第1話 現実と虚構
鳥の囀りが聞こえた。
何羽かの鳥が井戸端会議を行っているかの如く、ちゅんちゅんと会話している。いや、実際意志疎通が出来ているのかは知らないが、聞いていて癒される。
そういえば毎朝鳥の鳴き声が目覚まし代わりになってたな……。自然を近くに感じられる心地良い朝だ。今は朝なのだろうか……?
鳥の声はパタパタと羽ばたく音を皮切りに聞こえなくなった。が、以前多種多様な鳥の声が様々な方向から聞こえてくる。
川のせせらぎが聞こえた。
水の流れる音が聴覚を刺激し、緊張していた体を弛緩させ、多幸感に包まれる。
音を聞くだけでその水が如何に清く透明感のあるものであるかが伝わる。
葉擦れの音が聞こえた。
柔らかな葉擦れの音は優しく耳朶を撫で、段々と俺の意識を覚醒させる。
川のせせらぎに葉擦れの音が混成し、アクセントに鳥の囀りが組み込まれ、さながら自然のオーケストラといったところだ。
このまま即席で出来たオーケストラの楽曲に身を任せていたいと思う反面、想像される光景に胸が高鳴る。
木漏れ日が視覚を刺激し、時間の流れと共に他の五感が段々と戻ってきた。
味覚。
味覚はない。いや、ないというのもおかしな話だが、確かな変化は感じられない。
嗅覚。
柔らかな自然の匂いに、仄かに甘い柑橘系を思わせる、人の匂いが鼻孔をくすぐる。母さんの匂いだろうか。
触覚。
まだ若い草花の上に無造作に横たわっていると思ったが、頭の下には弾力がありつつも柔らかく変形する何かがあり、俺の頭の形にフィットしている。どうやら膝枕のようだ。
視覚。
幻視される美しい自然の光景に期待を膨らませたが、見えたものは一面薄褐色の肌だった。
母さんにしては色が濃すぎる気がする。
俺はゆっくりと目を向け、そして膝枕をしている本人と顔を合わせた。
母さんじゃない。知らない女の人だった。
「うわぁっ……!」
俺は膝枕から飛び退り、その女から距離をとる。
美しい女性だった。
髪は紫紺に輝き、毛先は少し黒が混ざったネイビーに近い。後頭部の上あたりで一つにまとめたポニーテールをしている。前髪は右サイドに流し、肩くらいの長さに届いている。
唇は女を一面に出すかのような薄桃色で、褐色の肌が肢体を引き締めている。
頭には猫耳をつけ、尻尾? のような物もついている。怪しい、怪しすぎる。コスプレか?
目は金に近い橙黄色で、目の前の俺を訝しげに見つめている。 油断なくその女性と対峙していると、一言声をかけてきた。
「見守ってやってたのにその反応はないだろ?」
確かに。仰るとおりだった。
「す、すみませんでした、つい気が動転して……」
「よろしい」
案外寛大だった。確かに元から危害を加えるつもりなら縛り上げるとか色々あるだろう。少し気を緩め女性に近づいた。すると唐突にこう尋ねられた。
「お前、好きな食べ物は何だ?」
「……え?」
何だろう、名前でも何でもなく食べ物……? そういえばカレー食べれてないな……。まさか最後の晩餐を用意されるなんてことはあるまい。ならこう答えるべきだろうか。
「カレー……ですかね」
「ふむ」
何だったんだろう、というかこの人は母さんの友達か知り合いか誰かなのだろうか、母さんにこんなアバンギャルドな女性の知り合いがいるとは驚きだ。
そしてここはどこなのだろう。日の昇り具合から推測すると今は朝、俺が昏倒した時間は夜であったことから相当な時間が経過していることが分かる。
自問自答に答えが出ないことを見かねてか、女性が話を切り出した。
「落ち着いて聞いてほしい。おそらく、ここは異世界だ」
「…………え?」
……え?
「私は日本のある片田舎で生まれ育ったしがない女だ。
橋田 凛奈という。昨夜突然謎の光に包まれ、気が付いたらここにいた。あまりにも急な出来事でここに来た当初は狼狽したが横にお前がいたからか、まだ取り乱さなかった」
「……え?」
橋田さんは俺に構うことなく自分語りをする。
「落ち着いて聞いてほしい。そして私が話し終わったらお前が話してくれ」
「……え?」
困惑の言葉しか出てこない。
「……『あ』の次は?」
「いや、そういうボケいいです」
「そ……そうか」
俺の気持ちを察してか、軽いボケを挟んできたが雑な対応をしてしまった。今は少し考えさせて欲しい。 だが、毎回毎回お前お前言われるのも嫌なので取り敢えず名前だけ答えておく。
「僕の名前は篠塚 未来です。続けてください」
「わかった。その後、暫く辺りを見渡していたがふと髪を見てみると何故か髪の色が変わっていた。頭を触った拍子にこの獣耳と尻尾にも気がついた」
そう言い、橋田さんは自分の獣耳と尻尾を触る。なんとなくいやらしい。
「その後お前……、ミライが起きるまで介抱していたがその時間で考えた結論だ。ミライの考えを聞かせてくれ」
「ふむ……」
話を聞いているうちに頭が冷えてきた。聞いた直後はオーバーヒート寸前であったが。現実世界で異世界転移ものの作品を結構読んできたが実際転移してきたらこんなものなのだろう。
なぜか、なんとなくこんなことが起こるような気がしていたからか、即座に事態を飲み込めた。
いや、まだ決めつけるのは早計か。橋田さんと共に談義を重ねるとしよう。
「僕は現実世界で男の集団に襲われてる女性を助けようとして回し蹴りを頭部に食らって昏倒しました。脳震盪だったんじゃないかな、と思ってます」
「漫画の主人公みたいなことしてるな」
「まぁ実際襲ってたんじゃなくて、ただの話し合いだったかもしれないんですけど」
「前言撤回だ」
なかなか心地良い相槌を打つ人だ。話しやすい。
「正直、僕はあのまま死んだんじゃないのかな、と思います」
「……辛いことを思い出させてしまったな」
「いえ。なので、僕はここに死んだ後やってきたんじゃないのかな、と思います」
「……そうか」
「……」
「……」
「……」
重苦しい沈黙が続いた。異世界転移に自分が死んだかもしれないなんて話題が重すぎる。さっきから相槌を続けてくれていた橋田さんも沈黙を貫いている。ここは話題を変えるべきかもしれない。
「ところで橋田さん、昨日の夕ご飯何食べました?」
「どんな話の変え方だ!」
怒られてしまった。
「まぁ、その……なんだ。災難だったな」
「……はい。ありがとうございます」
異世界転移に死亡の可能性、と随分突拍子もない話だが思考を言葉にすることで今の状況を俯瞰的に理解することが出来た。俺は異世界ライフを第二の人生として楽しもうと思う。
でも、母さんには最後に一言話したかったな……。近くに人がいて良かった。一人だったらどうにかなっていたかもしれない。
いやいや、もうこんな思考は止めよう。新しい人生を送れることに感謝だ。
取り敢えず結論を出そう。
「なので結論から、僕は異世界に転移されたと考えます」
「そうか……やっぱりか。ありがとう。ミライはどんな状況でも落ち着いて行動できる人間だな」
「いえいえ」
過大評価だ。生前異世界転移ネタに親しみがあったからだが、まぁ評価が上がってるから黙っておこう。
よくよく見れば橋田さんの目尻に水滴がたまっている。顔も心なしかやつれているような気がする。橋田さんも相当狼狽したんだろう。
「ところで橋田さん、僕の髪の毛も色変わってるんですか?」
「あぁ、うん。お前金髪碧眼だよ」
「へ?」
今とんでもないことを言われた気がした。
「キンパツヘキガン……?」
「うん」
「えぇ! 早く言って下さいよ!」
「ごめんごめん」
勿論俺は生粋の日本人、黒髪だ。
「まぁ橋田さんも体は褐色なのに顔だけ幽鬼みたいに真っ白ですし髭もちょっと生えてますけどね」
「うえええぇぇぇぇぇっ!」
勿論嘘だ。
だが、橋田さんは今まで聞いたこともないような悲鳴と共に、顔を真っ赤に染め上げる。染め上げた顔は不安と心配で本当に幽鬼のように青白くなる。
「嘘っ!? 嘘っ!? 嘘っ!?」
大分焦っているみたいだ。中々からかい甲斐がある。
「バレましたか、嘘です」
「……」
橋田さんがゴミを見るような目で睥睨してくる。
「てめぇ……」
「すいませんすいません」
笑いながら対応する。
「でも僕、碧眼なんですね。橋田さんの目は金色ですよ」
「嘘だろ」
「ええ」
狼少年になってしまった。
「本当ですけど、まあ自分で見てみるまでは僕も信用出来ませんし、取り敢えず近くを探索しませんか?」
「まぁそうだな」
だが、なんだろう。異世界というのにこの景色、何かすごい既視感を覚える。既視感というかノスタルジーを刺激されるというか、親近感が沸くというかなんだろう、すごく心が落ち着く。
自然を愛でる気持ちがあるからなのだろうか。ここ周辺はとても自然に満ち溢れていて心が洗われるような気分になる。
「それにしてもここは綺麗なところだな。なんだかノスタルジーとか親近感溢れるとか、そんな気分になるな」
「そうですね」
橋田さんも同じ気分だった。なんかちょっと嬉しいな。
「あとちょっといいか? その~、橋田さん? っていうの止めてくれないか?」
「え、なんでですか?」
「いや、嫌だろ!」
橋田さんは声を荒げる。何か不都合があるのだろうか。
「ここ異世界なんだろ!? じゃあ橋田さんなんて言われてたらもしかしたらハシダサンって呼ばれるかもしれないじゃないか! 止めてくれよ!」
「は……ははは」
「これからはリンナと呼んでくれ」
「わかりました」
途轍もなくしょうもない理由だった。リンナさんか、覚えておこう。
「じゃあ取り敢えずどこ行きますか?」
「そうだな……」
今俺たちは森と牧草地との境界線にいた。森を見れば様々な鳥が木々に停まり、囀っている。森の中には清らかな川や滝、岩には苔が張り付き、山という雰囲気を想起させる。
俺は狼少年になってしまったが、この森の中では狼に育てられた少女が住んでいそうな雰囲気だ。山地大国の日本といえどもここまで幻想的な光景はそう見れるものではないだろう。正直こっちに行きたい。この自然の恵みを堪能してみたい。
一方、牧草地はどこか牧歌的な様相を呈している。滑らかに傾斜のついた丘陵に青々とした少し背の高い草が生い茂り、所々細長い木が立っている。牛がのんびりと散歩をしていそうな、そんな雰囲気だった。西欧の酪農地帯を思わせる。
平和だなぁ……。異世界というと所々で魔物に襲われるような、そんなイメージがあったが案外そんなでもなさそうだ。
「異世界の常識が通じるのかは知らないですけど、森は基本的に魔物とかモンスターとか、そういうのがよく出てくる印象がありますね」
「そんな事よく知ってるな」
「いえいえ」
リンナが俺の豆知識に感嘆する。まぁゲームの知識だけどね。
「じゃあこっちの牧草地帯を探索するか」
「そうですね、でも森もちょっと探索したいんで森にも少し潜ってもいいですか?」
「そうだな、片方に決めるのは危険だもんな」
そう言って尻尾をふりふりする。可愛い。中々理解力の高い人だ。
それにしてもリンナは獣耳に尻尾を持ってるけどなんなんだろう、これは。直接生えてるんだろうか。
「リンナさん……、リンナ、その尻尾と獣耳って直接生えてるんですか?」
「ん……そうだな、直接生えてる」
「ちょっと触ってもいいですか?」
「えぇ……」
少し興奮してそう提案してみる。はぁはぁという声が漏れ出てきそうな感じだ。だが異世界で獣耳を触ることはやはり多くの男子の悲願だろう。なんとしても触ってみたい。
「これもこの世界を知るためには仕方のないことなのです」
「そうか……、わかった。」
「では失礼します」
上手く丸め込むことが出来た。チョロい。まずはもふもふとした獣耳を触ってみる。他の何をも抱擁するふわふわとした毛並みに少し頬が緩む。耳の付け根から指をなぞるように撫でていく。
「ちょっとくすぐったいな」
「あ、はい」
危ない危ない。危うくトリップするところだった。
「次は尻尾を触ってみてもいいですか?」
「ん? いいぞ」
リンナは拒絶の意志も見せない。よく尻尾が性感帯になっているとか見るがそんなことはないのだろうか。
「尻尾は性感帯になってるとかそんなことないんですか?」
直球で訊いてみる。
「いや、足先を触られてる、みたいな気分だな」
返答に少しガッカリする。ここで「ひゃんっ!」みたいな反応が見られたら良かったんだが。
「ところでミライ、お前この謎の尻尾と獣耳何か知ってるか?」
「へぇ?」
えぇ? 信じられないことを聞かれた気がした。あぁ、そうか。現実世界でこういう異世界を舞台にしたものに興味がなかったのかしれない。道理で今まで知らない知らないだらけだった訳だ。
仕方ないからそこで、俺の知っている異世界の知識を取り敢えず全部教えることにした。尻尾と獣耳を触りながら。
恐らくリンナは異世界転移の影響で獣人となってしまったであろうこと、異世界の常識などを教え、ある程度の知識の共有が出来るようになった。
「なるほど、ご教授ありがとう」
「いえいえ」
俺は獣耳をパタパタと動かしながら答える。
「でも私はここに来て普通の人間ですらなくなってしまったんだな……」
「そうですね……、僕もそうなってるかもしれません……」
悲しむリンナに合わせて俺は耳をしょんぼりと折り曲げてみる。
「というかいつまで触ってんだお前は!」
「あぁ、すみません」
怒られた。確かに随分と長い間触ってしまった。楽しくて止めれなかったからだが気を悪くしただろうか。
「すみません、楽しくてやめれませんでした」
「いや、いいよ別に。ところでどうだった?」
? 感想を求められているんだろうか。
「気持ち良かったです」
「いや、違うから! 何か分かったか、って言ってんだ!」
ああ、そういえば何か分かるかも、って方便で騙くらかしたんだった。
「ああ、何も分からなかったみたいですね」
「えぇ、他人事……?」
リンナは呆れた顔をする。ここは正直に白状した方が体面上まだ、ましかもしれはい。
「はい、触りたかっただけだったんで」
「呆れた奴だ……」
「また今度触らしてくださいね」
「はぁ……、ん……」
お許しをもらえた。やっぱり人生正直が一番だね! なんか呆れたような声を出された気がするけど。
「まぁそんなことはどうでもいい。今後どうするかだ、ミライ、どうする?」
「そうですね……、牧草地帯の方を探索する方がまだ安全だとは思いますが取り敢えず森も探索しておきたいですね。まずは森に行っても大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない」
「分かりました、では一度森を探索して危険そうなら牧草地帯を抜けます。安全そうなら森を抜けたいと思います」
「分かった」
話がまとまった。俺とリンナは周りを警戒して森へと入る。初めての異世界探索だ。
モンスターにダンジョン、自らの内に秘めたる魔力を魔法として顕現させ立ちふさがる敵をばっさばっさと屠る。うん、少し楽しくなってきた。母さん、僕は異世界で楽しくやっていこうと思います。
俺とリンナは草を踏みしめ段々と森の奥地に入っていく。
中々深い森だ、終わりが見えない。