第1話 生きたいと思わない世界
望んだ死だった。
けれど、なかなか死に方を決められずにずるずると生きていた。
マンションから飛び降りて下を歩く人にぶつかったら申し訳ないし、なによりジェットコースターが苦手だから落下中の浮遊感が気持ち悪そうで諦めた。
首を切るのも手首を切るのも怖い。
首吊りも遺体が汚れると聞くし、電車に飛び込むのは迷惑を掛ける人数が多すぎる。樹海は犯罪者の温床と噂されているし、入水は巣苦しそう。
結局、覚悟を決められずに生きていた。
死にたい理由は、なんとなく、に近い。
生きていく理由も気力もないから、死にたい。
その程度のものだったから、死ぬ決心も弱かった。
だから、アルバイト先の銀行に強盗が入ったとき、無意味に強気に出られた。
「金を出せ!」
「ないです」
「……は!? ふ、ふざけんな早くしろ! レジを開けろ!」
「開けられないです」
目出し帽を被った男の目はぎらついていて、若いのだろうけれど切羽詰まっている色をしている。背は高いけど痩せていて、もしかしたらお金に困っているから食べ物も買えなかったのかもしれないと考えた。
夜中の2時。
ワンオペのシフト。
5時にならなければバイト仲間はこない。
客はひとりのトラック運転手の中年男性と、生理用品を手にした若い女性ひとり。
そのふたりが強盗に立ち向かうはずもなく、そそくさと店の外へ逃げるのを横目で見る。
トラック運転手のほうはスマホで通報してくれているらしかった。
自動ドア越しに心配そうにカウンターを覗いてくる。
金なんか渡しちまえ、そんな動作をしていたけれど見ないふりをした。
「レジ開けろって!!」
「できない」
「てめぇ、ぶっ殺すぞ!」
そうして強盗が手にしたナイフが振り上げられた。
人の体は、死にたいと望む心に反して動くらしい。
私は体にナイフが届くまいと無意識に左手で防御しようとした。
ナイフの切っ先が宙から滑り落ちてきて、頼りない左手の小指が飛ぶのが見えた。
(あ、指が──)
熱い。
迸り出る血液を顔に浴びながら、感じたのはそれだけだった。
指が、熱い。
◇◆◇◆◇◆
初めにオレンジ色の糸で繋がる男と出会った。
◇◇◇
前世の最期の記憶を持つローレンは、弓の弦を目一杯に引いていた。
短めの銀髪と冷たい銀目。
女とは思えないほどに真っ平らの胸、女にしては長身の体を土で汚れた服で隠し、水を飲む鹿を木の葉の影からひっそりと狙っている。
人差し指と中指に引っ掛けている弦を離すと、耳元でブンッと弦が空気を震わす音がした。
風を切って飛んでいく矢は見事に鹿の喉元を貫く。
鹿が前足を上げて衝撃に驚いた。
逃げようとするところへ、さらに一矢、二矢、三矢と続けて放つ。
動けなくなった鹿を確認して、木の影から出る。
ローレンは前世の記憶を持ったまま、まったく違う世界に転生した。
日本もなければスマートフォンも電車も電話もない世界。
この世界では大陸はひとつしかなく、国は陸続きの5つのみで島国はない。
国は裕福の格差が大きかった。
ヒビナ国、フタサ国、ミリキ国、ヨギ国、ゴクラク国の順に国土も軍力も資金も下がっていく。
ローレンが生まれたのは、自然は豊かだが最も貧しいゴクラク国だ。
ほとんどの国民が関わり合いなく自給自足していて、金のやり取りなどない。
国民が恐れるのは嵐と飢えた獣と干ばつ。
日本の記憶があるぶん、極楽とはほど遠い国の名付けだなと思わなくもない。
これも前世で死を望んだ罰なのだろうか。
重い鹿を引き摺って家に向かった。
丸太を繋げて重ねて縛って作っただけの平屋。
中に入ると、獣に襲われて利き腕を失った隻腕の父と、病弱で狩りに出られない年子の弟がいる。
母は死去。
だからこの家の食を支えているのは、ローレンといえた。
父はすっかり小さくなった。
腕を失い、生きる気力をも奪われたらしい。目に覇気がなく、ローレンが外を出ても帰宅しても、ぴくりとも動かずに壁に寄り掛かって座っている。
弟は体を起こすこともままならない。
毎日の長い間を眠って過ごす。体のどこが悪いのかも、ローレンは知らなかった。なんの生きる活力も感じられない静かな家だ。
この国には病院もない。
貧しすぎて、国民が診察を受けられるほどの医療従事者を確保出来ないのだ。いずれ弟はローレンの知らぬ間に死んでいくだろう。
家の裏で鹿を捌いていく。
「……この糸、邪魔だなぁ、本当にもう」
ふよふよと視界に浮く糸を払い除ける。
ローレンの左手の小指には糸が結ばれていた。
その数は4本。
それぞれ違う色で、白、黒、オレンジ、青だ。
その糸はとてつもなく長く、4本すべてが違う場所へと伸びている。
実体のない糸だ。
ローレン以外には見えない不思議な糸。
切っても切れず、手繰り寄せようとしても掴めない生まれながらにして結ばれている不可思議な糸。
この糸がなにに繋がっているのか、それともなににも繋がっていないのか、確かめるつもりはなかった。ただ、風にそよがれて視界の中で浮遊するのが邪魔なだけの異物に他ならない。
鹿の皮を剥いだとき、微かな匂いがした。
この国にはない異質な匂いだ。
手を止める。
ぴくりとも動かないでいると、なにかが動く物音がした。
家族ではない、なにかの気配。こちらを探るような視線。
ローレンはすぐに弓に矢を番えて家の中に戻った。革で作ったカーテンを捲ると、壁に小さな穴が空いている。そこから外を見られるようにしていた。
人だ。
家族以外の人間を見たのは、かなり久しぶりだった。しかも、3人もいる。
男だ。
見慣れない軍服を着ているけれど、疲弊しきっているようだ。彼らの腰に剣も見える。来訪の意図がわからない。こんな場所に襲撃にくる利点もないだろうし。
「だ、誰かいないか」
男のひとりが言った。獣を恐れているのだろう。かなり小さな声だった。ガラガラに嗄れた声をしている。
「森で迷った。水を分けてくれないか。出来れば一晩泊めて欲しい」
……怪しい。
しかしこの家に金がないことは一目瞭然だろうし、こんな僻地で嘘をついて襲う必要もないわけだ。ということは、本当に遭難者だったりするのだろうか。極楽でもないゴクラク国になんの目的で訪れたのだろう。
ローレンはとりあえず外に出た。
3人の目に希望が光るのが見えたが、一瞬にして恐怖に染まった。
「ま、待て! 早まるな! 俺たちは本当に遭難して──!」
「何日も迷ってるんだ! 殺さないでくれ!」
なんのことだ──と思ったところで、はたと気付いた。
そうだ、鹿を捌いていたから服が血だらけなのだった。そのうえ弓矢を構えて出れば、それは確かに怖いだろう。
弓を下ろした。
「狩りを終えたところでした。狭いですが、どうぞ。軽い食事を用意しましょう」
空を見上げる。太陽はまだ高い位置にあるが、この国の夜はどこよりも早く訪れる。
「じきに暗くなります。動物達が活発になる。明日の朝、国境まで案内します。国はどちらですか」
男達は顔を見合わせてから言った。
「ヒ、ヒビナ国の調査隊だ」
この世界で最も裕福な国の軍人か。
◇◆◇◆◇◆
鹿肉のソテーと鹿骨のスープを振る舞うと軍人3人は貪りついた。
どうやら空腹は嘘ではなかったようだと思いつつ、父の前に同じものを並べる。反応はない。ローレンが気付かぬうちに、きっと一口は食べてくれるだろう。
次に弟の体を起こしてやる。
「スープだよ」
言うと、返事の代わりに細く開けられた目が飲みたいと訴えてくる。乾いた唇の隙間にスープを注ぎ入れてやると、喉を鳴らして飲み込んだ。皿の半分ほどまでいったところで唇の端からスープが溢れ始めた。もういらない、という意思表示だ。こうして弟の残飯がローレンの食事になる。
「本当に貧しい国なんだな」
「地獄のようだ」
こそこそとした3人の会話が聞こえてくる。そのとおりだと思った。
ここは一種の地獄だ。
家に染み付いた生き物の匂いは弟の糞尿か、狩ってきた動物達の血肉か区別がつかない。なにより──
誰も生きたいと望んでいない。
腹が減ったから食べる。眠いから寝る。それだけだ。
(前世となにも変わらない)
生きることへの執着のなさも。明日への希望のなさも。
3人は満足したのか、いつの間にか眠ってしまっていた。
「こっちです」
翌日の早朝、ローレンは3人を叩き起こした。動物達が深く寝ている間に森を抜けたほうがいい。そう伝えると寝ぼけ眼だった3人は険しい顔になった。そこはさすが軍人といえるか。
朝の森はとても涼しい。
誰も動いてはおらず、代わりに風があらゆる匂いを乗せてくる。それは森の住人にとっては警告を知らせてくれる貴重な情報源だ。
獣の匂い。この道は避けよう。
「本当にすまない。馬を伴っていたのだが、野営中に獣に襲われて着の身着のまま逃げ出して迷ってしまった」
「なるほど」
「ゴクラク国とヒビナ国が統一されたから、どこを開拓しようかという調査だったのだ。協力に感謝する」
「え、統一?」
「知らないのか!? 統一されたのは2週間も前だし、統一する話は2年も前から出ていたぞ!?」
まあ、あんな辺鄙なところなもので情報が届く術がない、としか思えない。
ならば奴隷のように扱われたりするのだろうか。そう考えると今の地獄のほうがいくらか天国のような気もするけれど。
文字通り、極楽はなくなったわけか。
ふと気が付いた。
「煙の匂いがする。仲間が来てくれているかもしれませんよ」
「……匂い? いや、そんなものは……」
焦げ臭い。そちらのほうへ向かうと、やはり野営地があった。テントがいくつか張られ、その中央には鎮火した焚き火が焼べられている。
「お、おぉ……! 本当だ! ヒビナ国の調査隊だ!」
「おおい! 帰ったぞぉ!」
男達が言うと、テントからぞろぞろと軍人が這い出てきた。自分の役目はここまでだろう。
踵を返そうとしたそのとき、ぎょっとした。
糸だ。
オレンジ色の、糸。
ローレンの小指から揺れるオレンジの糸と繋がる男が現れたのだ。
男には糸が見えていないのか、繋がっている小指をなんらおかしなことはないように気に留めていない。
男は糸と同じく眩しいくらいのオレンジ色の髪と瞳で、背は一段と高く体も逞しい。少し長めの橙色の髪は広がり気味で、どこかライオンを彷彿とさせる。気難しそうに真っ直ぐと引かれた眉は人を寄せ付けない雰囲気もあった。そんな男の左手の小指にオレンジの細い糸が結ばれているのは、見えている人からすれば滑稽でさえある。
ローレンは思わず自分の指と糸と、男の指と糸とを見比べた。
なんで糸がこの男と繋がっているんだ──。
「その男は?」
オレンジ頭が問うてくる。
男と思われているらしかった。3人の軍人も同じ勘違いをしているのか、否定せずに事の経緯を説明している。
オレンジ頭は一通りの話を聞き終えると小さく頷いてローレンに向き直った。
「俺はヒビナ国軍調査隊隊長のブレンダン・ローク。部下の命の恩人と聞いた。国を代表して礼を言う」
さらに遭難者Aがブレンダンになにかを耳打ちした。またブレンダンは小さく頷く。
「体調が優れない家族がいるらしいな。もうゴクラク国はヒビナ国だ。安心してくれ。ヒビナの中央病院に連れて行ってやる。というより、ゴクラク国はすべてヒビナ国領土に移住する契約だ。ヒビナに新しい住居を用意するから、早急に移動して欲しい。これもなにかの縁だ。今から我々が手伝おう」
「……はあ」
やはりヒビナの奴隷生活か。そんなことを話したら、父も弟もどんな反応をするかわからない。初めに自分から説明をしたほうが混乱させないだろう。
今からの往復では帰途が夜になる。家で一泊して明朝に出るのがいいだろうから、人数を最小限にしてもらったほうが助かる。
「なら──」
言い掛け、押し黙った。
甲高い獣の嘶きが聞こえた。
そして無数に飛び立つ鳥達の羽根の音。
ざわめきたつ森。
這い上がる悪寒。
静かな森での騒ぎにしては、異様だった。
獣と獣との争いでは起こらない非日常が起きたのだ。
しかもあの音のほうは、家だ。
「まさか──」
ローレンは走り出した。
「馬を出せ! 彼を追うんだ!」
不吉な何事かを察したのか、ブレンダンはローレンのあとを追ってきた。