目覚め
維心は、ハッとして目を覚ました。
もう、夜が明ける…。
維心は、不必要に長く眠っていたような気がしてならなかった。しかも、あの夢は鮮明で、今もはっきりと、まるで実際に昨日起こっていたことのように思い出せた。
なぜに、あのような夢を。
維心は思って、無意識に隣りを見た。いつもなら、ここで眠っていた維月が居ない。維月は、自分が命じたのが気に入らなかったのか、ここを出て里へ帰っているのだった。
維心は、寝台を降りて窓際へと歩み寄った。炎嘉に、維月を取られそうだった。何とか必死に夢を変えようとその自分に話し掛け、維月に想いを伝えることに成功した。だが、まだ油断はならない…あの我は、維月という女を、全く分かっていない。理解しようと懸命だが、如何せんまだ情報が少なすぎるのだ。
そして、夢の中の炎嘉を思い出していた。炎嘉は、やはり炎嘉だった。巧みな話術で維月の心を絡めとろうと、必死に維月に話していた。だが、目覚めたこの自分は知っている…維月は、逆にああいう男は警戒するのだ。ほぼ初対面であるなら、尚のこと。
「…あのように命じるように妃にしようとて、無理であるのに。」
維心は、口に出してみて、ハッとした。そうだ、分かっていた…。この自分には、嫌になるほど分かっていたのに。ああして、月として存在していた慕わしい維月を、自分の妃にと望んで、叶わぬ想いに苦しんだのではなかったか。月の妃である維月を想うあまり、これほどまでに世のためにと生きて来た自分の唯一の望みすら遂げられぬのかと、世を儚んで炎嘉に斬られようとしたのではなかったか。それゆえに、十六夜は自分に維月を許したのではなかったか…最初は同情でしかなかった維月の心を、己に向けようと必死で求め、やっとのことでその心へ受け入れられた時の喜びは、いかばかりであったことか…。
維心は、忘れていた気持ちを思い出した。そうだった。維月は、それを当然として我の妃になっていたのではなかった。我も理解しようと努力し、維月も努力した。その結果であったのだ。努力なくして、維月を手にすることなど出来ぬ…あの、炎嘉のように。
維心は、それに思い当たって、自然に涙が頬を伝うのを感じた。維月…維月に会いたい。今すぐに…!
維月は、十六夜の隣りで目を覚ました。隣りを見ると、十六夜はこちらへ背を向けている。まだ寝ているのだろうと、維月はあまりにはっきりと覚えている夢の記憶に混乱した自分を落ち着かせようと、天井を見つめた。
維心は、龍族の王だった。人だった自分とは違い、神世の掟通りに厳しく躾けられ、物腰は洗練されていて、そして何より大変に大きな責任を背負って皆を支えて導いて生きていた。自分などとは、出来は違う。そう、身分どうこうよりも、根本的に違うのだと維月は思っていた。
それなのに、その維心がたった一人、自分だけを望んでくれた。
それが、どれほどに大きなことだったか。自分は、運が良かっただけなのだ。何が良かったのか分からなかったが、自分の何かが維心の心の琴線に触れ、それゆえに愛された。本当なら、側に行くことも許されないような立場の神であるのにも関わらず、維心は自分をわき目も振らずに愛してくれたのだ。それがどれほどに奇跡的なことであるのか、維月はやっと思い出した。
こんな、私などを。
維月は、涙が出て来るのを、止められなかった。隣に十六夜が眠っているのに、泣いてはいけないと思うのに、維月の目からは涙がこぼれて止まらなかった。維心様…それなのに私は、維心様が変わってしまったと命じられただけでよく話し合いもせずに宮を出て来てしまった。会いたい…会って、お許しくださいと縋りたい…!
そう思うと、維月は居ても立っても居られず、会うことは叶わなくてもせめて龍の宮を見たいと、さっと袿を羽織って十六夜を起こさぬように、明けて来た空を飛び立った。
十六夜は、維月が飛び立ったのを確認してから、そっと目を開けると、窓際に歩み寄って朝焼けの空を見上げた。
「親父…維月が行ったぞ。維心は、どうなんだろうな?」
碧黎の声が、含みのある色を含んで言った。
《さあの…今しばらくで、主にも見えよう。》
維月が必死に飛んでいると、前方から何かが物凄いスピードで飛んで来るのか分かった。自分が今たった一人であることを思い出した維月は、慌てていつでも月へ帰れるようにと構えた。そして、それをやり過ごそうと思っていると、その何かは突然にスピードを落とした。
「維月…?!なぜに、このような所に?」
そこには、維心が維月と同じように、たった一人で浮いていた。着物も、起きて袿を引っ掛けただけの姿だった。急いで飛んで来たのは、間違いないようだった。
「い、維心様…」維月は、途端にまた涙が出て来るのを感じた。「今更と、呆れてしまわれるかと思います。ですが、私は忘れてしまっておったのです。維心様…どうかお許しくださいませ。私が愚かでございました。自分がどれほどに幸福な立場であったのか、思い出そうともせず…!」
維月は、宙に浮いたまま、維心の足元辺りにひれ伏して言った。維心は、慌ててその維月の顔を上げさせた。
「何を申す。我こそ、愚かであった。主が言うのは、間違ってなどおらぬ。我は主が居って当然と思うてしまっておったのだ。だが、そうではない。許されておるからこそ、主と居る。お互いにお互いを思い合っているからこそ、我らは共に居ったのだ。どちらかがそれを忘れてしもうたら、それは叶わぬ。当然のことを、我はすっかり忘れてしまっておった…謝らねばならぬのは、我の方ぞ。」
維心が、夢の自分と重なって、維月を抱き寄せることにためらっていると、維月は維心の胸に飛び込んだ。
「維心様…。お側に置いて下さいませ。どうか、もう忘れたり致しませぬから。」
維心は、維月の暖かさに癒されながら、しっかりと抱きしめた。
「おお維月。我の側に。我とてもう、忘れたりせぬ。当然のものなど、何もないのだからの。」
維月は、まだ涙を流していたが、微笑んだ。
「はい。愛しておりまするわ。」
維心は、維月に唇を寄せた。
「我も愛している。共に、宮へ帰ろう。」
二人は、朝の光が差し込む中、宙に浮いたまま口付け合った。どうして忘れていたのか分からない、愛おしい感覚だった。
碧黎の声が、月の宮の十六夜に言った。
《見えたか?》
十六夜は、頷いた。
「ああ。あいつらは朝っぱらからあんな空の真ん中で。」しかし、口調は明るかった。「良かった。どうなるのかと今度ばかりは肝を冷やしたよ。それにしても、記憶を持って生きてると、何かとややこしいな。やっぱり、親父が言うように、記憶は無かった方が良かったのかもしれねぇな。」
碧黎の声が言った。
《勝手なことをしおったからの。だから我は、最初から前世の記憶など無い方がい良いと言うておったのに。だがしかし、主らはそれで良い。そうやって絆を深めて参るのであろう。主らであったなら、記憶があっても今生を上手く乗り切れるだろうと期待しておるぞ。》
十六夜は、碧黎に大真面目な顔で言った。
「親父、だったらまたこんなことがあったら、手助けしてくれよ。オレ達は、どうもまだ子供なのかもしれないって思えて来た。」
碧黎は、大袈裟に驚いたような声を出した。
《何と申した?子供?》そして、呆れたように笑いながら言った。《主らはずっと子供であるわ。我はいつなり申しておった。今更何を申しておるのかと思うわ。親が子を導くのは当然のこと。だからこそ、我には主らを放って置くことが出来ぬのだからの。》
十六夜は、改めて碧黎に感謝した。やはり、碧黎は親なのだ。こうして、自分達を見守りながら、助けてくれる…。
しかし、本人に改めて言うのは照れくさいしシャクなので、何も言わなかった。




