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一章

 終電を逃したのは、友人と風俗に行ってしまったからだ。酔った勢いで、入ったピンサロ。普段はそんなところへは行かないのに、就職祝いだと友人にそそのかされてしまった。今思えば、一時間待ちと宣告された時点で「付き合いきれない」と帰れば良かった。


 しかし、酩酊していた私に的確な判断など出来なかったのだ。そこから二時間後、ことを終えた私は、時を同じくして店から出てきた友人と別れタクシーに乗った。普段から百数十円で移動できる距離を、何千円も払って送迎車に乗るのなどバカバカしいと豪語していたのに。


 大阪市内では珍しくカラフルな車体のタクシーだった。若干違和感を覚えたが、手を上げたら止まったので、それはタクシーだと私は疑わなかった。それから私はきっちり運転手に目的地を告げたはずだ。どれだけ酔っていたとしても、自宅の住所を間違えるわけがないから。


 流れ行くミナミの風景、うるさいくらいに明るいネオン街を抜けて、しんと静まり返った四ツ橋筋(よつばしすじ)へと車は抜けていく。酒を呑みすぎたせいか、ことを終えて体力を奪われたせいか、景色を眺めているうちに私の瞼がずっしりと重くなっていった。


 そして、そこからとんと記憶がない。


 目覚めたのは、十分ほど前だ。腕にしていたはずの時計がなく時間経過は私の体感でしかないのだが、充分にそれくらいは経過しているはずだ。やけに軋むベッドの硬さと鼻をかすめた馴染みのない消毒液のような匂いに違和感を覚え、私は飛び起きた。


 目に飛び込んできた景色は全く知らない部屋だった。


 十畳ほどのワンルームだ。同時に、私は病院のようだとも思った。消毒液の匂いのせいもあるだろう。それも立派なものではなく田舎の診療所みたいだった。木製の棚には、ちょっとした医療器具と小瓶に入った薬が並んでいる。


 その他にこの部屋にあるものと言えば、自分が今横になっているベッドの他は診療所には似つかわしくないものばかりだ。ダイニング用のテーブルと椅子、うるさいくらいに音を立てた一人暮らしサイズの冷蔵庫、それに古めかしい雰囲気の台所だ。テーブルにはご丁寧にランチョンマットが敷かれていた。


 誰かが使っている雰囲気があった。診療所として機能しているのかもしれない。だとすれば私は運び込まれたのだろうか。酔いつぶれて介護されていたのなら仕方がない。


 申し訳程度に点いていたオレンジ色の豆電球が、カーテンのない窓から差し込む太陽の陽でその役割を果たせていなかった。


 目覚めてから私は、冷静にことの成り行きを思い出そうと試みていた。やはり、あのタクシーが怪しい。いや、こうしてこんなところへ運ばれたのだから、タクシーじゃなかったのかもしれないが。


 そこへ乗ったまではおぼろげだが覚えている。残念なことに酒の残った頭をフル回転させても運転手の名前や顔は全く出てこない。


 頭痛で重たくなった頭を抱え、思い出したのはどうしてか半年前に亡くなった両親のことだった。


 警察の話によれば空き巣だったらしい。普段は二人が家を空けているはずの時間を狙った空き巣は、たまたま居合わせた両親と鉢合わせになった。普段は男気なんてないはずの父が、母を守ろうと空き巣に応戦したらしい。空き巣に殺す意思はなかったらしいが、父に威嚇されたものだからかっとなり、空き巣から殺人鬼へとその罪を重くした。


 これほど詳細に状況が分かっているのは、無事犯人が掴まったからだ。二日間という短い逃走劇だった。人を殺めてしまったという罪から逃れることが出来ずに自首をしてきたらしい。


 思えば、私は三十手前まで好きにやって来た。親の金で大学まで行き、就職もせずに売れない役者を六年続けてきた。自分の才能に限界を感じたのは、劇団に入って一年ほどしてからだ。それなのにダラダラと続けてしまった。親の死をきっかけにしなければ現実と向き合えなかったのだ。別にスネをかじっていたわけではない。独立していたし、生活費はバイトでちゃんと稼いでいた。だけど、両親に対して何も親孝行出来なかったのが悔やまれる。


 殺人と役者をやっていた自分を比べるのはおかしいかもしれない。だけど、二日で己の罪を認めた男よりも罪深いとさえ思えてくる。根っこにある本質は同じなのだ。私も現実から逃げ続けていた。


 そうして、ようやく就職したというのにこの状況だ。


 玄関の方でガチャっと音がして、私はとっさに身構えた。武術なんて会得していないので、不格好なものだったのだろう。玄関から入って来た男は、こちらを見るなり親しみ深く口端を持ち上げた。


「良かった目覚めたかい」


 男はそう言い、ズケズケと部屋の中に入って来て、こんもりと膨れた買い物袋を机の上に置いた。袋の中に詰め込まれた商品が雪崩のように袋から溢れ出す。


「何が好みか分からなかったから色々買ってきたんだけど」


 と男は機嫌よく続けた。私は首を傾げながら問いかける。


「ここは君の診療所か?」


「いや、違うよ」


「君は医者じゃないのか?」


「僕は医者じゃない」


「それじゃ君は?」


 私がそう訊ねると、男は不思議そうな顔をして小首を傾げた。歳は私よりも少し若いくらいだろう、二十代中盤くらいか。狐みたいな顔立ちは男にしては綺麗だと形容できる。それにスーツを着ていた。少し高級そうなものだ。高級スーツと田舎の診療所。あまりに似つかわしくない組み合わせに、私は思わず笑いがこみ上げそうになった。


「僕は久瀬くぜだよ」


「いや、そうじゃなくて」


 訊ねたのは、名前が気になったからじゃない。そう言おうとしたところで、男が持ってきた袋が見慣れないデザインであることに気がついた。


「それは?」私は机に転がったコンビニのおにぎりを指差した。


「おにぎりだ」久瀬という男はあっけらかんと答える。


「だから、そうじゃなくて」


 どうも久瀬とは話がうまく噛み合わない。こちらが現状に困惑しているせいで言葉足らずなのか、向こうの汲み取る能力が低いのか。恐らくどっちもだ。


「どこのおにぎりなんだ」


「向かいのコンビニだよ」


 彼との会話は一歩ずつしか進まない。それが無性に腹立たしくいじらしく思えた。


「向かいのコンビニって言うのはなんて名前の店なんだ」


「おかしなやつだなあ。コンビニはコンビニだよ」


 そう言って、久瀬はおにぎりをこちらに投げ渡してきた。三角むすびが綺麗な放物線を描き、私の手元へ落ちてくる。おにぎりが手の中に入って来た時、ズキッと鈍い痛みが走った。どうやら酔っている間に手首を痛めてしまったらしい。見れば少し赤く腫れていた。


 そのパッケージは、スーパーで売っているおにぎりのように簡素なデザインで、メーカーなどは書かれていなかった。


「もう昼過ぎだよ。流石に腹は空いているだろ? おにぎりが嫌いならサンドイッチもあるけど。飲み物は水がいいかいお茶がいいかい?」


 そう言われて、ひどく喉が乾いていることに気がついた。昼過ぎと言っていたので、最低でも十二時間程度は何も飲んでいないことになる。無論、腹も空いていた。水をくれ、と言うとこれまたペットボトルが放物線を描いた。今度は痛みのない方の手で、上手くキャッチする。


「なぁ、ここはどこなんだ」


 分からないことは一つずつ聞いていくしかないように思えた。身体全体に染み渡っていく水が、酒に侵された意識を活性化させる。潤った脳は、ただ冷静に今の状況を知りたいと訴えかけてきたのだ。


「ここは二段坂にだんざかだ」


 聞いたことのない地名だった。少なくとも大阪市内ではないはずだ。久瀬は、カップ麺の包装を剥き始める。


「二段坂? それはどこなんだ」


「二段坂は二段坂だ」


 久瀬とのやり取りは、しっかり一歩一歩丁寧に歩もうと心に決めた。今は何か情報が欲しい。


「そうじゃなくてさ。大阪府のどこだとか、兵庫県のこの辺りだろかあるだろう?」


 久瀬は申し訳なさそうな顔をして、眉根を下げた。スーツを着ているせいか、その表情はとても紳士的に見える。


「すまない。よくわからない」


「よくわからないって、ここは日本なんだろ?」


「あぁ、日本だとも」そう自信を持って答えるくせに、都道府県が分からないと言われるとこっちも反応に困る。彼は少しだけネクタイを緩めると、蓋を空けたカップ麺を持って台所の方へ向かう。流し下の収納からヤカンを取り出すと、蛇口をひねって水を注いだ。


「それじゃ、私をここに連れて来たのは君か?」


「いいや、僕じゃない」


「じゃ、誰が私をここへ?」


「君をここへ連れて来たのは安山やすやまだ」


「安山っていうのは誰なんだ? そいつが医者なのか?」


 ガスコンロが、チチチと音を立てた。久瀬は腰をかがめて火加減を確認して、またこちらへ戻ってきた。


「安山は、医者じゃない。ただのおじいさんだよ」


「そのおじいさんがなんでまた私をここへ連れ込んだんだ?」


「連れ込んだのは安山じゃないよ」


 どうも返しがまどろっこしく感じる。


「じゃ、誰が連れ込んだんだ」


 久瀬の指が私を指差した。手入れされた綺麗な爪だった。久瀬の見た目からは上品さが伺える。


「その、君だ」


 久瀬は一瞬言葉を詰まらせた。そこで私は名乗っていなかったことに気づく。


「すまない。私は佐々ささきだ」


「そうか。じゃあ佐々木、君だ」


「私が自分で入ったのか?」


「そうだよ」


 残念ながら記憶がない。酔ったせいで自宅と間違えたのだろうか。それとも酔った私は病院を求めていたのか。手首が傷んでいるから、その可能性は否定できない。


「安山っていうのは、タクシー運転手のことか?」


「タクシー? それはなんだ」


 タクシーっていうのは。そう説明しようとしてやめた。知らないなら説明しても無駄だと思ったのだ。


「車は分かるか?」


「車くらい分かるさ。ガソリンで走るやつだ」当たり前だろ、と久瀬は少し眉根に皺を寄せた。


「安山は、その車で私をここまで連れてきたのか?」


「そうだよ」


「どうして?」


「それは安山に聞いてみないと分からないな。その予定はなかったはずなんだ」


 久瀬は両手を広げて肩をすくめた。嫌味も可愛げもない困り顔を浮かべる。


「どうして君はこうして私に食べ物を買ってきたんだ」


「それが僕の仕事だからだよ」


「仕事?」


「安山が運んで来た人の世話をする。それが僕の役割だ」


 久瀬は、ふんと息を荒くして胸を張ってみせた。同時に、台所でぴーっとヤカンが騒がしく鳴り響いた。


★少女


 少女はこんな風に言ってたわ。


『ユキちゃんは私のお友達。とても仲のいいお友達。川辺に行って作る花飾り、ユキに似合うかなって考える。道端で出会ったウサギさん、ユキちゃんに似て白くてとってもかわいいの。空に浮かんでる雲で綿あめを作ったら、きっとユキちゃんは美味しそうな顔をする。


 だから私はユキちゃんの為に色んなところで、色んなものを探すの。似合いそうなもの。好きそうなもの。それをいつもプレゼントするの。


 明日はどこへ行こうかな。明日はどこへ行こうかな。


 それが私の毎日のお楽しみ』


 って。少しだけ寂しそうな顔をしてね。




☆私



 ふにゃふにゃになった方が美味しいからと、久瀬はお湯を注ぐ前のカップにかき揚げを入れた。


「世話って言ったよな」


「うん」と久瀬が頷いた。丁寧な手付きで割り箸を割って、蓋が剥がれないようにカップの上に乗せる。


 行儀よく椅子に座っている彼に対し、私は未だにベッドの上だ。なんとなく気持ち悪く感じて、立ち上がり久瀬の正面の席に座った。


「世話をしてくれるというなら、私を家に返して欲しい。時計やら財布やら全部落としてどうしようもないんだ」


 ジーンズの腰元に手を当てて、もう一度確認してみる。やはりポケットには何も入っていない。手ぶらであったものの、スマホや財布はちゃんとポケットに入れていたはずだ。それにつけていたはずのベルトまで無くなっていた。


「それは出来ないよ」


「どうして?」


 申し訳無さそうな顔をした久瀬は、カップ麺の蓋を剥がす手を止めて答えた。


「僕らはここから出られないから。でも安心してくれ。君は直に出られるよ。いつもそうなんだ。安山が連れてくる人はいつも気がつくと帰ってる」


 気がつくと帰っているということは、勝手に逃げ出していることなんだと私は解釈した。手錠もされていないし縄で縛られてもいない。監禁されているわけじゃないから。それよりも気になったのが久瀬が言った「いつも」という言葉だった。


「いつもというと、私の他にも連れて来られてる人がいるのか?」


「そうだよ」


「この診療所に?」


「あぁこれは君の前に来た人が医者だったからだよ。住み慣れている雰囲気の方がいいと思って」


 医者は病院には住んでいないだろう、そう言うと久瀬は困ったように眉根を下げた。彼にとって医者の居心地のよい空間がこのデザインらしい。


「それじゃ、どうして私はその前の医者と同じなんだ」


「だから言ったろ。君は予定外なんだよ。文句があるなら予約をしてほしかったね」


 冗談らしく久瀬は白い歯を見せた。何が面白いのか分からなかったが、私も一応笑みを返しておいた。


「安山っていうのは今どこにいるんだ?」


「まだ寝てるんじゃないかな。安山は夜型だから。まぁ仕事のせいなんだけど」


 久瀬はカップ蕎麦の蓋を完全にめくる。お望み通りフニャフニャになったかき揚げを、割り箸で潰して、麺をすすった。 


「それにしても妙だなぁ」


「何が妙なんだ?」


 知らないところに急に連れてこられて、スーツ姿の男に馴れ馴れしく話されている現状より奇妙なことがあるものか、と私は心の中でごちた。


「いつもなら、とある少女に会わせる手はずなんだけど」


「少女?」


「そう。向こうの丘の上にある家に住んでる少女だよ」


「どうして私をその子に会わせるんだ?」


「君は会わせないよ」


 確かに久瀬はその予定ではなかったと言っていた。私はサンドイッチに手を伸ばす。遠慮するなと言いたげに、久瀬が袋ごとこちらの方に寄せた。


「安山が連れてきた人間を少女に会わせるんだ」


「何の為に」


「わからないよ。そういう決まりなんだ」


 決まり。分からない。久瀬から何度その言葉が飛び出しただろう。残念ながらカウントはしてない。


「それが決りなら、どうして私はその少女に会わせないんだ?」


「事情が変わってね」


 久瀬は少し声を落とす。すすりかけた麺を湯気立つ汁の中に戻し、彼は箸を置いた。


「事情?」


「あぁ。本来なら君に会わせるはずだった女の子は、死んだんだ」


「死んだ?」


「そうだ。死んだ。一昨日のことだった」


 冷蔵庫の音がやけに騒がしい。久瀬の口から淡々と出た言葉に現実感はなかった。それが見知らぬ少女だったからか。いささかおかしなこの状況のせいか。それでも、一人の少女が死んだという事実は、彼の表情を見る限り間違いないらしい。


「どうして死んだんだ?」


 いやしい興味が湧いたわけではない。ただ返す言葉を思いつかずに、とっさに出た言葉だった。それに、彼が少女に対して言及したそうな顔をしたせいもあるはずだ。


「僕らが奪ってしまったんだよ」


「奪ったって何を?」


「何を奪ったのか……それが分からないんだ」


 ここに来てまた分からないだ。久瀬の綺麗な顔が少し老け込んだように暗くなった。


「ただ、僕らは彼女を縛り付けてしまっていたのかもしれない」


 それは縄なんかで縛るという意味ではないだろうと思った。もっと抽象的なことだろう。だけど、彼の言葉には少女の死因が潜んでいる気がした。


「自殺だったのか?」


「あぁ」


「そうか。それは親御さんも悲しかったろうな」


「いや、彼女に両親はいないよ」


「……そうか、孤児だったか」


「いや、そうじゃなくて。誰も親なんていないんだ」


「親がいない?」


「この町の人は親なんていないんだ」


「それはおかしいだろ。だって――」


 そういうことをしないと人は生まれて来ないだろう。私はそう思い、ふと昨晩のことが過る。酔っていたせいか、はっきりとは思い出せないが、確かまだあどけなさの残る子だった気がする。可愛らしい子だった。


 久瀬は暗い表情を変えないまま、再び箸を手に取った。こちらを見やって、細い目をさらに細める。


「性行為をしないと子どもは生まれて来ない。そう言いたいんだろ? だけどさ、ここではそれはないことになっているんだ」


 質問を続けようと思ったがやめた。どうせ、そういう決まりなんだ、と言われると思った。だから先に言ってやる。


「そういう決まりなのか?」


「そうだ。そういう決まりなんだ」


 分かってきたじゃないか、と言われている気がした。私はサンドイッチの包装を解き、口に含む。シャキリとレタスが口の中で弾けた。酸味のあるトマトの汁が口の中に広がる。


「それにしても佐々木、起きてからずっと浮かない顔をしてるよ。大丈夫?」


 元からそういう顔なんだ、と怒りたかったが、なんせ昨夜の酒のせいで身体が重たい。顔のことはそのせいにしてやろうと思った。


「昨日の酒がまだ残ってるんだ」


「そうか。随分酔っぱらっていたらしいからね。どうだい? 散歩でもしないか? この町を紹介するよ。それも僕の仕事なんだ」


 久瀬は随分仕事熱心らしい。少女が死んでしまい、連れてくるはずじゃなかった私の世話をする理由なんてないだろうに。


 だけど、少し風に当たりたい。ペットボトルの水を飲み干し、「そうしてくれるか」と私は久瀬に頼んだ。



 玄関に丁寧に揃えられていた紐のないタイプの革靴を履き、外へ出る。私がいたその診療所は、小さなバラック小屋の一つだった。舗装されていない砂利道を抜け、通りへ向かう。


 小屋の向かいは久瀬が言っていた通り確かにコンビニだった。見たことのない看板だ。その左右には家が何軒か建っていたが、その間隔は随分ひらいていた。コンビニや家々の後ろには、ずっと畑が広がっていて遠くに見える山まで続いている。


 なんとも長閑な田舎っぽい風景だな、と私は重たい身体をぐっと伸ばした。心なしか空気も美味しい。


 しばらく歩いていると賑やかそうな通りが見えて、私はふいに「商店街だ」と思った。どうも口に出ていたらしく、久瀬が「二段坂商店街だ」と返してきた。それから思いついたように、彼は続ける。


「そうだ。商店街に行って君を紹介しよう。そうでもしないと仕事がないからね」


「そこまで無理に仕事をしなくてもいいんじゃないか?」


「駄目だよ。仕事はしなくちゃいけないんだ」


 散歩をすることに同意してしまった手前、拒否をする理由は思いつかなかった。ノスタルジックな風景に不釣り合いなスーツの姿の久瀬の後ろを着いていく。


「紹介するって誰に紹介するつもりなんだ?」


「商店街の人だよ」


「それは久瀬の友達なのか?」


「友達? どうだろう少なくとも知り合いではあるけど」


 友人という定義のハードルが高いタイプなのだろうか。少なくとも、今日あった私を友人だ、などというやつとは仲良くはなれない。久瀬と仲良くなるつもりはないのだけど。


 商店街までは少し距離があった。話が途切れたので、気になることを訊ねてみる。


「少女っていうのはいくつだったんだ?」


「え?」


 久瀬は首だけをこちらに向けた。遠くの山から少し冷たい風が吹き抜けてきた。まだ遠いだろう秋を思い起こさせる温度だ。


「一昨日、死んだという少女だよ」


「あぁ。彼女は十歳だったんだ」


 久瀬は悲しそうに眉根を下げる。それを見られたくなかったのか、すぐに顔を正面に向けた。彼に悲しい顔をさせたかったわけじゃないが、彼が少女の死を少し気に留めているようだったので、なにか声をかけてやりたくなったのだ。おせっかいな同情だと自分でも思う。


「君はその少女が死んで悲しかったのか?」


 言葉はなるだけ柔らかくしたつもりだ。「君は少女の死に責任を感じているのか?」なんて、思っていても直接的には聞けなかった。


「悲しんでいるのかもしれない」


「どうして君が悲しむんだ?」


「分からない。けど胸の奥がモヤモヤするんだ」


 彼女が生きるか死ぬかを選ぶなんて自由じゃないか。喉元まで出てきた言葉を私はぐっと飲み込む。鋭く棘の生えた言葉は随分と喉を傷ませた。代わりにとびっきり優しいものを吐き出す。


「君と少女は友達だったんだな」


「そうかもしれない」


 久瀬は立ち止まり、空を見上げた。真っ白な入道雲が山の向こうからこちらを襲うように迫ってきていた。久瀬という男はどうも悪い人間ではなさそうだ。少なくとも、私を拉致してどうしようなどという人間ではないように思えた。



 *



 商店街にはそれなりの人がいた。ここに来るまでに誰ともすれ違わなかったのが不思議なくらいだ。久瀬が「こっちだ」と言って、足取りを早めた。遅れないように私は着いていく。


 久瀬が入った店は酒屋だった。昨晩たらふく呑んだ私は、看板の文字を見ただけで吐き気がしてきた。


「酒屋はちょっと」


「大丈夫だよ。呑んだりしないから」


 ここに久瀬のコミュニティがあるのだろうけど、出来れば入りたくない。そんな私の気持ちなどつゆ知らず、久瀬は私の手を引いて酒屋の暖簾をくぐった。


 酒屋はリフォームをして、居酒屋風に呑めるスペースを作った仕様になっていた。真新しいカウンターに三人の男が座っている。二人は並んで、一人はカウンターの奥の方に一人で座っていた。


「おりゃよぉ、諦めきれないんだよぉ」


 手前に並んで座っていた男が、酒瓶を手に持ち、たどたどしい声を発した。中年の男は酒に酔いつぶれているらしい。久瀬が慌てた様子でその中年に駆け寄る。


「おい五郎ごろう、いい加減呑むのをやめな。身体が持たないよ」


「いいんだよぉ、身体なんて……。おりゃ、呑まないとやってられない……ふぅ……」


 酔いが完全に回って潰れたのか、五郎という中年はカウンターに突っ伏した。うっすら目をあけたまま、寝言のように聞き取れない言葉を発している。なんとも憐れな姿だが、昨晩の自分はこんな状態だったのでないかと不安になる。


「五郎はいい加減、酒をやめるべきだよ」


 久瀬が怪訝そうな顔でぼやく。五郎の隣に座っていた久瀬よりも若く気弱そうな男が五郎の背中を擦りなら、それに返した。


「でも五郎の気持ちも分からなくはないかな」


「おいおい葉月はづき、君はまだ十九だろ。酒は呑んじゃだめだ」


 生真面目な顔をした久瀬に、葉月は苦笑いを浮かべた。「そうじゃなくてさ、」と呟いて、少し間が空く。慎重に言葉を選ぶタイプらしい。


「なんというか、五郎は苦しんでるんじゃないかな」


「五郎は苦しんでいたのかい?」


 葉月が頷いた。「葛藤に耐えられなくなって酒に逃げたんじゃないかな。僕はお酒を呑めないから本当のところは分からないけど」と続ける。


「だからと言ってお酒に溺れることは容認できないな」


「それは違いないね。けど、同情の余地はあるよ」


 葉月の言葉に久瀬は肩を竦ませた。いいスーツに少しシワが寄る。それから思い出したように、久瀬がこちらを向いた。私を紹介してくれようとしたのだろう。酒屋の暖簾がまだ肩にかかった状態だった私は店の中へ一歩踏み入れる。それと同時、店の奥から怒鳴り声が飛んできた。  


「いや、同情の余地はないね。それは弱い人間のいいわけだ」


 店の奥で一人呑んでいた男が、こちらをにらみつけていた。歳は酔いつぶれている五郎と同じくらいだろうか。みすぼらしい格好の五郎と違い、綺麗な服装をしていた。メーカーは知らないものだが、高そうなバッグを持っていた。


 男の言葉に、葉月が顔を伏せた。久瀬がなだめるように、「まぁまぁ、森川もりかわ」と笑顔を作った。


「酒に逃げるだなんて、いい大人のやることじゃない。酒は嗜むものだ」


 男の言葉に私はひどく納得する。そうだ、酒は嗜むものだ。酒に溺れるとろくなことはないぞ。そのことは今まさに身を持って体現している。


「森川の言うことは最もだよ」


「久瀬もそう思うだろう? この大人になりきれない愚か者は酒に逃げるしかなかったんだ。そうさ、誰もが自分の力量を知るべきなんだ。じゃないとこいつみたいに憐れに落ちぶれてしまうんだ」


 森川の言葉はいやに私の痛いところを突いてきた。売れない役者をやっていた日のことを思い出す。手売りのチケットを仲間内で分け合い、人の入らない小屋で芝居をしていた日々。仲間が出来た、他人とは違う、がむしゃらに生きている。そんな言葉で日々の体たらくを正当化して、有意義であると錯覚していただけなのかもしれない。素質も才能もない私は、水たまりに写った月に手を伸ばし続けていただけなのだ。それを掴めないと知りながら。


「それにだ、」森川の言葉は俯いている葉月に向く。


「葉月、お前ももう十九だろ? 酒は呑めないとはいえいい歳だ。いつまでもくよくよとしてるんじゃない。あの女のことは忘れろ」


「分かってるよ! 分かってるけど……僕はまだ……」


「そう分かっているなら、早いところ久瀬に頼むんだな」


 葉月は泣きそうになっていた。顔は見えないが背中が震えている。言いたいことを言い終えたのか、森川はすっきりした表情をしてこちらに気がついた。「あんたは?」と首を傾げる。


「この人は佐々木だ。安山が連れてきたんだ」


「そうか安山が、それなら忘れないうちに支払っておかなくちゃな。今回はいくらだ?」


 支払い? いくら? どういうことだ、と私は久瀬の方を向く。そんな私のことなど無視して、久瀬は喉を鳴らした。


「うーん。どうなんだろう。ほら一昨日あんなことになっちゃたじゃないか。だから何も決まってないんだ」


「それは困るな。こっちも仕事なんだ。はっきりと方針を示してくれないと。死んだなら死んだでどうするか決めていなかったのか?」


「そうなんだ……」


「不甲斐ないとは思わないのか?」と森川は付け足した。


 私はその言葉に嫌悪感を抱いた。それは久瀬を同情したものではなく、一人の少女が死んだということをあまりに軽視した発言だったからだ。ただ、私はその少女のことを何も知らない。湧いてくる怒りは理不尽なものかもしれない。


 黙ったままの久瀬に、森川は勘弁してくれと言いたげに溜息を漏らす。


「取り敢えず、一週間分支払っておくよ。超過した分は後で返してくれ」


 そう言って、男は懐から茶封筒を取り出した。それを久瀬に手渡す。久瀬が中を確認した。


「一週間にしてはちょっと多くない?」


 帯の巻かれた札束が見て、久瀬が不思議そうに言った。


「それは君への報酬も入っている」


「あぁそういうことか」


 納得したのか、久瀬は札束から数枚を抜き取ると自分のポケットに入れた。それから、その残りを私に差し出す。


「待ってくれ、なんだこの大金は?」


「君への報酬だよ」


「報酬? 一体何に対してのだ?」


「少女に会うことが君の仕事だったんだ。だけど、残念なことに少女は死んじゃったから、その役目を果たせないけど」


「だったら受け取れないよ」


 仮に少女と会ったとしてもこんな大金はもらえない。なんだってこんな金を、渡されなきゃいけないのか。怪し過ぎる。私がそんな目で大金を見ていると、森川は面倒くさそうに久瀬から封筒を奪い取った。


「受け取ってもらわないと困るな。それが私の仕事なんだ」


「だけど、急に身に覚えのない大金を渡されるのは怖いんだ」


 森川は私の胸に無理やり金を押し付けた。それでも受け取らない私に、少し苛立ちながらカウンターの上に封筒を叩きつける。


「まったく、おかしなやつだ。こんなことを言うのは先月の女以来じゃないか」


「そうだね。彼女もちょっと変わってた」


 二人が話しているのは、私の前にここに連れてこられた人の話だろう。話を聞く限りその女性以外はお金を受け取っているらしい。


「みんな受け取っているのか?」


「仕事したんだから貰うのは当然の権利だよ」


「私はその仕事をしていないだろう?」


 森川は「堅いやつだなぁ」とボヤキながら店の暖簾に手をかけた。酔いつぶれたと五郎と葉月の方をみやる。 


「まったく、君たちはいい加減大人になってくれよ。そうでなきゃ困る。ろくに仕事も出来ないんだから」


 そう吐き捨てるように言い残し森川は店を出ていった。


「なんなんだこの金は?」


 カウンターに残された大金を指差し、私は語気を強めた。金を渡されたこともそうだし、森川の態度が無性に腹立たしかったのだ。


「だから、報酬なんだよ」


「そうじゃなくてさ」


 またこのやり取りだ、と額に手を当てた私に、葉月が顔を上げた。


「……森川は銀行員なんだよ」


「だとして、私はどうして銀行員に金を渡されなくちゃいけないんだ」


「だけど、それが彼の仕事なんだ」


「それは本来の銀行員の仕事じゃないだろう?」


「君の言う本来っていうのは、どういうことなのか分からないんだけど」


 彼の性格のせいか、葉月は粛々と話しているというよりは、恐る恐る言葉を選んでいる感じがした。久瀬の返しよりも誠実さを感じる。それにしてもどこかおかしい。タクシーを知らなかったり、都道府県を知らなかったり、銀行員の本業まで分からないと言い出す始末だ。


 久瀬がなだめるように私の肩を叩いた。


「なぁ佐々木、この町では彼のような銀行員の仕事は、少女に投資をすることなんだ」


「少女に投資をして、森川って男は誰から金を返してもらうつもりなんだ?」


「そりゃ少女からだよ」


 なんともおかしな理屈だ、と思った。少なくとも、その少女がいなくては、森川は私に金を渡す道理がないはずだ。


 葉月が、隣の椅子の上に綺麗に畳まれていた毛布を五郎にかけてやる。それから久瀬へと声をかけた。


「なぁ久瀬。君は仕事のし過ぎだよ」


「仕方ないだろ」


「そうだけどさ」


「それに仕事は悪いもんじゃない。きっちりお金も貰えるし。ほら、このスーツも新しくしたんだ。いいもんだろう?」


 久瀬はまるで自分に言い聞かせているようだった。葉月は、「そうだね」と口端を歪めるように笑顔を作っていた。


 店から出ると、すっかり夕方になっていた。商店街の入り口に飾られた『二段坂商店街』という横断幕越しの山並みに夕陽が沈んでいく。


「どうだい? 気分は戻ったかい?」


「大分よくなった」


 それは良かった、と久瀬は足取りを軽くした。さすがにこれだけ時間が経てば二日酔いもマシになる。


「少し早いけど、帰って夕ご飯にしようか。昼間、コンビニで買ったもので悪いけど、たくさん買ったんだ。今日だけは我慢してくれ」


 久瀬のジャケットのポケットはひどく膨らんでいた。森川に貰った札束を、私は受けとることが出来なかったのだ。「仕方がない」と久瀬が預かってくれている。とはいえ、一銭も持っていない私を見かねて、久瀬は彼自身の一万円を私に渡した。「これは僕からの貸しだよ。それなら構わないだろ?」と。私は納得してその金を受け取った。


「ご飯がコンビニだというのは構わないけど、私はいつになったら帰れるんだ?」


「それは僕には分からないよ」


「そもそも君はいつまで私のそばにいるつもりなんだ?」


 散歩へ行ったついでに、隙きを見て逃げ出そうなんて考えていたのだが、久瀬は中々、私のそばを離れてくれない。


「夕ご飯を食べたら帰るよ、別の仕事もあるんだ」


 久瀬は面倒くさそうにそう言った。きっと今までにもそんな風に言われたことがあるのだろう。これまでに連れてこられた人たちだって、素直にあの部屋に留まる理由はなにもない。


「それとこれは注意事項なんだけどね」


「注意事項?」


「そう。夜は出歩いちゃだめだよ」


「どうして?」


「そういう決まりなんだよ。別に罰則があるわけじゃないけどさ」


「罰則がないのにみんなちゃんと守ってるのか?」


「そうだよ。みんな守ってる」


 なんて秩序がある町なのか。久瀬はハッキリとみんな守っていると言い切った。


「君も出歩いちゃだめだからね」


「分かったよ」


 私は適当に頷いておく。久瀬は「分かったならいい」とあっさり納得した。まさか、これで私が逃げないと思っているのだろうか。そしてこれまでに連れてこられたという人たちは、罰則がないというルールをしっかり守ったのだろうか。そうだとは到底思えなかった。



 * 



 夕食を取ると、久瀬はすぐに帰っていった。腹が膨れたこととまだ二日酔いがわずかに残っているせいもあり、私はひどく眠たくなった。久瀬がいなくなったら逃げ出そうと思っていたのだが、それはもっと夜が更けてからでもいい。今、下手に一人出歩いて誰かに見られる方がまずい。夜に誰も出歩いちゃだめなら、見つかる可能性は低くなるはずだ。


 そうして私はベッドに寝転がった。すぐに眠りに落ちて、次に目覚めたのはかなり深夜になってからだった。


 どうやら久瀬はここに戻ってきてはいないらしい。彼には彼の家があるのだろう。冷蔵庫に入っていたペットボトルを二本取り出し、適当な食料を久瀬が残していったコンビニの袋に詰め込む。ここがどこだか分からないが、歩くならそれなりの距離を覚悟しなければいけない。


 少なくとも道なりに進めば駅くらいはあるはずだし、運良く明け方までに駅を見つけられれば、夕方までには家に帰れるだろう。久瀬から一万円を借りているのが気がかりだが、無理やり連れて来られたのだから、それくらい貰ってもバチは当たらないはずだ。


 食料を詰め込んだあと、腕がまだ痛んでいたので、棚に包帯でもないかと探し始めた。棚に並んでいるのは一般の家庭にもありそうな簡易な薬ばかり。その上包帯は見つからなかった。こんなものが診療所と言えるのか、と私は呆れる。ここをそう呼んでいるのは私だけなのだけど。


 私はひっそりと診療所の扉を開ける。町はすっかり静まりきっていた。向かいのコンビニも電気が消えている。向かい山の麓に一つ明かりがついていた。大きな屋敷らしい。月明かりだけが照らす砂利道を、私は商店街とは逆の方へ向かい歩き始めた。


 歩きはじめて一時間くらいだろうか。私はどれだけ歩いてきたものか、とその道のりを振り返った。唯一、灯っていた屋敷の明かりもすっかり見えなくなり、気づけば周りは畑から田んぼに変わっていた。緑色の稲が闇の中に溶け込んでいる。ゲコゲコとカエルの鳴き声が響き、夏らしい風が吹きつけた。


 まだまだ歩かなくては。そう自分に言い聞かせ、かいた汗を拭い再び歩き出す。どこかに駅かバス停でもあるはずだ。でなければ交番でもいい。あの町以外の誰かに助けを求めよう。


 そうして、歩き続けているうちに遠くで光が灯っているのが見えた。良かった。安堵と共に進む足が早くなる。さらに歩を進めると町らしいものまで見えてきた。なんとかうちに帰れそうだ。


 駆け足気味に、明かりに向かい歩いていくと商店街へ出た。この商店街の誰かに助けを求めよう。そう思い、手短な店のシャッターを叩こうとした時だ。一件の酒屋が目に入り、私は肩を落とす。


 そこは、昼間に久瀬と来た酒屋だった。私は頭を抱える。おかしい、確かにコンビニから続いていた道を真っ直ぐ歩いていたはずだ。それなのにどうして戻ってきてしまっているのか。見間違えかと当たりを確認するが、薄っすらと闇の中に見えた入り口の横断幕には『二段坂商店街』と書かれていた。間違いなくさっきまで私がいた町だった。


 道が曲がっていたのか? それはありえない。ずっと見えていた山並みに向かって平行に歩き続けていたし、たとえ夜でもそれは確認出来る。仮に山の周りをぐるっと回っていたのだとしても、真っ直ぐ進んでいると認識するものだろうか。しかし、実際は元いたところへ戻ってきてしまっている。まるでエッシャーのだまし絵だ。


 そんなたとえを思い浮かべたところで、私は考えるのが面倒になった。歩き疲れた上に、おかしなところに連れて来られたことへの疲れもあった。とにかく帰って寝よう。諦めと同時に睡魔が襲ってきた。


 商店街を抜けて、元いた診療所の方を目指す。その時、背後で声が聞こえた。私はとっさに身体をかがめて、ゴミ箱の陰に隠れた。


 話し声は男女だ。かなり声がでかい。呑んでいるのかもしれない、と思った。そして男の方の声に聞き覚えがあった。森川だ。私はゴミ箱の陰から向こうの様子を眺める。


 暗くて分かりづらかったが、女が森川にベッタリとひっついていた。女が甘い声を出し、森川がそれに対してはしたない言葉を返した。女は満更でもない様子で、森川の頬にキスをする。


 それに抑えきれなくなったのか、森川の手が女の下部に回った。女が甲高い声を出す。そのまま二人の唇が重なった。森川の手が女の胸部をなで上げる。絡みつくように女が森川の首に手を回すと、森川はそのまま女を道に押し倒そうとした。


 なんと不埒な。しかし流石に女がそれを拒んだ。それから森川の耳元に顔を寄せた。森川は興奮気味に女の手を引き、そのまま二人は商店街に建つ一件の家に入っていった。


 この町はおかしい。私はそう呟いて立ち上がり、足早に診療所の方へ向かった。商店街から続く畑には、真っ赤なトマトが実っていた。





★私



「お兄さん、結構呑まれてますか?」


 彼女は、私の腿の上に手を置いてそう言った。


 確か名前はあすかちゃん。とはいえ本名ではない。所謂、源氏名だ。一時間も待ったのだから可愛い子を引きたい。そう願った私の願いは充分叶ったと言える。真実を映さない写真の中から、ひとつ正解を選んだのだ。等間隔で仕切られたマットの上で待っていた私のもとに、かなりタイプの女の子が現れてくれた。


「ちょっと友人と呑んでて」


「呑み過ぎは身体に良くないですよ」


 彼女は科を作った。薄いピンク色のレースの下に下着が透けている。わざとらしくくねらせたその身体をなめるように見つめて、私はゴクリと固唾を飲み込んだ。


「ちょっとした祝い事だったんだ」


「お祝いですか?」彼女は可愛らしく小首を傾ける。


「うん。恥ずかしい話だけど、定職がようやく決まって」


「それはめでたいですね」


 彼女が私の腕が取り、ぐっと胸の方へと寄せる。薄いレース越しに柔らかいものが触れた。私の脳内に血がめぐる。それから熱い血は全身へと一気に流れていった。


「とはいえ、今まで好きなことをしていたから」


「好きなことですか? 何かされてたんですか?」


「えーっと。役者を」酒が回っている上に、火照った脳が、思わず真実を口走る。そんなもの自慢にすらならないと分かっているのに。


「えっ! すごいですね」


「いやいや。まったく世間には出ていないし、小さな劇団に入っていただけだから」


 普段から役者をしているとは、親しい友人以外には伝えて来なかった。馴染みの美容院の美容師の人にも、アルバイト先の同僚にも。有名にならなければ恥ずかしいことだという認識があったのだ。


「正直、才能も無さそうだし、うだうだ続けていただけなんだ。だけど、辞めるにも一念発起出来なくて」


「分かりますよ。変えたいけど踏み出せないみたいな時もありますよね。でも停滞してしまった時、流れを変えるため一度そこから抜け出してみるのは悪いことじゃないと思いますよ」


「そうかな」


「そうですよ」


 彼女の顔がゆっくりと近づく。


「でも、そんなに嬉しそうにしてたかな?」と私が訊ねると、彼女の双眸は甘くとろけるようにトロンと細くなった。


「はい、嬉しそうですよ。それとも嬉しそうなのは、そのお祝いとは関係ないですか?」


 柔らかい唇が私の唇に重なった。彼女の舌が私の口の中へ入ってくる。一瞬、全身に入った力が気持ちよさからか抜けていく。初々しい私の反応を見てか、彼女はくすりと笑った。


「緊張してますか?」


 そう言いながら、彼女の手が私のベルトを緩ませた。それから「少し腰を浮かせてください」と耳元で囁く。ついでとばかりに、ペロッと柔らかい舌が私の耳を舐めあげた。


「うん。あんまりこういうとこに来ないから」


 私は腰を浮かせて、言われるがままズボンを脱がされた。


「緊張しなくていいですよ」


「まるで、おかしなところに来た気分だよ」


 薄暗い空間には、至るところから女性の声が響いていた。たった数十センチの高さの壁の向こうで今まさに男女が絡み合っている。私の隣も斜向かいも。立ち上がれば全体を見渡せるはずだ。一体、どれだけの数の欲望が、如何わしい下心で女の身体を貪っているのか。そしてその欲望を彼女たちはなんともないフリをして受け入れている。


 私の手を取り、彼女は自分の胸に押し当てた。堅いブラジャー越しの柔らかい温もりが伝わる。


「そうですね。ここは外の世界とは違う、おかしなところかもしれません」


  



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