彼女がチョコを撒いた日 男性サイド
通りすがりに、でかい掌で背中を叩いた。
「佐々木、聞いたぞ。次期社長だってな」
またか。
この手の台詞を、朝から何度聞いただろう。
「生憎、相手には実のお兄さんと義理のお兄さんがいます。俺の出る幕はありません」
だいいち、彼女とは付き合い始めたばかりで、結婚すると決まったわけではないのに。
噂の発信源は、解っていた。山根課長。俺の直属の上司だ。
一週間前の十九時、いきなり課長から呼び出されたのは、とあるイタリアンレストラン。部長が、営業二課に配属の有志面々と親睦を図りたいと言い出したらしい。
だが。
かなりこじんまりとした個室に通されて、待っていたのは部長でも課長でもなく、若い女性。
俺は、その人を、知っていた。
正直、嫌な汗しか出て来ない。だって、相手は取引先の社長のお嬢さんだ。去年の夏に開かれた創業パーティで初めて会った。その後も、研修の一環とかで、うちの工場の見学に来ていた。栃木まで案内させられたので、覚えている。
「佐々木 清良さん?」
確認するように尋ねられ、素直に頷いた。
「は、はい。でも、お嬢さんがどうして、ここに?」
部長を囲んでの親睦会はどうなった? などと思っていると、彼女はくすんと笑った。
「『お嬢さん』は止めて下さいね。葉月です。川野辺 葉月」
「いつも、大変お世話になっております」
深く頭を下げる俺を制して、葉月さんが逆に頭を下げた。さすがに、ぎょっとした。
「この度は、失礼なことをしてしまい、申し訳ありません」
「は?」
「山根さんに、お願いしたんです。佐々木さんと二人だけになれる場を作って欲しいって」
要約すると。
あの創立パーティで葉月さんは俺を見初めたらしい。その後、研修の度に自分から参加して――うちだけではなく、他社の工場見学も、行っていたらしい。
何で俺なんだと、正直思った。
「良い人」と、よく言われる。「ばか正直」とも。だが、それらは褒め言葉であると同時に「男としての魅力が著しく欠けている」ことを暗示しているようだ。現実に、「営業二課の佐々木」は、年上の女子たちにとっては絶好の「いじられ役」なのだから。
葉月さんは、それを知っていて。それでも、俺の事をもっと知りたかったのだと言ってくれた。
「栃木工場まで車を出して下さって。その後、半日かけて案内して下さって。誠実な人だってよく解りました。だから、自分の気持ちを素直に打ち明けようって決めたんです。私と、お付き合いしてもらえませんか?」
勿論、断る理由はない。
取引先の社長令嬢の肩書が少し重く思えたけれども、出会いはかなり強引ではあったものの、話してみればふつうの女の子だった。
改めて見直す。そこに二十三歳の、可愛い女性の姿があった。
翌日の朝に山根課長から電話があり、進展を聞かれたので、お付き合いをすることになった旨を報告した。
課長によれば、彼女は末っ子で、上に兄と姉が居り、二人とも結婚していて、兄、姉、義理兄共に要職に就いているらしい。だから、万が一にも結婚という事になったとしても、今の会社を辞める必要はないのだと。
『残念だったな、佐々木。社長になれなくて』
課長の楽しそうな声が、今でも耳に残っている。
俺は、ため息をひとつついてから、給湯室に向かった。外出前に、熱いコーヒーを飲むのが日課だからだ。
「あ、佐々木くん」
給湯室には、総務の白井さんが居た。
三年先輩の彼女を、俺は「ねえさん」と呼ぶ。姐御肌の白井さんは、俺にとってもそんな存在だから。
「結婚するんだって」
二言目にそう言われて、また、げんなりとする。
「ねえさんまで、止めて下さいよ。まだ、決まってませんから」
「でも、断らなかったんでしょ?」
「断る理由なんか、ないっしょ? 相手は、二十三歳で、美人で。取引先の社長令嬢って所はちょっと引いたけど。話してみたら良い感じだったし」
「そっか、良い感じなんだ」
何故か、残念そうな、白井さん。
「ねえさんには、負けてますけどね」
「は?」
「豪快さで」
「どういう意味だ!」
「良い所も知っているんですよ」
「ほうほう、どこ?」
「甘やかしてくれるとこ」
かなり本気で言ったのに。返って来たのは、
「馬鹿か。大馬鹿者か」
『特別な女性』が誰かと聞かれれば、少し前までの俺は、真っ先に「白井さん」と応えただろう。色んな意味で。例えば、『ひとめ惚れ』の相手とか。
入社当初、俺は「しでかした」。
人生初めての、汚点。上司や先輩にフォローさせて。明日、出社するのも嫌だと思った時、白井さんは言ってくれた。『辞めるなよ。佐々木』と。
「命令口調で、しかも呼び捨てですか」と問えば、「そうだよ。あなたは、そういう子だから」と、からかうような笑み。
「覚えておきなさい、佐々木くん。次は、あなたの後輩をあなたがフォローすれば良いの」
それで、気分がすっと楽になったのを覚えている。
思えば、俺が「良い人」「馬鹿正直」になったのって、この白井さんの一言があったからだよな。
「ねえさんは今年も例の行事には参加しないんすか?」
気になっていた。白井さんは、いつもバレンタインデーには参加しない。義理はおろか、同僚へのおすそ分けもない。なので、本命が居るかどうかも解らない。
「しない。あんな悪習、参加する方がどうかしている」
これだ。
日本全国の女子を敵に回すようなことを、きっぱりと言い切る。我が道を進み、弟を叱咤する。だから、白井さんは「ねえさん」なんだ。
「一度ぐらいは、可愛い佐々木にチョコを恵んで下さいよ」
「そういう事は、彼女に言いなさい」
言われて、始めてそこに気が付く。
もらえるのだろうか。生まれて初めての、「本命チョコ」。
「くれますか、ねぇ?」
「そりゃあ、貰えるでしょう。きっと、立派なやつ」
なんだろう。「立派な」って口調に棘を感じた。でも、もう一押ししてみよう。
「俺、ねえさんのチョコも欲しいです。義理で充分ですから」
「当たり前だ。そもそも、そんな悪習に、私は参加しないってば」
「でも、女性から男にチョコを贈るって、少し萌えません? 俺、可愛いって思うんすよ。女の子が義理でもチョコ贈る時」
「あんたは、ただの馬鹿だ」
むっとした顔。どうやら少し怒らせてしまったらしい。
一度ぐらい、可愛い白井さんを見たかっただけなんだけど。さすがに「弟」相手に、それはないか。
「じゃあ、出まーす」
「はいはい。行ってらっしゃい」
そして、二月十四日。
「佐々木、今日は定時に上がって良いぞ」
山根課長が、にやにやとしながら告げて来た。
「おれも、鬼じゃないからな。覚えとけ」
「ええええ。じゃあ、去年のクリスマスのアレは?」
同僚がうらめやましそうに俺を見た。
「去年のクリスマスは、日曜日だろう?」
「イブじゃなくて、本番。月曜日でした!」
イブに予約が取れなくて、二十五日にディナーの予約を入れたのだろう。
俺も今日は予約をしている。数日前に彼女から連絡があったからだ。十四日の夜に会いたいと。
初めての本命チョコに、少し舞い上がっているのは、内緒だ。
帰ろうと立ち上がった背中を、思いっきり叩かれた。
振り返ると、白井さん。紙袋を持って立っている。何故か、顔が怖い。
「あれ? どうしたんですか?」
「ご祝儀」
紙袋の中から取り出されたのは、ピンクのリボンがかかった可愛い小袋。
これって、まさか?
恐る恐る受け取ると、白井さんはいつものように、にっと笑った。
「腹痛はそっち持ちで」
そう言って、白井さんが初めてチョコを撒いた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
とりあえず、男性サイドだけでもUP致しました。
女性サイド、明日に間に合うか?