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忘れられた娘

次の日、維心の腕に抱かれて、維月は月の宮へと飛んだ。

里帰りの常で、軍神はたった一人、今回は義心しか付いて来ていなかった。維心か十六夜が居れば、はっきり言って道中何かあることは絶対になかったからだ。

例に漏れず何事もなく月の宮へと降り立った二人を、蒼と晃維、それにその後ろに奏が並んで迎えた。維月は、維心に下ろされて、嬉しそうに晃維に歩み寄った。

「まあ晃維、久しぶりだこと。元気でおった?」

晃維は、頭を下げた。

「母上。我は病もなく壮健でありまする。父上にも、お元気そうで何より。」

維心は、薄く微笑んだ状態で、歩み寄って来た。

「何やら長く会わなかった心地ぞ。しかし、主は変わらぬの、晃維。」

晃維は会釈を返してから、後ろを振り返った。

「我の娘にも、小さき頃に一度お目通りしたきりであり申した。我の娘の、奏でございまする。」

少し褐色がかった黒髪に、やはり深い青い瞳のその娘は、緊張気味に深々と頭を下げた。

「お久しゅうございます。奏でございまする。」

思った通りのおっとりしたようなかわいらしい、晃維の娘と維月が想像していた通りの奏に、満面の笑みで視線を向けた。

「ああ、大きくなったこと。思いませぬか?維心様。」

維心は、頷いた。

「確かにの。前に見た時は、まだよちよち歩きであったからの。」

奏は、頬を赤らめた。幼いながら覚えているが、この祖父母の美しさに面食らって、真っ直ぐ歩けなくてふらふらと蛇行するように歩いて、手を差し出す維月の元へと歩いたのだ。それを祖父が、よちよち歩きだと記憶していてもおかしくはない。

晃維は、微笑んで言った。

「もう数年で成人でありますので。そろそろ考えねばならぬと思うて、こうして行儀見習いをと思うておりまする。」

維心は、それにはふっと笑った。

「ここで行儀見習いは出来ぬなあ。まずは世間を知るだけということで、こちらで慣れるが良い。その後に、我が宮へ来て本格的に行儀見習いをすれば良いわ。」

それを黙って聞いていた蒼は、痛い所を突かれたと、苦笑して維心を見た。

「確かに、こちらでは行儀はあまり習えませぬね。ですが、最近では少し、マシになって参ったのです。」

維月も、頷いて維心を見上げた。

「そうですわ、維心様。侍女達の質が、格段に上がっておりまするの。里帰りの折に龍の宮から連れて参る私の侍女達が、こちらへ居る間いろいろと指南しておったので、最近は本当に。」

維心は、笑って維月と蒼を見た。

「ああ、分かった分かった。何も、行儀が悪いと言うておるのではなかろう。ただ、ここは規則が緩いのだ。それだけぞ。」

蒼は、返す言葉がなかった。確かにそうなんだけど。

晃維が、場を収めようと急いで言った。

「何にしろ、ここは初心者の奏には住み易い宮でありますから。父上には、ここで成長した後にお世話になりまする。」

維心は、頷いた。

「分かった。待っておる。」

そうして、維心と維月は手を取り合って歩き出した。

蒼も晃維も、奏もその後に続いたのだった。


蒼の居間へと通された維心と維月は、そこで待つ十六夜と再会した。維月が、嬉しそうに十六夜を見た。

「十六夜!迎えに出てくれてなかったから、どうしたのかと思った。」

十六夜は、十六夜を自分の方へと引っ張りながら言った。

「そんな大人数で待ち受けてるのもと思ってな。」と、奏を見た。「奏、維織が、茶を飲むんだと待ってたぞ。」

奏は、嬉しそうにパアッと表情を明るくした。

「まあ、維織殿が?」と、晃維を見た。「お父様…。」

晃維は、笑って手を振った。

「ああ、行って参るが良い。」

奏は、嬉しそうに微笑むと、皆に頭を下げた。

「皆様、失礼致します。」

そして、足取りも軽やかに出て行った。

維月はそれを見送りながら言った。

「維織になついておるようね。」

十六夜が頷く。

「あいつは自分に子供が居ねぇから、誰が来てもよく面倒を見るんだ。美加の時もそうだったろう。」

美加、という名が出たので、維月は少し苦しげな表情をして黙った。維心が、維月を自分の方へ引っ張りながら言った。

「主は…。少しは気遣わぬか。」

蒼が、慌てて椅子を勧めた。

「皆、座ってください。」

維心が、頷いて維月を伴って座る。十六夜がその横に並んで座る。それを見てから、晃維も控えめに腰掛けた。十六夜が続けた。

「何を気遣うんだ?維心、いろいろあったが、忘れちまってそれで終わりってのはどうかとオレは思う。そういう事実はあるんだ。あいつはまだ、ヴァルラムの所に居るんだろうが。」

維心は、眉を寄せて睨むように十六夜を見た。

「分かっておる。ならば維月の居らぬ所で話せば良い。我は聞こうぞ。やっと…意識に登らぬようになっておったと言うに。」

十六夜は、首を振った。いつもの十六夜なら、ここまでしつこい事はない。だが、今日は頑なだった。

「維心、お前は知らねぇからだ。」

蒼が咎めるように割り込んだ。

「ここではいいじゃないか、十六夜。また後で…。」

十六夜は、蒼を見た。険しい顔をしている。

「じゃあ話すが…維月にも聞いてもらいてぇ。」と、維心の方を見た。「親父はあの時、美加にはもう責務はない、と言った。覚えてるか?」

維心は、頷いた。

「覚えておる。なので寿命ももう短いだろうと我は判断した。」

十六夜は、頷いた。

「最近、親父が何か考え込んでるから、何事だろうと聞いたんだ。そうしたら…美加の、寿命が延びている、と。つまりは、何か新しい責務が与えられたということだ。親父は関知してねぇ。親父が知らない所で、美加が何かと接し、それとの関わりで生じたのだろうと言っていた。」

維心は、みるみる険しい顔になった。関わりとて…あのヴァルラムの城の地下でか。あそこは、皆犯罪人ではないのか。

「それは…見過ごせぬな。」

維心が呟くように言う。十六夜は、維心を見つめて頷いた。

「どんな責務かと思うと、考えただけでも身の毛がよだつ。美加には、あれ以上罪を重ねて欲しくねぇ。せっかく立ち直る機会を与えてもらったんだ、頑張って欲しいと本当に思うんだ。だから、放って置くなんて出来ねぇよ。忘れて考えないようにするなんて、自分を楽にするためでしかねぇ。美加を助けてやるには、きちんと向かって、今のあいつがどうしているのか、きちんと知っておく必要があると思うんだ。」

維月は、それを聞いてショックを受けたように十六夜を見た。確かに、もう仕方がないのだと美加のことは諦めていた。ああしてヴァルラムの城の地下で労働をさせられているにしても、そんなことを考えると自分がつらくて仕方がないので、必死に考えないようにして来た…結果的に忘れて、自分は楽になった。だが、依然として美加はそこに居て、そこで生活しているのだ。

晃維が、口を開いた。

「…兄上も、美加のことは考えるだけでも虫唾が走るとおっしゃっておられたが、兄上なりに苦しんでおられたのかも知れぬ。決して愛情深くしておられたわけではなかったが、それでも血の繋がった娘なのだ。」と、ため息をついた。「実は、我がここへ奏を連れて参ったのにも訳がある。確かにあれに行儀見習いさせねばならぬのだが、それよりも、奏を見て兄上が苦しげな目をされるからだ。同じぐらいの時に生まれた二人であったし、自然思い出すこともあるのだろう。それを知って、我もあのままにしておくことが出来ぬでな。こうして、奏を連れて出た。」

維心は、思ったより明維が精神的に参っているのだとその時初めて知った。最近では、婚姻自体を深く後悔していると言って、その舞台となった月の宮すら見たくはないと訪ねて来ることもなくなったようだ。蒼とも交流がなくなり、晃維も案じているとは聞いていたのだ。

「困ったことだ。一度調べてみる必要がありそうよな。」維心は言って、維月を見た。「我らが間違っておったの。考えぬようにするのは、良いことではない。蓋をしただけで、中身がどうなっているのか知らずにおるわけなのだから。我なら、蓋をすることもせず、腐ったものは全て捨ててしまうのだが、此度はやはり親族と甘くなり、結果中身をもっと腐敗させることになったやもしれぬ。どうなったかは分からぬが、美加が腐っておらぬとしても、腐る前にどうにかせねば。」

維月は、頷いた。

「はい…私が、甘かったのですわ。維心様、どうか良しなに。」

維心は、頷いて蒼を見た。

「では、我は来たばかりであるが、左様な訳で用が出来た。少しヴァルラムに話を聞かねばならぬわ。維月はここにおいておくゆえ、頼んだぞ。」そして、十六夜を見た。「して、主も手伝うよの?そのようなこと、軽い気持ちで言い出したわけではあるまい。」

十六夜は、頷いた。

「ああ。オレも行くよ。」と、維月の頬に触れた。「ちょっと行って来る。お前は親父とでも話してればいいさ。維織も奏も居るし、話し相手には困らないだろう。いいな?」

維月は、少し疲れたように力なく微笑んだ。

「ええ。私のことは心配しないで。美加のこと、よろしくね。」

そうして、維心と十六夜は、視線を合わせてから一緒にそこを出て行った。

晃維も、それを心配そうに見送っていたのだった。

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