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怖い、怖いの

 私は、兄様が怖くて仕方ない。


 幼いころの一番最初の記憶は、住み込みの家庭教師の先生に教鞭で手を叩かれたことだ。

 教えるのがうまい先生だったが、とにかく厳しかった。私も必死でついていこうとしていたのだが、どうしても苦手なことで再三躓いて、教鞭で手を叩かれた。

 初めてのことでびっくりしてしまい、思わず泣き出してしまった。先生は「これくらいのことで泣いてどうします」と呆れた。先生の言う通りだ。先生は悪くない。


 でも、隣で見ていた兄様は、そうは思わなかった。

 翌日、先生は授業に来なかった。熱で寝込んだそうだ。

 心配になった私は先生の部屋にお見舞いにいった。先生は喜んでくれたが、たった一日で酷く痩せた気がした。



「お嬢様……お坊ちゃまは、どうされてますか?」

「え? にいさま? ふつうに授業うけてますけど……」

「そう、ですか。ふつうに……」

「先生? ……ひっ」



 様子のおかしい先生に不安になった私は、さらに先生のベッドに近づいた。

 間近で見てようやく分かった。ベッドから出ている先生の手や腕には、おびただしいほどのみみずばれの痕が残っている。私が教鞭で叩かれたものとは比較にならないほど深い傷跡が、幾重にも重ねられていた。

 そのあまりの痛々しさに涙がにじむ。先生はそんな私を慰めるように、私の腕をさすった。



「先生っ、それ……!」

「お嬢様……信じられないかもしれませんが、どうか落ち着いて聞いてください。わたくしは昨日、お坊ちゃまに呼び出されたのです。そしてお坊ちゃまは鞭でわたくしのことを――」


「 何をしてるの? 」



 先生の顔から血の気が引いた。私も驚いてドアを見ると、兄様が無表情でドアの付近に立っていた。

 私よりも8歳年上の兄様は、とても綺麗な顔で、いつも私に微笑みかけてくれる。笑顔ばかり見ていたから、笑っていない兄様はどこか不気味なものに見えた。



「またエリザベスを泣かせたの?」

「に、にいさま?」

「言ったよね、エリザベスを泣かせるなって。エリザベスを泣かせたら許さないって!」

「ひぃっ……!」



 兄様は足音荒く先生のベッドまで近づいてくると、手近にあった花瓶を先生に向かって投げつけた。

 花瓶は割れなかったものも先生の腕にあたり、鈍い音をたてる。びしゃっ、と花と水とがベッドの上にふりかけられた。

 呆然としていた私だったが、顔にかかった水の冷たさに我に返ると、兄様の腕を掴んで止めた。



「兄様、やめてっ! 違うの、違うの!」

「エリザベス」



 背筋に冷たいものが駆け抜ける。先ほどまで無表情で先生を詰っていた兄様は、次の瞬間にはとろけるような甘い笑顔を私に向けていた。

 作った笑顔ではないことは本能で分かる。だけどこの人は、どうして今この状況で、心から笑うことができるのだろう。


 後退ろうとした私を、兄様が先に捕まえた。

 いつもやっているように抱き上げられ、兄様との距離がさらに近くなる。

 いつもの兄様だ。でも、“いつもの兄様”であることは異常なんだ。だってすぐそばで、先生が怯えて泣いているのに……!



「泣かないで、エリザベス。怖かったね? 大丈夫。エリザベスを泣かせるものなんて、私が全部消してあげるからね」



 これが、私がおぼえている限り、はじめて触れた兄様の狂気だ。

 兄様は同じようなことを何度もした。

 私を叱責した別の先生を2日間地下牢に閉じ込めて衰弱死寸前まで追い詰めた。私の周りで割れ物を割ってしまったメイドは、一緒に働いていた家族ごと屋敷から追い出された。私が庭で遊んでいて怪我をすると、庭師を呼びつけて仕事道具の剪定バサミで何度も何度も頭を殴りつけた。


 兄様が怖かった。

 兄様はどうしてわからないのだろう。私は叱られて泣くんじゃない。割れた音にびっくりして泣くんじゃない。転んだ怪我が痛くて泣くんじゃない。

 兄様が、表情を消した時の兄様が、“処分”として何をするのかが恐ろしくて泣いているのだ。


 兄様の狂気はエスカレートしていった。



「エリザベス、怖いの? ――じゃあ、私がエリザベスをすべてから守ってあげるね」



 ある日兄様はそう言って笑うと、私を兄様の部屋に軟禁した。使用人も先生も両親も立ち寄らせず、兄様が付きっきりで私の傍にいた。

 これが兄様の「守る」ということなのだ。そう気付いた時、私は心底恐ろしくなった。

 幸い、両親が早くに気付きこの軟禁劇は丸一日で終わった。両親もうっすら兄様の異常性に気付き始めたのか、私を7歳から入れる全寮制の学校に入学させることに決めた。


 早く7歳になりたい。一刻も早く、この狂った人から逃れたい。そう思っていた矢先、兄様が男爵の子供を連れてきた。

 「エリザベスに友達を作らせてあげるよ」兄様がそう言った時、私はすべてを察した。

 これは、私のご機嫌取り。子供に玩具を与えるように、私にその子を与えたんだ。兄様はその子のことを、お人形程度にしか思っていない。 



「あの、ルークです。よ、よろしく……」

「わ、私は、エリザベス。よろしくね」



 ルークは、普通の人だった。女の子かと思ってしまうほど綺麗な顔立ちをしていたが、それ以外は本当に普通。だけどその“普通”という感覚が、どれほど私を安心させたのだろう。

 本当は、私の傍にいればルークが危険だということは分かっている。だけど私に会った時点でもう運命は決したようなものだ。


 ルークとはその日のうちに仲良くなった。言葉遣いは多少荒かったが、ルークは私との遊びに嫌がらずに付き合ってくれて、すごく優しい子だと思った。

 兄様の作戦だと分かっていても、はじめて友達ができたことは心から嬉しかった。

 私はルークが帰る間際、彼に兄様のことを相談した。



「私……兄様が怖い。兄様は怒るととても怖いの」

「えっ、そう? すごく優しそうなお兄さんだったじゃん」



 そう、傍目から見ればそうだ。両親ですら兄様の狂気めいた行動には、半信半疑だ。兄様は最近さらに頭がよくなったのか、決して表に出す形では“処分”をしなくなったのだ。

 いつもの兄様にひとたび接すれば、「この人はまともないい人だ」という印象が強く根付いてしまい、狂気を信じられなくなる。


 私は拙い表現で兄様の狂気をルークに説明しようとしたけれど、彼は話半分に聞いて笑っていた。

 信じてもらえないのは分かっている。だけど私はこのことを、いつまでも自分の中にとどめてはおけない。だからあえて冗談交じりに、ルークにすべてを打ち明けた。



「でもさ、そんなにエリザベスのこと大事にしてくれるお兄さんならさ、エリザベスはもっとたくましくならないとな」

「えっ?」

「泣いてばっかいるからお兄さんも心配するんだろ? だから滅多なことじゃ泣かないぐらい強くなってさ、お兄さんをあっと言わせてやるんだ」



 それは“男の子”の発想だった。ルークのような男爵の次男坊は、大抵が騎士団に配属される。だから幼い時分から強くたくましくあれと教育されていた。

 だけどルークの無邪気な提案は、私にとっては一筋の光明だった。もし、兄様を狂気に駆り立てているのが私の悲しい顔だったり泣き顔だったりしたら。私が強く気丈になれば、兄様はあんなことをしなくなる?



「っわかった! ルーク、私もう泣かない。悲しいことがあっても、絶対に泣かないから」

「うん。エリザベスは笑った顔の方が可愛いから、俺もそうしてほしい」



 照れ臭そうに頬を染めながら言ったルークに、私も顔を赤くした。同じ年頃の男の子にそんなことを言ってもらえたのは初めてだった。

 兄様がまるで洗脳のように繰り返す「可愛い」「愛しい」より、何倍も嬉しく感じた。



「エリザベス、あの子はいる? いらない?」



 ルークが帰ったその日の夜、意気揚々と兄様がそんなことを聞いてきた。

 いる、いらない、だなんて。包み隠すことなくルークを物扱いする兄様に、顔が引き攣りそうになった。

 ルークの平穏を望むのなら、彼を私に関わらせてはいけない。だけどここでもし「いらない」などと答えたら、どうなるだろうか。

 兄様は「いらない」人間には容赦がない。たとえ今すぐどうこうというわけにいかなくても、執念深く追い詰め、いらない人間を処分するだろう。



「に、兄様。ルークはすごく仲良くしてくれたんです。私、ルークのこと大好き」

「そう? 気に入ってもらえてよかった。エリザベスがこんなに喜んでくれるなら、頑張って見繕った甲斐があるよ」



 まさに妹思いの兄、といった台詞に、私は暗く陰鬱な気持ちになった。

 兄様は日に日に優秀になっていった。賢くなり、父様の仕事も手伝うようになった。表の人間だけじゃなく、裏の人間とも交流をし始めた。

 兄様が優秀になればなるほど、“処分”は完璧なかたちで達成される。

 兄様が怖い。この人はもう、人を殺してもそれを隠すことができるのだろう。



「ルークのことが好き、好きだから――」



 殺さないで。

 兄様の首に抱き付き、そっと囁いた。




*  *  *




 ルークと婚約をしたのは、彼の安全を守るためだった。兄様は私に害をなすものには無慈悲だけど、私の宝物には手を出さない。婚約者の位置に収まれば、ルークに危害は加えられないはずだ。

 彼を巻き込んでしまったことには申し訳なく思っているが、あの選択があの場では最適だったと、私は今でも確信できる。事実兄様はルークを義弟としてとても可愛がっていた。ルークの実家も兄様の口添えと公爵家の名前によってみるみる内に繁栄した。

 そう、最初はルークを守る。それだけの婚約だったのだ。


 だけどいつからだろう。私はいつの間にか、ルークを友達以上に好いていた。ルークの婚約者になれてよかったと、心からそう思った。

 ルークも私のことを好いてくれていたと思う。それはあくまで友達としてだが……同等の愛情を私は望まない。ただ、ルークの隣で穏やかに笑っていられたらいい。そう思った。


 それなのに、どうして。



「どうしてティアナにそんな酷いことができるんだ」



 どうして、私たちはこんなことになったのだろう。

 ルークがティアナ嬢を抱きしめ私を睨み付けるさまを、私は扇子で口元を隠しながら呆然と見ていた。

 表情を隠すため広げた扇子の下で、唇がわなわなと震える。この扇子は、ルークがくれたものだった。「安物だけど」ルークが気まずげに渡してくれたこの扇子は、多少色が落ちた今でも肌身離さず使っている。


 ティアナ嬢は、今年転入してきた侯爵家の庶子だった。この学園は庶子の存在にひどく冷たい。正当な貴族の血を継いでいないティアナ嬢は、みんなから白い目で見られ辛い思いをしたことだろう。

 だけど本人はとても心の強い人だった。明るく、物怖じせずにしゃべりかけ、太陽のような笑顔を惜しげもなく振りまく。深窓の令嬢が多いこの学園では、よく言えば珍しい存在、悪く言えば異分子だった。


 そんなティアナ嬢を珍しがり、好いた人は全部で5人。

 ティアナ嬢の付き人である、フレッド=オクスタード。

 ティアナ嬢の幼馴染と噂の、ジル=マーキル。

 宰相の息子、ルドルフ=ノートン。

 第三王子、マーヴィン=アルステッド。


 ――そして、ルーク。



「そんなこと、していません」



 切れ切れに答える。息が苦しかった。まるで何かにじわじわと首を絞められているかのよう。

 背後から視線を感じた。振り返らなくても分かる。兄様だ。兄様が、こちらを見ている。


 どうしてよりによってこんな場所で、こんなことをするのだろう。私は思わずティアナ嬢を睨み付けた。

 ティアナ嬢はびくりと肩を大げさに震わせ、隣にいるマーヴィン殿下の背中に隠れる。マーヴィン殿下は、忌々しそうに私を見ていた。


 全寮制の学園といっても、家族との繋がりを大事にする。そのため年に二度、学園に家族を招いた立食パーティーが設けられていた。

 まだ兄様とお会いしてはいないが、確実にこの場所には来ている。背中に張り付く視線が、それを証明していた。

 よりによって兄様のいる前で、どうしてこんな。



「……場所を移しましょう。公的な場でする話ではないわ」

「いや、ここでさせてもらう。証人がいないと貴様は狡賢く言い逃れを続けるだろうからな。この場にいる全員が証人だ!!」



 ティアナ嬢の取り巻きのリーダーはマーヴィン殿下らしい。よく通る声でそう告げると、楽しそうにざわめいていた会場が殿下を中心に静まっていった。

 やがて流れていた音楽も途絶えると、マーヴィン殿下は満足げに笑って私に言い放つ。



「デイヴィッド公爵令嬢! ティアナを貶め、悪質な嫌がらせを繰り返したな? ティアナはいずれ私の妻となり、国母となる令嬢だ。貴様のやったことがどれだけ重い罪か分かるか」

「……何を仰っているのか、さっぱり」



 なぜ第三王子の妻が国母となるのか。もうすでに第一王子が王太子候補として最有力候補であり、第三王子は近頃の放蕩ぶりから候補から外されつつある。このままいけば確実に第三王子は国王にはなれず、よって第三王子の妻は国母にはなりえない。

 あまりにも自信満々にいうものだから、私は肝心なことを聞きのがして呆けてしまった。

 事情を知っている貴族たちは口元を隠し、第三王子の言葉に笑っている。一人の女にかまけて職務を怠るような輩を、現王が王太子に指名するとは思えない。



「とぼけるな! 貴様、ティアナを散々虐めていただろう! ティアナのものを奪ったり、ティアナを階段から突き落としたり、許せぬ所業だ!」

「そんなことをした覚えはありません。多少苦言を呈した程度のことはありますが」



 これは本当だ。

 確かに私はティアナ嬢が嫌いだった。彼らは天真爛漫で可愛いと彼女を評したが、私には令嬢としての礼節にかける行動に見えた。ふりまく笑顔には媚が含まれ、仕草の一つ一つが疎ましい。

 分かっている。私が彼女をここまで否定的な目で見てしまうのはきっと、彼女が私よりも親しげにルークと話していたからだ。最後まで私を友人以上には見てくれなかったルークに、恋愛対象として好かれていたからだ。


 だけどそんな彼女を妬ましくは思えど、彼女がいうような低俗ないじめになど私は加担していない。

 ましてや盗人のような真似など、するはずがない。そんなことをしたってルークは私を見てくれない。それどころか、確実に私を軽蔑するのだから。



「ふん、苦言を呈するとはさすがデイヴィッド公爵令嬢。綺麗な言葉で包み隠すのがうまいな。ティアナに向かって吐いた汚らしい暴言の数々を、苦言と呼ぶか」

「暴言なんて吐いていません」

「見苦しいぞデイヴィッド公爵令嬢! ティアナには謝罪の一つもなしか!」

「っ、やってもいないことで謝るわけにはいきません!」



 男性の、それも5人の中では一番体格がいいフレッド=オクスタードに怒鳴られ、びくりと身体が震える。怯えを隠すようにして私も声を荒げた。

 私を睨み付ける瞳が怖い。こんなにも剥き出しの敵意、はじめて向けられた。どうしたらいいか分からない。

 緊張で口の中が乾く。混乱しそうになる頭の中を必死で整理するように、私は扇子を握る手に力を込めた。



「しょ、証拠は……証拠はあるんですかっ」

「証人はいる。――来い」



 証拠なんて出るはずがない。だって私は本当にやっていないのだから。そう高をくくって言った言葉だったが、第三王子は待ってましたと言わんばかりににやりと口を歪めて笑った。

 合図の声に反応して、人垣から数名の男子生徒が前に出る。知らない顔だった。



「こいつらが、ティアナが階段から突き落とされるのを見た。数々の嫌がらせもな」


「本当です。階段の踊り場でティアナ様と公爵令嬢が口論になっていて……いきなり公爵令嬢がティアナ様を突き落したんです」

「この人、笑ってたんです。ざまあみろ、って……」

「その他にも色々見ました! ティアナ嬢の教科書をはさみで切り刻んだり、机を傷つけたり、靴箱にごみを付けたり……本当にひどい人なんです」



 生徒たちの口から洩れるありもしない事実に、私は驚いて口を開けた。

 こんなの、何一つ事実じゃない。私はこんなことしていない!

 見れば、ルークの背中に隠れていたティアナ嬢が真っ直ぐに私を見ていた。その唇の端に確かに愉悦の笑みが浮かんでいるのを見て、すべてを悟る。

 ――嵌められたんだ。



「う、嘘です! そのような証人、なんの意味があるというのです! 脅して言わせているという可能性も、」


「エリザベス」



 静かな声が私の叫びを遮る。こうやって名前で呼ばれるのは、いつ振りだろうか。大人になった私たちはいつしか自分たちの距離を調整するかのように、家名で呼び合っていた。

 ルークが、私を静かに見据えていた。ティアナ嬢からいったん離れ、緩慢な足取りで私の方へ歩いてくる。



「ルーク」



 公爵令嬢としての礼節も忘れて、婚約者の名前を呼ぶ。その声は情けなくなるほど震え、掠れていた。

 私は馬鹿でも鈍感でもない。人の顔色を見れば何を思っているのか大体わかるし、その瞳に宿る感情も分かってしまう。



「最低だな」



 ばしっ、と手に衝撃が走り、しっかり握りしめていたはずの扇子が床に落ちる。開かれた形のまま足元に転がる扇子を数秒見つめてようやく、私は手を叩かれたのだと気付いた。

 駄目だ、いけない。そう思っても目の奥が熱くなり、あっという間に視界がぼやけた。

 このまま下を向いていては涙がこぼれてしまう。ああだけど、顔を上げることなんてできるわけがない。


 彼はまだ、私を睨み付けているのだ。

 憎悪と軽蔑の入り混じった、冷たい瞳で。



「ティアナに散々嫌がらせをしたうえ、悔い改めることも謝ることもしない。お前がそんな人間だなんて思わなかった」



 だめだ。

 泣いちゃだめ。

 お願いルーク。もうそれ以上はいわないで。お願い。



「心底見損なったよ。お前との婚約は、破棄させてもらう」



 ――――ああ。

 ぽた、ぽた。ほとんど同時に、二粒の大きな滴が床に落ちて弾けた。

 一度決壊した感情のダムはすぐには修復できず、そのまま何粒も頬をつたっていった。

 私は呆然とルークを見上げる。ルークは私の涙を見ても少しも動揺することなく、それどころか汚いものでも見るように顔をしかめていた。

 ああ、酷い人だ。なんて酷い人。こんなに酷い人をまだ好きな私は、どこまで愚かなんだろう。



「エリザベス」



 出番を待ちわびていたかのように、優しい声がその場を静寂させた。

 こつ、こつ、と背後から足音が聞こえてくる。その音は紛れもない、滅びの足音だ。



「泣いているね」



 両肩に手を置かれ、少しだけ強引に振り向かせられる。見上げた先には、美しすぎる兄の顔があった。

 柔和な顔立ちには笑みは浮かんでいない。いや、正確には唇の端は相変わらず完璧な笑みを象っているが、私にはそれが笑みだとはとても思えない。


 ああ。

 泣いちゃ、だめだったのに。



「君たちがエリザベスを泣かせたの?」



 兄様の狂気が始まる。私を傷つけた人間すべてを排除するまで、その狂気は終わることはない。

 殺されてしまう。ルークさえも。


 ルーク。ルーク。


 ルーク。


 大丈夫よ。

 私が、




*  *  *




「兄様っ」



 学園を退学し、屋敷に引きこもるようになった私は、底抜けに明るい声を出しながら執務中の兄様の身体に飛び込む。

 兄様は少し困ったように、そしてそれ以上に嬉しそうに「どうしたんだい、エリザベス」と聞いてきた。



「兄様っ、あのね、お庭でお花が咲いたのよ。一緒に見に行きましょう!」



 兄様、池でお魚が泳いでいるのよ。一緒に餌をあげましょう?

 兄様、空にお星さまが浮かんでるの。一緒に見に行きたいです。

 兄様、お腹がすいたわ。一緒におやつの時間にしましょ?


 兄様、兄様、兄様。


 兄様、あなたは私の精神が壊れて幼児退行したとでも思っているんでしょう? 兄様の私に対する態度は、まるで一人じゃ何もできない幼子に対するもののよう。

 それも本当に幸せそうに私の世話をするのだから、気持ち悪いわ。私に甘えてほしかった? 私に幼児のようになってほしかった? それとも自分のことだけを考えてくれるエリザベスが欲しかった?


 残念。兄様、全部全部、演技です。

 私は狂ってなどいません。いえ、少しばかりおかしくなってしまったかもしれませんが。それでも、あなたの望むようなエリザベスには決してなっておりません。


 兄様。私、あなたに“仕事”をしてほしくないの。だって知っているんだもの。あなたが“大事な仕事”と称しているそれは、あの人たちをいかに苦しめて葬るか、どのように彼らを陥れるか、検討するもの。

 兄様が表の人間だけでなく裏の人間とも付き合いがあることぐらい、私は知っていますわ。裏の人間を使って何をしようとしているか、どこまで兄様の策略が進んでいるかは私には分かりませんけど。


 でも、私が道楽に誘えば兄様は必ず“仕事”を中断させる。私と一緒にいる時はどんな人間も傍に寄せ付けないので、兄様が“仕事”のための人間と接触をもつこともない。

 だから私は幼いふりをして、兄様に近づく。兄様の“仕事”を少しでも遅らせるために。その間に彼らが――ルークが、兄様の手の届かないところへ逃げてくれるのをひたすらに願って。



「それはいいね、エリザベス。でも今日は君にちょっと注意しなきゃいけないことがあるな。おいで」

「なぁに? 兄様」



 ……だけどそれじゃあ、全然足りないことに気が付いた。

 兄様は反吐が出るほど優秀な人だ。私がいくら兄様の“仕事”を邪魔したところで、ゆっくりと、着実に、ことは勧められた。

 既にティアナ嬢を含むあの場にいた6人の生徒は、なんらかの罪を指摘され家を勘当もしくは廃嫡とされた。そして何人かはもうこの世にいないことが明らかになっている。

 このままでは、そう遠くない内に兄様はルークを殺してしまう。私が“仕事”の邪魔をしたところで、ルークが逃げ切れる保証はどこにもない。



「庭師の剪定道具がしまってある小屋に入ったんだって? あそこは鋏とか危険なものがあるからダメだといっただろう」



 ――――だから私、決めたのよ兄様。

 あなたを殺して、ルークを助けようって。


 鋏。鋏。そうね、刃の部分が長く切っ先が鋭い剪定用の鋏が欲しかったの。いくら兄様でも、胸を一突きにすれば死ぬでしょう?

 結局盗み出す前に城の人に見つかっちゃったけど。兄様のことだから、あの小屋にはもう厳重な警備が敷かれていることだろう。



「でも兄様、」

「でもはダメ。この間厨房に忍び込んで叱ったばかりなのに、どうしてまたするんだい? 私のいうことが聞けないの?」

「……ごめんなさい」



 厨房も失敗。包丁を探していたのだけれど、どの棚にも鍵がかかっていた。

 こうして屋敷の中を見て回ってようやく分かる。いっそ執念を感じるほど、屋敷の中の危険なものは徹底的に排除、または管理されていた。

 兄様は「エリザベスが傷つかないためだよ」と言っていた。どうりで、ねちっこい執念を感じるはずですわ。


 “仕事”が大詰めに入っているのか、普段よりも中断を渋る兄様に、私は泣き落としを使った。

 あれほど泣くまいと思っていた涙を惜しみなく流す。状況を使い分ければ、私の涙だってとても役に立った。

 慌てて私を腕の中に抱きかかえ、机を整頓し始める兄様を見て、ほくそ笑んだ。


 ふと、視線を落とす。

 新聞紙の一面には大きな文字ででかでかと、見出しが書かれていた。


『マーヴィン第三王子、王太子暗殺未遂の罪により、打首。早朝に執行』


 ――これで、四人目。


 一人目はティアナ=ハーキース。

 淑女でありながら複数の男性と肉体関係を持っていたという淫行の罪。クラスメイトの家宝を盗んだという窃盗の罪。気に入らない女教師を無理矢理退職させたという権利濫用の罪。複数の男を唆しある女性にひどい暴行を与えさせたという傷害教唆の罪。

 どこまで本当か分からないが、彼女はそれらの罪に問われ、家から絶縁された。路頭に迷ったティアナ嬢は絶縁から3日後、無残な遺体となり発見された。

 何でも、身体中に裂傷があり、特に背中などは白い肩甲骨が見えるほど擦り切れていたという。顔の凹凸は消え、焼かれていた。両足首に縄の痕があったことから、縄に足を繋がれ馬に引きずらせるという昔の拷問方法で殺されたのだと推測される。


 二人目はフレッド=オクスタード。

 ティアナ嬢と一緒に屋敷から追い出されたこの付き人は、さらにティアナの言われるがまま暴行、窃盗を行ったとして実刑に問われ牢屋に入った。

 牢屋の中はある意味安全だと私は思っていた。だけど、違ったのだ。彼はティアナ嬢が死んだその1週間後、獄中死した。

 自殺ではない。無数の虫に食い殺されていたのだ。黒蠍という甲虫は、身体は小さく毒もないため、一匹であれば取るに足らない虫だ。だが黒蠍は何千、何万という集団で行動する。肉食である彼らは、寝ているフレッドに襲い掛かり、幾万もの牙を皮膚に突き立て体内に侵入した。

 生きながらにして虫に食い殺されるのはどれほどの苦痛を伴ったのだろう。フレッドの変わり果てた死に顔は長年死人を見てきた検死医さえ吐いてしまうものだった。


 三人目はジル=マーキル。

 彼は家ごと潰された。国家の金を横領していた疑いがかけられ、家は取り潰し、家族と共にスラム街へと追いやられた。

 それでも家族思いであった彼は懸命に家族を支えようとしていたらしい。だが家族の方が彼を裏切った。

 大金と引き換えにジルを売ったのだ。ジルが売られたのはあるサーカスだった。異形の者を集めるという噂の有名なサーカスで、その新しい「売り物」として新聞に載せられていた。

 眼球はガラス、皮膚は魚の鱗、下半身のない、「キラキラ人間」として。


 そして、四人目のマーヴィン=アルスッテッド殿下。

 さすがにここまで位の高い人間だと、廃嫡されてもなおある程度の保護は与えられていたらしい。先の三人のような無残な死に方はしなかった。

 だけど公衆の前で打首にされるとは……彼のプライドの高さを思えば、何よりも屈辱的だったに違いない。


 もう、時間がないのだ。残るはルドルフ=ノートンとルークだけ。

 どちらが先に殺されるかもわからない。もう私には、兄様を怖がっている暇などありはしない。



「さぁ、行こうかエリザベス」

「うん!」


「あと二人だからね」



 兄様がそう囁いてくる。

 ええ、そうね。兄様。


 ねぇ兄様。私、兄様が怖かったわ。兄様のことが少しも理解できなくて、怖かった。

 でも不思議ね? 私、今なら兄様の気持ちも分かる気がするの。


 大好きな人を守りたい気持ち。大好きな人のためなら何でもしたいと思う気持ち。

 やっぱり私たち兄妹ね。



 ルーク。大丈夫よ。

 私が、あなたを守ってみせる。

 兄様を、殺してでも。


 悪役令嬢ものは初投稿ですが……どうしてこうなった\(^o^)/

 いや、最初は本当にただの泣き虫令嬢とシスコン兄の物語にしようと思っていたんです、ほんとに。い、いつの間にかこんな狂ったような設定に……。


 結局 兄=妹大好きヤンデレ 妹=婚約者大好き微ヤンデレ ということですね。兄の方は意外と鈍感で、自分は妹に好かれていると思っていますが、エリザベスは着々と暗殺を企てています。

 番外編としてはヒロイン視点、婚約者視点を書こうかなと思っています。エリザベスが兄を殺せたかどうかは明らかにしません。

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[一言] ヤンデレはいいぞ!長期連載してくれれないかな?
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