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影取り沼

作者: 尾妻 和宥

 ドッコイショ! あー、よく寝た……。

 九月下旬の日曜の朝、きっかり六時ジャストに眼がさめた私は、愛用のリュックを肩にかけ、気分転換がてらハイキングに出かけることにした。


 どうせ妻は、中学にあがったばかりの治人はるとをつれて三週間まえに実家に帰ったきり。おそらくこれが決定的な里帰りとなるだろう。

 原因は私にあった。なにもいまにはじまったことじゃない。女癖の悪いところが再燃し、密告され、彼女にバレた。今度こそ妻は許してくれないかもしれない。いったんこうと決めたら折れない女だ。……でも、いいんじゃない? 私のお気楽な性格にも我慢を重ねてきたみたいだし、頃合だったのだ。 


 JR大曲駅からバスに乗り、十五分ほど揺られ、成り行きまかせに適当な停留所でおりた。

 ガタのきた五十半ばの身体をむち打ち、気ままに歩いてみることにした。

 ひたすら県道三十六号線の左側の歩道を南下する。


 肺一杯に深呼吸してみた。土の香りが鼻にこそばゆい。

 右手は田畑と鉢位山はちいざんの山裾がすぐそこまでせまり、左もまた茫漠たる田園風景がのっぺりと広がっていた。ところどころ民家が固まっていたりするが、繁華街にくらべ歯が抜けたように閑散としていた。日が落ちれば、さぞかし寂しい通りになるだろう。


 途中、小さな酒屋を見つけた。昼食は店でとるつもりでいたが、このぶんだと手ごろな食事処があるとは思えない。適当なつまみと酒でも買っておこうと、店に入った。

 店内には中年女性がテレビのワイドショーにかじりついて番をしていた。私は菓子パンとビーフジャーキー、ワンカップを求めた。


「この俳優さん、浮名を流しまくってるけど、よく刺されないわよね」と、店番はポテトチップスを食べながらあけすけに言った。「バツ五らしいわよ。そこまでいくと、りっぱな人格破綻者よね」


「夜道を歩くときゃ、背中に鉄板でも仕込んでるんじゃないかな」


 私は請け合った。


「でしょうね。……あ、心当たりあるんだ」


「めっそうもございません」


「お客さんの顔、どこかで見たことあるなと思ったんだ。あなた、火野正平にソックリね。ひょっとして自転車で旅の途中?」


「あいにく歩きですよ。たしかに瓜二つとはよく言われますが」


 代金を払い、外へ出ようとすると、店先で小柄な老女が打ち水をしているのに出くわした。

 上品そうな顔立ちながら、初対面の私の素性をさぐるような眼つきで見つめ、鈴を転がすような猫なで声で、


「どうもありがとうございました。このへんは初めてですか。どこまでお行きなさるんです?」


 と、言った。感謝の意をあらわすのだから、店の者なのだろう。


「私も大仙市の人間ですよ、地元民。ちょっと気まぐれ起こして、今日はこちらまで足を伸ばしまして。別にこれと言って目的地を定めちゃいないんですが、もうちょっとブラブラとこの道を歩いてみようかと思ってね」


 と、私は快活に答えた。


「人生も、たまには息抜きが必要なように、そんな小旅行があってもいいかもね。お若い方はうらやましい」


「こう見えて、若くもありませんよ。昔からじじむさいと言われましたから。お世辞はけっこうですって。それに計画性がないのも、私の取り柄でして」


「あらそう」


「それよか、おばさん」と、言って、私は南の方角を指さし、ズケズケと言った。「この先を行くと、めぼしい名勝地とかないんですか。眼の保養になれば幸いと思って最寄りのバス停でおりたんですが、こりゃ、当てがはずれたかな」


「ありません。見てのとおり、なんにもないでしょ。なんにもないのが、この町の取り柄。しいて言うなら、このまま行けば雄物川おものがわにぶつかります。私たちを育てた地元が誇る一級河川ですよ」


「なんと。一級河川。釣竿でももってくりゃよかった」


「なら、この暑さですし、遊泳なさるのもいかが? 地元の子供たちとご一緒にね」


「あいにくですが、こちとら泳ぎは得意でないんです。子供のころ、祖母にカッパ伝説を聞かされて育ってるんで、深い水は苦手なんですわ。尻の穴に手を突っこまれ、尻子玉を引き抜かれるっていうあの話。いまだに忘れられない」


「カッパよりも怖いものはありますよ。川へ行くにせよ」と、老女は首をななめに傾げ、声をひそめた。

「途中、稲荷いなり神社が右手にあるんですが、そちらに寄るのだけはよした方がいいですわ」


「稲荷神社ですか。そりゃまた、どして? お稲荷さんが化けて出て、イタズラされますのん?」


「敷地には沼があるのです。影取り沼と言いましてね。そばに近づかない方が身のためです」


「影取り沼」と、私は眼をまるくして言った。「なんとも意味深な名前じゃない」


「ごく稀に、足を踏み外して沼にはまってしまい、命を取られる人がいますのよ。まるで何者かに誘われるかのように。底なし沼と恐れられ、地元の人は近寄らない場所なんです」


「底なし沼ね。子供がはまるといけない」


「昔から沼には、なにものとも知れない怪物がんでいると言われてきたものです。夕暮れどき、西の堤防を通る人間の影をとらえて食べてしまうと言い伝えが残されています。影を食べられると、本体も命を落とすとされているの。ですから、行くのはおよしなさい」


「ご忠告、ありがたくちょうだい致します。どうも、ありがと。おばさんもお元気で」


 と、私は言って片手をあげ、老女に背中を向けて歩き出した。

 影を食べる怪物だって?

 なにそれ、ちゃんちゃらおかしい。

 そんな都市伝説ならぬ田舎の迷信を、いまだに信じているなんて、なんとも牧歌的な人だなあ……。


 ……ところがどっこい、あれほど老女に諭されたにもかかわらず、私は稲荷神社の境内に足を踏み入れてしまったんだな。

 行くな行くなと注意されたら、よけい行きたくなってしまうのが人の心理ってもんじゃない?

 暗い木立を抜けると、樹冠にさえぎられ、太陽の光とて届かない陰気な広場が現れ、一面にその沼地が広がっていた。


 影を取るという怪異があらわれる影取り沼か。SNSにアップするぶんには、いいネタになるかもしれない。

 どれどれ……手前に粗末な立札が飄然と立ち、奥の沼の面積はざっと二十平方メートルあるかないかの楕円形が広がっていた。濃いヒスイ色をたたえ、波紋のひとつ発生しておらず、片栗粉で溶いたみたいにトロトロとした水質で淀んでいた。


 私は立札の文面を、声に出して読んでみた。


「影取り沼について。かつてここを、影取り沼と呼んだ。水面に通る人の影が映ると引き入られたとの伝説がある。阿館近くの豊岡村のお玉ヶ池にも類似の口碑が残っているという。東京都町田市にも同様の影取り沼伝説があるとされている。新田義貞にったよしさだの武将小山田高家が戦死した折、奥方があまりの悲しみで村境の池に身を投げ、侍女たちもそのあとを追った。それからというもの、すすり泣きの声が聞こえ、池水に影を映した女は意識もうろうとなり、水底に誘いこまれることがあったという」


朗々たる声が境内に響いた。まわりには私のほかに物好きな人間なぞ、誰もいやしない。


「ふーん……。日本は意外と広いね。そんな言い伝えが各地にあったなんて。しかし、影を取られると命まで奪われるだとか、女のすすり泣きとか、気持ちのいい場所じゃないね。写真だけ撮って、さっさと退散した方がよさそうだ」


 私はスマホをカメラモードに切り替え、おっかなびっくり沼の縁に近づいた。

 水鏡に自身の顔を映す。赤と黒のニット帽をかぶり、無精ひげをはやした赤ら顔のひょうきんな顔が映った。

 うむ、いつ見ても男前だ。若いころはこのにやけた顔に、得意の話術さえあれば、いくらでもいい女がなびいたものだ。もっとも、四捨五入すれば六十をまえに、とんと音沙汰ないのだが。


 眼下の沼はどれほど水深があるのかうかがい知れないほど、見通しが利かない。

 底なし沼か……そもそも底がないなんて、あり得るのか? 地球のマントルまで沈みこんでいくという馬鹿げた妄想が脳裏をよぎった。


 カメラモードで数枚、シャッターを切った。切るたびに身体を沼地にさし出す恰好となった。

 水鏡に私の影が落ちた。

 次の瞬間、背中の両方の肩甲骨のあたりに衝撃。

 影がせまりくるような感覚がした。

 すわ、ほんとうに影が襲ってきたのか? いや、ちがう。私は頭からつんのめって……そして沼に落ちた。


 たらふく金臭い水を飲まされたのち、あわてて水面に顔を出した。

 なんてことだ、足が届かない。必死で立ち泳ぎをした。

 ほんとうに影をつかまれたのかと思った。


 そうじゃない。背後から何者かが忍び寄り、私の背中を押して突き落としたのだ。

 反射的に私を落とした張本人を見ようとふり向いた。マッサージのつもりで、あやまって強く押されすぎたとは思えない。


 沼の縁には見たことのある女が佇んでいた。

 範子のりこ

 まさか範子がここにいたとは……。

 範子は眼を見開き、両手を突き出した恰好で静止していた。


「あなたがいけなかったのよ」と、範子は心ここにあらずといった面持ちで声をしぼり出した。「いつまでもあたしの気持ちを踏みにじったまま、きれいな言葉ではぐらかすだけで、ちっとも結論を出してくれなかったじゃない」


「範子……けてたのか」私は溺れながら言った。「おれが悪かった。たのむ、お願いだ、助けてくれ。話せばわかる」


「あたしがどれだけ待ち焦がれても、無為むいに時間だけがすぎていく。あたしはもう若くないの」と、範子は言った。「もう子供が生めない身体になっちゃったの。なのに、気づいてくれないなんて、ひどい人」


「そんなの知ってた。あえて声をかけないことも、おれなりの優しさのつもりだったんだ」


「都合のいいことばかりならべて。いつも取り繕ってばかり」


「言葉足らずだったかもしれない。それは謝る。とにかく岸へあげてくれ。つぐないはするから」


「いいえ」と、範子は眼鏡の向こうの冷たい眼で見おろし、つき放した。「あなたが消えることで償いになるの。あなたはやりすぎたわ。存在自体が罪なのよ。ついに裁きをうけるときがきた……。それと、奥さんが出ていったそうじゃない。せっかくだから、タネ明かししてあげる。あれはあたしの仕業よ」


「なに言ってる」


「あたしが電話して密告したのよ。長年、あたしという会社の部下とできていながら、ほかの若い女に目移りしてたんだと。あなたはいけない男だわ。遅かれ早かれ、あなたはお古の女に命を奪われるのよ。あたしじゃなくとも、奥さんが突き落としてたかもね」


「これは殺人だぞ。おれが浮気性だからって、やりすぎだ」私の立ち泳ぎは限界にきていた。深みにとられ、口腔にヘドロ臭い水がなだれこんでくる。そのうち、片脚にこむら返りがおこり、浮いているのが困難になった。「マジで助けてくれ! おれがぜんぶ悪かった! 心を入れかえるから!」


「因果なめぐりあわせね。ここは影取り沼。しくもあたしの実家の近くなの。池の言い伝えは知ってる」と、範子は立札を見て、唇の端を吊りあげた。「影が取られ、沼に引きずりこまれたというより、あなたの影そのものだったあたしに、まさか命を取られようとはね。絶好の処刑場だとは思わない?」


 範子の狂気をまざまざと見せつけられたような気がした。

 まずい。気管に水が入りこみ、まともに呼吸できない。

 もはやこれまでか――と観念しかけたとき、池の横からロープが投げ入れられた。


「これにすがりなさい!」


 と、木立の向こうで誰かが鋭く叫んだ。私はすかさずロープにむしゃぶりついた。

 範子は池の横からやってきた中年女性――よく見れば、さっきの酒屋の店番だ――をにらんで歯をむき、そのあと自身の背後に近づく別の小柄な人影に気づき、狼狽の色を示した。


「なによ、あんたたち。よくも邪魔したわね!」


宮路みやじさんのとこの長女さんですわね、あなた。たしか範子さん」酒屋の老女が木立から姿を現した。上品な猫なで声で続ける。「正気に戻りなさい。いまのあなたは心乱されているだけ。彼を許してあげなさい。たとえ、どんなひどい人だとしても、殺すまではないはずよ。一線を超えちゃダメ」


「ひどいってもんじゃないわ、この人。あたしの人生をメチャクチャにかきまぜといて、平気の平左へいざみたいな顔して、生きてるなんて許せない!」


 私は必死の思いでロープにすがり、中年女性にひっぱりあげられた。酒屋の店番は息を切らせながら、


「あなたは沼の力でどうかしてるのよ。頭を冷やしなさい。ここにいると、心に影もつ人はみんなあやつられちゃうの」


 私はようやく岸にあがり、生還することができた。

 もうしゃべる気力もなく、仰向けになったまま呼吸を整えるしかない。

 老女は範子にせまった。


「このことは警察には伏せておきますから、あなたは帰って頭を冷やしなさい。彼とのあいだにどんなことがあったか知らないけど、人を恨むのはよくありません。ましてやあやめようなど、それで物事が解決するものですか。思いを遂げたとしても、あなたはきっと後悔に苦しみますよ」


 範子は顔を覆い、その場でくずおれた。


「……あたしはバカだった。つらい過去を引きずってばかりいて、前に進まなかったあたしにも落ち度があった」


「そこにおれがつけこんだ。優しさでせまれば、彼女はたやすく落ちた」と、私は半身を起こしながら言った。そのあと、はげしくせきこんだ。「範子は悪くない。結局、おれのエゴが彼女をこれほどまで苦しめたんだ。裁きを受けたとしても致し方ない」


「どんな事情があるにせよ」と、酒屋の店番が範子のかたわらにしゃがんで言った。「一人の男に入れあげて、ちょっとばかしつまずいたところで、ぜんぶご破算にすることはないよ。ほかにも男は大勢いるじゃない。絶望するには早すぎるって」


「あたしは」範子は顔をくしゃくしゃにして嗚咽おえつをもらした。「あたしは、あやうくこの人を手にかけるところだった。我を忘れたあたしが、こんなにも醜く」地面に突っ伏し、泣きくずれた。「おそろしい人間だったなんて。あたしはもう少しで鬼になるところだった」


 老女がそっと、範子の肩に手をおいた。


「我を忘れたのは、なにもあなたのせいだけじゃありません。きっと、影取り沼の力がそうさせたのよ」


「影取り沼の力」と、私は濡れたニット帽をしぼりながら言った。「ここは、ほんとうに迷える人を引きこむってわけか。んなバカな」


「昔から沼の水面を見ると、魔がさす人がいるというの。ときおり、おかしくなる人がいるんです。できるかぎり、私は道行く人に忠告しているのですが、それも、おのずと限界がある」と、老女は言った。涼しい双眸は、まるで湖面のように凪いでいた。「さっき、あなたが店をあとにしたとき、すぐに範子さんが追いかけていったのを見たのです。なんだか様子がおかしかったので、私はもしやと思い、かけつけてみたの。彼女は真っ黒な煙のような影をまとっていたわ。不安は的中しました。なんであれ、最悪の事態は避けることができてなによりです」


「私のまいたタネとはいえ、愁嘆場を見せてしまい、お恥ずかしいかぎり。……いえ、範子を傷つけたことは反省してます」


「さぞかし反省の連続だったでしょうね。ご自分の半生は」


 と、店番の女が茶々を入れた。


「いいよ、そんなの」私は面倒くさげに手を払った。「それよか、なんで私が沼に行くとわかったんです。あれほどおばさんに警告されたのに、言ってもきかないと見抜いたんですか」


 老女は口を隠して笑った。


「いかにもあなたは軽そうだし、ヘソ曲がりな気がしました。行くなと禁止されれば、おそらく行かずにはいられなくなるタイプ。そこへただならぬ雰囲気の範子さんが尾行していたとなると、影取り沼の思うつぼになりかねない。それであわてて嫁をつれてここまできたわけです。ロープをもってきて正解だったようね」


「なんでい、タイプがわかってたのなら、最初から水を向けなきゃいいのに。おかげでおなかがチャッポンチャッポンいうほど膨らんじゃったい」


 と言って、私は降参ポーズをした。





        了

        ★★★あとがき★★★


『日本伝説名彙』柳田国男監修・日本放送協会編、P.265『影取り沼』よりインスピレーションを得る。たった3行だけの話。

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