プロローグ
初めての作品です。ではどうぞ。
「俺、勇者になるのやめるわ」
「…………え?」
彼の発した言葉が乾いた空気中に良く通った。
異世界に来て最も近しい存在であった彼の友は、突然の告白に目を白黒させながら驚愕の声を漏らした。
「……なんで?」
それは男に対する非難でも悲嘆でも男の行く末を気にかけた言葉でもなく、単純な疑問だった。
うーん、と言葉を探し彼は考える。
いたたまれない静寂が場を支配した。グリフォンが空を滑空し、彼の今後を象徴するかのように2人に影を落とす。
春、転換の時期が目前まで迫っている。
■
「寒っ……」
十二月二十日、季節は冬。篠塚 未来はかじかんだ指を温めようと、傍にあったカイロを握りしめた。
高校三年生、それは誰しもが人生で最も賢かったと豪語する年である。大学受験真っ只中、多くの人間が毎日勉学に勤しむ一方、未来も例に漏れず自室で勉学に勤しんでいた。
「面倒くせぇ……」
未来は有機化学の勉強をしながらそう独り言ちた。
通常の大学入試は一月に行われるセンター試験と、大学ごとに異なる問題が出題される二次試験とに分かれる。
センター試験まで一ヶ月を目前にした未来は実直にもセンター試験対策を行っていた。
数年後にはセンター試験が廃止されるらしいが未来には知ったことではない。
時刻は正午、有機分野の勉強を終え、一区切りついた未来は階下のリビングに移動し、ラッピングされたご飯を温め一人モグモグと食べ始める。
「ん……美味い」
母さんの料理はとても美味い。
母さんの母さん、いわゆるお祖母ちゃんは料理人で一人っ子の母さんに料理を教えていたらしい。一子相伝というか、料理人の系譜というか、こと料理に関しては母さんは達人級の腕前だ。
味わいつつも炭水化物を取り込むことで、センター試験の勉強で酷使した脳に消費した糖分が行き渡る。空腹という訳ではなかったが、胃が満たされ、ほのかな眠気に誘われる。
とろんと瞼が閉じ、体を弛緩させ、睡眠状態に移行しようとする。
「……ヤバい、ヤバい」
食後、意識を手放そうとした直前未来は覚醒し、眠たげな眼をこすり自室に戻りまた勉学に励む。
未来は養子である。
驟雨の中雨宿りに、と橋の下を選んだある通行人が、膝を抱え蹲る未来を発見し交番に連れて行ったが、未来にその記憶はない。
戸籍すら確認されなかった未来は、声をかけても自らの名前しか言えない程に衰弱しており、すぐさま保護された。
その後今の両親が未来を引き取り今は幸せに暮らせているので、なんだかんだ未来はこれで良かった、と満足した生活を送っている。
両親は共働きで、血のつながっていないであろう未来を我が子のように溺愛し、未来もその両親に負担はかけられまい、と必死に勉強している。が、未来にそこまで気負いはなかった。
養子になる前に何かあったのか、はたまた元々才能ある子供であったのか、未来は何でも出来た。
額面通り『なんでも』、である。
あたかも勝手知ったる様子で、何をするにもそれが初めてではないかのようにそつなくこなす。勉学においても例に漏れず、大学入試においては地方随一と街談巷説されている国公立大学などは容易に入学できるほどであった。
実は自分は改造人間であり、人間の心を失う代わりに強大な力や頭脳を得たのではないだろうか、などと益体もないことを考えたりもしたが、当然レントゲンに写るものは人間のそれであった。
「もう一頑張りするかぁ~」
未来は無機化学の分野に着手した。
夜19時、母さんが帰ってきた。
母さんは父さんが帰ってくるまで疲弊した体を癒すためリビングでのんびりしている。仕事の日は毎日クタクタになって帰ってきているので、せめて父さんが帰ってくるまでは一人で寛がせてあげたい。
暫くして、父さんが帰ってきた。母さんはいつものように俺たちの夕ご飯を作りにかかる。俺は勉強していた手を止め、料理を手伝いに行く。別にマザコンとかそういうわけではないが、引き取ってくれたことに感謝の気持ちもあり、母さんの家事は定期的に手伝うことにしている。
「母さ~ん、料理作るの手伝い……」
「未来~、カレールー買って来て~」
「は……はいはい」
手伝おうとした瞬間にパシられた。
カレールーを買いに行かせるということは今日の晩御飯はカレーなのだろう。
久々のカレーに少し心を浮つかせながら外に出ると、冬至を過ぎて間もないからか、深夜のように暗かった。
住んでいるところが山に囲まれた片田舎の盆地なので、いつものごとく外には誰もいない。幸いコンビニまではそう遠い距離じゃないので歩いて行くことにした。
コンビニまでの道のりに、街灯の一つや二つも見当たらない。やっぱ田舎だなぁ。
「暗いなぁ~」
別に誰かに向けて言った訳でもなかったし、返答を求めていた訳ではなかった。が、そう遠くないところで人の声が聞こえた気がしたので、少し立ち止まってあたりを見渡した。近くに友達か何かが遊びに来たのだろうか?
周りは木に囲まれ、隠れられそうなところが多くあるので万一を考え、少し警戒した。
音のする方にするりと近寄っていくと、樹木の立ち並ぶ森の中で、背丈の高い男たちが一人の女性を囲んでいた。
友達ではなかった。
何をやっているんだろうか、そう思ったのも束の間、森の中に怒号が響き渡った。
「――ふざけんじゃねぇぞ!」
突然の怒声についビックリして後ずさった。結構雑草を踏みしめてしまったがバレなかったようだ。
どうやらあまりガラのよろしくない男性たちがたむろしているらしい。
「止めて!」
森の中に知らない人がいる、早く皆に知らせないと、そう思い踵を返そうとしたが、続く女性の二の句で固まってしまった。
あぁ、くそ、そんなこと言わないでくれよ。聞かなけりゃよかった。聞こえなければよかった。聞きさえしなけりゃ何の罪悪感もなく帰れたのに……。
俺は帰りかけた足を止め耳を傾ける。
「さっさと出すもん出せや!」
恐喝だ。たった三回の発言で今の女性の状況が分かってしまった……。本当に帰りたい。
今俺が出て行っても何も出来ないだろう。むしろ邪魔になるかもしれない。暗くてよく見えないが軽く見積もっても男は十名以上、対して襲われている女性は一人、俺を合わしても二人、どうあがいても勝てない。女性を逃がすことすら出来るかどうかわからない。
怖い。田舎では滅多に起こりえない状況に身がすくむ。
こんな片田舎でぬくぬく育ってきたからか、今まで喧嘩や争いごとに縁のない人生だった。
こんないかにも危なそうな人に自分から喧嘩を売りたくなんてない。というか、こんな出歯亀みたいなことをしているのがバレたらどうなるのか分からない。
見つかった時のことを考えるとさらに恐怖が増長する。
体が震える。恐怖でカチカチと歯が鳴る。こそこそと隠れている手前、音を出したらまずいはずなのに体が言う事を聞かない。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
今まで感じたことのない恐怖に心臓が跳ね、玉のように大粒な汗が際限なく流れる。背筋は凍ったように冷たく、指先の感覚ももはや失われかけているような気がする。視界がぼんやりと霞む。
今、女性を見捨てて皆に知らせるなら俺は無事で済むだろう。
だが、女性はどうなるのか分からない。
心は逃げ出すことに傾いているはずなのに体が動かない。身体が本能的に、女性を見捨てることを拒否しているような感覚に囚われる。人間が羽音を忌避するように、ゴキブリに恐怖するように、俺の身体もまた、女性を見捨てることを良しとしない。いつから俺はそんな正義感を持ってたんだよ! と心中で悪態をつくがこんなことをしていても事態は好転しない。
「出さねぇなら力づくで奪い取るまでだ。おい、お前ら、おさえろ」
「「「へい!」」」
集団の中でもひときわガラの悪そうな男たちが強硬手段に出ようとしている。
「おい! 俺の指示なく話を進めるな!」
「ちょっと! 話し合おうって!」
そうこう問答しているうちにどんどん事態が悪化してきている。話を進めるな、ということはより過激なことをしようとしているのだろうか。
ヤバい、女性の貞操が危ない。もう俺がやるしかないのか、ああ、くそ、俺に力があったら……。誰か、誰か来てくれ……誰か力のある人が……。
自分が嫌だった。他力本願で自分一人では何もすることが出来ない。何でもそつなくこなせるなんて傲岸不遜にも思っていたけど肝心なところで役に立たない。
もう諦めよう。俺には力がなかった。女性一人すら守れる力すらなかった。
仕方ないんだ、ただの男子高生には重すぎた事態だったんだ。
どうせ俺はそんな人間だよ……。
俺は、無力感に苛まれながら帰路につこうとする。
涙が頬を伝った。
「え……? うっ……」
吐き気が催した。帰ることに天秤が傾くごとに吐き気は増長する。
やはり、人を見捨てることは出来ない。人が人を蹂躙するなんてことは間違っている。
そんな考えが頭を掠めた。
俺は意を決した。決することしかできなかった。女性を助けてもらうよう交渉する。さすがに突然殴りかかられるようなこともあるまい。
うん、楽観視かもしれないけど考え始めたらそこまで恐ろしい事態でもないかもしれないと思い始めた。
そして集団に近づく。と、緊張のためかさっきまで立ちすくんでいたことが原因か、一歩踏み出したところで木の根っこに躓き、体勢を崩して無駄に前に進み出てしまった。そして体勢を崩し前に出てしまった拍子に、一番近くにいた男に腕をぶつけてしまった。
「あああぁぁぁ!? んだ、こらぁ!! 誰だてめぇ!!」
腕をぶつけてしまった男が逆上した。
ヤッテシマッタ。穏便に済ますつもりだったのにいきなり不興を買ってしまった。
そりゃ誰でも後ろからぶつかられればキレるだろう。
「ぶっ殺すぞクソガキ!」
男は額に青筋を立て恫喝してきた。
男に恐怖し、距離をとり女性を庇うように位置どった。決して女性を盾にしよう、とか思ったわけではない。うん、決して。
「おい、こんなところで問題を起こすな! 騒ぎになる!」
しかし、集団のリーダー格と思われる男が逆上した男を止めようとする。
そうだよ、リーダーさん! 田舎じゃ騒ぎは簡単に広まるんだよ! 穏便に済まそう!
男たちがそんな会話をしているうちに女性が突如逃げ出した。
「て、てめぇっ!」
近くの男が女性に突貫した。どうしよう、男の狙いは女性だけのようだ。なら、ここで俺が妨害するのが最善策なのではないだろうか。そう思い、俺は女性を守るように男と対峙した。
「どけ! 邪魔だ!」
勢いそのまま男は俺のこめかみ目がけて殴打を繰り出す。が、咄嗟の判断で身を翻し、脇腹に一発拳で渾身の一撃をいれる。男は体勢を崩し地面と衝突する。
おぉ!? 俺戦えてる!? 戦えてるぞ!!
傲岸不遜にもなんでも出来ると言ったが、喧嘩は今までで一番といっても良いほどに才能がある気がした。喧嘩なんかに一番才能があったなんて皮肉なものだが。
男が次の動作に踏み出そうとしたところを、リーダー格の男が後ろから引き留めた。
「おい、お前ら! 早くこのバカを止めろ! 話し合いで済む話だろ! 里香! てめぇ逃げんじゃねぇ!」
そして俺の妨害むなしく女性は他の男に追いつかれ、羽交い絞めに拘束された。でもさっきこの女性の名前みたいなのを言わなかったか?
……ん? どういうことだろう、『里香』というのはさすがに女性名だろう。もしかして知り合い? もしかして「話を進めるな」っていうのは本当に額面通りの意味なのか…?
もしかしたら俺はとんでもない間違いをしているのか……?
「くそがぁ!」
だが、賽は投げられた。
先ほど俺が一発入れた男には聞こえていないのか、再度俺に突貫してくる。
また芸もなく殴ろうとしてきている。辿る腕の軌跡が予測できる。やはり俺は喧嘩の才能があるみたいだ。
俺は軽く男の攻撃を躱し、女性を拘束していた男にタックルする。思いのほかタックルが効いたのか、反撃されることを考えていなかったのか、羽交い絞めは案外簡単に解けた。
俺はその隙に、女性の手を引いて崩れた戦線から離脱しようとする。
この際女性とこの男たちとの関係は後々聞くとして今は女性を助けることに全力を尽くそう。
しかし、逃げようとしたことで事態が悪化した。
「リーダー、こんな奴は気絶させてどっかに置いときゃぁいいんすよ!どうせこんな町に用はないんですからねぇ!」
「「そうっすよ!」」
今までどうするか決めかねていた男たちが率先して俺に狙いをつけてきた。最悪だ、どうしてこうなった。いや、俺のせいか。
「あああああああ!!」
「「「――っ!?」」」」
俺も腹を据え戦線を切り開こうと、裂帛の気合と共に男たちに拳を振るおうとする。
「舐めんな、ガキィ!!」
その気合が裏目に出たのか、俺に戦闘能力があると勘違いしたのか、男の一人が俺に回し蹴りを仕掛けてきた。当たり所が悪ければ即死する威力だぞ、これは。
だがこのまま行けば俺の拳が相手に届く方が早い。
回し蹴りを食らう前に一発殴り、相手の体勢を崩そう、戦闘の刹那頭をフル回転させながら考え、相手に拳が入る寸前、ふと思った。思ってしまった。思わざるを得なかった。
ここで殴ってしまっていいのだろうか、と。
いや、倫理的な問題ではない。こいつらは殴らないと進めない、これだけ囲まれたら何人かは昏倒させる必要があるだろう。しかし、『今』ここで殴ってしまっていいのだろうか。
俺は今受験シーズン真っただ中だ。こんなところで騒ぎを起こしてしまえば、まして他人に殴りかかったともあればもしかすると受験に差し支えるかもしれない。
高校の推薦受験でも校内で喧嘩などを起こせば推薦は取り消されると聞いたことがある。
大学受験でも問題を起こせばもしかすると受験出来ないのではないのだろうか。
――喧嘩の最中にそんなことを考えるべきではなかった。自らの命がかかっているというのに別のことを考えるのは野暮なことだった。
男に拳が当たる寸前で、俺は動きを中断してしまった。せざるを得なかった。
「え?」
男の回し蹴りは見事に俺の頭部に直撃した。俺は女性共々地面に倒れ、地面にドタと倒れこんだ。意識が朦朧とする。脳震盪というやつだろうか、視界がぼやけ段々と聴覚が鈍っていく。
「バカ野郎!! 何してんだてめぇは!?」
「い、いや、こいつが突然止まって……」
確かに本当に突然に止まってしまった。避けるか殴るかそれなりの行動をしていればこのような結果にはならなかっただろう。ああ、なんだかあまり思考出来なくなってきた。
「未来? 未来~?」
突如、母さんの声が聞こえた。
「や、やべぇぞ! 誰か来た! 逃げるぞてめぇら!」
「で、でも……こいつ……」
「未来~? どこにいるの~?」
「でもじゃねぇ! 逃げるぞ! おい里香! 場所を移すぞ! 例の物はちゃんと持ってるか!?」
「え? な……ない、ないよ!! えぇ!?」
「み……、未来~?」
「てめぇ!! 何してんだ!! もういい! 今は取りあえず逃げるぞ! 後で取りにくればいい!!」
男たちの会話を聞く限りそこまでの悪人じゃないような気がした。
聞く限り話し合いをしようとしたところで血気盛んな男たちが少しという雰囲気のようだ。
なんだ、俺が出しゃばらない方が良かったじゃないか……。
もう意識がうっすらとしている。俺が妄想で作り出した会話かもしれない。そして女性も含めて全員草木を掻き分け脱兎のごとく駆けていった。
あぁ、どうしてこんな無駄な正義感を振りかざして女性を助けよう、なんて思ってしまったんだろう。
後悔が先に立つ。
「み……、未来!!」
あぁ、母さんだ。俺が草を踏みしめたからどの道を辿ってきたか自然に分かったのかもしれない。
「未来!! 未来!!」
母さんがひどく狼狽している。
もう、しっかりしろよ母さん。帰ってくるのが遅くなったからか見に来てくれたのか、今の騒ぎを聞きつけたのかはわからないけど来てくれてありがとう、母さん。
「未来! しっかりして!! 未来!!」
母さん、静かにしてよ。もう、眠いんだって。いや、これは死亡フラグになっちゃうか……。でも、本当に眠いんだよ……。
「未来! 未来ー!! あぁぁぁ!!!!」
母さんが大粒の涙を流し顔をぐしゃぐしゃに歪める。もう、母さん、美人が台無しだよ。取り敢えず俺はここで寝ることにしよう。母さんがいるから安心して眠れるよ…………。
あぁ………………………………。
カレールー、買い忘れたなぁ……。
こうして俺は、意識を手放した。