救うもの
美加は、与えられた部屋で寝台に突っ伏して泣いていた。自分は罪人なのだから、本気で想ってもらえるなどとは思ってはいなかった。だが、罪人であるからと、軽く思われ利用しようとしていたのなら、とてもやりきれない気持ちだったのだ。
それでも…。と、美加は思った。それでも、あの僅かな時間、自分は幸せだった。少しでも、夢を見ることが出来た。それが偽りだったとしても、ただあの瞬間だけは…。ただつらいのは、真実を知ってしまったことだけ。夢を見たことだけを、覚えていられたら…。
美加は、ハッとして脱いで放り出されていた囚人服を見た。あのポケットに、入れてあるはず。ヴァシリーは、あの玉は自分の力を搾り取ると言った。
美加は、急いで服のポケットを探った。そこには、小さな赤い玉が、まだ確かにあった。
「…己多に、感謝しなければ…。」
美加は、日本語でそう呟いた。このままここで仕えて生きたとしても、皆に元は囚人よと疎まれて蔑まれて生きねばならない。当然の報いだとしても、そのたびにヴァシリーのことを思い出す。誰にも必要とされない自分を、一瞬でも必要とされていると思えた、その夢の中に行きたい。これを飲めば、それが叶う。
後ろで、戸が開く音がしたような気がしたが、美加はもはやその赤い玉以外の何も見ていなかった。
『ならぬ!』
誰かの声が叫ぶ。
美加は、何の躊躇もなくその玉を飲み込んだ。
そうして、暗い闇の中へと落ちて行った。
『維心殿を呼べ!早よう!』
ヴァルラムが叫んだ。ヴァシリーが、ヴァルラムより先に駆け寄って床へ倒れる美加を抱き上げた。
『ミカ!おお、飲んではならぬと言うたのに!だが、キダは飲んだ後呪を唱えたらと言うておった…飲んだだけでは、支障ないのではないのか!』
ヴァルラムが、歩み寄って来て美加の顔を覗き込んだ。
『少なくとも、著しく体内の気が一点に集中して行っておるのは確か…胸の辺り。』ヴァルラムは、手を翳して言った。『恐らく、玉へ気を集めておるのだ。それを呪で吸い上げる形になるのだろうの。』
ヴァシリーは、美加の顔色が一気に青ざめて行くのを成す術もなく見た。なぜにこのようなことに…世を儚んだのか。何ゆえ…。
ヴァシリーは、ハッとした。美加は、自分が偽りを言っているのだと誤解していた。利用していただけなのだと…聞く耳を持たぬので、ゆっくりと分かってもらえれば良いと思っていた。だが、美加は耐えられなかったのか。我を誤解したまま、己の先行きにも光を見出せず、玉を飲んだか。
『おお』ヴァシリーは、後悔に押しつぶされそうになりながら、美加を抱きしめた。『我のせいか…誤解など後で解けば良いと、主がその間どれほどにつらい思いをするかなど考えもせず、その場を去ったゆえ…!』
ヴァルラムは、その様子に眉を寄せた。どういう意味だ…?
すると、そこへ己多が飛び込んで来た。最早着替えてすっきりとした風情で、ヴァルラムにもヴァシリーにも、一瞬それが己多だと分からなかった。
『キダか?』
ヴァルラムが言うと、己多は面倒そうに手を振った。
『そんなことは良い!飲んだのか…なぜに今!』
ヴァルラムは、己多を見て問い詰めるように言った。
『なぜに分かった?主には知らせておらぬだろうが。』
己多は、ヴァルラムを睨んだ。
『己が作った術の玉が発動したのを、気取れぬとでも思うてか。それよりも、もう玉は美加の気を吸い上げて一点に集中させておる…このままでは、我が術を唱えずとも、命が危ういぞ。』
そこへ、維心どころか十六夜も駆け込んで来た。
『なんてこった…この嫌な気配、術を発動しちまったのか!』
十六夜が、飛び込んですぐに美加の顔を覗き込んだ。ヴァシリーが、十六夜を見上げて震える声で言った。
『我のせいぞ。我が…。』
十六夜は、ヴァシリーの肩に手を置いた。
『分かってる。オレ達はお前の目から見てたからな。だが、自分を責めるんじゃねぇ。お前は美加を騙したんじゃねぇからな。』
維心が、青い顔をして動かない美加を覗き込んだ。その顔は、僅かの間に大人びて、その気は落ち着いた気品のあるものに変わっていた。
『己を滅すことを選んだか。以前のこれなら、相手を殺すことを考えたであろうにな。』と、手を翳した。『この術は手ごわいの。己多、まさか解く方法が分からぬと申すのではないであろうの。』
己多は、首を振った。
『知ってはおるが、解いたことはない。不可能であろうと思われるゆえな。』
ヴァシリーは、己多を見上げた。
『とにかく、その方法を申せ!』
己多は、ヴァシリーの顔を見て、驚いた。目の色が違うが、これはヴィクトルではないのか。
『そうか…主は密偵であったか。』そして、維心の方を見た。『これは、あまりにも強い気であれば使えぬ術。つまりは、体内で己の力で消す能力のある者ならば、死にまでは至らぬのだ。その条件で考えると美加は、ちょうど良い気の強さだったのだ。そこそこに強い力を持っておるが、己で術を破る力ほどではないという。』
ヴァシリーが、叫んだ。
『ちょうど良いとは!主は美加を、己の命を絶たせるために殺すつもりだったのだろうが!』
己多は、息をついて顔をしかめた。
『確かにそうだ。我は、偉そうには言えぬがの。だが、解き方を知りたいのだろうが。そのように邪魔をしては、手遅れになるぞ。』
ヴァシリーは、ぐっと黙った。維心が、先を促した。
『して?そのちょうど良い美加が、己の体から玉を出すのはどうしたら良いのだ。』
己多は、頷いた。
『簡単なことぞ。玉を消せる力を持つ者が、代わりにその玉を己の体内へ取り込んで消す。』
維心は、美加を見下ろした。
『つまりは、我のような?』
己多は、困ったように顔をしかめると、維心をじっと見た。
『確かに主の力なら、あんな玉など一溜まりもないだろうが、主に美加が抱けるか。たった一人の妃を溺愛しておるのだと見ておったが。』
維心も、聞いていたヴァルラムも、十六夜でさえも仰天して身を退いた。
『どういうことでぇ?!つまりは、アレをして体にそれを取り込むってことなのか?!』
己多は、頷いた。
『その他に、どうやって体を直接繋ぐのだ。己の気を流し込んでそれで玉を包んで引っ張って、自分の体内へ取り込むのだ。難しいぞ、相手の気は全て残しておかねばならぬからの。』
維心は、十六夜と顔を見合わせた。難しいと聞いて、ヴァルラムも自分を見ているのに気付いた維心は、ぶんぶんと首を振った。
『我には出来ぬ!これは前世とはいえ我の孫。手を付けられるわけがないであろうが!どんな理由があったとしても、我には絶対に維月以外の女に触れることなど出来ぬ!』
言い切る維心に、十六夜も首を振った。
『オレだって無理でぇ!後で維月に何て言い訳したらいいか…とにかくは、絶対に無理だ!』
その様子に、己多は眉を寄せた。
『あの妃はどれほどに恐ろしいのよ。しかし時はないぞ?己の不始末であるし、我がやっても良いが、目が覚めた時美加が何と言うかの。美しいので別に妻の一人であっても我は構わぬが、そこに何の感情もないしな。』
すると、ヴァシリーが言った。
『我が!』ヴァルラムが驚いてヴァシリーを見る。ヴァシリーは続けた。『我が娶ると約しておるのだ!誰かがやらねばならぬなら、我がやる!』
己多は、目を丸くしてマジマジとヴァシリーを見た。
『いつの間にそのような。しかし、難しいぞ。体内に取り込んだ途端に、それは主の気を取り込みに掛かる。体内も少なからず損傷しよう。余程の力を込めねば消し去れぬ。絶対的な力を持つ龍王や、術を知る我とは勝手が違うゆえ。それでも、やるか?』
ヴァシリーは、力強く一度、頷いた。
『やる!』と、最早青白い美加の頬に触れた。『やらねば…我にしか出来ぬ。ミカに、我の心の真実を知ってもらわねばならぬゆえ。』
維心は、ヴァルラムを見た。
『良いのか?主の跡継ぎではないのか。我が宮では皇子にこのようなことはさせぬ。』
ヴァルラムは、じっと黙ってヴァシリーを見ていたが、首を振った。
『いや。我らには、皇子という概念がない。我の後を継ぐのは力の強い神であって、それが必ずしもこれとは限らぬ。』と、ヴァシリーをじっと睨んだ。『これを乗り越えれば、これを試練として主にはまた王位継承争いの際の力を得よう。しかし、それだけに大きな試練。やるのだな?』
ヴァシリーは、頷いた。
『は。必ずややり遂げまする。』
ヴァルラムは、頷いた。
『ならば、止める理由などない。』と、踵を返した。『出るぞ、皆。急がねばミカは命を落とすのであろう。』
維心は、何も言わずにそれに従った。十六夜は、ためらいがちにヴァシリーを見た。ヴァシリーは、美加を抱き上げて立ち上がる。十六夜は、そんなヴァシリーに言った。
『ヴァシリー、仙術は厄介だ。人の作った自然の理を捻じ曲げる術で、一筋縄ではいかねぇんだ。今度のは、まだ簡単な方だ。だが、解く時に何かあるかもしれねぇ。気を付けな。』
ヴァシリーは、美加を寝台へと下ろしながら十六夜に頷いた。
『分かっている。仙術など我は関わったことがないのだ。だが、やらねばならぬ。』
十六夜は、しっかりとヴァシリーを視線を合わせて頷くと、背を向けて出て行ったのだった。




