第6話 ある少女の一日
今回ちょっとグロいんで嫌いな方はご自愛下さい。
「いい天気だべなぁ~」
少女はそんな一言と共に、今日も飼っている家畜たちに餌をやる。
少女、リニエ・エスコートは田舎生まれの田舎育ちである。
いや、田舎と言うことすら烏滸がましい、僻地に住んでいた。
半径三十キロメートル内に少女の家以外の建物はなく、何も視界を遮蔽する障害物が無い牧草地帯にも関わらず、他の家は影すら見えない。
少女は小屋で寝泊まりしていた。
厩舎や家畜小屋、そして柵に囲まれた牧草地でのんびりとしている牛、馬、豚、猪、鶏たちに餌をやり、排泄物を掃除し体を洗い、乳を搾り卵を採り、健康管理をする。
リニエは勤勉だった。田舎で一人暮らしにも関わらず、文句も言わず働いた。
周りに人がいないからか人付き合いは苦手で、今まで恋情や友情といったものを感じたことはなかった。
親は世界随一の大王国、リビア王国に出稼ぎに出ており、十六歳の彼女が十八歳になる頃、出稼ぎから帰って来る予定である。
少女は、リビア王国へと行くことが夢だった。
リニエは今日も勤勉に仕事をする。
近日開かれる、一年で最も盛り上がるリビア祭には、リニアも赴く予定である。
そこで祭りを楽しむことが一年の最大の楽しみであり、リニア祭を両親と共に回る予定もある。
リニエは今後のことを考え、ウキウキする。
「うへへぇ~…………」
「コケッ! コッコッコ」
「あぁ、すまねぇだぁ」
近日開かれる祭りに思いを馳せ、垂涎していたリニエは、鶏の餌場で立ち尽くしていた。
リニエは心が浮つき、自失していた。
一年で唯一許された休暇の際に祭りに参加して、稼いだお金を散財することが、リニエの生きる理由とすら言ってもよかった。
「今年も楽しみだべぇ~」
リニエは今日も勤勉に世話をする。
家畜の世話を終え、リニエは納屋の在庫のチェックに行く。
納屋には日常生活や家畜の世話に使う様々なものが置いてあり、日々継ぎ足している。
「あんらぁ~、薪がねぇべなぁ~。薪の補充しねぇといけねぇだ」
薪が切れていた。薪は色々な用途で使う。柵を作ったり、小屋を造ったりと、便利な素材だ。
「今日もやる事多いべな~」
リニエは近辺の森に赴くことにした。
森に行く前に家畜の世話をやり、
「逃げるでねぇべよ~」
と、家畜たちに魔法をかける。『召還魔術師』の下位魔法であり、Dランクスキル『指令』である。
召還魔術師と家畜の相性は抜群であった。
リニエはそのスキルを活かし、家畜の世話を容易に行うことが出来た。
リニエは毎日何百もの家畜に『指令』をかけている。
最初こそ失敗も多かったものの、こと『指令』の熟練度に関して言えば、今では上位召還魔術師のそれすら上回る。
「オラが一日以上帰ってこなかったら自由にするべよ~。」
リニエは、自分が帰ってこなかった時のことも考え、家畜に命令する。森に行く時の習慣である。
リニエの家から森までは徒歩一時間と、中々遠い距離にある。
牧草地帯には魔獣は現れないものの、森には凶暴な魔獣が沢山いる。
突撃猪や、鉄熊に、身の危険を感じれば毒を放出する毒蝸牛などが生息しており気は抜けない。
だが森の入り口辺りには精々毒蝸牛しか見られず、何も危害を加えなければ危険ではない。
リニエは、薪を取りに森へと赴いた。
歩くこと一時間、森の入り口に辿り着いた。
「なんだべこれ……?」
森の中では、多くの木が薙ぎ倒されていた。枯れ木や木の欠片を持ち帰り、薪として使用することが常であるが、何故か薪の素材となりそうな木の欠片が多く散乱しており、これ僥倖に、とリニエは喜び薪を拾う。
「にしてもなんだべなこれ~? なしてこんなに木が薙ぎ倒されてるだ?」
リニエは疑問に思う。
「台風でも直撃したんべか……?」
これほどの木が薙ぎ倒される原因が分からなかった。
森の中に木を薙ぎ倒すことが出来るほどの膂力を持つような魔獣は鉄熊くらいしか思いつかなかったが、鉄熊は自らの縄張りを示すために爪痕をつけることはあっても、薙ぎ倒すようなことはしない。
「何か分からんけどラッキーだったべ~」
リニエは特に深いことも考えずに薪を拾い続ける。
薪を拾い、背負い籠に積む。薪を拾い、背負い籠に積む。
「早く祭りの時期にならねぇべかなぁ~」
えへへと喜びながら薪を拾う。
日々の家畜への餌やりや薪割り、大工仕事に掃除などを繰り返すことによって、多少の量の薪なら軽々と持ち帰ることが出来るほどの膂力を擁していた。
リニエは、薪を拾う。薪を拾う。薪を拾う。
リニエはこの時何も気付いていなかった。これから待ち受ける不幸を感じ取ることすら出来ていなかった。
近日祭りが開催されることによる気の緩み、薪割りの素材が大量にあるという僥倖、祭りから帰ってきた時の為に素材を溜めておこうという心算、その全てが同時期に起こった。
その偶然の重なりが、今後彼女の身に降りかかる不幸に輪をかけた。
「えへへへ~」
リニエは楽しそうに薪を拾う。
「大量だべな~」
リニエは薪となる素材を広い、一度休憩した。
「よいしょ、よいしょ」
休憩した後リニエは薪を拾い、木に登っていた。
リニエは森の中に来た時、薪拾いの他家畜の増益を行う。
森の中で一番の家畜筆頭候補は猪である。鶏や豚もたまには見られるが、最も発見しやすい獣が猪である。
リニエは木の上から単独で行動しているイノシシを発見し、目下に見える猪にDランクスキル『指令』をかける。
獣には二種類ある。
魔獣化し、体内に魔力を有する凶暴な魔獣、及び体内に魔力を有さない野生獣。
昔リニエは、魔獣を家畜にしようと試みたことがあったが、魔力を有するイノシシは『指令』によって家畜化させることは出来なかった。リニエの魔力量が突撃猪より劣っているのか、習熟度が足りないのか、はたまた魔獣は受けたスキルをキャンセルする能力があるのか。
獣だけではなく、体内に魔力を有する動物は全て、魔物と呼ばれる。魔物の範疇の中に魔獣がカテゴライズされており、魔物は魔力を持つ全ての動物の名称であるのに対して、魔獣は体内の魔力を有する獣だけをさす言葉である。
他にも魔族と呼ばれる種族がおり、魔族は体内に魔力を有する人間の総称である。
勿論人間の体内にも魔力が宿ってはいるものの、魔族のそれは人間のそれと何かが致命的に異なっているらしく、肌の色は紫に近かったり、肌の色は人間と同じではあるものの額に角、頭に耳などが生えているらしい。
魔族は今や人間と共生しているものの、未だ魔族に偏見を持つものは有意な数存在する。
リニエに魔物の相手は厳しいため、今日もイノシシを家畜とするためスキルをかける。
「中々手ごわいイノシシだべ」
リニエは暫く『指令』のスキルを使用していた。
魔獣化していない猪は能力が低く、体内に魔力を有していないため、攻撃力は魔獣である突撃猪に比べ非常に低い。
猪は森の入り口少し奥辺りによく見られ、リニエは毒蝸牛をやり過ごし、籠に薪を詰め込んだ後木の根元辺りに置き、木に登り安全な位置から猪を家畜化するよう試みる。
猪にスキルをかけるも、猪の体躯からか、今回は何度『指令』をかけても言う事を聞かなかった。
リニエは人差し指を立て、猪に向かって円を描くように動かす。
「おらの家畜になるべ~。おらの家畜になるべ~」
リニエの必死のスキル行使はついに功を奏し、ようやく猪に指令をかけることが出来た。
「ブルルルル……」
「よーしよしよし」
リニエは念のためもう一度猪にスキルをかけてみる。スキルがかかっていない場合を考え、木からは下りずに指令する。
「その場で一周回るべ」
「ブルル」
猪は与えられた指令を忠実にこなす。
「よしよし、おらの言う事これから聞くべよ?」
「ブルッ!」
猪は頷くように首を一回縦に振る。
スキル『指令』は正しく効果を発揮したようであった。
「よいしょ、よいしょ」
リニエは木から下り、、家畜化された猪の元へと行く。
今回の森遠征はラッキーだった。
たまたま森の木が薙ぎ倒されており、たまたま猪と群れで遭遇することもなく、たまたま良質な材木が揃っており、たまたまそれが祭りの少し前の日に起こった。
通常、群れで猪と遭遇した場合は木の上でやり過ごす。
何も危害を加えなければ通常の猪が襲ってくるようなことはない。単体で行動する猪が現れるまで根気強く待つのだ。
「今回は首尾よく行ったべなぁ~……」
リニエは家畜となった猪に薪を積んだ籠を乗せ、括り付ける。
「お前は今日からポン助だべ。いいな、ポン助」
「ブルッ」
今後のため、まずリニエは猪に名前を付けた。
「それにしても本当に早く終わったべなぁ、夜までに終わるかどうか分からなかったべが、ラッキーだったべ」
そこで、リニエは少し欲をかいた。
「家畜も手に入れたし、薪も揃ったし、もうやること終わったべ。祭りも近ぇし、今回はもう少し薪でも拾いに行くべ」
リニエは森の奥に入る。
森の奥地に入ること数十分、リニエはまだ何の魔獣にも襲われていなかった。
「ふおおおおーーー!」
森の奥地に着いた時、気付けば興奮気味に叫んでいた。
リニエは感動していた。森の奥地に生えている多種多様で、希少な花や草に感動していた。
その中には魔力回復の原料として使用されるようなものが多数生えており、リニエは喜色満面で花を摘んでいた。
「森の奥地にこんな良い所あるなんて知らなかったべぇ~、ほれポン助」
「ブルッ」
リニエはもぎ取った草や花をポン助に食べさせる。
森の奥地は濃い魔力に包まれているからか、生えている草花も魔力に溢れている。
基本、魔力に溢れている食べ物のほうが美味しく、回復薬の原料となったりもする。
魔物の場合においても例外ではなく、家畜の猪よりも多くの魔力を体内に有していることで健康によく、また、食べれば体内の魔力が上がると言われている。
「それにしても、森の奥っていうのに全然魔獣なんていないべなぁ~」
リニエは気が緩んだ。
「母ちゃんや父ちゃんが森の奥さ危ねぇ、て言ってたけんども全然そんなことねえべさ」
「まんだおら魔獣の一匹すら見かけてねぇべ!」
リニエは両親が教えてくれた常識に疑問を持つ。
森の奥には数々の魔獣が潜んでいるから絶対に行っては駄目よ、という言葉を今は信じることが出来なかった。
もはや魔獣がいるという事すら信じられなかった。
事実、リニエは薪を拾いながらも辺りを間断なく警戒しており、数キロ離れていても魔物の類と思われる生物が目視出来たら、即座に引き返そうと考えていた。
が、実際魔物どころか動物一匹見あたらなかった。
魔力が溢れているということは摘み取った草花から分かるものの、それは過去の話であり、今は危険の少ない森になっているんだと、そう思った。
「さ、そろそろいっぱいいっぱいに積んだべ、ポン助、帰るべよ」
リニエはポン助に声をかけ、ポンと背中をたたき帰路に就く。
「森の奥さ大丈夫だぁ~、森の奥さ危険なんてねぇさ~」
リニエは大声で歌いながら帰路に就く。
これだけ森の奥地に潜り込んだにもかかわらず遭遇した生物が、猪に魔物である毒蝸牛だけである。
そのうち、魔物といっても毒蝸牛は危害を加えなければ魔物化していない蝸牛とほぼ同じであることからも、危険性は低い。
「祭りが~、あ~るべぇ~」
気が緩み切ったリニエは、呑気に大声で歌を歌う。
それが彼女の命運を決定的に変えた。森の中で大声を出せば目立つことは自明の理である。
獣の場合はいざしらず、魔獣の場合は目立つ人間を食することは当然であった。
実際、魔獣は、いた。
多く、存在していた。
しかしリニエがいた場所は男と女が魔獣との戦闘を繰り広げ、木を薙ぎ倒した場所であった。
そのため、薪となる木が落ちていることとその周辺に魔獣が少ないことに相関があることは当然であり、魔獣を見かけないことも当然であった。
リニエも少し注意を払って辺りを見回せば突撃猪の死骸が目のつきにくい場所に集められていたことに気付いたはずだった。
迂闊だった。
少女は祭りに気を取られ、沢山の薪に気を取られていた。
それ故に少女は、木の陰で気配を殺し自身を狙う獣の存在に気が付かなかった。
リニエの近くには、獣がいた。ずっと好機を狙い息を潜めていた。
その獣はリニエが奔放に歌を歌っている状況を好機と見、リニエの感知出来ないほどのスピードで木の陰から身を躍り出し、リニエに飛びかかり、爪を振るった。
「え……?」
リニエは突然の魔獣の襲来に反応することも出来ず、その場で腰をついた。
幸か不幸か、腰をついたことにより鉄熊の爪先は僅かにリニエの眼前を掠めただけにとどまった。
「あ……」
リニエは言葉を失った。
鉄熊は、森の中で最強と謳われている魔獣である。
リニエは森の奥深くに入ってしまっても、鉄熊の縄張りにだけは絶対に入るな、と口を酸っぱくして母が言っていたことを思い出した。
鉄熊は森の中で最も戦闘能力が高い熊である。
鉄の体躯を持ちながらも身軽な突撃猪と同程度の速度を持つと言われている森の悪魔。
かつて人口が盛んであった時に、鉄熊を見て帰ってきただけでも英雄視されるほどの魔獣だった。
そんな鉄熊の突然の襲来に、リニエは死を覚悟した。
「ぐるあああぁぁっ!」
鉄熊は自身の攻撃が紙一重で躱されたことに怒りを覚え、咆哮する。
その恐ろしい咆哮にリニエは失禁し、恐怖で全身が小刻みに震え、腰を抜かしたまま立つことが出来ない。
「あ……あはは、あははははははははははははは」
壊れた。彼女の人間性が、壊れた。
身に着けていたスカートはびしょびしょに濡れ、目からも鼻からも水が溢れ出、体液を出すことの出来る全ての穴という穴から体液を垂れ流していた。
リニエは、自身の死に様を考えていた。
どう死ぬか。
このまま正気を失ったまま死ぬか、出来るだけ逃げて背後から八つ裂きにされるか、人生の最後位は面と向かって死ぬか。
だが、死に様を考えるとともに、近日開催される祭りのことを思い出した。
死にたくない。
まだ死にたくない。
せめて祭りに行ってから、祭りに行ってから死にたい。リニエは死を目前にして、一縷の希望を抱いた。
それは、あまりにも小さな願い事だったかもしれない。しかし、リニエにとってはこれほどとない大きな願いだった。
リニエは震える声を押さえつけ、ポン助に叫んだ。
「お願い、時間を稼いでぇ!」
ポン助はリニエの願いを聞き届け、鉄熊と対峙する。
「ぐおおおぉぉぉ!」
「ブルルルルルッ!」
鉄熊は咆哮と共に猪に飛びかかる。が、猪はひらりと身をかわし、リニエの視線の先に逃げ去る。
出来るだけ、鉄熊がリニエから遠ざかることを考えた結果の行動であった。
「はぁ……はぁ……」
リニエは、必死で逃げていた。
失禁し、前も後ろも少し重くなった下着に不快感を感じながらも、足を震わせ、蛇行しながらも必死に森の外を目指す。
木に登るような愚策は思いつかなかった。鉄熊は容易く木を切り裂く。
仮に木が切り裂かれなかったとしても木に登ることが出来るため、それは死を待つ人間の愚かな行動であった。
リニエは必死に、必死に逃げる。
「母ちゃーーん! 父ちゃーーん! おらまだ死にたくないべぇ!」
「死にたく! ない!」
リニエは目に大量の水滴を浮かべ、泣きながら、そして木によりかかりながらも走る。
ぐしゃっ。
何かが潰される音がした。
振り返りたくなかった。振り返れば、間違いなく凄惨な現場を見ることになるからだ。
だが、リニエは心根の優しい少女だった。
自分の為に身命を賭して時間を稼いでくれたポン助がどうなったのか、その最期を見届けなければいけないと、思ってしまった。
リニエは走りながらもゆっくりと振り向く。
遠くの方で、潰れた何かが転がっていた。その何かの近くで鉄熊がしゃがんでいる。
ぐちゃっ、ぐちゃ。
鉄熊が何かに手を突っ込み、自分の口元に持っていっていた。
ぐちゃぐちゃ。
惨憺たる有様だった。
つぶれた何かは言う間でもなく、ポン助であった。
鉄熊はポン助だった肉塊を食べ、突然思い出したかのようにリニエに振り返った。
「ぽ……ポン助ぇ……」
リニエは恐怖と共に怒りが沸いてきた。が、ポン助が稼いでくれた時間を無駄にしてなるものか、と必死に走る。
走る、走る、走る。
ばきっ、ばききっ、どご。
鉄熊がリニエを追いかけていた。
猪を食べることに飽きたのか、はたまた食料が逃げていく様に本能的なものを感じたのか、猪はひとまず置いておき、次の食料も確保しようと考えたのか。
鉄熊は速かった。
速いという形容が生温いほどのスピードでリニエに向かい、駆けていく。
ポン助が必死の思いで稼いだ時間走りに走り開けた距離も、刹那の内に詰められていた。
鉄熊はリニエに追いつき、走っているリニエに並走する。
並走しながらの態勢で、鉄熊はリニエに向かって爪を振るった。
死んだ。
リニエはそう思った。しかし、現実はそこまで甘くはなかった。
ぐしゃぐしゃぐちゃっ、べちょ。
リニエの片腕に爪が食い込んだ。
「ああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
リニエは今まで感じたことのないほどの痛みに絶叫を放つ。爪が肉に食い込んでいるせいで痛みが引いていかない。
「ああぁっああ! あああぁぁぁ!」
リニエの悲鳴に耳障りなものを感じたのか、鉄熊はそこで爪を引き抜いた。
「ああああぁぁぁっ……うっ……」
リニエの片腕は、肉が裂けていた。
片腕の肉が裂け、骨付きが見えていた。幸か不幸か、片腕が失われなかったことで、リニエは自我を保つことが出来た。
吐き気がした。
と、同時にリニエは今朝食べたものも胃酸も、体内にあるものを全てと言わんばかりの勢いで嘔吐する。
「おえっ……」
リニエは吐きながらも走り続ける。
鉄熊は引きちぎった腕肉をむしゃむしゃと食べ、後方で立ち止まっていた。
「うっ……うえ……」
リニエは吐き続ける。
それでも歩みを止めず、リニエは駆けていく。
が、駆けることが出来なかった。
自分の吐瀉物に足が滑ったのか、足を出した後に大きく倒れた。
足の肉片が持っていかれていた。
「ああああぁぁぁぁぁぁぁっ!」
リニエは痛覚を思い出したかのように絶叫する。
気付けば、鉄熊がすぐ後方にいた。後方で足に爪を立て、片腕にした時と同様に、足の肉片をも引き引き剥がされていた。骨が見える。
リニエは泣き叫び、片足を引きずり、地面に擦りながらも鉄熊から距離を取ろうとする。
しかし、鉄熊はそれを許さない。
無事であった片足にも爪を立て、美食家でも気取った風に、肉を削ぎ取っていく。
「ああ! ああぁぁぁっ! あぁ……………………」
リニエの悲鳴が収まった。
いや、収まった訳ではなかった。
悲鳴を出すことすら出来なくなっていた。
足は肉片が食いちぎられ、逃げることもかなわず、無事だった腕も肉だけを剥がれる。
「もう…………だめだべ」
リニエは滂沱と涙をながした。
視界がぼやける。
鉄熊はそんなリニエの様子を気にしたる様子もなく、肉を食む。
腕と足の肉を汚らしく食い散らかした鉄熊は、お待ちかね、とでも言う風に頭に手を伸ばす。
「あは……あははははははは、あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
リニエは狂気に染まり、言葉とも言えぬ言葉を発する。
鉄熊の爪先が目に向かう。
リニエの目がぐちゃりと潰され、眼窩には闇が出来、脳に向かう爪はリニエの頭に風穴を開け、脳髄が染み出る。
そう考えた。考えたくもない惨憺たる未来であった。
リニエの片目に爪が刺さる、そう考えた時、リニエは最後の力を振り絞り、鉄熊に必死の抵抗を行った。
片目を抉り取ろうとした爪はリニエの最後の抵抗で軌道をそらし、リニエの目を瞼の上から切り裂くにとどまった。
リニエは最後に一矢報いることが出来た、と満足げな顔で脱力した。
そうしてリニエはいずれくるであろう鉄熊の食事を待つ。
すでに肉片を食い尽くされ、片目を失ったリニエに生きる希望は残っていない。
リニエは片目を失った。血涙を流し、静かに横たわった。
リニエは聖母に抱かれる赤子のようにして、最期を迎えることにした。その眼はきりっと強く鉄熊を睨みつけ、最期の瞬間にも目をあけたまま死ぬつもりだった。
だが、鉄熊の爪先がリニエの片耳に触れたとき、それは起こった。
鉄熊は突如リニエから距離を取り、横の草原に飛び込んだ。
時同じくして先程まで鉄熊がいた場所に、上から一柱の悪鬼が降ってきた。
悪魔だった。その悪鬼は不適な笑みを張り付け、鉄熊の方を見やった。
(この世の終わりだべ……)
リニエは瞬時に悟った。
森の悪魔、鉄熊に加え、上から突然降ってきた悪鬼。
その悪鬼は悪鬼羅刹を体現したかのような面もちで、よくよく見てみれば……人間だった。
金を上から振りかけたような髪に、宇宙を思わせる深い碧の眼。体躯は一般人と同じそれであるのにも関わらず、その男は異様な存在感を放っていた。
そこでふと鉄熊のことを思い出し見やってみると、鉄熊が彼に怯えていた。
森の悪魔が何かに怯えるなど、聞いたこともなかった。
反射的に、リニエは突如現れた人間に恐怖した。
鉄熊は彼に怯えるも果敢に飛びかかる。今まで天敵というもののいない森の中で育ち、自分より強い者を見てこなかったが故の慢心であった。
鉄熊は掌裡に光を纏わせ、スキルを使用する。そして、人間と距離を取ったまま爪を振るった。
スキルを使用して振るわれた爪は長く伸び、見るだけでその硬度が著しく上がったことが分かる。
距離を取った上での攻撃であることから自身へのリスクは少なく、攻撃手段としてはこの上ないように思えた。
伸びた爪は優に三メートルを越し、薙いだことにより彼の逃げ道がなくなった。
このまま爪に追われるようにして逃げ続けるか、その爪をも超える高さで跳躍するかしかなかった。逃げ続ける場合は逃げながらも鉄熊に接近しなければいけない。だが、鉄熊に接近戦を挑めば、スキルを解除し一方的に切り刻まれるであろうことを予見することは簡単だった。
だが、跳躍を選べば着地の際にもう片方の爪に裂かれることも予見出来た。
選択肢は一つもなかった。彼には死の道しか残っていない、リニエは瞬時に裂かれる男の体を幻視した。
だが、彼はその場で軽く跳躍し、着地すると同時に消えた。
いや、消えたかのように見えた。
結果から言えば、彼は地を蹴り瞬時に鉄熊の元に移動したようであった。三メートル近い距離を、一瞬にして詰めた。
先程まで彼のいた地面は深くまで陥没し、原形を保っていなかった。
信じられなかった。およそ人間とは思えない身体能力である。リニエは新たに現れた人間と思わしき生物に更に恐怖した。
鉄熊の元へ瞬時に駆けた彼は爪の根元を持ち、スキルを使用した。
それは紛れもなく、Eランクスキル『把持』であった。
リニエは回想する。
かつて父親が森の中で自分のために『把持』を使い、魚を捕ってくれたことを。
だが、あのスキルは六段階スキルの中でも最低ランクのEである。
そんな低位なスキルを使用して今から彼は何をしようとしているのか。
スキルを使用した彼は、爪の根元を持っていた手に力を込めた。
ばきばきばき、ばきききっ。
鉄熊の両の手の爪が、落ちた。
「ぐおおおおおおおおぉぉぉっ!」
鉄熊は生まれて始めてであろう痛苦に絶叫する。
リニエは現実に理解が追いつかず、茫然自失とした。
スキル『把持』にあそこまで威力があるとは思ってもいなかった。
掴む能力、その程度のスキルであるとしか考えていなかった。が、眼前のその異様な光景に事実を改めるしかなかった。
根元から爪をへし折った彼は流れで熊の腕を持ち、背負い投げした。
背負い投げた。
リニエはまたしても自失する。
全身鉄で覆われた超重量級の鉄熊を背負い投げる、それがどの程度のものか分からなかった。
魔獣化していない熊でさえ相当の重さであり、ましてや鉄に覆われた鉄熊を背負い投げるというのは事実としてあり得ないように思われた。
実際自分が見ているにも関わらず、現実を受け止められなかった。
背負い投げられた熊は背から地面に落ち、地面に横たわったことを契機に、彼は鉄熊のこめかみを蹴った。
蹴っただけであった。鉄で覆われた熊のこめかみを、蹴った。それだけであった。
それだけで鉄熊は白目を剥き、口から泡を吐いて、死んだ。
森の悪魔と恐れられていた存在が、呆気なく死んだ。
リニエは改めて恐怖する。驚きの連続で恐怖という感情を失っていたが、戻ってきた感情に襲われ再び失禁する。
「終わったべ……」
リニエは薄く笑んだ。
悪鬼のような表情で下りてきた人間。いや、人間ですらない悪魔かもしれない。
鉄熊を殺す際にも見られたゴミを見るような目。
恐ろしかった。鉄熊には根源的な恐怖を感じていたが、彼には鉄熊を優に超えるほどの力があり、鉄熊の際には見られなかった表情が張り付いている。
殺すことに躊躇しない、殺人鬼の表情だ。
案の定その殺人鬼はリニエの殺した熊を顧みることすらせず、リニエの元にやってきた。
「好きにするべ……」
諦めていた。リニエは生を諦めるていた。
自分の元へやってきた殺人鬼に体を自由にさせるかのように呟いた。
実際、抵抗する余裕すら残っていなかった。
これから貞淑を奪われようと、四肢をもがれようとも、もうどうでも良かった。
が、殺人鬼はリニエに顔を近づけ、先程の殺人鬼の様な表情から一変、眉根を寄せ、心配していた。
やけにおろおろして、彼は声をかける。
「大丈夫……ですか?」
「え…………」
リニエは、瞬時には理解できなかった。
彼の表情が突然変化したことにも、事実にも。
今までの殺人鬼のような表情から一変する理由が分からなかった。
そこで即座に理解した。
彼は自分のことを心配してくれていたのだ、と。
彼は自分の手足の肉を削いだ鉄熊に、これ程とない殺意を向けていただけであった。
リニエは理解した。
得心したリニエは、泣きながらも満面の笑みを返し、言う。
「ありがとうございます!」
その日リニエは命を救われた。
オラの、王子様だべ。
そしてリニエは人生で初めて、恋をした。
恋慕の情が心の中で燃え上がっていた。




