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静かな戦い

『…まずいの。』己多が、目を閉じてその様子を見ていて、言った。『やはりあれは、引っ張られるか。』

ヴァルラムが、横で身を乗り出した。

『どういうことぞ。何が見えた。』

己多は、目を開いた。

『術はまるで魔のように、その精神に幻覚を見せる。消えてなくなるのを消すためであるが、その波動をどのように感じるかはその神、神によって違うのだ。術はヴァシリーに取り込まれるのを防ぐため、どうにか美加に留まれないかと波動を出した。その結果、ヴァシリーは己の中の不安や迷いを、別の神から話されるといった形で見たわけだ。そこは抜けた…術の玉はヴァシリーへと移った。だが、問題はここからぞ。』

維心は、己多を見た。

『これから、ヴァシリーの中で消されてはならぬと術はもっと強い波動を放つだろうということか。しかも、身の内から来る波動であるから、かなり強力よな。その幻覚は、さらに強いものとなろう。』

己多は、頷いた。

『ヴァシリーは精神攻撃など受けたことがないようであるな。己に取り込むのにここまで手こずるなど思わなかった。果たして消し去ってしまえるものか、疑問よ。』

ヴァルラムは、ぐっと眉を寄せた。しかし、黙っている。十六夜が言った。

『確かに…やらしい方向から攻めて来るからな、あの仙術ってのはよ。だが、ヴァシリーはやると言った。信じて待つよりないんじゃないか?』

己多が、片眉を上げた。

『やらしい方向?』

維心が、十六夜に呆れたような視線を向けてから、己多に言った。

『タチの悪い方向ということだ。一番弱いところを突いて参るゆえ…少しでも揺らいだら、飲まれてしまうだろうの。あれの意思の強さが問われるな。』

ヴァルラムが、鋭い視線を上げた。

『…信じておる。あれは、そんなものに飲まれることはない。』

十六夜も維心も、黙った。

『…とにかくは、時だけが案じられる。あれをいかに早く滅しられるかに掛かっておる。時間をかければ、身の内をあの力に食われてしまうゆえ。あれはあらゆる策を駆使してその時間を稼ぐだろう。我らは祈るよりない。』

そうして、己多はまた目を閉じた。


気が付くと、そこは何も無い場所だった。ただ白く、気を抜くと上も下もわからなくなりそうな空間の中で身を起こしたヴァシリーは、そこに冷たいガラスのような床を感じた。立ち上がって回りを見回すと、目の前の白い霧が消えて、そこに美加が立っていた。

『美加!』ヴァシリーは、慌ててその手を取った。『助けに参ったのだ。主は生きようと望むのだ…我と共に生きようぞ。』

美加は、スッとヴァシリーの手を放した。

『またそのように我を騙すの。名前すら偽って我から話を聞き出したあなたを、まだ信じるほど我は愚かではないわ。』

ヴァシリーは、首を振った。

『何を申す。確かに名は名乗れなかったが、それでもあの時主を望んだのは本心ぞ。なので我は主を助けに参ったのだ。誰の手にも触れさせたくないと、我が…。』

美加は、ヴァシリーに背を向けた。

『もう放って置いて!我など元咎人。居なくなっても、誰も悲しまないわ。それどころか面倒がなくなったと皆、喜ぶでしょう。我のしたことを聞けば、あなただって逃げ出すに違いないわ。』

ヴァシリーは、美加の背を見た。どうすれば、分かってもらえるのだ。

『ならば、それを我に話してみよ。我が心は、そのような事で変わるものではない。』

美加は、一瞬黙った。

『それは…あの、お祖母様やお母様まで巻き込む大事なのよ。』

ヴァシリーは、食い下がった。

『それは聞いた。具体的に申せ。それで主の心のつかえも取れるだろう。我は、変わらぬ。』

美加は、また黙った。今度は長い。ヴァシリーは、いつもの美加らしくないと思った…美加なら、ここまで話せば一気に話すだろう。はっきりとした性格なのは、既に知っていた。こんな時に、黙っていられるたちではないのだ。

それでも、もしかしてやはりそんなに言いにくい事なのかと、ヴァシリーは美加に歩み寄った。

『誰かを殺めたか?そんなことは構わぬ。我とて任務でどれほどの命を絶って来たか。主を責める事はできぬ。申せ。それでも我は主を望むゆえ。』

美加は、まだ黙って背を向けている。ヴァシリーは、美加の肩を掴んだ。そして、その表情を見て、止まった…その顔は、困って悩んでいると言うよりも、必死に何かを考えていたからだ。

ヴァシリーの脳裏に、先程の己多に似た男の言葉が一瞬にして流れた。

姿など関係ない…主の心の問題…。

ヴァシリーは、美加から飛びすさった。

『美加ではないな!あの男か!』

そう、ならば、美加の罪など知るはずもない。この自分が知らないのだから、語れるはずがないのだ。

『う…?!』

ヴァシリーは、膝をついた。腹の辺りが激しく痛む。まるで刀に貫かれたかのようだ。

『…やっと効いて参ったか。』美加の姿で、あの男の声が言った。『思いもかけず強靭な男よ。しかし術は確実に主を食ろうておるわ。もはや、助からぬ。』

ヴァシリーは、腹を押さえた。焼け付くような痛みは、外ではなく内側から広がっているようだ。

『馬鹿な…!まださほど時は過ぎておらぬはず!それならミカの方が…!』

男の声は美加の姿で笑いながら言った。

『幾らか気を失うておった。それにあの女は龍の強靭な守りがあって、なかなか食い破れなかった。お主の方が、幾らか柔かったわ。』

そうか、美加は龍王の血筋…血は争えないのか。

『…そうか。』ヴァシリーは、幾らかホッとした顔をした。『ミカは無事か…ならば、良かった。』

男の化けた美加は、顔をしかめた。

『己は死ぬぞ?術に飲まれて、身は無事でも二度と目覚めぬ脱け殻となる。ただ術のために気を補充して玉に力を与え続ける生ける屍となるのだ!』

ヴァシリーは、頷いた。

『ミカがそうならずで良かったと安堵しておる。ただ、この心の真実は、知って欲しいと思うておったが…それも、我が父や回りの者から知れるであろう。我は、それを望んでおった。あれに疎まれたまま、世を異にするのだけはと思うておったゆえ。我は、満足よ。』

ヴァシリーは、そこへくずおれた。もはや、体のバランスを取ることも出来ない。体中の力が、一点へ吸い込まれているようだった。しかし美加の姿の男は、焦燥に駆られた表情で叫んだ。

『美加は、他の男のものになるぞ!主の事など忘れ、その男と愚かな男だと笑うておるやもしれぬ!主の行いは無駄になるのだ!』

ヴァシリーは、それでもフッと微笑んだ。

『そうかもしれぬ。だが、いつまでもくよくよしておるのはあやつには似合わぬからのう。我は、あのどんな境遇の中でも己を正せる強さに惹かれたのだ。良い。あやつが笑うておられるなら。』

ヴァシリーは、目を閉じた。

『おのれ…!主などに…!おお…!』

遠く、男の声が叫んでいるのが聴こえた。

ヴァシリーは、暗闇の中へ落ちて行った。

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