離縁
結奈は、父からの書状を見て、ホッとした。自分には、まだ帰る場所がある…。
明輪にも、時を同じくして慎吾からの書状が届いていた。この度は、娘が迷惑を掛けてしまった。親としては、複雑な心境であることは確かであるが、しかしながら神世の理はよく知るところ。王の許しを得たので、こちらへ迎え取りたい。正式に離縁して、結奈を里へ帰して欲しい、と。
摩耶は、それを見て感心したように頷いた。
「慎吾様は、さすがに慎怜様のお血筋であられ、よう弁えていらっしゃるかたであられます。あちらからこのようにおっしゃって頂ければ、明輪様にも評判も落とすことなく、こちらでも肩身の狭いお立場にならずに済む事をご存知であられるのです。このように出来たかたの御娘であられるのだから、結奈様にもあのような事がなければ、こちらで充分にお仕えすることが出来ましたものを。残念な事でございまする。」
摩耶は、本当に残念そうな顔をした。神世では、その育った家庭も重要視するので、今言ったことは本心なのだろう。一時の気の迷いであるのは、摩耶にも分かっているのだ。ただ、自分の仕える主人が王からの信頼を、その妻ゆえに無くす事には耐えられないのだ。
明輪は、頷いた。
「里へ帰す事は、結奈のこれからを思うても必要な事であるのは分かっている。だが、せめていくらかの支度をさせて戻してやりたいのだ。主、左様手配をしてくれぬか。」
摩耶は、しっかりと頷いた。
「はい。慎吾様にも恥ずかしくないお支度で、お返ししたいと存じます。では、手配を急ぎまするので。」
摩耶は、そこを出て行った。明輪は、結奈と最後の話し合いをしなければと、部屋を出て結奈の所へ向かった。
結奈は、明輪が入って来るのを見て、その表情で、父からの申し出を受けて、正式に離縁をするつもりなんだと悟った。伊達に、一緒に来たのではない…明輪の気持ちは、その正直さから表情を見れば分かった。
結奈は、なので先に言った。
「父からは、すぐにでも戻って参るようにと。蒼様が、受け入れてくださるとおっしゃってくださったようですので。我も、父のもとに戻って、気楽に過ごせるのかとホッとした次第でございます。」
明輪は、長く息をついて、頷いた。
「慎吾殿には、このように書面でお話をするようなことになってしもうて、申し訳なく思うておる。またご挨拶にも参ろうが、時間を置かねば無理であろうの。主も、長い間世話を掛けたのに、このようなことになってしもうて、申し訳なく思う。」
結奈は、明輪を見上げた。
「思えば、最初から明輪様には、我に深い愛情などなかったのではありませぬか?」明輪は、それを聞いて驚いたような顔をした。結奈は、苦笑して続けた。「分かっておりましたわ。最初に、我に同情して迎えようと思うて下さったのでしょう。いつの頃からか、それを知っておったにも関わらず、我は気付かぬふりをしておりました。何しろ、明輪様は他に妻をいう素振りも見せませんでしたもの。ですが、此度のことで分かりました…明輪様は、初めて娶りたいと思われるかたに出逢われた。これまでは、誰でも同じであられたのです。それを感じたからこそ、我は焦ってしまったのですわ…明輪様なら、我を見捨ててしまわれることはないでしょうけれど、それでも心が無いのを感じて妻として置かれるのは、とても辛いと思いましたから。」
明輪は、落ち着いてそれを結奈から告げられて、下を向いた。本当にそうだったからだ。このまま、結奈が何もしないで何も起こっていなかったとしても、自分は恐らく瑠維にばかり通っていただろう。おざなりにするつもりはないにしろ、どうしても愛する瑠維の下へ足を向けてしまっただろうからだ。
明輪は、心からすまないと思い、言った。
「本当に、すまないと思うておる…我は、何と心ないことをしたのか。しかし、恋うるということを知らなかった我は、婚姻というものも、こんなものだと思うておったのだ。まさか、この歳になって、このような気持ちを知るなどとは思うてもいなかったゆえ…。しかし、皇女であられる。我の仕える対象であって、そのように思うてはならぬと生涯心に秘めておくつもりであった。それが…思いもかけず、王がお許しくださることになって、舞い上がってしもうたのだ。主の気持ちも考えず、浮き足立っておった我の責ぞ。」
しかし、結奈は首を振った。
「浮き足立っておったのは、召使達でございまするわ。明輪様は、いつも落ち着いておられた。」
それでも、明輪は首を振った。
「浮き足立っておったのだ。なので、主を気遣うことなど忘れておった。落ち着いておったのなど、表面だけぞ。心の中では、何としてもこの機をものにと、そのことばかりであったわ。」
結奈は、寂しげに微笑んだ。
「我らには、気になる子もおりませなんだ。我は、父のもとへ帰ります。明輪様、今までありがとうございました。」
深々と頭を下げる結奈に、明輪は同じように頭を下げた。
「我こそ。滅多に家にも帰らぬ不出来な夫であったのに、これまでよう仕えてくれた。礼を申す。」
普通、神世で夫が妻に頭を下げることなどない。結奈は、涙ぐんで明輪を見た。
「これで…お別れでございまするね。」
明輪は、頭を上げて、頷いた。
「主は、主のために生きよ。我のような男に、振り回されることなく。」
結奈は、最後に明輪に抱きついて、泣きたい衝動に駆られた。しかし、明輪はそのまま何も言わず、踵を返してその部屋を出て行った。
終わったのだと、結奈は一人、涙を流した。
明輪も、心の中の何かが消えたようで、こみ上げて来る涙を抑えるのに苦労した。
それから、龍の宮は落ち着かなかった。
瑠維の婚姻が決まったにも関わらず、維月が一時的にせよ戻って来ないことに、さすがの兆加達重臣達も、王と王妃の不仲を気取っていた。今回の里帰りは、常とは違う。
しかし、王が何も言わない以上、臣下から訊ねるわけにも行かず、皆そわそわと落ち着かなかった。例え不仲であったとしても、離縁していない限り、婚姻の日には戻ってもらわなければならない。
とにかくは、維心にそれとなく聞いてみることにして、兆加は維心の居間へと訪ねた。
維心は、例のごとく難しい顔をして正面の椅子に座っていた。兆加が入って行くと、ちらと視線だけを向けて、言った。
「兆加か。何用ぞ。」
兆加は、維心の前に膝間づいて言った。
「王。王妃様におかれましては、お里帰りの最中であられまするが、此度の婚姻の取り決めがございます。もしよろしければ、いつ頃お戻りなのか、お伝え頂ければと思うておりまするが。」
維心は、スッと眉を寄せた。怒り出すのではと兆加は深く頭を下げたが、維心は落ち着いた声で言った。
「此度は、あちらで親とも交流しておるようであるし、あちらには、十六夜との子の維織も居る。ゆっくりして参るように我が申してあるので、しばらくは戻らぬだろう。瑠維とてすぐに嫁ぐわけでもないのだから、他の事は主らが良いように決めよ。」
兆加は、やはりおかしいと思ったが、王がそう言う以上、それ以上は言えなかった。なので、また頭を下げ直した。
「はは!それでは、そのように。」
そして、その場を辞して行きながら、兆加は思っていた…維明様が、月の宮からお戻りのはず。ならば、その時に王妃様と話しておられるに違いない。維明様に、詳しくお話を聞こう。
兆加は、急いでそのまま維明の対へと向かった。
維明は、月の宮から戻って、複雑な気持ちでいた。
母の維月は、確かに若く美しい。両親共に老いることもなく、自分がこうして父の姿に追いついて来ても、二人はとても若く美しかった。片方は月、片方は地の王。恐らくは、長く寿命があるだろう。しかし、維明が困惑していたのは、そういうことではなかった。幼い頃より、母としてそれは大切に思って来た維月が、まるで昔から愛して来た女のように思えたからだ。維月は母として、幼い頃と同じような気持ちで自分を抱きしめたのだろう。だが、自分は違った。何かの記憶がそうさせるように、維月を抱き寄せて心から愛おしいと思った。そのことに、困惑していたのだ。
父と母は、前世から繋がっていたのだという。十六夜もそうだ。三人が記憶を持って生まれて来たので、今生でもああして前世と同じ人間関係の中で生きている。ということは、もしかして自分も誰かの生まれ変わりなのではないか。もしかして、自分は思い出していないだけで、前世の記憶をどこかに持って生まれて来ているのではないか…。
維明は、今日、維月を腕に抱いた時、そう思ったのだ。なので、混乱して、自分の感情と戦っていた。
そこへ、兆加がやって来たと侍女が継げ、維明はハッと我に返って言った。
「…兆加か。」
兆加は、維明が考えに沈んでいたような様だったので、気遣わしげに言った。
「維明様?いかがなさいましたか?」
維明は、急いで表情を取り繕いながら首を振った。
「なんでもない。何用ぞ。」
兆加は、頷いた。
「維明様には、月の宮へとお出かけになっておられたとのこと。あちらで、王妃様にはお会いになられましたでしょうか。」
維明は、目に見えて狼狽した顔をした。兆加は、驚いた…何かあったのか。
しかし、維明は兆加と視線を合わせずに答えた。
「母上と、お会いして参った。瑠維の婚姻のことをお伝えし、こちらはご心配のないようにと。父上も、無理に戻るようにと思うておられぬようであるし。」
兆加は、維心と同じことを言う維明に、やはりそうなのかと思いながらも、続けた。
「はい。王からもそのようにお聞きしておりまする。しかし、このように長く、王があちらへお出かけになることもなく、離れておられるのは例のないこと。何か、お二人の間にあったのではないかと、それが案じられまして。」
維明は、やはり側近くに居る重臣には分かるのだとため息をついた。
「お二人のことは、お二人が決められること。我らは、見守っておれば良いと思う。何があったにしろ、長く共に居られるお二人なのだ。そのうちに、機嫌を直されるであろう。」
兆加は、維明にまでそう言われて、どうしようもなくて下を向いた。やはり、何かあるのだろうが、しかし確かに自分が何かしてどうにかなるわけでもないのは、前世から見ていて知っていたのだ。
「確かに…前世でも、あわや離縁かと思われても、いつもすぐに仲睦まじくお戻りでありました。では、我らも黙って見ておるのが一番ということでございまするな。」
維明は、頷きながら思っていた。そういえば、兆加はずっと仕えている重臣筆頭。前世のお二人を知っている、今では数少ない臣下の一人だ。ならば、自分の前世も、もしかして分かるのではないか。
「時に兆加。」維明が、急にずいと前に身を乗り出したので、兆加は驚いた顔をした。維明は続けた。「主、前世よりずっと仕えておるよな。ならば聞きたい。我の名、父上も母上も、迷わず決めたとおっしゃっておられたが、誰か同じ名の者は居たのか。」
兆加は、それを聞いて頷いた。維明が知らないことに、少し驚いているようだ。
「はい。そのお名は、前世の五代龍王維心様の叔父君、維明様から取られたのでございます。」維明が驚いた顔をした。兆加は続けた。「大変に大きな気の、王にそっくりのかたで、それは穏やかなかたでございました。北にある屋敷にたった一人で暮らしておられ、長く世間より隠れていらした。前世の王も王妃様も、よく共に過ごされておりました。しかし、五代龍王の維心様がお亡くなりになった時、同じく北の屋敷で、息を引き取られておったので…これも運命であるか、と我らは思ったものでございます。」
維明は、衝撃を受けた。維明という龍は、存在したのだ。もしかして、我はその維明の生まれ変わりなのではないのか。
「…そうか。」維明は、そう言って立ち上がった。「初めて聞くことよ。ところで兆加、主は父上と母上のことはそっとしておくことぞ。分かったの。」
兆加は、深々と頭を下げた。
「は!」そして、歩き出す維明に、慌てて言った。「維明様?お出かけでありまするか?」
維明は、頷いた。
「少し、見回って参る。」
そうして、維明はそこを出て行った。
誰にも告げなかったが、向かったのは、北にある空き屋敷だった。




