実家
慎吾は、その書を見てため息をついた。慎也から、事の次第は聞いて先に知っていたので、こうなると思っていたが、やはりといった感じだった。妻の結朋が、心配げに慎吾の顔を覗き込んだ。
「結奈からでしょうか?」
慎吾は、頷いた。
「やはり、離縁ではないようだが、それでも離れて住むということは、同じことぞ。死ぬまで面倒を見るというのだから、明輪はまだ誠実であるが、しかしあれがしたことを思うと、あちらに居るのは良うない。疎まれておるのだからの。維心様には、結界内から追放処分にしようと思っていらしたと、慎也から聞いておるからな。」
結朋は、ポプラの木の人型で、老い始めていた慎吾とは違い、若く美しい姿のままのその顔を悲しげにゆがめて、袖で口元を押さえた。
「では、やはり…。あの子も、こちらへ戻って心を落ち着ければ、また治癒の施術が出来るようになやもしれませぬわ。正式に離縁して頂いて、こちらへ帰してもらいましょう。」
慎吾は、頷いて立ち上がった。
「しかし、これは王にお伺いをしておかねば。確かに、龍王の結界を追放された訳ではないのだから、今ならただの離縁で戻れるだろうしの。これ以上あちらでこじれぬうちに、こちらへ迎え取った方が良い。行って参る。」
結朋は、頭を下げた。
「行っていらっしゃいませ。」
慎吾は、ため息をついて蒼に話すために宮へと向かったのだった。
蒼は、その頃維明の訪問を受けていた。維明は、維月に会うために来たという。どうやら、あまりに父と母が離れたままなので、維明がどうにかしようと動き始めたらしい。
蒼は、困ったように言った。
「だがなあ。今度ばかりは維心様も悟ってしまったようじゃないか。前までなら、寂しい寂しいで、どうにかして母さんを取り戻そうと必死だったけど、今は何だかなるようになれ、的な雰囲気を感じるんだよなあ。そんな冷めた二人に、オレや維明が頑張ったからってどうにもならないだろう。」
維明は、首を振った。
「少しでも、何かきっかけを与えるだけでも良いではないか。このままでは、本当に遠く離れたままになってしまうやもしれぬ。瑠維とて、嫁ぎ先も決まったのだし、母上が居らぬのは問題ぞ。娘の嫁入りの世話をしない母親など見たことがない。母上とて、そう思うておるのではないのか。」
蒼は、うーんと考え込むような顔をした。
「世話って言ったって、母さんがするようなこと、無いじゃないか。何しろ、侍女があんなに居て、乳母が居て、全部やってしまうんだって言ってたぞ。」
維明は、少しバツが悪そうな顔をした。
「まあ…そうなんだが。どうにか出来ぬかと、主は思わぬのか。」
蒼は、肩をすくめた。
「維明、オレは前世の母さん達から、ずっと世話して来たんだよ。何とかなるって。しばらく放って置いてもいい。そのうちに、どっちかが我に返って、我慢ならなくなって、何とかしようとするからさ。」
維明は、顔をしかめた。
「蒼、主はなぜにそう落ち着いておるのだ。このままあのお二人が離れてしもうても良いと申すか。」
蒼は、気の毒そうに維明を見た。
「だから、オレ達がどうにか出来る事じゃないんだって。時間が解決出来るかもしれないから。どうにかして欲しかったら、十六夜か母さんか、維心様から言って来る。それまで余計な事はせずに、とにかく待て。」
維明は、憮然として黙った。ここまで来たのに、無駄足か。
維明が考え込んでいると、戸口の方で侍女の声がした。
「王。慎吾様がお越しでございまする。」
蒼は、渡りに船とばかりに言った。
「ああ、仕事だ。維明、そういうことだから、母さんに会って行ってあいが、余計な事は言うなよ。じゃあ、オレは政務があるから。」
維明は、まだ何か言いたそうだったが、政務と言われてしまうとどうにも出来ない。なので、仕方なくそこを出て行った。
蒼が、ホッとしていると、慎吾が入って来て頭を下げた。
「王。お忙しいところ、申し訳ありませぬ。」
蒼は、機嫌良く答えた。
「良い。そこへ座るが良い。」
慎吾は頷くと、蒼の前に腰掛けた。蒼は、言った。
「一人で来るとは珍しいの。どうしたのだ。」
慎吾は、蒼を真剣な目で見た。
「は。実は龍の宮の明輪に嫁いでおった我が娘の結奈を、この度こちらへ戻したいと思うておりまして。つきましては、王にご許可を頂きたいと、参りましてございます。」
蒼は、眉を上げた。結奈…そうか、明輪。今回、瑠維の嫁ぎ先に決まったのは、明輪だった。だからなのか。
「…性急過ぎないか。まだすぐに瑠維が屋敷へ入る訳でもあるまいに。」
慎吾は、蒼は事の次第を知らないのだと知った。なので、慎也から聞いた事も合わせて、蒼にざっと説明した。蒼は、最初きょとんとして聞いていたが、そのうちにどんどんと眉根を寄せた…それは、また犯罪人がどうのという、あれか。
「また…面倒な事になったの。ここではそうでもないが、龍の宮など、特に厳しい宮であるから、そういう曲がった事は極端に嫌うのだ。龍達に一度そっぽを向かれたら、それこそ大変な事になる。確かにそれでは、結奈の居場所はないの。気持ちは分からなくもないが、やった時と事が悪かった。そういうことなら、オレは別に構わない。主はオレの縁続きではないし、何の問題もないからな。戻してやるといい。」
慎吾は、ホッとしたように肩の力を抜いた。
「感謝いたしまする。では、早急にこちらへ迎え取りまするので。」
慎吾は、ホッとしたように頭を下げると、そこを出て行った。蒼は、一人またため息をついた…月の宮では、まだ意識が人のような者が多い。そんな中で育った神は、外で縁付くのは難しいのかもしれない。これからは、外との縁談には、少し考えるようにしなければならないかもしれないな…。
維明は、維月と十六夜の部屋へと向かい、維月を伴って庭へ出ることに成功していた。
最初、維月は何を言われるのかと構えて、十六夜と一緒に話してはいけないのかと言ったが、十六夜が自分の息子と久しぶりに水入らずで話して来いと追い出してくれたので、こうして二人になれたのだ。維明も、いくら分かっていることとはいえ、十六夜の前で父の所へ帰って来いとは言いづらかった。蒼にはああ言われていたが、維明はまだ母を父の元へ戻すことを諦めてはいなかったのだ。
どうやって話を切り出したらいいのかと維明も悩んでいたので、黙ってしばらく歩いていた二人だったが、維月の方が先に口を開いた。
「維明、母に戻るようにと言いに参ったのではない?」
維明は、分かっていたがこの母のはっきりした言い方は、神の常ではないのに面食らった。そういえば、父上は常、この母と一緒に暮らしていたのだ。それでも愛していたのだから、父は神の男としてはかなり我慢強いということになる。
維明は、とにかくはそんな考えを押さえつけて、維月を見た。
「母上。戻るようにと申しますか、しっかりと話し合いをと思うて参りました。」
維月は、少し驚いたように維明を見た。この息子は維心にそっくりだ。前世は同じ名の維心の叔父の魂であるこの息子は、本人は何も覚えてはいないが、それはしっかりとしていた。最近では、特に落ち着いて来て、大人びていた。
「今、お互いに冷静になろうとしておるところなの。私と父上は、元々考え方がとても違うから、昔から衝突してお互いに譲り合って来たの。でも、今度のことは父上も聞こうとなさっておられなかったから。少し離れて、お互いに考え直すべきだと思ったのよ。子が口を出す事ではないと思うわ。心配してくれておるのは分かるのだけれど。」
維明は、眉を寄せた。
「母上、父上がどんな立場に居られるかよく知っておられるはずではありませんか。我は、知っているようで実感したことが無かったのですが、最近に側近くに居るようになり、その重責を知りました。そんな父上の完全な孤独を癒している存在であったはずの母上が、こうして煩わせるような存在へと変わるなど、我には理解出来ませぬ。父上はその愛情ゆえ、堪えておられたことも多かったはず。母上の、その女神とは違う性質のことも理解しておられたゆえに黙って譲歩しておられたのでしょう。此度のことにしても、母上が思われておるほど、瑠維は気落ちもしておりませぬし、自分の立場なども理解し、明輪との婚姻に前向きに向いておりまする。あれは、生まれた時より皇女として育てられたので、神世の常識がそのまま己の常識なのです。つまりは、父上と同じような感覚であると思われたら良い。我にいわせると、母上の瑠維を案じるというお気持ちは、母上の一人よがりに他なりませぬ。嘘だと思われるのなら、瑠維に直接確かめられるが良い。」
維月は、びっくりして維明を見た。維明は、維心が怒った時とそっくりな顔をして、こちらを見て自分を睨んでいる。確かに、自分は瑠維の本当の気持ちは分からない。あの子が、気を遣って言わないだけだと、勝手に思って気を回していただけかもしれない。
それでも…。
維月は思った。そうではなくて、維心があれほどに、頑なに自分の言うことを聞かずに命じたことが心に突き刺さっているのに。
維月は、自分をじっと睨むように見ている維明を、キッと睨み返した。維明は、びっくりした…少しは、反省するかと思ったのに、怒った?
「維明。」維月は、落ち着いた声で言った。「あなたに何が分かると言うの。確かに、維心様は王。たくさんの責務を抱えていらして、私もそれを支えて差し上げられたら良いと思うてお側にいたわ。でも、それは愛情があってこそ。私たちは、お互いに歩み寄りながら、その愛情を育んで来たのよ。でも、あの時維心様は、その私たちにしてみれば大切な、歩み寄りの行為をお忘れになった。二人の子のことであるのに、話し合う労力を省いて、命じてしまわれたの。あなたにとっては父と母のいつもの諍いなのかもしれないけれど、私たちにとっては違う。長い長い間、これほどに育ちが違うのに一緒に来れたのは、お互いを思いやる、話し合う時間というものを忘れずに居たからよ。どちらかがそれを忘れてしまったら、それは崩れてしまうわ。それはね、それまで育んで来た信頼関係が崩れるということなの。生まれて、まだそんな関係になった相手もいないあなたが、口出しできることではないわ。私たちがこれが良いと判断してこうしておるのよ。そんな風に知ったような顔をして言って欲しくはないわ。」
維明は、母の話し方から、本当の怒りを感じた。今まで、自分にこれほど怒りを表したことなどなかった。
だが、言っていることはよく考えてみるともっともだった。蒼も、放って置けと言っていた。それなのに、母に説教をするようなことを言って、余計にこじらせてしまったのではないか。
維明は、ためらいがちに維月を見た。
「母上…我は、ただ母上の我がままでこのようなことにと思うてしまったので。」
維月は、維明がためらうのを見て、ふっと表情を緩めて、苦笑した。
「いいわ。そう思っても仕方が無いものね。でも、本当に私たちってややこしいの。だから、放って置いて。普通の夫婦ではないのですものね。」
維明は、ただ下を向いて頷いた。いろいろと複雑…蒼が言ったことは、これのことだったのか。
維明が、珍しくしょげているので、維月はかわいそうになって、維明に歩み寄ると、抱き寄せた。というよりも、維明が大きいので、維月が抱きついたような形だったが、維明は驚いたように維月を見た。
「は、母上?」
維月は、ふふと笑って維明を見た。
「良いのよ。あなたは、私たちのためと、こうして来てくれたのでしょう。ありがとう。でも、もういいから。自分たちのことは、自分たちでどうにかするわ。それからね、私は維心様が間違っていないことなんて、とっくに分かっていたわよ?そうではなくて、今言ったように、話し合いをしてくださらず、命じたことが引っ掛かっていたの。王としての父上が、とても素晴らしいかただと知っておるから。あなたは、父上に倣って良い王になるように、精進なさい。」
維明は、それを聞いて何だかホッとした。そして、そこで知った。自分は、母が父を拒絶することで、自分が信じていた絶対の王である父の姿を、母が否定しているように思ったのだ。父のようにと生きて来たこれまでを、否定されるような気がして、それで母にああして追及せずにはいられなかったのだろう。母は、自分のそんな気持ちを知っているのだ。
維明は、そっと維月の背に腕を回した。小さい…。母上は、こんなに小さかっただろうか。
幼い頃から、母に抱きしめられると、とても暖かい気持ちになった。しかし、今は熱いような覚えのある塊が、心の奥底から湧き上がりそうで、維明は戸惑いながらも、その腕を離す気持ちになれなかった。




