誤解
美加は、すっかり綺麗に汚れを落として、準備されてあった裾の長いワンピースのような服に手を通した。こちらでは着物を着ている神に会ったことがない。きっと、これからはずっとこんな洋服と言われるものを着て生きて行くのだろう。
髪をそこにあったドレッサーに座って、ブラシを使ってすくと、やっと女神と言われる姿に戻ったのだと涙が出た。何を認められて出されたのかは分からないが、自分でも驚くほどに考え方が変わったのは分かる。それが間違いではなかったのかと、美加はこれまでの自分を改めて恥じた。何とわがままで、考えなしであったことか…。
そうして、しばらくそこに座っていると、戸の外から声がした。
『ミカ。』
それが、聞き覚えのある声であるのに顔を紅潮させた美加は、急いで戸に駆け寄った。
『ヴィクトル…。』
目の前に立つヴィクトルは、思ってもみなかったほどに凛々しく美しい軍神の姿だった。髪は短く、顔がはっきりと見える。目の色も赤く、とても同じ神とは思えなかった。その相手は言った。
『少し良いか。』
美加は、ハッとして頷いた。
『どうぞ、入って。』
そうして、相手はそこへ入って来た。美加は戸を閉めて、側の椅子を示した。
『座って。あの…驚いたわ。全く感じが違うから。』
ヴィクトルは、頷いた。
『我こそ驚いた。あの時は男のような格好であったしの。』と、息をついた。『ところで、我は話さねばならぬことがあって来たのだ。』
美加は、寂しげに頷いた。きっと、こんなに立派な軍神なのだから、立場上婚姻など出来ないと、言いに来たのね。
『ええ。あの…気にしないで。我は、自分の今の立場を分かっているつもり。あの場所は異質だから、何が起こってもおかしくはなかったでしょう。』
すると、ヴィクトルは首を振った。
『そうではない。主が何を言いたいのか分かるが、我はそこまで浅はかではないからの。そのつもりがないのに、あのような事は言わぬ。そうではなくて、我の事ぞ。まず我は、ヴィクトルではない。』
美加は、驚いたように相手を見た。
『え…?』
相手は、じっと美加を見つめて言った。
『我が名は、ヴァシリー。ここの次席軍神。バレぬようにあのように装い、王の命で調査に参っておった。主やその周辺で良からぬ事が企まれておる情報があったので、その必要があったのだ。』
美加は、必死に頭を働かせた。どういう事…つまりはヴィクトルはヴァシリーで、次席軍神で、我が何かしないか見張るために来ていたと言うの。
『我が何か企んでおるのだと思っていたの?』
ヴァシリーは、頷いた。
『それが何なのか、我は知らねばならなかった。しかし、どうやら我が何も報告しない間に我らの様子を知られたようで、あのように王は降りて来られ、主を出した。我もお役御免となったのは、解決したということであるから。我は、これより王にご報告に参る。しかしその前に、主に真実を話しておかねばと思うたのだ。』
美加は、ヴァシリーを見上げた。調べに来たのに…つまりは、あれは我からいろいろと引き出そうと偽った事だと言うの。
『全て…偽りであったのね。』
ヴァシリーは首を振った。
『我は主を知り、あのように申したのだ。あの時にはもう、主が主導で何かを企んでいるのではないと分かっておったではないか。主という神を、娶りたいと言うたのは偽りではない。』
美加は、横を向いた。そんなことを信じろと言うの。我は…こんな囚人の女であるから易いと思われて…。
『もう、良いわ。我など初めから、どこでも生きて行くのは難しい女なのだもの。一時でも、居場所があったと思う。』
ヴァシリーは、身を乗り出した。
『ミカ、そうではない。共に生きると約したではないか。』
美加は、突然立ち上がって後ろを向いた。
『もう良いから!』と、自分を抱くように腕を組んだ。『良いから…一人にして。』
ヴァシリーは、立ち上がって美加を見た。今は、何を言っても無駄だ。
『分かった。しかし、また、参る。それから、キダから渡された玉は決して飲むでないぞ。あれは主の力を絞り取ってしまう仙術に使われるもの。主の身が一瞬にして枯れ木のようになってしまう。』
美加は、何も答えなかった。ヴァシリーは、しばらく美加の背を見つめていたが、そのまま部屋を出て行ったのだった。
ヴァシリーは、王の居間へと入って膝をついた。
『王。ご報告に参りました。』
ヴァルラムは、顔を上げて頷いた。
『ヴァシリーか。入れ。』
ヴァシリーは、入り口付近で膝をついて頭を下げていたが、サッと立ち上がってヴァルラムに近付き、その側に膝を付き直した。
『王におかれましては、大半をご存知の由。』
ヴァルラムは、頷いた。
『と申して、我は聞かされた一部だけであるがな。維心殿や十六夜が、主の目を通して見ることが出来、それをしておったのだ。なので、維心殿達は全て知っておるであろうの。』
ヴァシリーは、大抵のことならば驚かないのだが、それには心底驚いた。まさかそんなことが出来るとは思っていなかったのだ。
『それは…我が見ておったことは、全てということでしょうか。』
維心は、少しバツが悪そうにしたが、頷いた。
『ほとんどの。さすがにずっと見ておることも出来ぬから、何もかもというわけではない。しかしお蔭で、我は美加が驚くほど成長しておることに気付いた。そして、共に捕らえられておるのが己多であることも知ることが出来たしの。』
本人に告げずにヴァシリーの目を使ったことは、さすがの維心も礼を失していたと心苦しかったので、言い訳のように言った。ヴァシリーが自分の臣下であったならこの限りではなかったが、何しろこちらでは皇子という地位はないようだが、ヴァシリーはヴァルラムの子なのだ。
ヴァシリーは、自分の目が使われたことに、憤ってはいなかった。ただ、それを気取ることが出来なかったことが、何より不甲斐ないと思えて、恥ずかしげに下を向いた。
『何も気付きませず…。お恥ずかしい限りでございます。』
維心はそんなつもりではなかったので、慌てて否定しようとしたが、ヴァルラムが頷いた。
『そうよな。我はこやつらが我の目を使ったのを、意識を己の意識の端に気取ったぞ。主も、そのようにしてこれからはそれを知るが良い。ま、このようなことも出来る神が居ることが分かっただけでも重畳ではないか。なかなか出来る体験ではない。』と、椅子を指した。『座るが良い。気付いたことを話せ。』
ヴァシリーは、まだ恥ずかしげに顔を紅潮させていたが、指された椅子へと座った。そして、小さく首を振って気持ちを切り替えると、ヴァルラムの目を見据えた。
『まず、全てはキダの企みであったことをつきとめ、その方法を知りました。仙術とか申す、南で人が作ったという術。神の気を持たなくても放てる術だと申しておりました。』
それには、維心が頷いた。
『その通りぞ。あれは大変に厄介なもので、我らも何度も翻弄された。仙人が使っておるには我らにもそれほど脅威ではなかったが、神がそれを使うとかなりの力となるので、抗うことが出来ぬ。しかも、それを解くには術によって違う解き方があり、手順通りに進めなければ解けぬという面倒なものだ。人が無理に作ったものであるので、自然の断りを捻じ曲げておるのだ。我は、主の目からそれを見て知り、急がねば面倒なことになるとヴァルラムに申して急がせた。』
ヴァルラムは、維心を見た。
『仙術とは、それほどに面倒なものなのか。キダを止められて良かったことよ。』
ヴァシリーが、片眉を上げた。
『止める?あれは、白状したのですか。』
ヴァルラムは、頷いた。
『ああ。元々、あれは他の受刑者とは違った気を発していた。性悪な気などなく、ただ物悲しい気での。本当ならば、訳を白状させて手立てを考えるのだが、あれが我が民の家を奪おうと襲撃したことは確かであるし、対面上一度は牢へ放り込む必要があったのだ。』
ヴァシリーは、しかし眉を寄せた。
『…だが、あれはどのような理由があるにしろ、ミカの命を犠牲にして牢を出ようとしておった。許されることではありますまい。』
ヴァルラムは、ふっと苦笑した。
『確かにそうよな。だが、あれは己を殺して欲しかったのだ。我が殺すなと申すゆえ、ここの軍神は少し逆らったぐらいでは命までは取らぬ。なので、ミカを殺して己を軍神に殺させようとしたのだ。元より、あれは出ようとは思うておらなんだ。ただ、死にたかったのだ。』
ヴァシリーは、それでも下を向いた。死にたいのなら、己であの玉を飲んで、己で呪を唱えて死ねば良いではないか。
美加が、自分が居ないところであれを飲んでいたらと思うと、居たたまれなかったのだ。
維心が、ヴァシリーの様子を見て、薄っすらと微笑んだように見えた。ヴァシリーはハッとして、慌てて目を伏せた。自分の目から見ていたということは、自分がミカに婚姻をと言っていたのも維心は知っているのではないか。自分の心の内を、見られていたのかと思うと居心地が悪かった。
しかし、維心は何も言わずにヴァシリーを見ている。ヴァルラムが、何も知らずに先を促した。
『して?その仙術とはどのようなものか。』
ヴァシリーは、慌ててヴァルラムを見た。内心ではどきまぎしていたが、ぐっとそれを押さえ込んだ。
『は。何でも他人の身からその気を吸収してしまうものだとか。仙術で作った小さな赤い玉を相手に飲ませ、呪を唱えるとその気を絞りつくしてしまうのだと聞きました。もちろん、気を搾り取られた相手は枯れ木のようになって死ぬのだそうです。』
それには、ヴァルラムもさすがに両方の眉を寄せた。
『また厄介な。その赤い玉は?』
ヴァシリーは、頷いた。
『はい。ミカは飲んでおりませぬ。決して飲まぬようにと、我はミカに申し付けておきました。』
維心は、ヴァシリーを見て少し険しい顔をした。
『…まだ、あれはその玉を持っておるか。』
ヴァシリーは、頷いた。
『はい。そのはずでありまするが。』
維心とヴァルラムは、顔を見合わせた。
『その玉は、破壊した方が良いの。』ヴァルラムが、立ち上がった。『その辺りに転がっておって、誰かが口にするようなことがあってはならぬ。』
維心は、頷いたが立ち上がらなかった。
『我は行くべきではない。美加は我には心を開かぬだろうからの。すまぬが、頼む。』
ヴァルラムは頷いて、ヴァシリーと共にそこを出て歩いて行った。




