潜入
ヴァシリーは、目立つ赤い瞳の色を変え、髪を少し伸ばした状態でダヴィートがためらいがちに差し出した囚人服に腕を通した。体格が良く、ヴァルラム譲りの大変に美しい顔立ちのヴァシリーは、それを隠さねばとダヴィートから言われて、幾らか泥で汚してから前髪も長く伸ばして、顔がはっきり見えないように工作した。そして、背を少し丸めて、姿勢が悪く見えるように気を遣い、そうしてやっと、囚人のひしめく場へと入って行った。
ダヴィートはまだ、遠慮しているようで、ためらいがちに後ろを付いて来る。ヴァシリーは、そんなダヴィートをにらみつけた。
『…主の対応次第で、我の素性を疑われることもあるのだぞ。普通に扱わぬのなら、主をこの任から離す!』
すると、ダヴィートは飛び上がるようにヴァシリーの横へ来た。そして、思い切ったように言った。
『早く行け!お前の入るのはこっちだ!』
ヴァシリーは、にやりとほくそえむと、表面上は面倒そうに独房へと転がり込んだ。ダヴィートは、目の前の格子を閉じて、鍵をかける。神ならこんなものは簡単に破ってしまうが、ここでは気を封じられているので、こんなものすら誰にも開けることが出来ないのだ。
上手く美加の向かいの牢へと放り込まれたヴァシリーは、長く垂れた前髪の間から、密かに向かいの美加を伺った。美加は、新入りが入って来たと少しこちらを気にする素振りをしている。その隣りの独房にも、誰かいるのだと聞いていたが、まだ戻っていなかった。ヴァシリーは、とにかくは何か話してみるかと、美加にわざと乱暴に話し掛けた。
『…何だ?何を珍しげに見ている。』
美加は、慌てたように横を向いた。そして、言い訳がましく言った。
『あなた、気がふれたのではないのね。新入りなの?』
ヴァシリーは、ふんと横を向いた。
『だったらどうした?こんな場所…』ヴァシリーは回りを見る仕草をした。『すぐに出てやる。』
美加は、息をついた。
『皆、出れるものなら出たいわ。でも、無理なのよ。脱獄に失敗すると、殺されるのよ?余程の策が無いなら、やめた方がいいわ。』
美加が言うのに、ヴァシリーはまじまじと美加を見た。案外にまともなことを言う。
『では、主は諦めておるのか?ここに、終生おると。』
美加は、激しく首を振った。
『そんなはずないじゃないの!』そして、下を向いて、何かをぐっと握り締めた。『…分からないわ。まだ、私にもどうしたらいいのか。ここで、おとなしくしておって、ここを出してもらえるのかも分からない。でも、逆らって無事にここを出れるのかも分からない…。』
ヴァシリーは、言った。
『今、脱獄は死だと己で言うたではないか。』
美加は、頷いた。
『…ええ…。』
美加は、黙った。そして、ヴァシリーに見えない方角へ視線を向けると、小さな声で言った。
『今の話、誰にも言わないで。』
すると、牢番の一人に連れられて、一人の男が気だるげに戻って来た。その男は、こちら側にヴァシリーが増えているのを見て少し驚いたような顔をしたが、そのまま美加の隣りの部屋へと入れられて、鍵を掛けられた。じっと黙ったままの美加には見向きもせず、その男は言った。
『我は、キダ。主の名は?』
美加は、その言葉が自分に話す時より丁寧なのに驚いた。男尊女卑なのが、それでよく分かった。しかしヴァシリーは、なぜか油断がならないような気がして、それでもぶっきら棒に答えた。
『ヴィクトル。』
キダと名乗ったその男は、にやりと笑った。
『この地の神か。主、何をやった?独房に来ているということは、それなりの地位だったんだろうが。』
ヴァシリーは、ふんと横を向いた。
『主の知ったことではないわ。ま、長くは居るつもりはない。』
キダは、じっとヴァシリーを見て、真剣な顔つきで言った。
『ヴィクトルとやら。気を失っている事実は、そんなに甘いものではない。何の策もないのなら、ここを出ようなどとせぬことだ。殺される…命を落とすぞ。まずは、生きることだと我は思う。』
ヴァシリーは、このキダとかいう男が、驚くほど頭が良さそうなのにまた驚いた。こんな場に居るような男には思えぬ…確かに、これは何か企んでいるとしたら、厄介そうな。
『生きること、か。』ヴァシリーは、言ってゴロンとそこへ横になって美加とキダに背を向けた。『まあ、覚えて置こう。』
また何か言うかと思ったが、キダは何も言わなかった。美加もじっと黙ったまま、その日はそのまま暮れて行ったのだった。
次の日、早速に外へ出された美加とキダ、そしてヴァシリーの三人は、前に偉そうに立つ牢番に申し渡された。まずは、キダを、そして美加を指した。
『お前、昨日と同じ新しい採掘場へ。お前は古い方。それで、お前。』と、ヴァシリーを指した。『まだ捕らえられた時の傷が塞がっておらぬと聞いたゆえ、この女と同じ採掘場へ行け!』
そういうことになっているのか。
ヴァシリーは、それが美加と話す時間を与えるためのものだと察した。なので、気だるそうに頷くと、美加を見た。
すると、美加は言った。
『そのような。怪我をしておるのなら、今日はここへ残して置くべきだわ。我はその分、働けるはず。一人で女二人分は働くと、いつも現場監督が申しておるもの!』
ヴァシリーは、驚いて美加を見た。そんなことを言うような女だとは聞いていなかったからだ。何でも、己の望みを叶えるためなら、他が苦しもうと構わぬ気質だとか…。
しかし、その牢番は、威嚇するように近くの床に気を放った。その爆発音に、美加は身を縮める。
『決定事項ぞ!逆らう事は許されぬ!』
美加は、キッと牢番を睨んで、それでも口を開こうとした。しかし、ヴァシリーがそれを遮って言った。
『ふん、これぐらいの傷。女に庇われなくとも大丈夫ぞ。』
美加は、黙ってヴァシリーを見上げた。牢番は、無表情に言った。
『では、行け!』
三人が歩き出す。ヴァシリーは、前を行く美加が、微かに震えているのを見て取った。
そこまで脅えておるのに、なぜに見ず知らずの我を庇う…。
ヴァシリーには、理解出来なかった。
そこは、昨日上から見た採掘場だった。美加は、金属の道具を持って言った。
『これで、ここを掘っておったら、原石が出て来るから、それをこの籠へ。』と、側の籠をヴァシリーに押しやった。『無理はしなくて大丈夫よ。我はこれは得意なようで、他の者より早くたくさん採れるの。どこを怪我したの?』
ヴァシリーは、咄嗟に丸めた背を指した。
『背の真ん中をな。だが、もうそれほどでもないのだ。』
美加は、心配そうにそちらを見た。
『だから不自然な姿勢であったのね。治るまで、そのように頑張る必要などないわ。どうせいくら頑張っても、報酬も何も出ないのだから。あなたは採っておるふりだけしていれば良いのよ。』
美加はそう言うと、さっさと前の岩場に向かった。ヴァシリーは、ためらいがちにその少し下の岩をガツガツと道具で叩いた。案外に力が要る…これは、気を使えない女には重労働だろう。
しかし、美加は結構な速さでそれを砕いていた。どうも、道具を降り下ろす時にコツがあるようだ。
こんな優秀な女に、採掘をさせておるとは。それともこれが天職だとでも言うのだろうか。
ヴァシリーは、とにかくは女に遅れをとる訳にはいかないと、自分も真剣に岩へと向かい合ったのだった。
特に言葉も交わす機会もないままに、半日か過ぎた。牢番の声が響く。
『休憩~!』
すると、皆道具を放り出してその場に座った。すぐに牢番がやって来て、大きな水差しとカップを置いて去る。美加が進み出た。
『さ、早くお茶を。ここで飲んでおかないと、夕刻まで何もないわ。』
他の女達も、わらわらとやって来て、当然のように美加の前に並ぶ。美加は、皆どこかしら欠けたカップを取っては水差しに入った茶を注ぎ、皆に渡して行く。ヴァシリーがじっと見ていると、最後に二つのカップに茶を注いで、こちらへ歩いて来た。
『ほら、言ったでしょう。ここでは出された時に飲んで、休める時に休まないともたないのよ。』と、ヴァシリーの手に無理矢理カップを押し付けた。『…ここに来た時は、酷いものだったわ。皆、自分の事ばかりで、お茶を飲めない者もいた。そうして、弱い者から倒れて死んでいったわ…。』
美加は、カップから茶を飲みながら、皆を見下ろして言った。ヴァシリーは、言った。
『そんなものではないのか。皆、囚人であろう。他のことなど構わぬからこそ、このような場へ来る事になったのだろうしの。』
美加は、ヴァシリーを見て、悲しげに頷いた。
『確かにそうね。我もそう。だけど、他の者を見ていて思ったの。あれではならない…共倒れになってしまう、と。要は、己の事しか考えぬのは愚かなのよ。世の誰も、己だけで生きておるのではないわ…あの、正常な世の中でもそうなのに。こんな場所でまだ己が己がと言うのは、愚かよ。助け合わねば、誰一人生き残る事など出来ないわ。我はそう悟って、皆にもそれを諭した。なので今は、皆分け合って順番を待つようになったの。人数が減れば、それだけ一人一人の負担も重くなるのだしね。だからあなたの事も、自分のために庇っただけよ?せっかく増えて楽になるのに、いきなり死なれたらまたつらくなるのだもの。だから恩に感じる必要はないわよ。』
ヴァシリーは、あまりに美加がしっかりと現状を分析して冷静に判断しているのに、驚いていた。この状況で、ここまで出来る女が他に居るだろうか。少なくても、自分は見たことがない。
すると、牢番の声がまた響いた。
『休憩終わり!作業に戻れ!』
皆、慌ててカップを元の場所へと放り出すと、作業に戻った。ヴァシリーも美加にカップを引ったくられて、道具を手に渡された。
『さあ早く!牢番が気を放って来るわ。』
ヴァシリーは、急いで岩場に向かうふりをした。美加の方を見ると、もうカツカツと掘っている。ヴァシリーは、とにかくその優秀さに驚くより他なかった。




