5.PTA活動にはまった平成
5.PTA活動にはまった平成
長男が小学校に入ると、妻はPTAの委員をやるようになった。そのことが家庭の負担になることはなかったし、保護者としてはそれが当たり前なのだと思っていた。そして、そういったことは母親の務めで父親には関係のないことなのだと。僕はただ。子供の面倒を見て妻が忙しい時には家事を手伝ったりすることが少しも苦ではなかったから。
ある日、仕事中に妻からメールが入った。買い物の依頼か何かだろうと思っていたのだけれど、そのメールはちょっと意味不明なものだった。
「パパ、会長やる?」
会長? なんのことだかさっぱり解からなかった。
「取り敢えず、今日、学校で話し合いがあるから来て」
言われるがままに仕事を終えると学校へ赴いた。先に来ていた妻の隣の席に着く。どうやら、次年度のPTA会長候補が居ないのだと言う。そこに候補者の一人として呼び出されたわけだ。幸い、僕は会長ではなくて、多忙な会長を補佐する立場の副会長をやることになった。
長女が小学校最高学年にして初めてPTAとやらに駆り出されたのだ。
多忙な会長さんはほとんどの行事に出ることが出来なかった。その度に僕が会長代理として出席することになった。ただ、それが大変だと思ったことは一度もない。割と楽しんでやっていたのだと思う。このことが僕の今後の人生を大きく左右することになる。
長女が中学校に入っても当たり前のようにPTAの役員をやっていた。そして、頂上が中学校3年の時にPTA会長をやることになった。妻は僕がPTAの役員をやることで、ママさんバレーに専念できるとほくほく顔だった。
そもそも、妻がバレーボールを始めたきっかけは長男の保育園での保護者のバレーボール大会。そこに出場したクラブチームの人に誘われたのがきっかけ。それ以来、小学校、中学校でもPTAのバレーボール部に所属しながら、クラブチームでの活動もしていたのだ。
PTAの役員になったことでソフトボール部を任されるようになる。任されたはいいのだけれど、その頃のソフトボール部はバレーボール部と違って部員がほとんどいない状態だった。これでは大会にも参加できない。そこで、自前で募集チラシを作り、学校の許可を得て全校生徒に配布した。それが功を奏したのかどうかはわからないけれど、ぼちぼち部員が集まってきた。