求不得苦
天界の蒼穹に、金の軌跡が走っていった。それはほんの須臾。煌いたかと目を凝らせば消えていった。
ぼくは窓の外をぼんやり眺める。
あの黄金は幻だったのかもしれない。そう思うほど一瞬だった。
「どうなされました、天蓬元帥」
ぼくの隣で寝ていた仙女が身をくねらす。月の宮に仕える霓裳ちゃんだ。
彼女の搗き立ての餅のような肌を、無遠慮に撫でまわした。下界の女とは比べ物にならないほど心地よい軆をしている。
「窓の外に金の光を見えたんだよ。一瞬だけ」
霓裳ちゃんは虹色の瞳を瞬かせた。
「あれは斉天大聖でございますわ」
「ふうん」
あの須臾の金が、噂の元弼馬温。
馬飼いの地位を不服として、斉天大聖と称するなんて。なんとも粗野で暴力的で高慢だ。それを認める天界も天界だ。
「猿が斉天大聖府を貰って、気ままに遊び暮らすなんて図々しいね」
「元帥がそれをおっしゃりますか」
彼女はくすくすと静かに笑う。否や、嗤う。
ひどいじゃないか。まるでぼくが怠け者みたいな態度だ。こんなに一生懸命に働いてるのに。
上司におべっか使って、同僚に仕事を押し付けて、部下に尻拭いさせて、天の川の治水をこなしてるじゃないか。褒めてもらいたいくらいだね。
なのに弼馬温は気随気まま。
世の中、不公平だよ。
「ねぇ、霓裳ちゃん。あの弼馬温の師匠って誰?」
どんなに強くたって偉くなったって、自分の親と師匠には逆らえない。それは天地の理に等しいんだ。
あいつの師匠と親しくなってしまえば、あいつの弱みを握ったことになるじゃないか。
名案だと思ったけど、彼女は首を横に振った。
「斉天大聖はあまたの仙術を、天地の間で独りで習得したそうですよ」
「あれだけの術を? まさか」
「いいえ。本当に」
そんな馬鹿なことあってたまるか。
あの空を翔ける術ひとつ見ても、きちんとした師匠がいなければ身につくはずがない。噂じゃ変化や武芸も会得してるんだ。師匠がいるはずだ。それも有象無象の地仙じゃない。名の知れた仙人でなければ。
「用事思い出した」
寝床から起き上がる。
「他の女仙とのですか?」
「さあ?」
ぼくは彼女の移り香の上から着物を纏って、水軍府から出る。
何日ぶりかに浴びる外の風は、清々しかった。
ぼくは弼馬温の師匠を探した。
まずあれだけの高度な飛翔術を会得している仙人を、片っ端から当たってみた。少なくはないけど数に限りはある。すぐに見つかるだろうと高をくくっていたら、まったく空振りだった。
最上級から範囲を広げていっても、弼馬温の師匠は影も形もあらわさない。
兄弟弟子さえ、存在しなかった。
とうとう彼の故郷、花果山まで出向いてみたけど、まったくの無駄足だった。
相変わらず弼馬温は、飄々と遊び暮らしていた。
ある夕べには斉天府で酒宴が開かれ、ぼくも招かれた。
整えられた中庭に香しい蝋燭がともされて、花びらがまき散らされている。光りや花の香りが美酒の香りと混ざり合って、呼吸するたびに馥郁とした香気が肺腑に満ちた。なんとも贅を凝らした酒宴だ。
絹傘に翳された上座に陣取ってるのは、一匹の小さな猿だ。
四尺に足りぬ華奢な身体に、竜王たちから奪った宝を纏っている。鳳凰の羽飾りが揺れる紫金の冠、金鎖で編んだ鎧。それから蓮糸で編んだ歩雲履。
そして彼の耳朶に揺れる小さな飾りは、如意金箍棒だ。ぼくの得物の三倍の重さだという棒を、重さなどないように飾り付けていた。時々、金箍が蜜蝋の光に反射して煌く。
ぼくは酌をするふりをして彼に近づく。
誉めそやし、媚びを売り、おだてて、弼馬温の盃を満たした。
「見事な法力で。大聖の法力はどちらで磨かれたものでございましょうか」
ぼくが問う。
弼馬温は刹那、ほんの刹那だけ動きを止め、盃を呷った。空になった盃が投げ出される。
「………俺の師匠は天地そのものよ。四海巡るうちに身に着けたに過ぎん」
これ以上、踏み込めない。
踏み込んだら怒りを買う領域だ。
理屈じゃない。本能で察した。
ぼくは弼馬温に笑顔で阿諛追従をして、ほどよい頃合いを見計らって酒席から下がった。
八方ふさがりになったぼくは、手土産を用意した。墨。しかも天の川の魚の膠で作った墨だ。普通の魚の膠じゃ安物だけど、天の川の魚は別格だ。
太白金星のもとに挨拶に伺うには、こういう手土産のひとつもいる。
この方は天界一温厚な星官だ。優しくて付き合いやすくて、それから顔が広い。弼馬温とも親しいらしいから、何か知ってるかもしれない。彼の趣味が詩歌だと聞いていたから、珍品の墨をおすそ分けすると言う名目で訪ねた。
墨や鮮魚、それから天の川で採れた金銀砂子を献じたおかげか、太白金星は上機嫌でぼくを出迎えてくれる。
だけど、ぼくの期待は簡単に裏切られた。
太白金星さえ、知らなかったのだ。
知らないと言うか、彼も弼馬温には師匠など居なかったと言うのだ。師を尋ねて四州を歩き回るうちに仙術を学び取ったのだと。
ならば本当にそうかもしれない。
あの弼馬温は。
あの猿は。
師などなく、親もなく、頭を下げる相手などただのひとりも持たず、生まれて生きてきたのだろうか?
それはとても羨ましいように思えた。
そしてとても寂しいように思えた。
とても、美しいように、思えた。
弼馬温が、天界に反逆した。
それは弼馬温の師匠探しを諦めて、間もなくの事だった。
ぼくは天の川の水軍の総司令だけど、職務は治安と治水であって、戦じゃない。化け物退治は殷の時代から、彼に決まっている。李天王第三太子である中壇元帥の職務なんだから。
だけど中壇元帥さえ猿に敵わず、戦況が逼迫し始めた。
天界の連中はようよう弼馬温の師匠を探し始めたけど、無駄だろう。無駄だと伝えてもよかったけど、そんな面倒なことにしゃしゃり出るなんて真っ平だった。第一、ぼくのことを阿諛と讒言の権化と言って憚らない連中に、親切にしてやる義理はないじゃないか。
ぼくは天界の右往左往を横目で見つつ、真面目に職務を果たしているふりを続けた。
天界の文官たちは必死に捜索したが、弼馬温の師匠は見つからなかった。まったく無駄な労力だった。
そうしてついに弼馬温の討伐に、顕聖二郎真君が招かれた。
玉帝の甥御、天才的な武人であり、最高位の水神のひとり。
ぼくも水神だけど、彼の足元にも及ばない。
彼ならあの狂暴な猿を打ち負かすだろう。
師も親もない猿など早く負けて、誰かの足元に屈すればいいのだ。誰だって頭を下げて生きていく。そういうものじゃないか。あの猿だけが例外などと、そんなことあるはずない。
顕聖二郎真君が出陣して、ほどなく弼馬温が拿捕されたと耳に入ってきた。
妖猿として、斬妖台に引きずられていった。
あの高慢な猿は処刑されるのだ。
ぼくは期待して、処刑見物に出向いた。
だけど、どんな刃物も猿の前では通じなかった。剣も、斧も、槍も無残に刃こぼれして砕けて折れる。刃の屍の数々。それは未だに弼馬温が誰にも屈してないことを示すようで、腹立たしい光景だった。
ついに南斗星が炎で焼き、雷神たちが稲妻を撃ち込む。
それでも毛一本も傷つけられなかった。
太上老君が八卦炉に入れようと発案する。小さな猿は煉炭されるように投げ込まれた。これで終わり。ぜんぶおしまい。
顕聖二郎真君は褒美を下賜され、天界は平和になる。
あの猿が来る前みたいに。
本当に?
「弼馬温の如意金箍棒の所在は知ってるか?」
部下に問うてみたが、誰一人知るものはない。そりゃそうだ。ぼくの軍はあの戦いに関わらなかったんだから。
中壇元帥に伺っても知らぬとの答え。
ぼくは天界から戦場に降りる。如意金箍棒が落ちていないか探したけど、どこにも見つからなかった。
だとすれば。
まだ、彼が持っているのか。
屈すことを知らない猿。
どんな刃でも、炎でも、雷でも、傷つかない猿。
あの八卦炉の奥で、まだ如意金箍棒を携えているのか。
八卦炉の扉が開かれる日は近かった。
文武の火に鍛錬されて、生きていられるはずがない。灰になっているはずだ。
そう言い聞かせたけど、ぼくの期待は裏切られてきた。
何度だってあの猿は、屈しなかった。
「天の川水軍全兵を招集しろ。天の川が干上がっても構わないから、兜率天宮からの火禍を防げるようにしておくんだ」
水軍府はざわめき立つ。
ぼくの命令は晴天の霹靂だったらしく、部下たちはああだこうだ言い出した。ぼくの意図を知りたいようだったけど、説明なんてできるわけがない。ぼくだってこんな命令どうして口にしたのか分からない。
普通だったら、命令が無駄になる。
ぼくは阿呆の烙印を押される。
それでも言わずにおれなかった。
兜率天宮に向かう。
八卦炉が開かれるまで間に合いそうもない。
ああ、だけど到着したら、ただの灰に成り果てた弼馬温を目の当たりにするだけだろう。そうに違いないのに。どうして、ぼくはこんなに急いで。
轟音が届いた。
ぼくの顔のすぐ横を、八卦炉の炎が飛び散っていく。
破裂した八卦炉の上に、小さな猿が立っていた。
煤こけた髪が靡き、焼け爛れた皮膚が千切れて舞う。そして爛々と輝く火眼金睛。紅蓮の炎を纏いながら、嗤っている。
なんて綺麗なんだろう。
なんて美しいんだろう。
ぼくはこんなに心を震わせるものを、初めて目にした。
斉天大聖は如意金箍棒を取り出して、火の粉を振り撒きながら上下の別もなく奮う。誰一人、相手になりっこない。どいつもこいつも這う這うの体で逃げていく。九曜星たちは門を固く閉ざし、四天王はどっかに隠れてる。
その勢いのまま通明殿を突っ切り、霊霄殿まで突っ走る。
もしこのまま天に斉しい聖者が、天そのものになったなら、ぼくは真っ先に傅くだろう。
爪先に頭を垂れて、忠誠を誓うだろう。
この世でいちばん美しいお前に。
なのに。
猿はあっけなく如来に封じられた。
それから五百年。
斉天大聖だった男は、人間の師へ頭を下げ、念仏で屈する行者に堕していた。
なんて醜い。
なんて無様。
こいつも例外じゃない。誰だって頭を下げて生きていく。そうさ。こいつも例外じゃなかった。
あの日ほくが傅いてもいいと思った斉天大聖は、もういない。この世のどこにもいない。如来の掌に押しつぶされてどこかに消え去ってしまった。ここで地に伏しているのは、ただの化け猿。ただの弼馬温!
「お師匠さま。ほら、例のやつを念じてごらんください」
ぼくの讒言で、弼馬温は容易く地面を這いずり回る。
さあ、惨めに地べたに這えよ、血反吐まき散らせよ。頭蓋骨が割れ、脳漿が眼から溢れるほどに。
苦しめばいい。
苦しめばいいんだ。
お前は、ぼくを、裏切った。
お前の足元にひれ伏して、服従していいと、そう思ったぼくの気持ちを裏切った!
……でも時折、夢をみる。
霊霄殿で盛りの牡丹や睡蓮のように着飾り、玉座にあぐらをかく美しいお前の姿を。
お前の爪先に口づける、ぼくの姿を。