓は中庭に面しているようで、窓から出て匍匐で通って行ければカメラに映らずに事務所の窓際に行ける。たとえ疑われても、腹を壊してトイレに篭ってたと弁解すればいい。これで高木が、窓際から見えるところにでも例の書類を置いといたままにしてくれれば良いのだが。だがとりあえずやってみるしかない。


次第に、人の姿が少なくなっていく。礼拝所の前へと移動して、あの不思議なメロディが鳴るのを待っているのだろうか。僕はトイレに着くと、念には念を入れて手袋を付けて、窓に一番近い個室に入った。


例のメロディが遠くで鳴った。しばらくして人の気配が完全に無くなると、僕は側壁に手を突っ張らせながら個室の上へとゆっくり顔を出した。周りには誰も居なさそうだ。何とか身体を通して、個室の外に降り立った。もし僕が太っていたなら、その瞬間に計画は頓挫していただろう。

窓を少しずつ開けて外の状況を確認する。誰もいないことを確かめると、僕は手をかけタイル壁の凸凹に爪先の裏を密着させて少しでも摩擦を稼ぎながら登っていく。窓の外に上半身が出ると、縁を跨いで身体を反転させ、縁にしがみつき懸垂を諦めた人のような姿勢を取る。手を離して身体が地面に着くと同時に倒れ込んで、壁沿いに匍匐の姿勢を取った。

慎重に、慎重に這っていく。少しでも焦ったら死角から外れて監視カメラに僕の不恰好な姿が映ってしまうだろう。もしかしたら誰かまだ残っていて、大きな音でも立ててしまったら直ぐに気付かれてしまうかもしれない。存在を殺し、壁に貼り付いてジリジリと事務所の窓際に這っていく。まだ夏には程遠いのに、ぶわっと汗が出てくる。

長い長い時間が過ぎたように感じられるほど這っていたが、ようやく窓際の真下に着いた。膝を立てて、慎重に身体を起こす。部屋は電気が付いておらず、誰も居ないようだ。角からそろりそろりと中を確認する。小さめの部屋に、数人分のデスクと椅子が所狭しと並んでいて、デスクの上にはそれらしい書類は無かった。終わった。完全に詰んだ。窓をかち割れば入れないことも無いだろうが、そんな事をしたらバレるに決まっている。僕の心を読んだかのように、晩冬の北風が僕に当たる。

ヒューーーーーーーーーーッ

(ん?何か音がする。この音は…隙間風の音…?まさか…!)

開いている。鍵が。窓の鍵が、開いているのだ。他の鍵は全部閉まっているのだが、僕の目の前の窓だけ鍵が開いているのだ。恐らく誰かが換気する為に開けたのを閉め忘れてしまったのだろうか。数ミリ程度だが、僅かに窓が開いていた。

僕は恐る恐る窓の枠に手をかけ力を入れる…開いた。

学校の窓には生徒が飛び降りるなどの危険や犯罪を防ぐためにロックが付いているが、こういう場所には無いのだろう。窓の桟は埃が溜まっていて、手をついたら跡が残ってしまうかもしれない。僕は桟を跨ぐ足に全神経を集中させ、事務所へと侵入した。

高木のデスクはすぐに分かった。唯一事務所のデスクの中で灰皿が置いてあり、そして何より全体的に小汚い。椅子をどかし、引き出しを改める。中身はごちゃごちゃで、さまざまな紙がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。団体関連の借用書や領収書、だいぶ前のスーパーのチラシなど…一枚一枚改めていく。


無い。横領や、内部情報に関する書類ということは恐らく一枚や二枚などではなく、通帳や取引のコピーなど数枚がファイルで綴じてあると思われるが全く見つからない。

(もう処分してしまったのか…?)

次に、花村のデスクを探した。花村の几帳面そうな性格からして、机上は整理整頓されているはずだ。やはり、こちらもすぐに見つかった。綺麗というより、綺麗過ぎる。この窮屈で埃っぽい事務所の中でまるで新品かのように埃一つ落ちてないデスクだった。こちらも引き出しを開ける。こちらは高木のデスクとはまるっきり正反対で、綺麗にカラーで分けられたファイルがぴったりと収まっていた。僕に渡したのと同じ入信希望者向けのパンフレット。これは…経営に関する物だろうか、中を見るとよく分からないグラフが沢山書いてある。そして…何も背表紙に書かれていないファイル。一番奥に仕舞ってあり、普通に引き出しを開けたぐらいではそうそう気付かれないだろう。花村のファイルの中で唯一これだけが名無しだった。

その名無しファイルを開くと…急に額が増えた通帳や、明らかにおかしい取引内容、脅しとも取れるメールのコピー…これだ。これが鉢屋が持ってきた例の書類だ。遂に見つけた。恐らく高木では失くしてしまうと鉢屋は考えたのだろうか?だから花村のデスクの引き出しに入っていたのか?いや、そんなことはどうでもいい。

僕はポケットからそっとスマホを取り出すと、ファイルの中身を一ページごとに撮っていく。手が震え、まともに撮影出来ない。左手を添えたが、両手でもまだ

ブレてしまう。僕は失敗しながらも、その震える手のままなんとか全ページの撮影を終えた。

ファイルを閉じ、元にあったところに仕舞う。こんな几帳面な性格なら、少しでもズレていたらバレてしまうかも知れない。引き出しを閉じ、椅子も元に戻す。そろそろ礼拝が終わってしまうかもしれない。さっきと同じ要領で窓を跨いでゆっくりと閉め、トイレに這って行った。

トイレの窓を乗り越え終えたその時、人の声が聞こえた。礼拝が終わったのだ。僕は急いで窓を閉めると、個室によじ登った。

降りたその時、丁度トイレに人が入ってきた。なんとか間に合った。やがて、ある程度人が出入りするのを待って僕はトイレを出た。


その後、余程気を張り詰めていたからだろうか、家に着くまでのことはあまり良く覚えていなかった。ハウスを出て、バスに乗り、…気がつくと僕は部屋着で自室の椅子に座っていた。

しばらく経って、思い出したようにスマホのアルバムを開いて今日撮影した書類を確認する。恐らく幹部の物だろうか…通帳のコピー数枚。さっき見た通り、明らかに金額の増え方がおかしい。二つ目のこれは…どこの会社だろう?さまざまな職種との取り引き内容が記されていた。そして…「アリムラ ケンタ」と記されているこのメールは…トキヤの父親宛のメールだ。これ以上無茶なことをすると生活が終わってしまうと言うアリムラ氏に対し、暴言を交えて恫喝しながら、なんとか金を盗ってこいと書かれていた。恐らくこれは氷山の一角で、まだまだ沢山の悪事が表に出ず埋まっているはずだ。アリムラ氏が内部情報をバラそうとする気持ちも理解出来る。

うまく証拠は掴めたものの、これからどうするか。週刊誌へのリークは記者ともども消されてしまうかも知れないし、かと言ってSNSで投稿するのもすぐに足がついてしまうだろう。

悩みに悩んだが、その日は答えが出なかった。


月曜日になった。いつものように登校し、いつもと同じルーティンをこなす。トキヤ一家のことを知るまでは、この日々に何も変化は無かった。変化が無いということは心に残る事件や思い出が何も無かったと言うことであり、いつのまにか長い時が過ぎていたりする。気づけばもう昼だ。今日もまた、何も起こらず一日を終えるだろう。

購買から戻ってみると、クラスメイトの数人がスマホを見せ合って何かを話し合っていた。時々、そこから笑い声が聞こえる。輪の中に横谷が居たので、話しかけてみた。

「なぁ横谷、お前ら今何やってんの?」

「ああ、こないだお前に言ったSNSがサービス開始したんで早速使っているんだ。」

「SNS?え…?横谷、お前そんなこと前に言ってたか?」

「いやいや…お前に言ったじゃないか。たしか…一昨日くらいに。でもそん時はどこ吹く風だったけどな。」

そういえばそんなことを言っていた気がする。スマホをいじっている横谷たちの顔は明らかに楽しそうだ。唯のSNSに、どうしてこんな人を笑わせる要素があるんだ?

「そのSNSって、一体どう言うことが出来んの?」

「このSNSは普通のとは違って画像しか投稿出来ないんだ。投稿の殆どがミームだったり、撮った写真だったり。それに返信欄とかも無いし設定出来るのはプロフィールだけだから誰でも簡単に始められるってんで今めっちゃ人気らしいぜ。」

「ふーん…そうなんだ…」

確かにこのSNSは特殊だ。一般のSNSとは全く違って返信などの、投稿主と直接接触する手段が無い。ということは厄介な人間に絡まれずに気軽に投稿が出来るということだろうか。しかし、もしデマを流されたりでもしたらそのデマを流した人間が特定されにくいというデメリットもあるのかもしれない。特定…特定…?あっ…!


(そうか。これだ。閃いた。これが唯一、トキヤの恨みを晴らす手段だ。)

「ありがとな。横谷。」

「え?なんでありがとうなんだよ。ってかお前もインストールしてみてくれよ。有名人も初めててこれが結構面白いんだぜ。」

「ああ、分かった。インストールしておくよ。」

曖昧に返事をして、独り席に着く。パンを食べながら、もう僕の頭の中には明確なビジョンが出来ていた。


やがて、午後の授業が終わると、僕は急いで図書室の自習スペースへと入り込んだ。ここなら何を調べようが、外からは見えないため誰からも何も言われない。

席に着くと、僕はさっき横谷に薦められたSNSをすぐさまインストールした。そして、さまざまな有名アカウントを調べた。奇抜なファッションで有名なあのモデルや、過激な発言で注目を集めているインフルエンサーまで…出来たばっかりのSNSにも関わらず、案の定フォロワーが多い人はすぐにいいねが付いていた。そして、いつも利用している方のSNSも開く。やっぱりだ。新しい方のSNSでは返信などが出来ない分、いつもの方にファンが元の投稿のスクリーンショットにコメントを付けたものを投稿して広まっている。二つのSNSが組み合わさったら多大な相乗効果が産まれるというわけか。

(やっぱり…!このSNSは利用できる…!それに、あの人たちを利用すれば後々生じる問題を解決できそうだ…!)


予備校の授業はただでさえ退屈だったが、今日は余計に頭に入ってこなかった。

(ようやく見つかった。かなりの間考えていた問題がこんなことで解決するなんて。)

ほぼ全てのSNSにおいて、フォローをしたらフォローを返す、いわゆる(フォロバ百パーセント)とプロフィールに書いてあるアカウントが数え切れないほど存在する。あくまで個人的な感覚だが、フォロバ百パーセントアカウントの中身はは自分のフォロワーを増やしたい、まだSNSを始めてそれほど時間が経ってない中高生がほとんどではないか。しかもSNSを始めたばかりの人間は、他人のツイートにすぐに反応する傾向がある。

要は、その新しいSNSで自分が普段使うのと別にアカウントを作り、そのアカウントでなるべく短期間で多くのフォロワーを増やし、ある程度まで行ったところで例の書類の写真を投稿し、他のSNSでも広めてもらうというわけだ。色々なアカウントを調べたおかげで、だいたいフォロワーが五千人程度で投稿が注目、いわゆる“バズる”状態になるのが早いということまで分かった。これだったら、投稿がもし消されてしまってもその前にばら撒くことができる。フォロワーに関しても考えなくてはならない。マイナーなジャンルのフォロワーを増やしてゆくよりも、なるべく単一的で大多数のジャンルのフォロワーを増やすべきだ。唯一の問題は、機械操作(BOT)でフォロワーを増やさないためにする一日のフォローの制限だ。

さっき図書室で調べたところでは、新しい方のSNSの一日のフォロー制限はわずか五十人だった。他のSNSと比較しても圧倒的に少ない。このペースでフォローを続けて行ったら、フォロワー五千人を迎えるのに三ヶ月以上はかかってしまうだろう。

僕が思案していると、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。あっという間に教室から人がいなくなる。気づけば僕一人しか残っていなかった。今日のフォロー数はきっちり五十人。このまま続けていけばだいたい六月の後半には五千人に達することができるだろう。


家の前に着いてドアを開けようとした途端、違和感に気が付いた。中から慌ただしい物音が聞こえる。なんだ?どうしたんだ?鍵を開けてドアに手をかけようとした途端、中から勢いよくドアが開いた。

「おい。今から出かけるぞ。」

「え?こんな時間に?」

「雄太が事故に遭った。」




6


いくら地方都市といっても一旦夜の帳が下りてしまえばたちまち真っ暗になる。時々、街灯の光が見えるのみだった。その暗闇の中を、僕を乗せて車は走った。

(兄さんが事故…?あの完璧人間に限って一体どういうことなんだ…?)

家を出てから前席の二人は一言も話さない。父さんはじっと前を見て運転し、母さんは助手席で啜り泣いている。車内は異様な雰囲気に包まれながら、夜の国道をただ走って行った。

病院に着くと、二人はすぐ受付へと走った。病室を聞き、すぐにエレベーターに乗り込む。もう少し遅かったら置いて行かれるところだった。

相変わらず二人は何も話さなかった。もしエレベーター内の監視カメラを見ている人がいたら不思議に思うだろう。やがて目的の階に着くと、扉が開ききらないうちに脱兎のごとく駆けていった。僕は頑張って二人を追いかけるが、次の瞬間には二人はもう病室に突入していた。

雄喜は、右腕と右脚を包帯でぐるぐる巻きにされてベッドに横たわっていた。

「やあ。」

左手でこちらに手を振る。

「ゆ…雄太。大丈夫なの?痛くない?」

「うん。もう大丈夫だよ。」

「ご家族の方々ですか?」

雄太の傍らに居た医者が話しかける。

「雄太は…雄太は大丈夫なんですか?」

「そのことについて…少々お話が。」

そういうと、その医者は病室を出て行った。親もついて行く。僕はというと、暫く兄さんの方を見た後、二人について行った。兄さんは何故か、僕に笑顔を向けていた。


「それで、どうして雄太は事故に遭ったんですか?」

病室から歩いて暫くしたところで、母さんが医者を問い詰めた。

「雄太くんは…見通しの悪いカーブで車線をはみ出してガードレールに激突したんです…」

「そんな…雄太の将来はどうなるんですか?医者になるのに何ら影響はありませんよね?大丈夫ですよね?」

「それが…後遺症として右腕に麻痺が残ると思われます。右腕の麻痺は…医者としては…」

「リ…リハビリは?リハビリで何とか…」

医者は目を逸らし、首を横に振った。母さんは泣き崩れる。父さんは俯く。僕はただ、観葉植物のように突っ立っているだけだった。

金色のかっこうは、捕食者にとっては格好の獲物だったようだ。


「共林さん。」

後ろから声が聞こえる。振り向くと、親と同年代くらいの夫婦と、涙で目を真っ赤にした若い女性がいた。兄さんと結婚する予定の彼女さんだろうか、次の瞬間には彼女は兄さんのいる病室へと走って行った。

「お久しぶりです。つ…角田です。」

「お…お久しぶり…です…」

「共林さん…それで…あの…雄太くんは…」

「雄太は……雄太は…」

何が起こったのか母さんが説明する。その間ずっと、角田氏は静かに聞いていた。

「それでも…雄太くんが無事だっただけ良かったです…」

「いえ…いえ…!そんなことはありません…右腕の怪我なんて…!あの子は…もう…死んだようなものです…!」

角田夫婦がぎょっとするのが見てとれた。急に寒い風が吹いた時みたいに、一瞬で場が凍って行く。僕は居ても立っても居られなくなり、その場をそっと離れる。この空気は明らかに重すぎる。


しばらく歩いて、手頃なベンチを見つけてそっと腰掛ける。

(母さんがよその人間の前でまさかあんなことを言うなんて…雄太は死んだようなもの?それは医者としてを言っているのか?じゃあ病室に入った時、最初に大丈夫?と聞いたのは医者への影響はってことなのか?ふざけるな。自分の子供を何だと思ってるんだ。一度使えなくなったらすぐにポイか。今までの、あの兄さんに向けた笑顔は一体何だったんだ。子供というものは、展覧会に出して良い賞を貰ってちやほやされるための芸術作品なんかじゃ無い。いつも側から見ることしかできなかったあの団欒に存在した愛情は、そこまでペラペラなものだったのか。兄さんは、自分の欲望を満たすための道具でしかなかったとでも言いたいのか。そして…そして…だとしたら僕は…もはや何なんだ?洋食でほぼ必ず見向きされないパセリぐらいの存在なのか?今日だってそうだ。わざわざ僕を連れてきたのは角田さん一家が来ることを分かっていて、世間体のために連れてきたんだろう。兄さんが事故に遭ったのに弟も来ないのは不審に思われる。だから連れてきたんだ。)

僕はあの二人が心底恐ろしくなった。もう戻っても大丈夫だろうか?さっきの病室へと僕はそろそろと歩き始めた。

階段に差し掛かった時、ヒソヒソと話をしているのが聞こえた。父さんと母さんだ。角田さんとの話はもう終わったみたいだ。

「何で…雄太が事故に…?もうこれからどうすればいいの?ただでさえ彗一は役立たずなんだし、もう医者になれないんだったら、これから世間にどう顔を合わせて生きて行ったらいいのよ…」

「ったく、親の気持ちも知らないで…クズ息子共が。あんなのもう育ててやる必要なんか無い。麻痺だと一生介護しなくちゃいけないだろう。息子だと思うな。もう放っておけ。」

地獄に堕ちるべき人間というのはこういう奴らのことを言うのだろう。僕がこいつらの息子であることを心底恥じたい。人間ですらない。ただ自己顕示欲を満たしたいだけの肉の塊だ。

気付かれないようそっと、階段を通り過ぎる。病室の前に着くと、そこには角田夫婦が居た。僕に気がつくと、夫婦は神妙な面持ちで、話しかけて来た。

「雄太くんの弟さんだね?」

「はい…」

「貴方も中に入りなさい。お兄さんから話したいことがあると思うから。」

話したいこと?兄さんが僕に?一体何を?ここしばらく話して無いのに急になんだ?全くもって意味不明だ。病室のドアを開けると、兄さんとさっき見かけた彼女が居た。驚くことに、二人とも笑顔だ。

「よぅ。元気してるか?」兄さんが話しかけてくる。

「それはこっちのセリフだけど…一体どうして…?」

「あいつらの反応を見たか?」

「反応って…まあ見たけど…」

「あれが親だと思えるか?」

「えっ…てことは兄さんが事故ったのはわざとなの…?」

「いやいや、わざと事故るんならもしかしたら死ぬかもしれないだろ。まあ…偶然の奇跡ってやつかな。逃げたい逃げたいと一心に願ってたら、その夢が叶ったんだ。しかも丁度医者にとっての生命線の手だったし。」

「医者にはならなくていいの?なりたくなかったの?」

「うん。」

兄さんは即答した。

「え…じゃあ、これからどうするの?」

「角田家の養子になる。どうせあいつらは、こんなになった僕とはもう縁を切ってくるだろ。」

「でも…どうやって働いていくのさ。」

「麻痺と言っても、医者になるのが無理そうなだけで日常生活を送るのにそんなに支障はないってさ。だから、角田さんの、いや、“義父さん義母さん”の会社に入れてもらうんだ。」

僕は彼女さんの方を見る。

「あ…貴方はそれでいいんですか…?」

「私は医者かどうかで将来の夫を決めるほど面食いじゃ無いわよ。ただ…この人と添い遂げたいだけ。パパもママも、今までずっと“人としての”雄太くんと結婚することに対しては反対だったけど、今回のことではっきりと目が覚めたみたい。さっき、OKしてくれたわ。」

「これからは、僕は共林雄太としてではなく、角田雄太として生きていくんだ。やっと…あいつらから解放される。やっとこれで逃げられる。昔も僕は馬鹿だった。ただあいつらの期待に応えようと…。確かに青春というものをまともに楽しめなかったけどそれは無駄じゃなかった。お陰で大事な人と出会えたからね。」

そう言って彼女と目を合わせ、にっこりした。

「彗。」

「何?兄さん。」

「彗も“逃げろ”よ。もうその年齢なら、これがどういうことか分かっているはずだ。」

「逃げる…か…」

「ああ。逃げるんだ。」

病室の外から話し声が聞こえる。あの二人が帰ってきたようだ。

「じゃあ…またな。もしかしたら、これからあまり会えなくなるかもしれないけど、いつか会えたら二人で酒でも飲もうか。」

「うん。こちらこそ。飲もう。いつか…。じゃあ…またね。兄さん。」

そう言うと、僕は病室を出て行った。視線は感じていたが、後ろは振り向かなかった。


帰りの車の中でも、親は罵詈雑言を言っていた。やれ今まで大切に育ててやったのにだの、恩知らずがだの、あいつは一生まともな人生を送れないだの。自分たちのことは棚に上げて、虚勢や自慢のためだけに育てた子供を攻撃していく。もしここに姿見があったら、こいつらに見せてやりたいくらいだ。

(三ヶ月だ。)

三ヶ月でケリをつける。兄さんの言っていた“逃げる”ことは、今はまだ出来ないのかもしれないが、今の僕はトキヤの無念を晴らしたい一心だった。もしあの計画が成功したら、自分の中で何か一つ成長出来るかもしれない。成長は糧に、武器になる。いつか…いつか、その“逃げる”時に役立つかもしれない。それだけじゃない。知識だ。知識を蓄えておくことも重要なんだ。今まで適当にやっていた勉強に本格的に取り組むこともこれに使えるだろう。


病院の周りは街灯が多かったが故に照らされていて明るかったが、少し離れるとすぐ暗くなる。今、僕を乗せた車は再び闇へと突入してゆく。光が殆ど無い、漆黒へ。




7


「えーっと、だから日明貿易に勘合が使用されたのであって…」

梅雨はまだまだ明けない。空は灰色の雲でいっぱいで、時々遠くの方で雷が聞こえる。五時限目の授業は、昼食の後なのもあってだろうか、すぐに眠くなってしまう。間延びした教師の声が教室に響く。クラス全体が鈍重な空気に包まれていた。斜め前の席の横谷はというと、うつらうつらと船を漕いでいた。

ハウスの事務所で例の書類を撮影してから三ヶ月が経とうとしていた。横谷に薦められたSNSで、普段使う用とは別のアカウントでフォロワーを稼ぐ作戦は順調に進んでいて、現在は四千五百に達しそうな所まで来ていた。鉢屋たちの隠蔽工作がうまく行ったのかは知らないが、いつのまにかどのマスコミもあの宗教団体のことには触れなくなっていて、今の世間の話題は人気アイドルと二枚目タレントとの熱愛に移行していた。人というものは、結局そんなものだ。常に新しい物を身につけ、常に新しい話題を仕入れて周りに合わせる。ニュースの街頭インタビューにはステレオタイプの人間しかおらず、何も内容が入って来なかった。

キーンコーンカーンコーン…

授業終了のチャイムが鳴る。今日の授業は五限だけだった。予備校まではまだまだ時間があるので、時間潰しに自習スペースで勉強でもしていくか。

学年が変わってから、僕はずっとテストで校内順位一位を取り続けていた。最初の方は色んな人にカンニングを疑われたが、そういう批判は実力で捻じ伏せた。果たしてこんなことが将来的に“逃げる”時に役立つのかは甚だ懐疑的ではあったが、本来の実力を出せるというのも結構気持ちがいいものだった。

ポツ…ポツ…

眼前の窓に雨粒が当たる。視線を下げると、校庭で帰ろうとしていた生徒達が慌てふためいて走り出していた。しかし僕は、そんなことは意にも介さず英語の長文を解いていった。

長文を解き終わり、顔を上げると果たして雨は本降りになっていた。授業を受けていた時は光ってからゴロゴロ鳴るまでに時間が掛かっていたが、今はほとんど間を置かずに轟音が聞こえる。

(この様子じゃバス停に行くまでに雷に撃たれてしまうかもな。)

雨のせいか、ふとパチンコ店で高木と花村の会話を盗み聞いた日を思い出す。

(もし僕があの書類の内容をバラしたらあの二人はどうなるのだろうか?そもそも高木は「うちんとこでさえこの有様」と言っていたがあのハウスでは今までにどんな悪事をやってきたんだろうか?)

ハウスにはその後何回か通ったが、特に何か不自然なことをしているといった様子はなかった。それに、三ヶ月前に書類を盗み見た時のことはバレていなさそうだ。高木も花村も変わらず、礼拝は毎度毎度同じような話ばかり繰り返される。唯一、パチンコ店で二人が言及していた安城と呼ばれる男だけは姿を見せていなかったが、高木や花村が気にしているような素振りはまったく無かったので現在は別の場所に転勤となったか、他のハウスと掛け持ちをしているものと思われる。鉢屋も来た痕跡は無く、もうハウスにはしばらく幹部クラスの人間は訪れていないか、たとえ来たとしても他の曜日に来ているとしか思えなかった。


夜八時、退屈な予備校の授業が終わった。雨はまだ降っていて、僕は傘をさしながらバス停までの道を歩いていた。

この予備校はまともな所ではないとは常々思っていたがまったくその通りだった。予備校だと謳うなら学校よりレベルの高い、進んだ授業をしているのかと思っていたが、レベルはほぼ同じで、進行具合に関してはむしろ学校より遅かった。つくづくあの二人の無能さを実感する。

(今日もまた色々話しかけられるんだろうなぁ…)

僕はため息を吐いたが、その音はすぐに雨で掻き消された。


バス停に着くと、既にバスは到着していて、ドアはすんでのところで閉まってしまった。スマホの時計を確認する。八時十二分。時刻表に書いてある出発は十三分だった。まあこんな日もあるだろう。そう思い、顔を上げた時。走り出して行くバスの後ろの方の座席に一人、見覚えのある顔を見つけた。

金本だ。目が合うと、彼女はにっこり笑ってきた。恐らく、その笑みは彼女にとっては好意的、もしくは挨拶代わりの笑みだったのだろうが、それは僕をひどく困惑させた。

こっちは歓楽街に位置しているボロ予備校に通っていて雨の中、傘をさしているとはいえ膝から下はずぶ濡れ。しかもバスに乗り遅れた。対して彼女は名門予備校に通い、束縛も無く、バスというシェルターで雨から守られている。些細な、ほんの些細なことであったが、僕の感情を嫉妬へと昇華させるのには十分すぎるくらいだった。

よく現代の世界において、格差が指摘されてアフリカかどこかの子供達とかと比べられることがあるがそれは先進国と発展途上国の間にある文明の成長の差であり、そこを指摘するのは場違いだと認識してきた。だが“真の格差”というものはほんの目と鼻の先にあった。マッチ売りの少女が、凍える外から、暖炉がある暖かい部屋でくつろぐ一家を見ていたように、僕は今でも“幸せ”を遠く離れた場所から羨ましげに眺めることしか出来なかった。


「おかえり。彗。もうご飯出来てるぞ。」

家のドアを開けると、待ってましたと言わんばかりに父さんが笑顔で話しかけてくる。

「あ、うん。」

僕は曖昧な返事をして風呂に入った。湯船には沸かしたばかりかと見まごうほどの熱々のお湯で満たされ、風呂から出るとタオルや着替えがきちんと畳まれて置いてあった。着替えた後食卓に着くと、すでに待ち受けていた二人から質問攻めにあう。

「また学年一位取ったの?」

「もちろんだよ。誰の息子だと思ってるの?」

そう取ってつけたような言葉で返すと、二人はまるでわざとかのようににこっと笑みを浮かべる。僕はそんな二人には目もくれず、淡々と夕飯を口へと運ぶ。

「こないだ予備校の先生から急に電話がかかってきてな、ものすごく褒められたぞ。まさか全国模試で百番以内に入るなんてって。やれば出来るじゃないか。彗一、これからも頑張れよ?期待してるんだからな?」

(“やれば出来る?期待している?”僕はそれを今まで何万回も側で聞いてきたんだ。くだらない戯言をほざく暇があったら自分達のことにでも目を向けたらどうだ?)

あの事故から一回も兄さんとは会えていなかった。担当した医者に麻痺が残るとは言われていたものの、もう怪我の調子はだいぶ良くなっていることだろう。しかし、親は一言も兄さんについて触れない。気がつくと、家から兄さんを写した写真がいつのまにか消えていた。こないだなんて、兄さんの部屋が物置部屋と化していたくらいだった。一言でも兄さんに触れたら…その後は想像出来ない。あまりの徹底ぶりに、僕も兄さんの話題は避けざるを得なかった。

兄さんはいったい今、どこで何をしているのだろうか。角田さん一家と楽しくやっているんだろうか。親に隠れてスマホでちょくちょく電話はしているものの、兄さんからは当たり障りの無いことしか返ってこない。僕が完全に親とのつながりを断ち切るまで、なるべく関わらないようにしたいのだろうか。


ご飯を食べ終わるとすぐに、母さんが僕の皿をキッチンへ持って行った。ついこないだまでは、僕の皿を洗うのや僕の服の洗濯は僕自身がやっていたのに。何もかもがガラッと変わってしまった。前にも増して居心地が悪い。“ハウス”の中にいるのと同じような感覚がしてしまう。初めてハウスに行った時と同じ息苦しさ。僕は逃げるように部屋へと入った。今ではもう、親は僕の部屋には余程のことがない限り入ってこない。きっと中でカリカリ勉強でもしていて、それを邪魔してはならないとでも思っているのだろうか。

親は、完全に息子は僕一人だけというふうに接するようになってしまったし、兄さんは枷が外れたように飛び立ってしまった。まるで心の中にぽっかり穴が空いてしまったようだ。ずっと、虚無の日々が続く。


今日も五十人にフォローし、その内四十七人にフォローバックされ、アカウントのフォロワー数は四千六百十二人となった。




8


長らく雨の日は続いていたが、今日に限っては晴れていた。六月の後半ということもあり、陽が当たるところにずっと居ると、溶けてしまうかのような暑さだった。朝のニュースでは、全国のほとんどの地点で真夏日を記録し、熱中症への注意を促していた。バスの中は冷房が効いていて、暑さに苦しむ者たちのオアシスとなっていた。僕も例外ではなく、文明の恩恵にあずかることにした。

僕が毎週土曜日にきっちりハウスに通うのはいくつか理由がある。一つは、書類を撮影した後に直ぐに失踪してしまうと勘づかれるおそれがあるからだ。能天気な高木になら気付かれないだろうが、花村だったら一瞬で気付くだろう。ハウスにせっせと通うことで、若く敬虔な信者を演出しているというわけだ。それに、ハウスに通うことで他にも団体の情報が入ってくる可能性がある。色々なメリットを考慮して、この前の大雨の日でも今日のような酷暑の日でも礼拝に参加することを欠かさなかった。とは言え、デメリットもある。親や友人に、新興宗教の信者であるということがバレたりでもしたら…たちまち噂されて表面的にはわからない差別をされたり陰口をたたかれてしまうだろう。それに、書類を撮影した時に実は監視カメラに映っていたということもあるかもしれない。中庭を這う時は細心の注意を払っていたが、一瞬たりとも映っていないという確証はどこにも無い。一度カメラを確認すれば、僕は熱心な信者ではなく内部情報を盗み出そうとするスパイに様変わりだ。トキヤの父親を殺した組織だ。スパイをそのまま生かしておく訳がない。


ハウスに着くと、いつもの場所に受付が無かった。それもそうだ。南向きの入り口は、夏の日差しをモロに受けていた。そのままでは、予定よりも早く神様と会うことになってしまうだろう。

受付を済ませると直ぐに屋内に入る。簡素さが目立つハウスだが、流石に冷房は効いていた。そのせいか、中は多くの信者でごった返していた。話しかけられると面倒なので、人気のない廊下へと移動する。いつだってハウスは居心地が悪い。しかも、今日に関しては何か嫌な予感がする。その答えは直ぐに見つかった。

「やぁ。こんにちは。今日は暑いね。」

花村だ。

「こんにちは。確かにそうですね。暑すぎて外には誰もいませんでしたよ。」

「また雨が降ってくれさえすれば少しは和らぐんだけどね。まだ六月だからいいんだけど、これからもっと暑くなるからね。大変だよ。玄関周辺にいる分にはいいんだけど、あんまり事務所の方に寄られるとちょっとね。」

「どうしてですか?」

「いや、なんか事務所にある、僕の書類の位置が少しずれててさ。まあ、ずっと前に触ったのを忘れてただけかも知れないし。多分、ただの杞憂だよ。」

「え?大丈夫なんですか?もしかしたら空き巣に…?」

「何にも盗まれてないだろうし…多分、思い違いだよ。私の。じゃあ、そろそろ時間だからこれで。」

「はい。」

(“書類の位置がずれてた”だと?何故たったそれだけで僕にわざわざ話しかけてくるんだ?もしかすると…やはり僕は疑われている?)

それもそうだろう。初めて僕がハウスに入ったのは不法侵入なのだから。あの時、花村にはうまく言い訳できたとは思っていたもののやはりどこかおかしいと気付いたのか。それに、思った通りだ。やはり前より監視カメラの数が増えている。無駄に数を増やすというよりは、死角を無くすことに重きをおいた置き方。一体これからどうすればいい。このまま例の書類を公開してしまったら、一番最初に疑われるのは、僕だ。

ここ三か月ほど、ずっと僕は書類のことを疑われないために一生懸命演技を続けていたが、それは意味をなさなかったとでも言うのか。やはり…三か月ではダメなのか?花村の口調からすると、まだ書類は処分されてないように見える。となると、僕が疑われないために何か策を打たなくてはならない。

人というのものは、一旦疑り深くなるとその沼にズブズブとハマって行ってしまう。礼拝の最中、僕はずっと花村から見られているような感じがして気が気じゃなかった。帰りのバスの中でもその残滓は残っていて、気を紛らわせるためにずっとバスの外を眺めていた。


家に帰ると、自分の部屋に入りベッドに腰掛ける。ふと、初めてハウスに行った時に花村から入信希望者向けのパンフレットをもらった事を思い出した。パンフレットを仕舞った、棚を見遣る。

(僕は、底無し沼に足を踏み入れてしまったのか?僕も、引きずり込まれてしまうのか?)


その日の夜は、なかなか寝付けなかった。


そして、とうとう七月に入った。梅雨もそろそろ終盤に差し掛かり、たまに晴れの日があるとまるで地獄かのような暑さだった。熱中症には重々気を付けてはいるものの、このままだといつか倒れてしまうのではないかと思えたくらいだった。図書館の窓際の席に座って勉強していると、外と中の温度差を実感する。

僕のフォロワーはもう既に目標の五千人を超えていたが、未だに例の写真を投稿するには至っていなかった。花村のこともあり、僕は躊躇していたからだ。いくら脳では分かっていることでも、結局は自分の保身に走ってしまう。後一歩…後一歩が、まだ踏み出せていなかった。

平日は学校から予備校、土曜日はハウスへ行き、日曜日はこうして図書館にこもる。毎日がルーティン化されていると、いつの間にか月日が経ってしまう。ついこないだ引っ越して来たと思ったらもう高校生だ。ある人によると、人間は十九歳頃に人生の半分を過ぎるらしい。これは十代の密度の濃さから来ている説であると思われるが、このままでは明日にはもうヨボヨボの爺さんになってしまう。

そうやってくだらないことを考えているうちにどんどんトキヤのことが風化して行ってしまう。書類の写真、それさえ投稿出来れば良いだけなのに。

気づけば、周りの机から人が居なくなっていた。

(そうか、もう昼か。)

僕は食事を摂りに、売店へと向かう。その途中で家族連れとすれ違う。父親と母親、そして幼い兄弟。

ふと、何かが僕の喉元まで来る。忘れていたものを思い出そうとして、なかなか思い出せないあの感じ。

(あれ?今日は何の日だったっけ?)

立ち止まってしばらく考えていたが、こういう時に限って出てこない。…やがて、僕は諦めて本来の目的である売店へと再び歩き出した。

こういうことは誰だってたまにある。二秒前には覚えていたことを急に忘れてしまい、その後思い出せなかったり、断片は覚えているのに肝心の全体が出てこなかったり。どうせまたいつもと同じことだろう、と気にしなくなった。

夜七時、僕はまだまだ明かりが残っているうちに帰路についた。初夏にしては高すぎる気温がアスファルトをジリジリと照らしていたせいか、道路を歩くと熱気が僕を襲った。


家のドアを開けても、人の気配は無い。“最近の”あの二人にしてはおかしいと思いながらも、風呂に入った。

風呂から出て、リビングのドアを開けたその時。

「誕生日おめでとう!」

クラッカーの音が鳴り、少量の火薬の匂いが鼻をつく。二人とも、笑顔で僕を迎えていた。

(あぁ、今日は僕の誕生日だったか。)

「あぁ、うん。ありがとう。」

そう返して、席につく。

思えば僕は、親に見放されてからは一度も誕生日を祝われた事がなかった。僕が誕生日だろうが、いつもと変わらぬ一日で、変わらぬ態度で、変わらぬ食事でいたがために、いつのまにか僕は誕生日という日を忘れてしまっていた。兄さんの時はいつも友人を呼び、大きなケーキを買い、ご馳走を作って盛大に祝っていたのに。昔は羨望の対象だったご馳走たちが、急に陳腐なものへと変わって行った。食べ物自体は絶対に腐っていないはずなのに、だんだん吐き気を催してくる。少し食べて、僕は部屋へと逃げ込んだ。

ドアを背で塞ぎ、やがて座り込む。体育座りで、つま先をじっと見つめる。やがて天井を見上げようとした時、本棚の上の額縁に光が反射しているのに気づき、立ち上がって額縁を手に取る。

昔、トキヤと二人で撮った写真だ。昔のトキヤと目が合う。

「あっ…!」

そうだ、僕はもっと大きなことを忘れていた。今日は僕の誕生日であり、


トキヤの誕生日でもあったのだ。


僕がトキヤと仲良くなったのも、誕生日が一緒だからだった。小さい頃はプレゼント交換とかをしていたが、疎遠になってからは僕はトキヤにプレゼントというプレゼントを贈った事がなかった。いつも、おめでとうの一言だけで済ませていた。そうだ。去年の誕生日も電話で二言三言会話しただけだったか。もうトキヤは、誕生日プレゼントを貰えないんだーーー


ふと、僕の中で何かが弾ける。

(そうか。そうだ。今日。今日だ。今日なんだ。もう、何でもいい。構わない。)

スマホを取り出し、SNSを開く。あの写真を投稿するなら、夕飯を食べ終わってみんながスマホをいじる可能性が高い今しかない。

作成ボタンを押し、一つ一つ、画像を選択していく。やがて全て選択し終わり、「某宗教団体の真実」とタイトルをつけたそれを、僕は、震える手で、投稿した。


三ヶ月前と同じように、頬を何かが伝う。身体の芯が熱くなる。僕はスマホを握りしめたまま、しばらくその場で立ち尽くしていた。




9


ブーッ

突然バイブ音が鳴り、僕はびっくりする。しばらく操作していなかったせいかいつのまにかスリープ状態に入っていたスマホを恐る恐る開く。

案の定、僕の投稿への反応だった。

今まで、ある程度注目を集めるためにフォロワーが興味を持ちそうなことを適当に投稿をしてある程度の反応がすぐ来るように維持していたが、それが功を奏した。スマホをスリープさせても、通知が止まらない。

ブーッ…ブーッブーッ…ブーッ……

部屋中に通知を知らせるバイブ音が響き渡る。また投稿を確認してみると、ほんの短時間であり得ないくらいの反応があった。次に、いつも使っている方のSNSを確認してみる。

「なにこれ?この投稿…」

「あの団体って裏ではこんなことやってたの?」

「こないだ心中したって言う一家も実は殺されたんじゃね?」

「え?こんな人たちが身近に生活してるの?ヤバくね?」

他のSNSを見てみても、まるっきり同じ反応だ。僕が目論んでいた通り、色々な所で拡散されている。スマホは狂ったかのように鳴り続けている。このままでは一晩中鳴り続けるだろう。僕は寝られないだろうし、もし親が廊下を歩いていて僕の部屋から不審な音が聞こえてきたら確かめざるを得ないだろう。そう考えた僕は、遂にSNSの通知を切った。

歯を磨き、電気を消し、ベッドに入る。今日はやたら暑かったため、身体は疲れているはずだったが中々寝付けなかった。目がパッチリしてしまう。

(遂にやった。遂にやってしまったんだ。潰すんだ。これで刺す。潰す。終わらせるんだ。人生で一番の、最高のプレゼントだ。)


新聞配達だろうか、バイクの音が聞こえる。カーテンから明かりが差し込んでくる。朝になっていた。瞼は結局瞬き以外閉じることはなく、脳は冴えていた。

夜の間に充電しておいたスマホを見てみると、とんでもない数の反応が来ていた。まだまだ増えていく。朝食中にスマホを見ていると不審に思われ面倒くさいことになるため、僕は電源を消した。


学校へ到着すると、すでに教室は沢山のクラスメイトで溢れていた。全体が異様な空気に包まれている。横谷が僕を見つけるなり、興奮した表情で話しかけてきた。

「おい!おい!共林!見たか!?アレを!」

「アレって何だよ?」

「あのSNSの投稿だよ!知らないのか!?ニュースにもなってたやつだよ!」

「そうなんだ。知らなかった。」

「ヤバいよな、アレ。本当に。裏であんなことやってたなんて!あの心中したとかいう一家も絶対殺されたんだよ!」

「…そうかもな。」

少し言葉を濁すと横谷は察したようで、他のクラスメイトの所に話しかけに行った。僕は教室を出ると、トイレに入り、またスマホの電源を点けた。画面には案の定メッセージが沢山来ていた。SNSの注目度は一位になり、ネットニュースでも大々的に報じられていた。この分だと普通のメディアでも報道されていて、多くの人に行き渡ったことだろう。他人を攻撃しないとやっていけないこのご時世だ。すぐに批判は集中し、団体は危うくなるだろう。再び電源を消し、教室に戻る。


最高の朝だ。


その日の予備校が終わり、家に帰るや否や僕はテレビを点けて夜のニュースを確認した。案の定どの放送局も団体のことを取り扱っていて、中継画面を見る限りでは東京にある本部らしき所にとんでもない数のマスコミが詰めかけていた。胡散臭いタレント上がりのコメンテーターが取ってつけたような自論を延べ、キャスターもそれに同調する。最近はいくらテレビ離れが進んでいると言ってもまだまだテレビを見る人は沢山いて、恐らく日本に住むほぼ全員の脳裏に今日の出来事は焼き付いたことだろう。人間の不満の矛先は手頃な所に向く。大多数を支配して、ある一点に殺到させたなら次に起こることは決まっている。

SNSを開いて、あることをサーチする。やっぱりだ。団体に関わっていた有名人や著名人が特定され、リストアップされて表に出てきている。信者だと公表しているアカウントが何個か停止している。信教の自由があるがために誕生した、上がダメなただの一新興宗教を全員頭がおかしいカルト教団と決めつけて総攻撃している。次期首相候補とされている政治家や、世界で活躍する俳優など将来ある人間には面目ないが、成功に犠牲はつきものだ。絶望したファンの声がちらりほらりと見えるが、しばらくすれば立ち直るだろう。どうせそこまで信奉していないのだから。


土曜日になった。梅雨はもうそろそろ終わり、夏が来る。今日は最後の雨だと言わんばかりの大雨が降っていた。あの投稿をしてしばらく経ったときに、あることに気が付いた。

(そういえば、ハウスはどうなっているのだろうか。)

鉢屋がハウスに来て、あの書類を隠したということがマスコミに知られていないのなら、ハウスは今行っても大丈夫なはずだろう。鉢屋が言っていた通り、大したことないハウスなんだし。それに、花村や高木は“ハウス”から情報が漏れたと気が付いている。もしここで僕が行かなければ、こないだの花村に疑われた件も合わさって、完全にアウトだ。だからこうしてハウスに向かっているのだが、いくら疑われないためといっても、敵陣に一人飛び込むのはやはり気が引ける。バスから降りて、ハウスまでもう少しといったところで遂に足が止まってしまった。もし、花村が既に僕が流出させたと気が付いてハウスの中で待ち構えているとしたら。団体に大きなダメージを与えたんだ。多分鉢屋や他の幹部から相当キツく言われ、流出させた人間を抹殺しろという指示が出ているかもしれない。もしかしたら、責任を問われて花村たちが殺されてるかもしれない。だが、行かなくてはならない。疑われないためにも、“死にに行く”必要がある。再び、歩き始める。

ハウスの前にはマスコミがいた。しかし中継で見た東京の本部とは違って、ネタ目当ての地方の放送局ばかりだった。

(ん?)

看板の隣に何かが見える。いつもは何かありがたい言葉みたいなのが飾られているのだが、今日に限ってそれが無い。というより、別のものが入っていた。それは、だいぶ前のスーパーのチラシだった。

僕は戦慄したが、思い止まる。これは罠だ。花村は、事務所を荒らした時に高木の机も探した事を知っていたんだ。それにこんな大々的に報道されているにもかかわらず、信者は来ている。もし門の上の監視カメラが、チラシを見て逃げ出す僕を映していればそれで黒確定だ。

心臓が暴れるのを抑え、中に入る。一応マスコミからは背を向けて顔がバレないようにしたが、問題はそこではない。花村と遭遇することは何としてでも避けたい。花村だったら、僕と話しただけで動揺がすぐにわかってしまうだろう。礼拝が始まるまでトイレに隠れ、ギリギリで会場に入る。出来るだけ人に紛れようと、真ん中と端の間ぐらいの席に座る。こんなご時世だっていうのに、信者はずっと笑顔でいて、初めて礼拝に来た時と同じように会場はほぼ満員だった。

花村は…いた。会場の前あたり。隅に立っている。団体には殺されていないようで少し安心したが、その表情はいつもと違って焦っているようだった。

会場を拍手が包む。壇上に女性が上がり、いつもと変わらぬ調子で話し始める。

これは僕にとっては意外だった。ニュースに一言でも触れると思っていたのに。ということは、ハウスは今まで通りやっていくということか?あの投稿は致命傷にならなかったということなのか?

そうか。遂に書類を処分したんだ。それなら警察やマスコミにちょっかいをかけられようが関係ない。知らぬ存ぜぬで通してしまえば問題ないというわけか。

だが花村はどうして焦っているんだ?もう書類を処分したならあんな顔をするのは何故なんだーーー

その時、最悪なことに花村と目が合ってしまった。こっちをじっと見つめてくる。この状況で目を逸らすのは逆に良くない。僕は花村をじっと見つめた。

しばらく見つめ合っていた後、花村は笑顔を返してきた。僕も笑顔を返す。花村は視線を外し、僕も目を逸らす。あの笑顔は…?


礼拝は終わったが、僕はすぐには帰らずに花村と話そうと探し始めた。書類がここで見つかったことなど何も知らない。何も関わってない。そう演出するためにはいつもと同じように振る舞うべきだ。

すぐに花村は見つかった。

「こんにちは。」

「おぉ、こんにちは。」

「何かニュースで言われてましたけど、ここは大丈夫ですよね?」

花村の顔が少し曇る。

「うん。何も問題無いよ。」

「よかったです。ニュースでは全国のハウスも同じように横領などをしてる可能性があると報道されていたので。まったく、いい迷惑ですよね。」

「本当、こっちも大変だよ。東京のよく分からないお偉いさんがやらかしたせいで。門の前にマスコミがいるのを見たかい?ずっとあそこに張ってるんだよ。帰る時は、絡まれないように気をつけてね。」

「ええ。分かってます。花村さんもお気をつけて。」

そう言うと、花村は事務所の方に歩いて行った。

今の態度からして、僕がやったかもしれないという疑念はだいぶ払拭できただろう。もし僕が花村で、投稿したのが目の前の高校生ということに気がついていたのなら、人気のないところに誘い込み、高木たちと協力して拘束した後に本部へ送るだろう。それをしないということは、僕を疑ってないと言うことだろうか。今日来ていなかったら、絶対に疑われていた。危なかった。


家に帰っても、まだ団体関連のニュースは続いていた。あの時、トキヤの父へのメールも投稿していたため、当然のことながらほとんどの局がこの間の一家全員焼死に関連させて報道していた。信者とされている芸能人や政治家にも触れられていて、殆どが芸能活動停止か引退になるだろうと専門家が触れていた。また、鉢屋があの時言及していた幹部たちが行ったとされる全国のハウスの殆どには警察が捜査していて、中継はその様子を映し出していた。しかし未だ証拠は見つからない。鉢屋の老獪な立ち回りに翻弄されているのだろうか。団体を潰す決定打には至っていないようだった。

そそくさと夕飯を済ませ、自室に籠る。参考書を適当に選び、問題を解き始める。

解き終わった時、急にバイブ音が鳴った。もうあの投稿への通知は殆ど無くて、あっても確認していなかったのだがふと気になってスマホを開く。しばらくスマホを弄ったのちに私はスマホをそっと閉じた。

その日は、早く眠りにつくことにした。


今日の図書館は、日曜日ということもあってか多くの人が涼を求めて避難していた。今年は梅雨明けが早かったせいか、殆どの地域で夏がいち早く到来していた。そんな図書館では集中出来るわけもなく、どこか涼しいところを見つけるため彷徨ったが結局見つからなかった。夜になっても気温が下がる気配はなく、連日の猛暑で身体がバテて食欲が減退しているのが良くわかった。

「どうしたんだ?」

「いや、ただちょっと食欲がないだけ。大丈夫だよ。そうそう、あとで予備校の人が訪ねて来るから。」

「こんな時間に?」

「うん。僕の行く大学について少し話し合っておきたいんだってさ。」

「そうか。」

もっと反応してくるだろうと思っていたが、意外と淡々とした反応だった。その食事中、会話はそれ以外なかった。

部屋に戻って椅子に座る。しばらくぼうっと天井を見上げ、トキヤと一緒に写っている写真をちらりと見たのちに、溜め息をついて、私は棚からパンフレットを引っ張り出した。


『ニュースです。昨夜、◯◯県×市で、五十代の夫婦が殺害されるという事件が発生しました。犯人はすぐに現行犯逮捕されており、この犯人は某宗教団体に所属していたとの情報です。なお、夫婦と一緒に生活していた次男は丁度外出していたため無事でした。』




10


その男は、隣の市にある築二十七年の古びたアパートに一人で住んでいた。名前を西倉と言い、三十代くらいの痩躯な男で気弱そうな感じか出ていた。西倉は玄関で私を迎え、辺りを警戒しながら扉を閉めた。

「来てくれたんですね。無事で良かった。」

西倉は安堵した表情で話しかけた。

「ええ。なんとか。ありがとうございました。」


昨日、SNSに通知が来ていた。確認すると、ダイレクトメッセージに西倉と名乗る人間からメールが届いていた。

「明日の夜八時半に東京から幹部が差し向けた人間が貴方を殺そうと貴方の家に来ます。家族を連れて逃げて下さい。もし逃げる場所が無ければ、私の所に来て下さい。」

といういかにも胡散臭い最初は半信半疑だったが、続いて添付された住所がとても偽りのものではなさそうだったことや、花村は大丈夫そうとはいえ、そろそろ団体から何か私に仕掛けてくるのではと思っていたことから、ここに逃げ込むに至った。団体に関するダイレクトメッセージが私の普段使うアカウントに来ていることからだいたい予想は付いていたが、やっぱり団体は私のSNSのアカウントを特定していた。私がどこに住んでいるかや、どんな家族構成で、今は三人で暮らしていることなど。西倉は元は団体側の人間で、元から団体のやり方について疑問を抱いていたが近頃の騒ぎで組織全体が危うくなって来ていることに乗じて裏切ってきたとのことだった。

「あれ?そういえば、ご家族はどうされたんですか?」

「家族は…私と兄だけです。」

「え…?でも…」

「私と、兄だけです。兄は離れたところに暮らしていて、あいつらからも勘当されているので心配無いと判断しました。あいつらは私のことを信じてくれないので一人で来ました。」

西倉が絶句する。無理は無い。今頃、あいつらは団体が差し向けた人間によって殺されているはずだ。私一人が対象でも、存在を他の人間にバレてしまったらそれも殺さざるを得ない。そして、部屋の窓からこっそり出る前に玄関の鍵を“閉め忘れて”おいた。暗殺者が「ごめんください」とわざわざインターホンを押すわけがないし、あいつらには予備校の人と伝えてあることで、たとえ不審な人間を見かけても予備校の人と勘違いさせて、逃げ出すのを少しでも遅らせた。暗殺者は歓迎ムードに戸惑うはずだが、そもそも団体が差し向けた人間だ。何もかも黙秘するだろう。私が親を間接的に“殺した”ことについては誰も分からない。


遠くからパトカーと救急車のサイレンが何台も入り混じる音が聞こえてくる。恐らく、悲鳴か何かが聞こえて近所の人が通報したのだろう。そろそろ戻っても大丈夫そうだ。

家の前まで来ると顔色を変えた近所の人が話しかけて来て、それに気づいた警察も駆けつけて来た。犯人はすぐに逮捕されたようだった。それから長時間、今までどこにいたかや兄さんのことについてなど色々聞かれる。空いた玄関からちらりと家の中が見えたが、ペンキをぶちまけたかのように赤黒く染まっていた。


家の周りにはまだパトカーがわんさか集まっていて、規制線やブルーシートが張り巡らされていた。東の空はだんだんと白くなってきており、もうそろそろ夜が明けることを知らせている。ふと気がつくと、規制線の外には大量のマスコミが押しかけて来ていた。警察の制止を振り切ってマスコミの方に歩き出すと、インタビューをするべく餌を求める鯉のように周りにたかってくる。

「息子さんですか?今、お父さんお母さんを亡くしてどんな気持ちですか?」

絵に描いたような、普通の家庭だったらとても失礼な質問をしてくる。

「ええ。とても悲しいです。両親を殺したのは某宗教団体の人間とのことなので、非常に憤りを感じます。」

「どうしてご両親は殺されたんですか?」

「多分、私がSNSにあの団体のことを投稿したからだと思います。なぜなら、今話題のあのSNSの投稿は私だからです。そして、この間殺され一家心中とされた家の息子は、実は私の友人でした。」

マスコミがざわつく。それもそうだろう。単に親を殺された哀れな少年だと思っていたのに、それがあの投稿をした本人だったのだから。しかも一家心中の件と関係があるなんて。

「え…しかしあの投稿は…?」

「私が、この宗教団体に入信してしばらくした時に書類を見つけました。」

「入信…信者…!?」

「ええ。もちろん入信したのはそのためです。偶然見つけることができました。なんとしても、殺された友人の無念を晴らしたかったんです。殺害については直前に知って、私はなんとか逃げ切れたんですが…私は両親に虐げられているので…二人は私のことを全然信じてくれなくて…」

そう言って、私は言葉に詰まった。

(信者なら、もっと早くに特定されるはずでは?あの団体だ。書類がバレた途端にハウスが分かるはずだ。そこから怪しい人物…例えば最近入信して来た私なんかを調べれば一瞬でわかるはずなのに、どうして一週間も時間がかかったんだ…?)


マスコミの質問に一通り受け答え、警察がいる所に戻った。その後、警察署に同行して取調室で事の顛末を話した。鉢屋やハウス、匿ってくれた西倉、そして…トキヤのことも。長時間にわたる尋問が終わり、廊下に出るともう太陽は高く昇っていた。用意された昼ご飯を食べながら見たニュースには私のインタビューが映っていたが、顔にはモザイクがかけられており声も高く変わっていた。未成年だからだろうか、それともインタビューの内容が衝撃的すぎたからだろうか。


尋問が終わり、家に私の物を取りに行くことを許可された。事件現場となったリビングは相変わらず血だらけで、鑑識の人たちがせわしなく動いている。家中に血痕が付いていた。相当もがき、苦しんだのだろう。カーペットに付着した、かつて父親と母親だったその赤黒いしみを横目に見ながら、私は淡々と日用品などを回収していった。



11


今まで、もちろん私は警察に捕まったことが無かったために知ることはなかったが、刑務所というところは思ったよりも無機質な場所ではなかった。確かに厳重な警備や強固な塀に囲まれてはいるものの中の建物自体は一般的な学校の校舎とはそれほど変わらない印象で、ここを住処とする服役者もやはり一人の人間だということを思い出させてくれる。やがて、前を歩いていた刑務官が足を止めて、私に面会室に入るよう促した。

椅子に座り、前に座る人間とガラス越しに相対する。

「久しぶり。元気にしてたかい?」

「ええ。おかげさまで。危ない目には遭わずに済んでます。」

そう私が言うと、花村はにっこりと笑った。

「それは良かった。」

私が公にあの書類を公開してからもう数年が経っていた。悪事をバラされて瓦解しかけていた某宗教団体は、私を殺すのに失敗したことに加えて、ちょうど同じタイミングで花村が例の書類を提出したことで完全に終焉を迎えた。団体は、多額の横領や脅迫だけにとどまらず、そこで得た金の資金洗浄、国税庁で働く信者を利用した脱税、幹部や一部の信者による事件の揉み消し、十数件の殺人、海外拠点での人身売買や性犯罪など、様々な悪事を日常的に行なっていたことが明らかとなり、沢山の逮捕者が出た。全国の支部でも似たような感じで、花村がいたハウスも例外ではなく横領や脱税、詐欺などが行われていた。高木や花村たちが刑務所にいるのはそのためである。事件が事件だったせいか、異様なほど逮捕されて入所するまでのスピードが早かった。ニュースで事件が大々的に報じられた後、今まであれほど団体を崇め敬っていたはずの有名人たちが「目が覚めた」だの「騙されていた」だの口を揃えたかのように言い訳をし出したのはなかなか滑稽だった。

「重ね重ね申し訳ありませんが、その節は本当にありがとうございました。」

「いやいや、いいんだよ。もう。それに、こっちも君に救われたようなものだしね。」

花村は、実は最初から私があの書類を投稿したと気がついていた。わざとハウスでの私の情報を抹消することで、幹部に気づかれるのを遅らせて、私が逃げる時間を稼ごうとしたわけだ。そもそも登録していた情報が少なかったから、消すのは容易かったそうだ。ハウスの入り口にチラシを貼ろうと高木に提言したのも花村で、私が分からないふりをして入ってくると信じての二重トラップだったという。カムフラージュがバレて殺されかけた時に組織の悪事が公になり、逮捕されることで死を免れた。

「花村さんは、出所したらどうするんですか?」

花村の刑は、それほど重くはならなかった。司法取引に応じたのもあってか、他の囚人と違いそれほど年月を経ずに出所出来るだろう。花村の性格からして模範囚だろうし、案外またすぐ面と向かって話せる時が来るかもしれない。初めてハウスで遭遇した時からは考えられないほど、花村はただの“人間”だった。宗教団体に関わってなければ、まともで、平凡な人生を送っていたことだろう。

「うーん…ある意味組織を売ったことだし、まずは名前を変えないとね。そしてどこか遠いところに引っ越さないと。地中海とか良さそうだよね。団体が瓦解したとはいえまだ信者はそこら中に隠れているだろうし。そういう君は大丈夫なのかい?」

「ええ、私は大丈夫です。活動には細心の注意を払ってます。法にも周りの人にも守られてますよ。」

「そう。まあただ、油断はしないようにね。…ふふっ。やっぱり君、ちょっと変わったよね。」

「え?どこがですか?」

「一人称といい、口調や佇まいといい。なんかやけに落ち着いてるというか、何というか…。大人びた…って感じじゃないんだよね。」

「うーん…自分自身が変わったような感じはそんなにしないんですよね…」

「まあ、君自身だからね。人は自分の変化に気づきにくいらしいって言うし。まあ、根本的なところは変わって無さそうだから、特に心配でも無いかな。」

「根本的なところというと…?」

「いや、君と初めてハウスで遭遇した時みたいな、ちょっとおどおどしたり、人間味があるところさ。それはそうと、あの時君をとっ捕まえてたらいったいどうなってたんだろうね。」

「ちょっと、悪い冗談はやめて下さいよ。」

二人は笑い合った。


やがて、面会の終了が知らされた。

「今日はありがとうございました。また今度来ます。」

そう花村に言うと、花村は笑みを返した。行きと同じように刑務官について行って建物を出ると、外はもうすでに夕方になっていて、入り口では西倉とボディーガードが私を待っていた。

「さぁ、行きましょう。」

「はい。」

西倉は団体の人間だったが、私のアカウント特定に関してもただ盗み聞いただけで彼自身は特に事件には関わっていないことが分かり、今は私の秘書を務めている。

やがて車の広々とした後部座席に乗り込み、シートのマッサージ機能でリラックスする。

あの事件が落ち着いた後、私は高校へ再び通うことにした。しばらく休校という体で学校に来てなかった私を見たクラスメイトの反応は様々だった。金本みたいに同情してくる者、以前より一歩引いて話す者、私の方をじっと見ていて、目が合うと急に目を逸らす者…横谷は相変わらずいつも通りだったが、会って早々、やはり花村と同じようなことを言われた。そして前に比べて家族の話はあまりしなくなったことに気がついた。恐らく私に配慮しているのだろうが、そもそも死んだ二人は家族ではないのだから、その配慮はありがた迷惑だった。

家族と言えば…半月ほど前のある日、急に兄から電話がかかって来た。恐らく兄は私があの二人を見殺しにしたことは勘づいているとは思うが、そもそもそのことは話題にすら上がらなかった。兄は果たして病院で会った角田家に婿養子として入り、今はそこの一族が経営する会社で働いているという。後遺症が残るとされていた腕は結局問題は無く完治したみたいだが、もう一度医者の道に戻る気は毛頭ないだろう。今回の事件で、ある意味兄の顔に泥を塗ってしまったと思い、後ろめたい気持ちをずっと持っていたが、話しぶりからしてそういう雰囲気は微塵も感じられなかった。それに、縁を完全に切っているせいかマスコミ等にたかられることは無かったらしい。電話を切る直前、兄は昔病院で私に言った時と同じように、今度飲もうと言ってきたが、私はもう今後兄に関わって兄の人生を邪魔しない方がいいのではと考えている。


やがて、車は灰色の建物の裏口に到着した。そこには多くの人間が私を待ち構えていて、中へと誘導された。しばらく歩き、小部屋へと案内された。


…やがて、拍手が聞こえてきた。合図がかかって楽屋から出ると、西倉が私を見てゆっくりと頷いた。

…近づくにつれ、最初はかすかに聞こえていた拍手の音が割れんばかりに大きくなっていく。すぐに、眩い光に包まれる。私は壇上に立っていた。周りを見回す。老若男女、貴賤出身問わず、会場の全員が私の一挙一足に注目している。今か今かとばかりに私をじっと見つめている。


そして、私はマイクを取って第一声を発した。





冬は日の入りが早い。会場の外では、空はもう既に夕闇に覆われていた。



エピローグ


「あ。そうだ。今日はもうここら辺で降ろしてもらって大丈夫です。」

「え…でも…」

「すみません。実はちょっと散歩したい気分なんです。」

「…わかりました。くれぐれもお気をつけて。」

「ありがとうございます。」

ドアを開けて外に出る。深夜の寒風が、身体を一瞬で凍えさせる。周りにはもちろん誰もいない。しぃんとなった住宅街を一人昔を懐かしみながら歩いていく。高校の時は、私はよく近所の人に挨拶をしていたが、あの事件が起きてから、誰も私に挨拶しなくなった。正直な話、必要以上のコミュニケーションを心の底では嫌っていたため、これはこれで良かった。それにしても、なんと暗いことだろう。街灯はあっても少し先すら見えない。あれ以来、深夜に歩いていなかったために、夜の感覚を忘れてしまったのだろうか。運動不足を解消するためにも、夜の散歩を日課にでもしてみようか。

…そう考えているうちに、自宅が見


ドンッ


『おはようございます。朝のニュースです。昨日よる十二時ごろ〇〇県×市で、慈善団体を経営している共林 彗一さんが車と衝突する事故がありました。共林さんは頭を強く打ち、搬送先の病院で死亡が確認されました。現場は見通しの悪い交差点で、共林さんが車に気付かなかった故に起きたとの見解です。なお、車の運転手はすぐに現行犯逮捕されました。』

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