牢
維心は、その場所の臭気に顔に巻いたスカーフの下で眉を寄せた。何でも、ここでは皆ヴァルラムに気を奪われて人のように地を這いずって生きねばならないらしい。よって、綺麗に維持しようとしても、全て手作業で、細かい所まで行き渡らないのだろう。
同じように布を顔に巻いているヴァルラムの赤い目が、維心を見て細められた。笑っているようだ。
『主のような神には慣れぬだろう。長く居ると我でも気分が悪うなる。あまり空気が循環せぬのでな。』
維心は、ヴァルラムを睨むように見た。
『我はそこまで温室育ちではない。』
そう答えながらも、確かにここまで良くない環境に長く居たことはないな、と維心は思っていた。牢番について奥へと歩いて行くと、そこには空の大きな牢があった。
『ここが、囚人を入れて置く牢。こっちが女で、あっちが男。』ヴァルラムが指差した。『まとめて入れておる。どうせ寝るだけであるし、ここへ雑魚寝よな。しかし、少しは身分のあるやつらはあちらの独房へ入れておるな。ここに放り込まれるからには、何らかの問題がある神ばかりであるが、皆が皆憂さを溜めておってな。気が使えぬのでここでは皆同じになるので、身分のある奴らは恰好の的になって、殺傷事が耐えぬのだ。なので、分けておる。』
維心は、頷いて独房の方を見た。あちらは小分けされているというだけで、石を積んだ壁、でこぼことした茶色い床と、環境は変わらない。恐らく、美加はあそこへ入れられているのだ。
『今は誰も居らぬのだな。』
牢番が、頭を下げた。
『はい、皆労働に出ておりまする。この城の地下は、大きなダイアモンドの鉱脈がありまするので。』
ヴァルラムは、それに頷いて維心を見た。
『我がいつだったか維月に贈った首飾りを見たであろう。ここで採掘した石ぞ。』
維心は、それを思い出した。同じ神世でも、こちらは誕生日を祝うらしく、ヴァルラムは未だに維月に誕生日毎に何かを贈って来る。その中に、それは見事なダイヤの首飾りがあって、維月はそれを身に付けたいからと、洋服のドレスを着たがったことがあった。しかし、宮で着物しか着ることを許さなかったので、月の宮へ出掛けてそちらで着て、その首飾りを身に着け、皆に披露したのだ。維心は後で聞いて怒ったが、嘉韻も将維も、亮維も十六夜も大喜びしたのだという。そんなに似合うのかと、維心も見たくなったが、ドレスを着るなと言ってしまった手前、着てみてほしいとも言えず、未だに維心は、維月がそれを身につけた様子を見たことがなかった。
それを思い出した維心は、少しぶすっとして言った。
『…確かに見事な物であったが、着物には難しいの。』
しかし、ヴァルラムは意外な、という顔をした。
『そうなのか?維月から大変に感謝していると書状が参ったぞ。あれは…月の宮からであったか。維月はダイヤモンドが好きであるらしいな。なので今年はティアラを贈るかと思うておったのだが。』
着物に、ティアラ。維心はまた面倒が起こりそうで、首を振った。
『主の妃にでも贈るが良いぞ。我が妃のことは、気遣わずで良い。』
ヴァルラムは、維心の心情を悟って苦笑した。
『別に維月をどうのと言うのではないのに。主が誕生日を祝う習慣がないと申すし、ならばと維月に贈っておるもの。あれは主への親善の行為であるから。』
維心は、布の下で顔をしかめた。だから親善なら別の方法をとってくれねば、逆効果だというに。
『…まあ、維月が喜ぶならば良いわ。して、美加は今、採掘場か?』
ヴァルラムは、頷いて後ろのダヴィートを見た。
『案内せよ。』
ダヴィートは、頭を下げた。
『こちらへ。上からご覧になれまする。』
ダヴィートが先に立って飛ぶ。
維心とヴァルラムも、それに続いた。
上から見ると、下に居る神達はまるで他の生き物のようだ。皆同じ服を着せられ、前だけにつばのある帽子を被っている。見たところ、男女の別などつかなかった。
しかし、ダヴィートは言った。
『こちら側、大きく掘った後を手作業で細かく採掘しておるのは女の囚人でありまする。あちらの、新しく拓こうとしておる採掘場に居るのが男で。本日はそのように分かれて作業しております。普段は、一緒に採掘しておることの方が多いのですが、こちら側が原石の出る量が減って来ておりますので、新たにあちらもと本日から。』
維心は、頷いた。確かによく見ると、同じ服を着ていても、こちら側に居るもの達の方が体が小さい。
じっと目を凝らすと、小さな金属の道具を持って、目の前の岩をカツカツと掘り進んでいる女に気が付いた。あの動きに、見覚えがある。
『…お。あの左の壁近くに居る女ではないか?』
ヴァルラムが、同じように気付いたらしく、指を差さずに言った。維心は、黙って頷く。確かに、あれだ。一人他とは離れて作業しているものの、その手際は他より数段にいい。自分の血族は、何をさせても一定の成果は出す…何に対しても、能力が高いのだ。
やはり、血は争えぬか。
維心は思い、その気を探った。
ヴァルラムにその気を抑えられているだけあって、それは人のそれと変わらない微かなものだった。しかし、その波動から、美加が何かに動揺していて、それゆえ目の前の鉱石採掘に集中しようと躍起になっているのが感じ取れた。何に動揺している…?しかし何かをしようにも、その気ではすぐにここの牢番にでも押さえつけられて終わりではないのか。いくら我が息子の血を引いているとはいえ、あれは神の気を持っていてさえかなり弱い…。
維心は、考え過ぎであったかと思ったが、しかし確かに何かが起こっているのだろうと思えて落ち着かなかった。今ここで、何も出来ることはない。唯一出来るのは、何かが起こる前に消してしまうこと。だが、いくら維心でも、今ここでじっと罰を受けている美加を、何かをする恐れがあるからと切り捨てることは出来なかった。
維心は、頷いた。
『分かった。もう良いヴァルラム。上へ戻ろうぞ。』
ヴァルラムは、維心を振り返った。
『もう良いのか?何かわかったか。』
維心は、息をついた。
『いや、あれが何かに動揺しておるのは分かったが、何であるかは分からぬな。どうしたものか…。』
すると、ヴァルラムは、後ろで黙っているヴァシリーに言った。
『おお、簡単なことぞ。ヴァシリー、主ここに潜入してしばらくあれを探れ。』
維心は、仰天した。皇子をこんな所へ?
『何を言うのだ。ならば我が軍神をここへ。』
ヴァルラムは首を振った。
『主こそ何を言うておるのか。主の軍神では、ミカが見知っておる可能性があろう。ヴァシリーであれば大丈夫であるし。』
維心はそうではないとヴァルラムに向き直った。
『それは、主の皇子であろうが。このような場所に潜入させるなど。』
しかし、それにはヴァシリーが答えた。
『維心殿、そのようなお気遣いは無用でございまする。こちらでは皇子という概念はない。我は軍神に過ぎぬのです。それに、父上が亡き後の王座の争奪の時のため、いろいろと経験しておくべきだと常言われておるのでございます。我は、その任務を受けたいと思うておりまする。』
維心は、そんな考え方なのかと感心した。父が息子を王座に就けようと思ったら、息子をかなり厳しい環境に置いて、少々のことには動揺しない、負けない心と技術を身に付けさせねばならないのだ。なので、ヴァルラムは息子をこうして機会があれば何にでも使うのだろう。そうして育てるのが、何より息子のためだという考え方なのだ。
『そうか…すまぬ。我らの所とは考え方が違うのであるの。では、頼んだぞ、ヴァシリー。』
ヴァシリーは、頷いた。
『お任せを。必ずや、何か掴んで参ります。』
そうして、維心とヴァルラムは階上へと引き上げ、ヴァシリーは囚人の服に着替えて地下へと残ったのだった。




