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二章

☆私


 目を覚ますと相変わらず例の診療所だった。夢なんじゃないかと少しばかり期待したけど、どうもこれは現実らしい。手首はまだ痛む。立ち上がるのも一苦労だ。


 冷蔵庫から久瀬が昨日買ってきたものを適当に取り出した。サンドイッチを口に放り込み、パックの牛乳で流し込む。昨晩かなり歩いたせいか、足は少しだけだるかった。だまし絵みたいに、またここへ戻って来たなんて、できれば嘘であって欲しかったが、残念なことに自分の身体が真実だと告げている。


 歩き続けた愚行を無理やり肯定的に捉えるなら、私を縛り付けない理由が明らかになったくらいのものだろう。これまでに連れて来られた人たちが逃げ出さなかったのは、いくら逃げても逃げられないからだ。山を越えるだとか、別のルートも試したものがいるかもしれないが、今の私にその気力はなかった。


 とはいえ、本当に私をこの町へ閉じ込めるつもりなのだろうか。久瀬は「安心してくれ」と言った。ここへ連れて来られた者は、「直に出られるよ」とも。


 私をここに連れてきたのは安山という男らしいから、彼に頼めばなんとかしてくれるかもしれない。少女に会うことが私の仕事ならば、その少女がいなくなった今、私は役目を果せないのだ。久瀬が来たら会わせてもらえるように頼もう。そう思ってしばらく過ごしたが肝心の久瀬は現れなかった。


 しびれを切らした私は、商店街の方まで出てみることにした。葉月か五郎でも安山の居場所くらいは知っているはずだ。二人が頼りないなら森川でもいい。


 だいたい私の世話が仕事だと言うなら、久瀬にはしっかりと仕事をしてほしいものだ。少し憤慨しながら、私は診療所の扉を閉じる。ポケットに手を伸ばし鍵がないことに気づいた。同時にここを戸締まりする意味もないと溜息を吐き、商店街の方へ向かう。


 *


 商店街はやけに騒がしかった。野次馬のような人だかりが出来ている。その輪の端に葉月がいるのを見つけて声をかけた。


「なにかあったのか?」


「あぁ、佐々木。大変なんだよ」


 気弱そうな顔をして、彼はなんとも心細そうな声を出した。「それがさ、」と彼は続ける。


「森川が殺されたんだ」


「殺された?」


「そうだよ……だから、朝から大騒ぎさ」


 野次馬たちは、商店街にある一件の建物を中心に半円を描いていた。群衆が取り囲んでいるのは、「BANK」と書かれた建物だ。どうやらあそこが銀行員である森川の家らしい。なんとも分かりやすい。


「殺されたってどうして?」


「分からないよ……」


 それもそうか、と私は一人納得する。殺された理由を知っているのは犯人と被害者くらいだろう。仮に葉月が知っていても答えるはずない。


「それにしても殺しだなんて物騒だな」


 野次馬が見つめている建物の中で人が殺された。それなのにどうもピンとこない。殺人という言葉にもう少し恐れがこみ上げてくるものだと構えたのに。たった一枚の壁の向こうというだけで、これほど現実感はなくなるものらしい。


「本当に物騒だよ。立て続けだなんて。これで二人目だ」


「立て続け? 二人目? この前にも殺しがあったのか?」


「そうだよ。一昨日も殺しが起こったんだ」


「一昨日っていうと少女が死んだっていう?」


「いや、あの子が死んだのは三日前だ」


 そうだ、久瀬に一昨日と説明されたのは昨日のことだった。疲れているせいか、妙なことが続きパニックになっているせいか、どうも時系列が上手くまとまらない。


「すまない、もう一度いいか? 殺しが起きたのはいつだって?」


「一昨日の夜中さ。その時もこんな風に野次馬だらけになったんだ」


「こんな風にというとこの辺りで殺人が起きたのか?」


「うん。あの家だ」


 葉月が指差したのは、商店街の中にあった一軒の民家だった。


「あそこの主人が殺された」


「犯人は?」


「それがまだ分かってないんだ」


「こんな狭い町なのに?」


 商店街を中心にポツポツと住宅街や民家はあるものの、決して大きな町には思えなかった。それに、逃げようとしたところで、昨晩の私のようにぐるぐるとループしてしまうだけだ。逃げられやしない殺人犯を捕らえるのは難しくは無さそうだ。


 ただ素直な感想を言っただけだったのだが、気を悪くしたのか、葉月は少しだけ眉根に皺を寄せた。「悪気はなかった」と私が謝れば、気を損ねたまま葉月が答えた。


「そりゃ広くはないよ。君の住んでるところはもっと広いだろうね。だけど、ここが僕らの世界なんだ」


 私は訊ねずにはいられなかった。昨日の久瀬もそれと近しいことを言っていたが、どうも酒のせいで思考が上手く回っていなかった。


 ――――僕たちはここから出られない。


 私を帰してくれ、という質問に久瀬はそう答えた。あの回答も今の葉月も、自分たちは外から隔離された存在だと告げている。


「ここは一体なんなんだ? 僕らの世界? ここは日本なんじゃないのか?」


「確かにここは日本だよ。だけど上手く説明出来ない。安山なら答えられるかもしれないけど。彼が唯一、ここと外を行き来出来る人間だから」


 やはり帰るには安山に頼るしかなさそうだ。安山はどこにいるんだ? そう葉月に訊ねようとした時、野次馬の方から大きな声が響いた。 


「おい、見世物じゃないぞ。お前らは自分たちの仕事に戻れ!」


 そう叫んだのは警官だった。


 事件のあった建物から出てきて、野次馬たちを追い払っている。身体と態度の大きな男だった。


 警官は野次馬を追い払ったことに成功して、少々誇らしげにしている。それからこちらに気づき、形相を険しいものへと変えて、大慌てで近づいてきた。


「あんた佐々木ってやつだな?」


 その視線は、完全に私を見下していた。間近で見るとさらに大きく感じる。制服越しでも分かる筋肉。その腕はごっつくまるで丸太のようだと思った。


 私に対してしてきたであろう質問に、葉月が「そうだよ、彼が佐々木だ」と頷く。


「そうか。今朝、あの銀行で森川が殺されているのが見つかった」


「あぁ。それなら彼から聞いたとこ……」


 私の返答などろくに聞かず、警官はいきなり私の腕を掴んだ。無理やりその腕を引っ張りながら私を持ち上げようとする。痛みよりも衝撃の方が強く、一瞬、声が出せなかった。警官はもう片方の手で、私の肩を掴み、地面に押し付けた。朝日に照りつけられた暑いアスファルトの上に、顔を押し付けられる。


 一瞬遅れて、痛みとアスファルトの熱が襲ってきた。


「何をするんだ」


「あんた昨日、夜な夜な出歩いていただろう?」


 そこでようやく私は疑われていることに気がついた。確かに夜な夜な出歩いていたのは事実だ。だけど、それはこの町から出ようとしただけで、殺人をしようとしたわけじゃない。


 いきなり襲いかかられ、アスファルトに押し付けられている。そんな状況で言葉がスラスラと出てくるわけもなく、私は反論も出来ずに、ただうろたえていた。


「待ってくれよ。彼が出歩いていたかどうかまでは知らないけど、動機がないだろう?」


 葉月が警官の腰元に掴みかかる。葉月の身体は小さく、その体格差は倍くらいあった。 


「動機? そんなのはいくらでも思いつくだろう。……そうだな。金だ。金が欲しかったんだ。森川は銀行員だった。大金を狙ってこいつは森川を殺した。間違いない」


 なんと無能な。この警官は、こんな乱暴な推理で犯人を捕まえようとしているのだろうか。狭い町で一件目の殺人が解決していないわけだ。そんな私の声など届くこともなく、警官は随分自信満々だった。


「それはおかしいよ。佐々木は昨日、森川さんから現金を貰っていたんだ」


「なんだと? なら……、誰でも良かったんだ。ただ殺しがしたかった。これなら都合がつく」


 頬の熱さは次第に麻痺してきた。息を吸い込むたび、砂埃が口の中へ入って来る。咽た私を、「動くな」と警官は押し付ける。


「こいつは三時に戻っていたぞ」


 声が聞こえて、私は視線を上げた。眩しい空に人間のシルエットが浮かぶ。酒の匂いが鼻をかすめた。五郎だ。


「三時? 三時がどうした」


「三時はまだ森川は生きていたはずだろ? 昨日は森川の番だった」


 ひっく、と五郎がしゃっくりをした。ゆらゆらと彼の手の中で日本酒の瓶が揺れている。


「あぁ……そうか。そうだな」


 少し逡巡して警官は納得した。葉月はまだその腰元にしがみついている。私から彼を剥がそうと試みてくれているのだろうけど、まったく歯が立たっていない。


「ほら、佐々木は犯人じゃないよ。いい加減、離さないか」


「……だが、酔っぱらいの言うことなんて信じられるものか!」


 再び警官の腕に力が込められる。このままではまずい。私は叫ぶように声を出した。 


「私が昨晩、出歩いていたのは事実だが殺しはしていない。それに私は森川も出歩いているのを見たぞ。女と一緒だった。この町には夜は出歩いてはいけないという決まりがあるんじゃなかったのか?」


「あぁそうだ。夜に出歩いちゃだめだ。だが、昨日の森川はいいんだ」


「森川はいい? どうして?」


「そういう決まりなんだ」


 警官はまったく私の言分を聞こうとしない。完全に私が犯人であると決めつけてかかっている。それにここの住人は「仕事だ」「決まりだ」と言えばすべてが通ると本気で思っているのだろうか。


 このまま理不尽に拘束されるのが嫌で、私はこれでもかというほど力を出して暴れた。足を振り上げ身体をひねる。「わー」だとか「ぎゃー」と叫び声も上げていただろう。喉に激しい痛みが走ったので恐らく出していたに間違いない。だが、私の反抗はあっけなく抑え込まれた。


 強い衝撃が背中に走る。どすっと大きな花瓶で殴られたのかと思った。警官が握っていたのは拳だった。息が止まる。苦しい。アスファルトに倒れ込んだまま蒸せる私の上に馬乗りになり、警官は哀れそうな目でこちらを見つめた。


「暴れるな」


 それは忠告というよりも脅しに近かった。今度はこれ以上のことをするぞ。そんなニュアンスが込められている。壁の向こうで起こったという殺人よりもずっと恐ろしい。彼は警官だ、私を殺すはずがない。そんな常識が脳内でボロボロと崩壊していく。葉月と五郎は、恐れたようにあわあわと口を動かすばかりだった。


 私は怖くなって暴れるのをやめた。痛いのは嫌なのだ。なのに、警官は力を弱めないどころか、再び拳を振り上げた。


「何を騒いでるんだ?」


 私が衝撃に備えるために歯を食いしばったのとほぼ同時、男の声がした。警官の私を押さえる力は弱くなる。


 葉月がぼそっと呟いた。


「安山」


 安山は中肉中背の男だった。あまり綺麗な服装をしていないせいか、歳はそれなりに老けて見える。六十歳手前から五十過ぎだろう。白髪交じりのひげを蓄え、古びたセカンドバッグを持っていた。


「なんだよ、安山のじいさん」


「いや、なんだ。騒がしいから寝てられなかったんだ」


 確か安山は夜の仕事の為に夜型で昼間は寝ていると久瀬が言っていた。警官はまだ私の上に馬乗りのままだ。


「そうか、起こして悪かったな。殺人だったんだ。だが、もう無事事件は解決した」


 警官は恐らく本気のつもりなのだろう。私を陥れるだとか、誰かをかばう為にやっているだとか、そんな考えを持っているようには見えなかった。ただ素直に私を犯人だと思いこんでいる。


「私はやってないぞ」


「煩いぞ! いい加減に諦めろ」


 警官がまた私を押さえつけようとしたのを、安山が手で制した。身体を屈めて、顔を私に寄せる。


「あんた向こうから俺が連れてきたやつだな」


「そうだよ。あんたに連れてこられたんだ」


「本当に、お前がやったのか?」


「一体、何のためにだ」


 安山の目が私をじっと見つめる。瞳の深くまで黒く輝きのある目だった。私の問いには答えず、安山は顔を上げて警官に告げる。


「本当にこいつが犯人なのか?」


「そうだ。こいつで間違いない。金が目当てか、誰でも良かったか。殺しを趣味にしてるなんて線もある」


「それじゃ、なんの確証もないってことじゃないか」私の嘆きは葉月が代弁してくれた。警官の目が鋭くなり、葉月の方へ向いた。勇気を振り絞ってくれただろう葉月は、その目に怯えてすっかり小さくなる。


「まぁ待てよ。葉月の言ってることも正しいだろ? 現場はどうなってたんだ」


「現場がどうってどういうことだよ」


「死体の状態とかだよ。どうやって殺されていたんだ?」


 警官は安山に問われて、考え込むように手を顎に添えた。思い出そうとしなければ思い出せない程度にしか、現場の状況を記憶していないらしい。


「森川は家のリビングに倒れていたんだ。それと……、そうだ! 首を絞められていたんだ。なにかこう、細く長い何かだ」


「そうか。首を絞められていたか」


 安山は満足そうな顔をする。それから声を明るくして続けた。


「それならこいつには犯行は無理だ」


「なぜ無理なんだ」


「絞殺するには、それなりに力がいるだろう?」


「そうだな。森川は男だ。女が背後から襲ったとしても応戦は出来ただろうな。だから犯人は男なんだ。どうだ、この男が犯人じゃないか」


 いくつも重要な工程を飛ばした乱雑な推理だ。私は呆れて声も出なかった。


「だが無理なんだよ」


「だからどうして無理なんだ?」


「この手を見てみろ」


 安山が私の腕を掴んだ。負傷していたところだ。ズキッとした痛みに私は歯を食いしばる。


「これは、俺がこいつを連れてきた時、痛めたものだ。この状態で森川の首を絞められると思うか?」


 警官は押し黙った。どうやら反論出来ないらしい。それを見て、すぐに五郎が声を上げる。


「ほら、三時には佐々木は帰ってたって言ったろ!」


「クソッ」と吐き捨てて、警官は私の背中から立ち上がった。腹いせなのか、乱暴に地面を蹴りつけて不機嫌そうに去って行った。


「災難だったな」


 安山はそう言いながらこちらに手を差し伸べた。私はその手を取って「助かった」と返す。引き起こされた私は、警官の暴力のせいですっかりボロボロだった。地面に倒され押さえつけられ、Tシャツが破けてしまっていた。


「あーもー、服がぐちゃぐちゃだよ」


 こりゃひどいもんだ、と葉月が顔を歪めて言葉を続けた。


「僕の服を持って着て上げるから着替えな。背格好は変わらないから入ると思うんだ」


「それは助かる。ありがとう」


 私のお礼を聞くと、葉月は嬉しそうに口端を持ち上げ、上機嫌で服を取りに帰った。彼は人がいいらしい。


 葉月が去ったあと、「それにしてもあの警官はなんなんだ」と私は腹を立てる。


「あいつは、あーいうやつなんだ。悪かった。俺からの謝罪でここは流してくれ」


 助けてもらった手前、それ以上は何も言うことが出来ず、私は渋々、安山の言うことに頷いた。


 それはそれとして、彼には聞かなければいけないことがある。


「安山だったな?」


「そうだ」


「どうして私をこんなところに連れてきたんだ」


「なんだ久瀬から何も聞いていないのか?」


 それじゃ不十分だからあんたに聞いてるんだよ、と思ったが、頼みごとがあるのはこちらだ。感情を押し殺し、冷静に言葉を探す。


「連れてくる予定じゃなかったというのは聞いた」


「それが俺の回答だ」


「だったら帰してくれよ!」


 思わず声を張り上げてしまった。安山の眉根が少し下がる。まるで年老いた犬のように見えた。


「帰りたいなら帰してやる」


「ほんとか」


「あぁ。ただ今すぐには無理だ。片道五時間はかかる」


 五時間かかるなんて大した問題じゃない。少なくとも、ここから出られないよりは何倍もマシだ。


「構わないさ。帰してくれよ」


「もしかして、あんた端に行こうとしたのか?」


 端だと? 安山は私をからかっているのかと思ったが、まるでこちらを見定めるような目つきをしていた。


「そんなものあるのか?」


「いや、残念ながらあんたが見て感じたことは真実だ。この町に端は存在しない」


 うっかり私は口を滑らせたが、夜出歩いていたことは、警官にも五郎にもすでに見られている。それに帰れるなら問題はない。


「いいから帰してくれよ」


「そうか……おすすめは出来ないんだが」


 安山はそう言うと、新聞を一部手渡してきた。


「なんだこれは?」


「今朝、俺がとってきた新聞だ」


 とってきた、とは。盗んできたという意味なのか、買ってきたという意味なのか。どちらでも構わないのだけど。確かに日付は今朝の朝刊だ。安山はある記事を指差した。


「この記事がなんなんだ?」


「あんた本当に覚えちゃいないのか? よく見ろ」


 私は記事に目を通す。


 それは地方欄の小さな記事だった。ミナミで死後十数時間経過した遺体がゴミ袋の中から発見されたらしい。殺されたのは二十代の女性だ。


「全く身に覚えがないんだが」


「本気言ってるのか? その写真の女だぞ。記事もよく見ろ」


「あぁ、知ってる女性ならすぐに……」


 そう言いかけて、私はハッとした。記事に載っていた被害者の女性の顔に見覚えがあったからだ。


「あの夜の風俗嬢か?」


 酔っていたせいでハッキリとは覚えていない。だけど、確かこんな顔をしていた気がする。


「そうだ」


「だが、なんだって、その風俗嬢が殺されたからって私が帰るのをおすすめできないんだ?」


「あんたが彼女の最後の客だったからだ」


 一瞬、安山の言いたいことが分からなかった。私が最後の客だから何だというのか。鈍い私に安山は空咳を飛ばし続ける。


「あんたは、この女が殺された夜から行方不明だ」


 そこでようやく私は勘づいた。なんてことだ。一日に二度も殺人犯と間違われるだなんて。


 それでも構わないから帰してくれと言えたかもしれない。私は殺人なんてしていないし事実無根だ。調べてもらえば疑いは晴れる。本当に晴れるのだろうか? ここをなんて説明する?


 それに先ほど受けた理不尽な傷が帰るのを躊躇わせた。


 もうあんな風に痛目に遭うのは嫌なのだ。




★少女


「今日のプレゼント、ユキちゃんは喜んでくれた?」


 少女の話を一通り聞いて、アタシはそう訊ねた。すると、少女は「うん」と長い髪をなびかせ、ニッコリと笑ったの。


 少女の手には、折り紙の鶴が二羽乗っていた。それは、ユキちゃんの為にアタシと一緒に作ったもの。


 アタシはその折り鶴を指差して笑みを浮かべた。 


「良かったね」


「ユキちゃんが嬉しいと私も嬉しい。お姉さんもお友達が嬉しいと嬉しいでしょ?」


「そうだね。お友達が嬉しいとアタシも嬉しいよ」


 アタシがそう言うと、少女はとっても喜んだ。 


「ねぇ、お姉さんは明日も来る?」


「うーん」


 少しだけ悩んだアタシに、少女はとても悲しい顔をしたの。だから、アタシは出来るだけ優しい顔をして答えた。


「分かった。明日も来るね。だけど、あなたにはユキちゃんがいるでしょ?」


「うん。そうだけど。お姉さんも私のお友達。ユキと三人で一緒に遊びたい」


 それは出来ないよ。なんて喉元まで出かけた言葉をアタシは飲み込んだ。それから大人気ない自分に問いかけた。「それは本当に無理なこと?」アタシを見つめる少女の目はとっても真剣だった。きっと無理なことなどきっとないのに、大切なものを忘れていたアタシは無理だって決めつけていたのね。


 自分にはないものを彼女は持っている。そう思うだけで、アタシは少しだけ心が温かくなった。


 


☆刑事



 御堂筋みどうすじ線の大国町だいこくちょう駅から少し歩いた大通り沿いにある喫茶店で、常田つねたはとある男の写真を男性に見せていた。


「ご友人で間違いないですね?」


「はい、そうです」


「この日、佐々木さんと別れたのはいつ頃ですか?」


「店を出てすぐです。時間は二時半頃だったと思います」


「これまでにあの店にいかれたことは?」


「いいえ一度も……あいつも初めてだったと思います。あーいう店にはいかないタイプなんで」


「そうですか」


 行方不明者というのは珍しい話ではなかった。人がいなくなる理由なんていくつも考えられる。殺人、拉致、誘拐であれば捜査もしようがあるが、借金が苦になっただとか、異性関係や家族と縁を切りたいだとか、世間に対して後ろめたいことが出来ただとか、そう言った類のものは捜査のしようがない。


 とは言え、行方不明の殆どが自殺だ。この世界に飽きたなんて、言われても正直、知っちゃこっちゃない話だが。身元の分からない遺体など、一年間に数え切れないほどあがる。


 常田は入り口近くのマガジンラックに目がいった。胡散臭い週刊誌に『超常現象・神隠しにご用心』などと戯言が並んでいた。


「刑事さん。あいつは疑われてるんですか?」


「どうですかね。そういうことは口外出来ませんので」


 常田は写真をポケットにしまった。友人を心配するのは不思議なことではない。それにかくまっているのなら、あまりにわざとらしい言葉だ。この男は本当に何も知らなさそうだ。常田の長年の刑事の勘がそう告げていた。


「今日はわざわざ出向いてくださりありがとうございました。ご友人の捜索は引き続き行いますので」


「あ、あの」


 常田が立ち去ろうとすると、男が呼び止めてきた。


「佐々木をお願いします。あいつはそういうことを出来るやつじゃないです」


「そうですか……」


 他人へのイメージなどその人の創作でしかない。そうであって欲しい。そう願うばかりに、人は相手に理想を押し付ける生き物だ。あの雑誌の神隠しだってそうだろう。そうであって欲しいのだ。そうでなくては都合が悪いから。本当のことなど誰もしらないのに。


 常田は男に向かい軽く頭を下げる。会計を済ませて店をあとにした。



★両親


『いつ死んだって後悔しないように生きなさい』


 それは父が私に教示した数少ない教えの一つだ。


 その教えが、犯人をこの手で殺してしまおうかと感情的になった私を落ち着かせてくれた。復讐だなんて両親が望むとは思えない。


 父の教えに従えば、父は後悔なんてしなかったはずなのだ。少なくとも、後悔がないように努めていたのは間違いない。それなのに私が「父はまだ生きたかったはずだ」なんて感情的になるのは、父が己の信条を貫けていなかったと認めるようなものではないだろうか。


 犯人は法律により裁かれた。判決に異論はない。


 ただ明らかになったのは、私が現実に向き合わず、父の教えを全うできていなかったという事実だけだ。



☆私


 葉月が服を持って戻って来たのは、「俺はもう帰るぞ」と言って安山が帰ってからしばらくしてのことだった。


 葉月が持ってきたスウェットは私のサイズにぴったりだった。路上で着替えることを一瞬躊躇したが、服がボロボロの状態でいることもあまり変わらないことに気が付き、その場で着替えた。


 ボロボロになった私の服を畳みながら葉月が満足そうにこちらを見る。


「うん。よく似合ってるよ」


「そうか。ありがとう」


 スウェットを似合っていると褒められても嬉しくはなかったが、彼に悪気はなさそうだったので頷いておいた。


「にしても物騒になったもんだな。殺人なんて。それも連続殺人だ」


 五郎は口に酒を含みながらそう言った。連続殺人というからには、何か根拠があるのだろう。そう思い私は訊ねる。


「連続というと?」


「確か、前回も絞殺だったろ?」


 私に知る由もなく葉月の方へ視線を向けた。「確かそうだったはず」と彼は頷く。


「それなら尚更、私は犯人であるはずがない。前回の殺人が起こったという日、私はまだここに来ちゃいないんだから」


 そんなこと彼らに訴えても仕方ない。けど、言わずにいられなかった。葉月が落ち着けと言わんばかりに手を突き出す。


「佐々木が犯人じゃないことは分かってるよ。安山も言ってたろ。手の傷のせいで殺せないって」


 幸か不幸か、手首を痛めたおかげで命拾いをした。記憶にない傷に感謝するのは不思議な感じがする。「それにだ!」と葉月が語気を強めた。


「僕は、須崎すざきが怪しいと思うんだ!」


 それは推測というよりも願望に近いニュアンスだった。何か確信めいた推理が働いたわけじゃないことは明白だ。


「須崎?」


「そうだ須崎だ。きっとあーいうやつが殺人を犯すんだ」


 ふーん、と私は適当な相槌を打っておく。詳しく聞いたところでろくな返答は期待できそうもない。それよりも理不尽な暴力を振るってきた警官への苛立ちがこみ上げてきた。


「……それにしても、あの警官は本当に捜査をしているのか? 一昨日と今回の殺人に類似点があったなら誰だって同一犯を疑うだろ? それを私だと決めつけてこんな暴力を」


「捜査をしているかどうか怪しいところはあるよ。そもそも事件なんて滅多におこりゃしないし」


「滅多に起こらないからと言って適当なことをしていい理由にはならないだろう」


「それはそうだけどさ」


「よくあんなのに警官をやらしているな」


「仕方ないよ。あれが彼の仕事だから」


 お決まりの台詞だ。これを言われたら、泣き寝入りするしかない。その言葉を聞いて、自然と私の怒りは収まっていた。


 話に飽きたのか、五郎と葉月は帰って行った。それに入れ替わるように、どこからともなく久瀬が現れた。


 彼は今日も綺麗なスーツを来ている。相変わらず顔は狐にそっくりだ。


「どうしたんだ佐々木? 顔に傷が出来てるぞ」


 私の顔を見るなり彼は痛々しく顔を歪めた。


「警官にやられたんだ」


「あぁ……」


 久瀬は納得して「そうか、それは災難だったな」と言った。


「災難? そんな言葉で済ませてほしくないな。殺人犯に間違え……いや殺人犯だと決めつけてかかってきたんだ」


「ごめん、ごめん」


 心のこもっていない謝罪を口にする。それから「まるでボクサーみたいだな」と言った。


「ボクサーは知っているんだな」


「失敬だな。ボクサーくらい分かるさ」


 タクシーを知らなかったくせに、と私は心の中でぼやく。口では「私がボクサーならもっと上手く反撃してたさ」と気の利いたことを言っておいた。


「警官に手を上げるのは利口ではないね。そこで別の罪に問われそうだ」


「確かにそうかもしれない」私がボクサーじゃなくてよかった。


「なにはともあれ、彼は一度決めつけたらそうだと信じこむ嫌いがあるからね。災難だったのは同情するよ」


 私が少し不機嫌になったことなど気にする素振りもなく、久瀬はすぐに声を明るくした。


「それよりだ。佐々木、朝ごはんは食べたかい?」


「あぁ、昨日の残りだったけど」


「そうか。もうそろそろ在庫はなくなりそうかな」


「そうだな……」


 私は冷蔵庫の中を思い出す。確か、おにぎりがいくつかあっただけだ。消費期限は過ぎているだろうけど、一日や二日どうってことない。カップ麺も確か二つほどあっただろうか。


「まだ少しだけ残ってるよ」


「うーん。さすがに今日もてばいい方かな。僕はまだ朝ごはんを食べてないし。佐々木は料理できる?」


「まぁ人並みには」


「そうか。それじゃ適当に食材を持っていくよ。さすがにコンビニ飯だけじゃ飽きちゃうよ」


 もしかして、久瀬は今からあの診療所に朝ごはんを食べに行くつもりなのだろうか。昨日は朝も夜も一緒に食べた。今晩もあそこに来るつもりだとすれば、彼は私に晩ごはんを作らせようとしているのか。


 そう思ったが、材料費はすべて彼の負担だ。ご飯を作るくらいしてもいいのかもしれない。


「久瀬は今からどうするんだ?」


「僕は君のとこで朝ごはんを食べてから仕事さ」


 やはりあそこで朝ごはんを食べるらしい。


「仕事?」


「そうだ。仕事だ」


 彼は勤勉だなぁ、と私は感心する。私の世話に飽き足らずに、彼はいくつも仕事を掛け持ちしているらしい。


「どんな仕事なんだ?」


「どんなって言われると難しいな。須崎って人のところへ言って、荷物を受け取る。それを運ぶんだ」


 簡単に言えば、宅配や郵便なのだろう。私がそう言うと、「タクハイ?」と久瀬は首をかしげた。人の荷物を運んであげる仕事だ、と説明してから、須崎という人の話を葉月がしていたことを思い出す。


「そう言えばさっき、葉月が須崎って人のことを話してたよ。あいつが殺人犯なんじゃないかって、決めつけてた」


 あー、と久瀬が喉を鳴らす。「葉月ならそう言いそうだ」と。


「須崎は殺人をするような人なのか?」


「うーん。須崎はそんなこと出来るたまじゃないと思うよ」


「それじゃ、なんで葉月はあんなことを?」


「葉月は須崎を恨んでるからじゃないかな」


「恨み?」


 殺人の動機っぽい響きに少し寒気がする。今回の事件に直接関係はないだろうけど、事件のあとにそんな言葉を聞くのはあまりいい気分ではない。


「あぁ。好きだった女を取られたんだ」


 その寒気はすぐに収まった。いや、人が人を殺めるのに十分な動機なのだけど。見た目が幼い葉月が、そういう感情を抱いていることが愛らしく思えたせいだ。


「佐々木も来るかい? タクハイのお手伝い」


 どうしようかと迷ったが、私は久瀬に着いていくことにした。一人になるのが心細かった。またあんな目に遭うのはゴメンだ。


 *


「須崎っていうのはどんな人なんだ?」


 商店街を抜けて、長い畦道を歩いていく。左右どちらを見渡しても一面田圃だった。久瀬の足取りは、ちょうど私が夜道をずっと歩いていた時に山の方に見えた大きな屋敷の方へ向かっている。 


「須崎は政治家だ」


「政治家か」


「佐々木は、政治家は好きかい?」


 何気なく聞いてきた久瀬に、深い意図はないのだろうけど、センシティブな質問だと思った。素直に答えれば、無関心ではいられない事柄に好き嫌いもないと私は思っている。就職活動は好きか聞かれているようなものだ。だけども、関わらずに済むなら越したことはない。


「好きという言葉は政治家に向けて使うべきじゃないと思う」


「それもそうかもしれない。じゃあ聞き方を変えるよ。政治に興味はあるかい?」


 興味がある。と答えたところで、到底、久瀬が難しい政策について話し出すとも思えなかったので、「ないこともないかな」と曖昧な返事をしておく。何か話したい話があれば、どうぞお好きにというメッセージを込めてだ。


「珍しいね。佐々木はまだそれなりに若いだろ?」


「それなりにだけどな」


 二十八という年齢は、三十間近と捉えるのか二十後半と捉えるのかで、随分印象は変る。少なくとも私は三十間近だと現実に追い詰められ役者の道を諦めたのだ。


「僕らの町では若者の政治離れが問題になってるんだ」


「政治っていうのは、おおよそ若者は興味がないものなんだよ」


「でも佐々木は興味なしってわけじゃないんだろ?」


「言い訳だよ。いつか次の世代に咎められた時に、私はちゃんとしていたっていうポーズを取りたいだけなんだ」


「ふーん。佐々木って意外と賢いんだ」


 意外という言葉は侵害だ。だが、自身を賢い方などとは思っていないので、そこまで怒りは湧いてこない。この考えは父が言っていた後悔しないための生き方として正しいのか甚だ疑問だが。


「政治には関心を抱いた方が良いのかな?」


「まぁ、あんな警官を警官としているうちは改革が必要じゃないかな」


「そうかもしれない」


 久瀬は呑気にそう言って、口笛を吹き出した。そのメロディは私の知らない曲だった。 


 須崎の家は、やはり昨日の夜に見えていた屋敷だった。立派な石垣は過去にかなりの財を成し遂げた家系にしか作れないものだろう。大きな門の横についた呼び鈴を鳴らし、久瀬は返事もないうちに入っていく。「勝手に入るのか?」とき聞けば、久瀬は「呼び鈴は鳴らしたさ」と答えた。


 玄関の方へ行かずに、久瀬は庭の方へと回った。大きな池には無数の鯉が泳いでいて、縁側の隅で風鈴がリンリンと涼しげに鳴っている。雨戸を開けながら、女性が顔を出した。歳は私より若く見えた。葉月と変わらないくらいだ。


「あら、久瀬さん」


「こんにちは」


「もうそんな時間だったんですね。うっかり準備を怠ってました。少しお待ち下さい」


 そう言って、奥へ下がろうとしてところで、彼女は久瀬の後ろにいた私に気がついた。見ない顔だと目を丸くする。それに気づいた久瀬が答えた。


「こっちは佐々木。安山が連れて来たんだ。暇だからお手伝いをしてくれいるんだよ」


「あぁ、お手伝いですか。それはご苦労さまです」


 丁寧に頭を下げて、彼女は奥へと消えていった。物腰が柔らかく清楚で綺麗な人だ。葉月の取られたという人は彼女なのだろうか。そうなら葉月が悔しがるのも頷ける。


「葉月が取られたっていうのは彼女?」


 あまり大きな声で訊くわけにもいかず、私は久瀬に耳打ちをする。


「そうだ。小さい頃からずっと好きだったらしいんだけど、須崎に目をつけられちゃ仕方ない。表向きは両思いだと言ってあるが、半ば強引な結婚だったそうだ」


「強引というと?」


「須崎の家は地主でもあるんだ。彼女の家は代々、須崎のところから土地を借りていてね。そこの賃料やら何やらと、結婚を断れないように仕向けたらしい」


 恋恨みというのはどうも理解し難いと思っていた私も、その話を聞いて葉月に同情の気持ちが湧いてきた。こういう類の話は他人のことでも聞いていて気持ちの良いものではない。


「須崎って人はあまり尊敬出来ないやつなんだな」


「少なくとも葉月にとってはそうなんだろうね」


 久瀬が肩をくすませたところで、縁側から「いやー、すまん、すまん」と低い声が聞こえて来た。


 顔を出したのは、五十過ぎの男だった。


「構わないよ、須崎」と久瀬が言ったので彼が須崎らしい。


 先ほどの女性の旦那と思えば歳を喰っていると思うが、政治家だとするなら若い方だろう。着流しに髪はボサボサだが、ひげは綺麗に処理されていて清潔感のある男という印象を受けた。卑劣な行為で女を自分のものにするような外道には到底思えない。


「私も妻も時計を見間違えていてね。これが今日の分だ」


「時間に余裕はあるよ。確かに受け取った」


 須崎が久瀬に手渡したのは小箱だった。小箱の上には、ちょこんと一冊の絵本が乗っている。


「絵本の方は、今日も栗田くりたのか」


「もちろん。彼がこの町で一番優れた絵本作家だ」


「それは違いないね」


 久瀬がちらっと、納屋の方を見遣った。庭が広すぎてあまり良く見えないが、山積みにされた薄い書籍と焚き火のあとが残っている。久瀬の視線に気づいたのか、須崎が困ったように眉根を八の字にして溜息をもらした。


「彼はどうもくどくてね。気がつけばあんな数になってしまった。いくら突き返しても聞いちゃくれないんだ」


「取り合ってあげればいい。満足するんじゃないか?」


「彼を満足させるのは私の仕事じゃないだろ」


「そうかもしれないけど」


「それに私はすべてのものをフェアに見ているからね。駄作な絵本は駄作としか評価できない」


 彼の言いっぷりは立派な評論家だ。肥えた自分の目に余程の自信があるらしい。そこにはきっと裏打ちされた確固たる理由があることだろう。山積みにされた本は、誰か別の人が描いた絵本なのかもしれない。


 私には絵本を見定める力などないので、小箱の上に置かれた絵本を手に取って読んでみるなんてことはしないが。読んだところで「これは素晴らしい作品だ」と訳知り顔で同調することしか出来ないからだ。価値も分からないのに評論家気取りで批判するのは、あまり性格の良いものだとは思えない。


「それじゃ、運んでおくよ」


「あぁ。また明日もまたよろしく頼む。あぁそれとまた殺人があったそうじゃないか。君たちも気をつけるんだぞ」


 軽くお辞儀をして庭をあとにする。玄関では須崎の奥さんが丁寧に見送りをしてくれた。



 *



 来た道を戻り、今度は商店街を越えて逆の道を進んでいく。建っている家はまばらになっていき、次第に舗装されていない道になった。


 明らかに人が住んでいる様子のない方へ向かうものだから、「どこにその荷物を運ぶつもりなんだ?」と久瀬に訊ねてみる。


「この荷物は少女のところへ運ぶんだ」


「少女のところだって?」聞き間違いかと思った私の眉間に皺が寄った。


「そうだよ」


「いや、少女は死んでしまったんだよな?」


「そうだね」


「だったら、どうしてわざわざ運ぶんだ?」


 問いかけながら、これは少女への供え物なんだ、なんて答えを私は期待していた。亡くなった少女のために絵本を届ける、素敵なことじゃないか。たとえ須崎は政治的なパフォーマンスでやっていたとしても、運んでいる久瀬に心があれば少女だって浮かばれるんじゃないだろうか。だけど、そんな私の期待を他所に久瀬はお決まりの言葉を口にした。


「そういう決まりなんだよ」


 またこれだ。いい加減その言葉に私がうんざりしていることに気づいて欲しい。


「昨日も久瀬はこうやって荷物を運んでいたのか?」


「あぁ」


 私は呆れを通り越して怒りを感じた。昨日の森川もそうだが、少女が死んでいるというのに彼らは淡々と仕事をこなし過ぎている。この状況が異常だと誰も思わないのだろうか。仕事だからと与えられた役割に疑問を持たない。少女の弔いをすることはないのだろうか。いなくなってしまった悲しさを誰も感じていないのだろうか。


 おかしい、君たちは間違っている! そう口走りそうになった。私の口が開くよりも僅かに早く、久瀬が言葉を発する。


「でも気は進まないんだ」


 それは期待していたはずの言葉だったのに、私の心は満たされなかった。ただポッカリと心に穴が空いたように虚しくなる。さっきまで少女の死を悲しめと責めていたはずなのに、彼に少女の死を憂いる心があると知り、今度は、君は気にする必要はないと思い始めている。


「でも、少女はその絵本を喜んでくれるんじゃないか?」


「だけど、僕らが奪ったんだよ」


 それは久瀬に初めて会った朝、彼が言っていた言葉だった。「それは命のことか?」なんて的はずれな気がして訊けなかった。確かに会話の流れ的に、命のことを言っていたのかもしれない。だけど、責任を感じて、そう言っているなら、「命を奪ってしまったんだ」というはずだ。


 それに最初の日に、「何を奪ったんだ?」と私が訊ねると、彼は「分からない」と答えた。久瀬は時折、常識的なことを知らないおかしなやつだが、明確に奪ったものがあるなら、それが分からないほど馬鹿じゃないはずだ。きっと抽象的な何かなのだろう。


 それに彼の言葉には後悔が宿っている気がした。『後悔をしないように』そんな父の言葉を思い出す。久瀬は少女から何を奪ったと後悔しているのだろう。


「奪ったものは大事なものだったのか?」


「分からないけど、僕らも昔は持っていたものだった気がすんだ。だけど、僕らは失くしてしまった、だから何を奪ったのか分からないんだ」


 久瀬の荷物を抱える腕に力が込められた。それを見て、私は何も言ってやれなくなった。傷心の男にかけてやる気の利いた言葉を私は持ち合わせていないのだ。


 気がつくと私の中にこみ上げていた怒りは、しゅんと鳴りを潜めていた。そもそも、あの怒りは身勝手極まりないものだった。知らない町の知らない少女に対する同情を、怒りにすり替えていただけなのだ。愚かなことだったと、心の中で自嘲する。


 しばらく歩いたところで、小高い丘に差し掛かった。丘の頂上まで続く緩やかな坂道の脇には、たくさんの向日葵が咲き誇っていた。私の胸元ほどまである花々たちが、まるで青い空の彼方まで続いているように見えた。


「ここは綺麗なところだな」


「外から来た人の中には、今の君みたいに言う人がたまにいるよ」


「たまになのか」


「君の前に来た医者は、そんなことこれっぽっちも言わなかったね」


 あまり景色に感動する方ではないが、雄大な向日葵畑に私は心を踊らせていた。この景色を見て、「綺麗だ」と思わない人がいることを不思議だと思うくらいには。


「久瀬はこの景色を綺麗だと思わないのか?」


「どうだろう。以前は思っていた気がするよ。だけど今は普通かな」


 ここに住んでいる人からすればそんなものかもしれないな、と私は思った。緩やかな丘の頂上が、まるで地球の果てのように見える。小さな惑星に降り立ったような気分だ。どこまでも続く黄色い絨毯の上を寝転がりたい衝動にかられたものの、大人気ないことはよせと理性が止めてきた。

 


 丘の上に建てられた少女の家は、綺麗な庭がある美しい洋館だった。だけど、豪邸というにはあまりにも小さい。オレンジ色の屋根と白い木目調の壁、テラスには子ども用のロッキングチェアが静かに佇んでいた。


 庭一面に咲き誇った紫陽花とトケイソウの花をかき分けて、久瀬は真っ直ぐに庭先に生えていた一本の木の方へ向かった。ちょうど、木が立っているところが丘の頂上になっている。


「ここは余計なものが何もないんだ」


 久瀬の呟きがそよ風に流されていく。それは独り言だったのだろう。彼はこちらの反応を気にする様子はなかった。


 木の下には数冊の絵本とおもちゃが並んでいた。直感的に、ここがそうだったんだと私は気がつく。緑の生い茂る梢から覗く青い空がやけに虚しく美しく思えた。久瀬が余計なものが何もないという理由もなんとなく分かる気がする。


「三日前だったっけ」


「そうだよ。今日みたいに綺麗に晴れた昼過ぎだった」


 久瀬は木箱から人形を取り出し、絵本と一緒に木の脇に並べた。倒れていたおもちゃも丁寧に起き上がらせる。それから彼は静かに手を合わせた。


 私も一緒に手を合わせた。心地よい風が丘を吹き越えていく。さわさわと揺れる花たちが、青い匂いを運んできた。それは生きているものたちの匂いだ。燦々と降り注ぐ陽の光を浴びて、命を燃やしている生き物の匂いなのだ。


 久瀬が顔を上げて、唇から生ぬるい息を吐く。


「あの一番太い枝からだ」


 久瀬が木を見上げた。指は差さなかったが、どれかはすぐに分かった。


「飛び降りたのか?」


「ううん。首を吊っていたらしい」


 らしいということは、久瀬は直接見ていないのだろう。だけど、彼の瞳にはその時の光景が今まさに映し出されているようだった。堪えきれなくなったように、久瀬は言葉を発する。


「苦しかったろうな」


 久瀬の言う苦しいは、首を絞めつけられ息が、という意味ではないはずだ。少女は息が出来ない苦しさの方が幾分かマシだと思ったはずだから。彼女が死に至るまでの苦しみを感じているに違いない。久瀬は感性が豊かなんだろうな。その光景と息の出来ない苦しさは想像できても、私にはそれを超え、死を選ぶほどの苦しさは想像できない。


「余程のことがあったんだろう、」


 それでも幼い少女が自ら命を絶ったという事実は私の胸を打った。現場を見せられれば尚更だ。幼い少女が自ら縄をこしらえる光景など想像するだけがひどい気分になる。


「幼い子が自分の首に縄をかけるなんてな」


「縄?」


 空を見上げていた久瀬の顔がこちらに向く。細い目が僅かに開いた。真上から僅かに傾き出した太陽が、大きなちぎれ雲に隠れて花畑に影を落とす。


「そうだ縄だ」


「縄ってなんだよ」


「縄は縄じゃないか」


「説明になってない」


 君に言われたくないさ、と言いかけて、私は両手を前に突き出す。ここで根負けすれば、彼らのことを悪く言った過去の自分に顔向け出来ない。手を丸めて「これくらいの太さで、これくらいの長さだ」と縄を手で表現してみる。


「棒ってことか?」


「棒はしならないだろ。縄はしなるんだよ。それで、何かを縛ったり結んだりするんだ」


 久瀬の首がコクリと六十度ほど傾いた。私は溜息混じりに続ける。


「縛ったり、結んだりを君たちはどうしているんだ?」


「君の言う、縛るや結ぶっていうはどういう意味なんだよ」


 まどろっこしくなって、「縄か紐を持ち合わせないだろうか」と思った私は、ふと足元へ視線を落とす。だけど、私が履いているのも、久瀬が履いているのも紐のないタイプの靴だった。それにベルトも昨日の朝から行方不明だ。


 そういえば、財布やスマホのことを安山に聞くのを忘れていることに気がつく。次に会った時に聞いておかなくてはいなけない。


「……分かったよ。この町には縛るって概念がないんだな」


「うーん。縛るっていうのは、人を自由にさせないってことだよね?」


 そう言われて昨日の久瀬の言葉を思い出した。


 ――彼女を縛り付けてしまっていた。


 縄の概念がなく、どうして自由にさせないことを意味しているのかは理解しかねるが、彼らはそういう意味でしか「縛る」という言葉を使わないらしい。


 縄と紐がなくては生活が不便だろうに。なんてことを思ったが、案外そうでもないのかもしれない。無いなら無いでそれほど困らない。世の中に溢れているものは大抵そうだ。昔はスマホなんてなかったのだから。もちろん初めから、という条件がつくだろうけど。


「それじゃ、僕はこの辺りで」


 そう言って、久瀬が手を上げた。


「どこか行くのか?」


「あぁ。仕事だ」


「本当に勤勉だな」


「よく言われるけど、当たり前のことだろ」


「そうかもな」


「夕方の仕事の準備をしなくちゃいけないんだ」


 まだ警官から受けた暴力への恐怖が身体に残っていて、一人になるのは心細かった。「私も着いていっていいか?」と聞けなかったのは、彼の顔が「これ以上着いて来るんじゃない」という顔をしていたからだ。手伝える仕事とそうじゃない仕事がある。足手まといや邪魔になるのは良くない。それに「怖いから一人にしないでくれ」なんて年下には言えなかったのだ。さらに言えば、こんなところまで誰かが来るとは思えなかった。


 丘を下っていく久瀬を見送る。少しだけゆっくりしてあの診療所へ戻ろう。須崎のところからこの丘まではそれなりに距離があった。久瀬は元気なやつだ。私が疲れてしまったのもあるが、せっかく登って来てすぐ下りるなんてもったいないじゃないか。


 再び太陽が顔を覗かせ、辺りを光で包み込んでいく。私は木の側に腰掛けた。この景色が美しいと感じるのは、ここで少女の命が絶たれたからだろうか。「この木は桜かな?」トケイソウの花に止まったテントウムシにそんなことを問いかけてみる。


 カラッとした風に花々と私の髪が揺れた。さわさわと葉擦れの音が重ねる。それに混じって声が聞こえた。


「この景色はずっと前から美しいよ」


 まさか、と思い私は目を丸くした。腰を曲げて、テントウムシに顔を近づける。青臭い匂いが鼻をくすぶった。驚いたテントウムシが、ばっと羽ばく。

 

「おじさん、そっちじゃない」


 そう言われて、私は振り返る。木の影から、可愛らしい少年がちょこっと顔を出していた。真っ白なシャツに真っ白な短パン。栗色の髪は少しカールして、くりっとした目元を僅かに隠している。背丈は、座った私が目線を少しあげなければいけない程度だ。


「残念だけど、この木は桜じゃないよ」


 少年は、少しだけ表情を暗くして続けた。


「けど。おじさんにとって特別になったのは、あの子の死のせいかもしれないけど」


 おじさんと言われるのが不服だったが、彼くらいの年齢ならばそう思うのも仕方ないと諦める。わざわざ訂正することでもない。


「驚いた。虫が喋ったのかと」


「おじさんって面白いね」


 少年は自分の口元に手を当てて、クスクスと笑いをこぼした。私はカッと恥ずかしくなり、表情に出さないように努めながら大人気ない言い訳を並べていた。


「虫が喋るなんて馬鹿らしいかもしれないけど、それをすんなり信じてしまうほど、私はおかしな出来事に巻き込まれているんだ」


 少年はかぶりを振った。


「ううん。別に虫が話すことをおかしいなんて思っちゃいないよ」


「面白いって言ったじゃないか」


「それはおじさんが他の人じゃ言わないようなことを言ったから」


「他の人って久瀬とかか?」


「うーん。あの人もたまに面白いこと言うこともあるよ。そうじゃない人たちだよ」


 私はこの町の住人を何人も知っているわけじゃないので、個人を羅列することはしなかった。それに久瀬が面白いところがあることは納得する。おかしなところかもしれないが。


「おじさんは町の外から来たんでしょ?」


「そうだ。安山って人に連れてこられたんだ」


「そうやってここにやって来る人の中にも面白い人はいるんだ」


 私は直前に来ていたという医者のことを思い出し、例として聞いてみた。


「私の前に来ていた医者も面白かったのか?」


「うーん。前の人はちっとも面白くはなかったね」


 少年の言う面白さとは、興味深いと言うよりもユーモラスというニュアンスなのかもしれない。私と久瀬にユーモアがあるかどうかは疑わしいが。可愛らしく足を弾ませて駆け寄って来て、少年は私の隣に腰掛けた。


「おじさんはここに何しに来たの?」


 彼の言う『ここ』とは、町か丘か。残念ながら、少女が死んだというのにこの町に連れて来られた理由を私は知らないままだ。


「久瀬の手伝いで来たんだ」


「ふーん」


 あまり興味のない答えだったのか、少年はつまらなさそうに喉を鳴らした。目元にかかった髪を指先にくるくると巻きつけながら、彼は空に向かって伸びる梢をじっと見つめていた。


「そうだ。君の名前は?」


「僕は風太ふうた


「風太か。いい名前だな。風太は何をしにここに来たんだ?」


 お返しとばかりに聞いてみる。


「この景色を見に来たんだよ」


 なんとも素敵な返答だ。可愛らしいその表情に憎ったらしさは微塵もなかった。


「風太はこの景色が好きなのか?」


「うん。きっと、あの子も好きだったんじゃないかな」


 少女が住んでいたという洋館の後ろには、今から世界を飲み込もうとしているような真っ白な入道雲が広がっていた。青空の果てまで続いていく紫陽花とトケイソウ。木の上に登れば、その奥に黄色い向日葵の絨毯まで見えたことだろう。


 この景色の中でなら天国へも行けそうだ。天国や地獄だなんて信じてはいないけれど。ここは天国みたいだと言われて否定するほど、つまらない人間ではない。ここは驚くほど穏やかで美しい。少女がここを選んだのはそういう理由かもしれない。


「私もそう思うよ」


「やっぱりおじさんは面白いね」


 寂しそうに目を細めて、風太はそっと草の生えた地面に手を添えた。


「いつかは僕もそうなるのかな」


「いつ訪れるか分からないことを恐れなくてもいいんじゃないかな」


 それは父の教えに反する言葉だったかもしれない。けど、少年に向かって「いつ死んでも良いように後悔しないように生きろ」なんて咄嗟には言えなかった。


「そうじゃないよ。人には死ぬより嫌なことだってあるはずなんだ」


「たとえば?」


「大人ってすぐに具体的なことを知りたがるよね。そんな人たちには分からないよ。みんな失くしてしまっているからね」


 風太の言葉は鋭さを持っていた。それを理解しないことは悪だと責められている気がする。


「だけど、君もいつかは大人になるだろ?」


「そうなんだろうね」


 風太は自分の膝を抱えた。そこに顔を埋める。かすかな彼の呼吸がそよ風のように聴こえた。大人が失くしてしまったもの。それはあまりにたくさんある。私が大人になろうと決めたのはついこの間のことだ。


「私にも風太の気持ちは分かるよ」


「どうだろう。僕の気持ちを分かってくれるのは、かえでだけだから」


「楓? 風太の友達か?」


「そうだよ」


 顔を腿に埋めたまま風太は頷いた。白いズボンのお尻で緑がすり潰されている。それは植物たちの血液だ。そして、この植物たちはここで首を吊った少女の命をその根から吸い取ったのだ。だから美しいのだろう。


 風太が立ち上がった。その目には光るものがあった。恥じらいもなく目元を拭い、くしゃっと笑みを浮かべる。


「じゃあね」


 私は彼に手を振り返す。あまりに軽やかに花畑の中を駆けていく白い少年の背に、翼でも生えるんじゃないだろうか、と私は目をこすった。



 風太が丘を下って行ったあと、陽だまりに包まれた気持ちよさから寝転んでしまい、私はそのまま眠ってしまった。目を覚めるとすっかり夕暮れだった。綺麗なオレンジが丘の向こう側へと沈んでいく。涼しい風が花畑を揺らす。草花のざわめきは、夜が迎えに来たことを私に知らせてくれたのだろうか。座ったまま身体を伸ばし、大きなあくびを漏らした。早く戻らなくては。夜は出歩くなというルールを守らなくては、またおかしな疑いをかけられかねない。


 トボトボ、と歩いていると完全に日は暮れてしまった。それでも私が急ぎ足にならなかったのは、町の方へ戻れば、まだ出歩いている人がいたからだ。夜と言っても出歩いちゃいけないのは夜中だけなのだろう。それなら何時から何時までだと教えてほしい。教えてもらったところで、私に時間を確認する術はないのだけど。


 商店街の近くまで戻ってくると、入り口近くに屋台が出ているのが見えた。赤い提灯が一気に喉の乾きを誘う。久瀬は診療所で待っているだろうか。食材を買ってくるとは言っていたが。ゆらゆらと揺れる赤い誘惑に負け、私は屋台へと近づいていく。


「どうせ殺すなら栗田にしてくれれば良かったんだ」


 私が暖簾に手をかけようとしたところで、そんな声が聴こえてきた。声の主を私は知っている。五郎だ。その隣には葉月が座っていた。私は思わず、暖簾から手を引く。


「そんなこと言うもんじゃないよ」


「だけどよぉ葉月……おりゃもう……」


「五郎は頑張ってるって」


 そう言って、葉月が五郎の背中を擦った。酒を一気に煽った五郎が、潰れるようにテーブル伏せる。


「もう、お酒は程々にしないとだめだよ」


「今日も断られたんだ」


「毎朝持っていってるのかい?」


「諦めきれないからな」


 葉月が溜息をこぼす。五郎は首だけを葉月の方に向けた。話を聞いてしまったことが後ろめたく、気づかれてはいけないと私はゆっくりと後付さりをする。


「そう言えば、今夜はお前の番だろ?」


「……あぁ、そのことか」


「確かお前には初めて回って来たんじゃなかったか?」


「そうだね。でも僕はいいよ……」


「本当にお前さんは一途なロマンチストだな……」


 会話は徐々に聞こえなくなっていった。



 *



 診療所に戻ると玄関で久瀬が仁王立ちで待っていた。「遅いじゃないか」まるで門限を破り母に怒られている気分だ。腰元に手を置いて、久瀬はこちらをじっと睨んだ。


「ずっと待ってたんだぞ」


 待っていてと頼んだ覚えはないのだけど。


「ちょっと、丘の上で昼寝をしてしまったんだ。目覚めたらすっかり夕方で」


「昼寝か。まぁ、あそこは気持ちのいいところだからね。それに今日は須崎のところに行って丘を登って。疲れたろうね」


 なら仕方ない、と久瀬は溜息をこぼした。久瀬は時々、聞き分けが良すぎて拍子抜けする。台所の方へと向かい、冷蔵庫の扉を開けてこちらを向きニッコリと狐に似た顔を笑顔に変えた。


「さぁ食材は買ってきたよ!」


「私が君の分も作るのか?」


「もちろんだよ。作れるって言ったのは君じゃないか」


 なら仕方ない。私は渋々、夜ご飯の調理を始めた。 





★少女


 アタシはその日も少女の元へ行ったわ。


「良かった今日も来てくれた」


「約束したからね」


 少女は嬉しそうに身体を弾ませて、部屋の中を飛び回っていたわ。スカートがめくれ上がるから「駄目だよ」なんて注意して。すると少女は少しだけ恥ずかしそうに裾を抑えて、頬を膨らませたの。


「お姉さんになら見られてもいいもの」


「そんな風に思っているとそのうち誰に見られてもいいって考えになっちゃうよ」


「ならないもん」


「そういう風になっちゃうんだけどなぁ」


 肩を竦ませたアタシに、少女は顔を曇らせて少しだけ目を潤ませた。「絶対にならないよ」って。


「ほら、今日は何して遊ぶの? ユキちゃんと三人で遊ぼうか?」


「ううん。今日はユキちゃん遊びたい気分じゃないんだって」


「そう。それじゃどうする?」


「うーん」


 少女は喉を鳴らしながら、キョロキョロと部屋の中を見渡した。部屋の中には、たくさんのおもちゃで溢れていた。積み木にお人形、蒸気機関車の模型にクッキングトイ。どれも新品みたいに綺麗で。たくさんあるおもちゃを前に少女は指を咥えて迷っていた。


「ほら、絵本を読むっていうのはどう?」


「お姉さんが読んでくれるの」


「そうよ。アタシが読むのは駄目?」


「ううん。嬉しい。私、人に絵本を読んでもらうのは初めてなの」


 部屋には絵本もたくさんあった。山積みになった絵本の中から、アタシは適当な一冊を手に取る。


「それじゃこれを読んでみようかな」


 アタシは頁をめくり、少女に絵本を読み聞かせた。だけど、少女はあまり楽しそうじゃなくてね。木馬に腰掛けながら、足をブラブラと揺らしていた。


「ねぇ、お姉さん」


 アタシは絵本を読むのをやめる。


「なに?」


「その絵本つまらないよ」


「そう? ちょっとお話が難しいのかしら」


 少女は何度か首を横に振った。瞳には複雑な感情が渦巻いているように見えたけど、それを言葉にできないのね。とってももどかしそうだった。木馬から降りたかと思えば、こっちに駆け寄って来てアタシから絵本を取り上げたの。


 アーモンドの形をした目が、アタシを見つめてこう言った。


「もっと楽しいことをしよう」


「もっと楽しいこと?」


「うん! そうだ……、お姉さんのお話を聞かせて」


「アタシの話?」


「そう。私はお姉さんのお話が聞きたい」


「アタシのどんな話が聞きたいの?」


「うーん。それじゃ、私と同じくらいの歳だった頃の話が聞きたいな」


「あなたくらいの頃のアタシ?」


「うん!」


 少女の目があまりに輝いていたから、アタシは話してあげることにした。だって、今のアタシなんかの話より何倍もいいでしょ? 今のアタシの話は少女には出来ないもの。



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