うるさいお隣の話
テーマ:夜、新生活、いし、取引
俺の新居となったアパートは壁が薄い。すると必然的に周囲の部屋にはよく音が漏れる。俺自身は音楽を聴くときはイヤホンするとかして配慮しているのだが、周りの人間が全部そうだとは限らない。
そして近頃、夜な夜な隣の部屋から女性の声が聞こえてくる。遠回しに言うべくもないが、あえて形容するなら“愛の叫び声”とでも言おうか。
とにかくうるさい。不思議と男の方の声は聞こえないが寡黙な彼氏がうるさい彼女とお楽しみなのだろう。だが、俺にとっては睡眠時間が削られる死活問題だ。
そして本日もまた、声が聞こえ始めた。時刻は23時。不幸なことにお隣さんは階の端の部屋、文句を言うのは俺しかいない。
意を決する。
インターホンを静かに押した。
素っ裸のまま突然出てきたりはしないだろうから、3分くらいは待ってやろう。それでも出てこないのなら、また押すまでだ。
別に悪いことをしているわけでもないのだが、妙に緊張する。相手が出てくるまでになるだけ冷静に、怒っていることをストレートに伝えられるようになっておかなければ。
とりあえず深く息を吸い込む。
「な、なんでしょうか」
そしてドアが突然開いたことで息を吐くタイミングを完全に見失った。
「ぶふっ、あ、すみません夜中かゲホッゲホッ!!」
「大丈夫ですか……?」
いかん、下手に出つつもそれとなく現時刻が夜中であることを伝えつつ、本気で怒っていることを伝える作戦が台無しだ。相手の女性は心配そうにしているがどことなく不審者を見るような目つきをしている。
「その、俺は隣の部屋の新町です。非常に言いづらいのですけども、そちらの声がこっちにずっと聞こえていまして……」
「あっ……」
言えた。言えたが想定していたよりも気まずい。女性……田村さんは青ざめているし、俺は一体この状況からどう脱出するかを考えていなかった。どうすりゃいい?あなたが彼氏とお楽しみの声がこっちに聞こえているのだと切り出したところから、どうやったら穏便に終われる?
「かっ」
そういえば出てくるのがいやに早かった。全裸でお楽しみ中だったらふつう出てくるのに時間がかかるはずだが、田村さんは汗一つかいていない。あれか?着衣で静かにってやつ?でもそれならあんな激しい声は出るのかどうか……そもそもこういう時は彼氏も一緒に出てくるのでは?
「彼氏さんは、いらっしゃらないのですか……?」
必至に考えをめぐらせた俺の口からは、新手のナンパかと思えるような最悪の一言が飛び出していた。
確実に状況が悪化した。雰囲気で分かる。見ろ、田村さんの青ざめていた顔がみるみる赤くなり、表情は呆然そのものだ。ご慧眼、あなたの不審者を見る目は確かなものだと、不審者と化した俺は通報を覚悟した。
「あのその、彼氏、とかじゃなくていしです!」
「えっ」
突然叫んだ田村さんの言葉は半分も耳に入らなかった。彼氏じゃない、というところは聞こえた。で、なんだって?
「意思って言いました?医師?遺志?えっ?」
「いしです。ストーンっても言います」
「ああ、石……」
石かぁ。確かに英語ではストーンだ。
「……それで?」
またしても頭に浮かんだことをそのまま言ってしまう。でもしょうがなかろう。彼氏じゃなくて石?どういう意味だ。石井という彼氏か?それが音漏れするほどのうるささにどう関係がある?
「ちょ、ちょっと待っていてください!」
ドアが閉じ、ほどなくして再び開いた。戻って来た田村さんは、手に石を持っている。
「お待たせしました。石です」
「石……ですね」
「……」
「……?」
石だ。田村さんが持っているのは何の変哲もない、しいて言うなら気持ち小奇麗な、石。
「あっ石だけじゃわかりませんよね!?えっと、コレが相手です!」
「ああ、なるほど。石が相手だったんですね!いや何の相手だ」
こらえきれなくなったツッコミがとうとう口から出た。彼氏じゃなくて、石が相手ってまさか、そういうことか?石と、っていうか石でお楽しみだったってこと?ちょっと趣味がハードすぎませんかね、二重の意味で。
「ちゃんと説明してください。俺があなたの声で寝れなくて困っていることと、この石とどう関係があるんですか。だいいち、石を何に使っていようが声はあなたの責任でしょう」
「えっと、この石は攻めなんです」
「……攻め?」
混沌とはまさにこの状況だ。まったく意思疎通ができない。
「新町さん、ですよね?ちょっとあがってください。せ、説明するので」
「ああ、はい。よろしくお願いします……」
しびれを切らした、というより混乱した頭を一度リセットする意味なのだろう。田村さんに招かれて、彼女の住居に入った。男物の靴は無く、部屋の中に人がいるような気配もしない。
「どうぞ」
「お邪魔します」
そして廊下の奥、彼女の部屋で俺が見たのは……。
女性の部屋にあまり入り浸ったりする人生ではなかったのだが、姉の部屋と比べると片付いているように見える部屋。アイドルオタクな姉と違いどこにもかしこにもポスターとグッズが置いてあるというわけでもなく、特異な点は一か所のみである。
本棚の隣、普通ならフィギュアでも飾ってありそうなショウケースの中に、整然と石が並べられていた。
「石、お好きなんですね」
「最初は石の擬人化したゲームにハマっていたんですけど、そのうち石そのものを集めたくなってしまって……」
ああ、イケメンだったり可愛いキャラになっていたりする感じのアレか。よく知らないが、姉も確か刀が好きだとか言っていたっけ。
「それで、石が攻め、っていうのは……」
「それはですね!さっきまでここの机でやってたんですけど」
興奮した様子の田村さんはショウケースから白黒まだらな石と手に持った透明な石をローテーブルに敷いたランチョンマットの上に置き、軽く接触させつつ、やさしくこすり合わせたりした。
……これで俺に何を伝えようと?
「閃緑岩は石英に比べて柔らかくてですね、オシャレに着飾って普段は攻めなんですけど、事になると石英の方が硬いので受けなんです。そして、石英は普段は物静かなんですけど一転して」
「すみません、ちょっと考えさせてください」
このような女性にはひどく覚えがある。というか姉がこうなっているのを見たことがある。上気し、興奮した面持ちで攻めだとか受けだとかを物に関して語る。そして彼女の手には実際の物、というか石が。
分かった、これで謎解明だ。
「つまり、ちょっとオトナなごっこ遊びで興奮して叫んでしまっていたと?」
「うぐっ」
低い声で田村さんがうめいた。うぐっ、とか実際に言う人初めて見たぞ。
「最初は上司に見立てた石ころをいじめてストレス発散をするつもりが、だんだん興が乗ってきてしまった、と」
「はい、モブにむりやりされる上司のつもりだったんです……」
ひざまづいた田村さん相手に事情聴取。職場でのストレスからかような行為に興じてしまうとは、なんとも罪深いのは日本の就労環境である。
「……まあ、わかりました。反省しているのでしたら、俺からは何も言うことは無いです」
「あ、ありがとうございます」
しおらしくなった田村さんは、すこし可愛かった。
だからか、思わずこんなことまで口走ってしまう。
「でも、ストレス発散について静かにやるのは難しいかもしれませんし、週末でよければ飲みながらでも愚痴を聞きますよ。代わりに、せめて平日は静かにしていてくださいね」
田村さんが頷き、取引成立。飲みの出費は痛いが、それで安眠が確保できつつ、あわよくばこのかわいらしい女性とお近づきになれるのなら安いものである。
そう考えていたこのときの俺は毎週末、どっちが攻めだどっちが受けだとかいう意味不明な石トークに付き合わされる羽目になるとはまだ気がついていないのだった……。