表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

求不得苦

作者: 猫目石琥珀




 天界の蒼穹に、金の軌跡が走っていった。それはほんの須臾。煌いたかと目を凝らせば消えていった。

 ぼくは窓の外をぼんやり眺める。

 あの黄金は幻だったのかもしれない。そう思うほど一瞬だった。

「どうなされました、天蓬元帥」

 ぼくの隣で寝ていた仙女が身をくねらす。月の宮に仕える霓裳ちゃんだ。

 彼女の搗き立ての餅のような肌を、無遠慮に撫でまわした。下界の女とは比べ物にならないほど心地よい軆をしている。

「窓の外に金の光を見えたんだよ。一瞬だけ」

 霓裳ちゃんは虹色の瞳を瞬かせた。

「あれは斉天大聖でございますわ」

「ふうん」

 あの須臾の金が、噂の元弼馬温。

 馬飼いの地位を不服として、斉天大聖と称するなんて。なんとも粗野で暴力的で高慢だ。それを認める天界も天界だ。

「猿が斉天大聖府を貰って、気ままに遊び暮らすなんて図々しいね」

「元帥がそれをおっしゃりますか」

 彼女はくすくすと静かに笑う。否や、嗤う。

 ひどいじゃないか。まるでぼくが怠け者みたいな態度だ。こんなに一生懸命に働いてるのに。

 上司におべっか使って、同僚に仕事を押し付けて、部下に尻拭いさせて、天の川の治水をこなしてるじゃないか。褒めてもらいたいくらいだね。

 なのに弼馬温は気随気まま。

 世の中、不公平だよ。

「ねぇ、霓裳ちゃん。あの弼馬温の師匠って誰?」

 どんなに強くたって偉くなったって、自分の親と師匠には逆らえない。それは天地の理に等しいんだ。

 あいつの師匠と親しくなってしまえば、あいつの弱みを握ったことになるじゃないか。

 名案だと思ったけど、彼女は首を横に振った。

「斉天大聖はあまたの仙術を、天地の間で独りで習得したそうですよ」  

「あれだけの術を? まさか」

「いいえ。本当に」

 そんな馬鹿なことあってたまるか。

 あの空を翔ける術ひとつ見ても、きちんとした師匠がいなければ身につくはずがない。噂じゃ変化や武芸も会得してるんだ。師匠がいるはずだ。それも有象無象の地仙じゃない。名の知れた仙人でなければ。

「用事思い出した」

 寝床から起き上がる。

「他の女仙とのですか?」

「さあ?」

 ぼくは彼女の移り香の上から着物を纏って、水軍府から出る。

 何日ぶりかに浴びる外の風は、清々しかった。



 


 ぼくは弼馬温の師匠を探した。

 まずあれだけの高度な飛翔術を会得している仙人を、片っ端から当たってみた。少なくはないけど数に限りはある。すぐに見つかるだろうと高をくくっていたら、まったく空振りだった。

 最上級から範囲を広げていっても、弼馬温の師匠は影も形もあらわさない。

 兄弟弟子さえ、存在しなかった。

 とうとう彼の故郷、花果山まで出向いてみたけど、まったくの無駄足だった。

 相変わらず弼馬温は、飄々と遊び暮らしていた。

 ある夕べには斉天府で酒宴が開かれ、ぼくも招かれた。

 整えられた中庭に香しい蝋燭がともされて、花びらがまき散らされている。光りや花の香りが美酒の香りと混ざり合って、呼吸するたびに馥郁とした香気が肺腑に満ちた。なんとも贅を凝らした酒宴だ。

 絹傘に翳された上座に陣取ってるのは、一匹の小さな猿だ。 

 四尺に足りぬ華奢な身体に、竜王たちから奪った宝を纏っている。鳳凰の羽飾りが揺れる紫金の冠、金鎖で編んだ鎧。それから蓮糸で編んだ歩雲履。

 そして彼の耳朶に揺れる小さな飾りは、如意金箍棒だ。ぼくの得物の三倍の重さだという棒を、重さなどないように飾り付けていた。時々、金箍が蜜蝋の光に反射して煌く。

 ぼくは酌をするふりをして彼に近づく。

 誉めそやし、媚びを売り、おだてて、弼馬温の盃を満たした。

「見事な法力で。大聖の法力はどちらで磨かれたものでございましょうか」

 ぼくが問う。

 弼馬温は刹那、ほんの刹那だけ動きを止め、盃を呷った。空になった盃が投げ出される。

「………俺の師匠は天地そのものよ。四海巡るうちに身に着けたに過ぎん」

 これ以上、踏み込めない。

 踏み込んだら怒りを買う領域だ。

 理屈じゃない。本能で察した。

 ぼくは弼馬温に笑顔で阿諛追従をして、ほどよい頃合いを見計らって酒席から下がった。 





 八方ふさがりになったぼくは、手土産を用意した。墨。しかも天の川の魚の膠で作った墨だ。普通の魚の膠じゃ安物だけど、天の川の魚は別格だ。

 太白金星のもとに挨拶に伺うには、こういう手土産のひとつもいる。

 この方は天界一温厚な星官だ。優しくて付き合いやすくて、それから顔が広い。弼馬温とも親しいらしいから、何か知ってるかもしれない。彼の趣味が詩歌だと聞いていたから、珍品の墨をおすそ分けすると言う名目で訪ねた。

 墨や鮮魚、それから天の川で採れた金銀砂子を献じたおかげか、太白金星は上機嫌でぼくを出迎えてくれる。

 だけど、ぼくの期待は簡単に裏切られた。

 太白金星さえ、知らなかったのだ。

 知らないと言うか、彼も弼馬温には師匠など居なかったと言うのだ。師を尋ねて四州を歩き回るうちに仙術を学び取ったのだと。

 ならば本当にそうかもしれない。

 あの弼馬温は。

 あの猿は。

 師などなく、親もなく、頭を下げる相手などただのひとりも持たず、生まれて生きてきたのだろうか?

 それはとても羨ましいように思えた。

 そしてとても寂しいように思えた。

 とても、美しいように、思えた。




 弼馬温が、天界に反逆した。

 それは弼馬温の師匠探しを諦めて、間もなくの事だった。

 ぼくは天の川の水軍の総司令だけど、職務は治安と治水であって、戦じゃない。化け物退治は殷の時代から、彼に決まっている。李天王第三太子である中壇元帥の職務なんだから。

 だけど中壇元帥さえ猿に敵わず、戦況が逼迫し始めた。

 天界の連中はようよう弼馬温の師匠を探し始めたけど、無駄だろう。無駄だと伝えてもよかったけど、そんな面倒なことにしゃしゃり出るなんて真っ平だった。第一、ぼくのことを阿諛と讒言の権化と言って憚らない連中に、親切にしてやる義理はないじゃないか。

 ぼくは天界の右往左往を横目で見つつ、真面目に職務を果たしているふりを続けた。

 天界の文官たちは必死に捜索したが、弼馬温の師匠は見つからなかった。まったく無駄な労力だった。

 そうしてついに弼馬温の討伐に、顕聖二郎真君が招かれた。

 玉帝の甥御、天才的な武人であり、最高位の水神のひとり。

 ぼくも水神だけど、彼の足元にも及ばない。

 彼ならあの狂暴な猿を打ち負かすだろう。

 師も親もない猿など早く負けて、誰かの足元に屈すればいいのだ。誰だって頭を下げて生きていく。そういうものじゃないか。あの猿だけが例外などと、そんなことあるはずない。

 顕聖二郎真君が出陣して、ほどなく弼馬温が拿捕されたと耳に入ってきた。

 妖猿として、斬妖台に引きずられていった。

 あの高慢な猿は処刑されるのだ。

 ぼくは期待して、処刑見物に出向いた。 

 だけど、どんな刃物も猿の前では通じなかった。剣も、斧も、槍も無残に刃こぼれして砕けて折れる。刃の屍の数々。それは未だに弼馬温が誰にも屈してないことを示すようで、腹立たしい光景だった。

 ついに南斗星が炎で焼き、雷神たちが稲妻を撃ち込む。

 それでも毛一本も傷つけられなかった。

 太上老君が八卦炉に入れようと発案する。小さな猿は煉炭されるように投げ込まれた。これで終わり。ぜんぶおしまい。

 顕聖二郎真君は褒美を下賜され、天界は平和になる。

 あの猿が来る前みたいに。


 本当に?


「弼馬温の如意金箍棒の所在は知ってるか?」

 部下に問うてみたが、誰一人知るものはない。そりゃそうだ。ぼくの軍はあの戦いに関わらなかったんだから。

 中壇元帥に伺っても知らぬとの答え。

 ぼくは天界から戦場に降りる。如意金箍棒が落ちていないか探したけど、どこにも見つからなかった。

 

 だとすれば。


 まだ、彼が持っているのか。


 屈すことを知らない猿。

 どんな刃でも、炎でも、雷でも、傷つかない猿。


 あの八卦炉の奥で、まだ如意金箍棒を携えているのか。

 

 

 八卦炉の扉が開かれる日は近かった。 

 文武の火に鍛錬されて、生きていられるはずがない。灰になっているはずだ。

 そう言い聞かせたけど、ぼくの期待は裏切られてきた。

 何度だってあの猿は、屈しなかった。


「天の川水軍全兵を招集しろ。天の川が干上がっても構わないから、兜率天宮からの火禍を防げるようにしておくんだ」


 水軍府はざわめき立つ。

 ぼくの命令は晴天の霹靂だったらしく、部下たちはああだこうだ言い出した。ぼくの意図を知りたいようだったけど、説明なんてできるわけがない。ぼくだってこんな命令どうして口にしたのか分からない。

 普通だったら、命令が無駄になる。

 ぼくは阿呆の烙印を押される。

 それでも言わずにおれなかった。

 兜率天宮に向かう。

 八卦炉が開かれるまで間に合いそうもない。

 ああ、だけど到着したら、ただの灰に成り果てた弼馬温を目の当たりにするだけだろう。そうに違いないのに。どうして、ぼくはこんなに急いで。

 

 

 轟音が届いた。



 ぼくの顔のすぐ横を、八卦炉の炎が飛び散っていく。 

 

 破裂した八卦炉の上に、小さな猿が立っていた。

 煤こけた髪が靡き、焼け爛れた皮膚が千切れて舞う。そして爛々と輝く火眼金睛。紅蓮の炎を纏いながら、嗤っている。

 なんて綺麗なんだろう。

 なんて美しいんだろう。

 ぼくはこんなに心を震わせるものを、初めて目にした。

 斉天大聖は如意金箍棒を取り出して、火の粉を振り撒きながら上下の別もなく奮う。誰一人、相手になりっこない。どいつもこいつも這う這うの体で逃げていく。九曜星たちは門を固く閉ざし、四天王はどっかに隠れてる。

 その勢いのまま通明殿を突っ切り、霊霄殿まで突っ走る。

 もしこのまま天に斉しい聖者が、天そのものになったなら、ぼくは真っ先に傅くだろう。

 爪先に頭を垂れて、忠誠を誓うだろう。

 この世でいちばん美しいお前に。




 

 なのに。



 猿はあっけなく如来に封じられた。

 






 


 それから五百年。


 

 

 斉天大聖だった男は、人間の師へ頭を下げ、念仏で屈する行者に堕していた。

 なんて醜い。

 なんて無様。

 こいつも例外じゃない。誰だって頭を下げて生きていく。そうさ。こいつも例外じゃなかった。

 あの日ほくが傅いてもいいと思った斉天大聖は、もういない。この世のどこにもいない。如来の掌に押しつぶされてどこかに消え去ってしまった。ここで地に伏しているのは、ただの化け猿。ただの弼馬温!


「お師匠さま。ほら、例のやつを念じてごらんください」

 

 ぼくの讒言で、弼馬温は容易く地面を這いずり回る。

 さあ、惨めに地べたに這えよ、血反吐まき散らせよ。頭蓋骨が割れ、脳漿が眼から溢れるほどに。

 苦しめばいい。

 苦しめばいいんだ。

 お前は、ぼくを、裏切った。

 お前の足元にひれ伏して、服従していいと、そう思ったぼくの気持ちを裏切った!

 




 ……でも時折、夢をみる。

 霊霄殿で盛りの牡丹や睡蓮のように着飾り、玉座にあぐらをかく美しいお前の姿を。 

 お前の爪先に口づける、ぼくの姿を。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ