逢引
その日の夕刻、瑠維も疲れ切っていた。
あれから、十六夜が美加を連れて戻って来たのだが、しばらく十六夜と母に小言を食らった美加は、その帰り道で、どうして言いつけたのかと散々に瑠維に文句を言ったからだ。
もう、日も暮れて来たし、疲れていても仕方がないと思った瑠維は、そろそろ着替えようかと着物を脱ごうとしていた。
すると、そこへ戸の方から声が聴こえた。
「瑠維殿?もう、休んだかしら?」
美加だ。
瑠維は、もう休んだと侍女に言ってもらおうかと思ったが、気力を振り絞って戸を開けた。
「美加殿。どうなさったの?」
美加は、申し訳なさげに入って来て、言った。
「こんな時間に、とも思ったのだけれど。」美加は、そう言って下を向いた。「あの、謝りたいの。さっきはごめんなさい。あんな風に、文句を言って。瑠維殿は、我を案じて十六夜に知らせてくれたのに。」
瑠維は、美加が思いもよらずしおらしいので、驚いた。だが、ふっと笑って首を振った。
「まあ、そのようなこと、良いのですわ。でも、もう危ないことはなさないでね。」
美加は、微笑んで頷いた。
「もう、しないわ。」そして、小さな声で、恥ずかしそうに言った。「帝羽も、もうあんなことはしないようにって言ったし…助けてくれたが、帝羽なの。」
瑠維は、少し胸がちくりと痛んだ。だが、無理に微笑んだ。
「優秀な軍神ですもの。」
美加は、頷いた。
「瑠維殿は、我のお友達よね?あの、約束は守ってくださる?」
瑠維は、何のことかと思ったが、頷いた。
「ええ、美加殿。何かしら?」
美加は、顔を輝かせて瑠維を見た。
「誰にも、言えなくて…でも、聞いて欲しかったの。あのね、今日コロシアムで助けてくれた時、帝羽が今夜、庭で会おうって言ってくれたの。」
瑠維は、今度こそぐっと心臓を握られたような気持ちになった。帝羽殿が…?美加殿を?
美加は、瑠維の様子に気付かずに、続けた。
「我は暇が出来てからで良いと言ったのよ?でも、どうしても今夜と言うから。今まで、こちらに居たのにきちんと会えなかった罪滅ぼしのつもりみたい。だって、月の宮に帝羽が居た時は、我と帝羽はとても仲良しだったのよ。それなのに、ああして龍の宮へ行く事になって…泣く泣く別れておったのだもの。お仕事とはいえ、ずっと二人で会えなかったわ。私も、任務だから仕方がないかと思っていたけれど、帝羽は、もう待てなかったみたい…。」
瑠維は、呆然としていたが、美加に言った。
「でも、美加殿…帝羽殿は、美加殿とは何も、とおっしゃっておったわ。」
美加は、一瞬ムッとした顔をしたが、すぐに笑った。
「そんなこと。臣下なのに、主人に言えるはずもないでしょう。瑠維様のことは、任務だから仕方なく面倒を見ておるのだと言っておったわよ。我に、誤解されたくなかったみたい。」
瑠維は、美加のいろいろな言葉が頭の中でがんがんと響いた。仕方なく…任務だから、仕方なく我と話ながら歩いておったと言うの。
瑠維は、ショックで口が聞けなかった。すると、美加が言った。
「信じていらっしゃらないのなら、本日北の庭へ来てくれたら良いわ。本当のことが、それで見れるから。」
瑠維は、ハッとした。そんな…覗くようなことは出来ない。
「我は…そのようなこと、必要とは思っておりませぬ。臣下が誰を選ぼうと、それは臣下の自由であるし。なので、我のことにはお気遣いなく。」
瑠維は、そう言いながらもふわふわとして足元が心もとなかった。どうして、知ってしまったのだろう…美加殿と、帝羽殿は、とっくに好き合っておいでであったのだ。
自分は、帝羽に惹かれていたのだ。
瑠維は、そこで初めて自分の気持ちを知った。だが、どうしようもなかった。同じ血筋の、美加なら帝羽にも相応しいだろう。
美加が、微笑んだ。
「では、帝羽を待たせてはいけないので、これで。」と、瑠維に歩み寄った。「どうなさったの?顔色が悪いわ。侍女を呼びましょうか?」
自分の手を取って支えようとする美加に、瑠維は回りも見えないまま首を振った。
「いえ…疲れただけですわ。それでは、おやすみなさいませ。」
美加は、背を向けた瑠維に向けて、ニッと笑って答えた。
「おやすみなさいませ、瑠維殿。」
そして、そこを出て行った。
帝羽は、まだ信じられなかった。
瑠維は、大変に美しく麗しく、誰よりも心が素直で綺麗な女神だと思っていた。それは、やはり龍の宮という守りの堅い宮の結界の奥、大切に育てられたからだろうと思ってもいた。
それなのに、その瑠維がそのようなことを策したと。
考えられないことだった。あのように、美しく素直な仮面の下で、そんなことを考えていたのなら、大変に恐ろしいことだ…。
帝羽は、しかしまだ信じていなかった。なので、しっかりと美加に話を聞いて、真偽を自分で判断しようと思ったのだ。
すると、帝羽の目に、大きなベールを身に付け、気を隠した女の姿がちらと見えた。帝羽は、慌ててそれを追った…瑠維に見えたのだ。
その女は、側の茂みに駆け込み、そこへ入る前に、何かを落として行った。帝羽は、追いかけてその何かを拾い上げ、そうして、言った。
「瑠維殿?」帝羽は、その独特な青い石が付く腕輪を手に言った。「瑠維殿であろう?」
すると、瑠維の声が答えた。
「我は…全てを帝羽殿知られてしまったと聞いて、それでもう…。」
帝羽は、驚いた。全てを知られた…それは、美加の言ったことか。
「では、美加殿が言ったことは、全て真実であったと?」
姿の見えない瑠維は、答えた。
「ええ。とても腹が立ちましたの。帝羽殿と一緒に居る美加が。だって、大切になさっておるのでしょう。」
帝羽は、首を振った。
「美加様を?いや…我は、そのような目で美加様を見たことはない。だが、瑠維殿は我を、そのように見てくださっていたということか。」
瑠維の声は、戸惑ったように言った。
「え…?あの、我はあのようなことをしたのです、指輪のことも、美加殿に罪をなすりつけようとしたし、本日もコロシアムの危ない場所へと行くように、美加殿に命じて。」
しかし、帝羽は言った。
「あなたは、本来そのようなことをする女神ではない。それなのに、そこまでするほど、我を想うてくれたとおっしゃるか。」
瑠維は、黙った。帝羽は、瑠維の腕輪を手に、茂みを分け入った。
「瑠維殿?」
すると、そこにはベールをすっぽり被った瑠維が、背を向けて座っていた。帝羽は、その背に言った。
「瑠維殿、とにかくはもう、あのようなことはなさらないで良い。我は…」
すると、目の前の瑠維の背は、ふるふると震えた。そうして、言った。
「…何よ。では、帝羽は瑠維を好きだと言うの。あんなことをした、女でも…?」
帝羽は、ハッとした。声が違う。あれは作った声だった。これは、美加だ!
「美加様か!」
美加は、帝羽が飛び退る前に帝羽に抱きついた。そして、そのまま反動で茂みに転がった。
「帝羽のことは、我の方が先に見つけておったのよ!どうして、あんなお人形のような女にとられなきゃならないの!」
帝羽は、急いで身を起こしながら言った。しかし、美加に羽交い絞めにされていて美加を傷つけなければ離れられない。
「放さぬか!」
しかし、美加は首を振った。
「放すものですか!」そして、宮の方へ向かって叫んだ。「ああ誰か!誰か助けて!帝羽が…!!」
宮の方が、騒がしくなる。帝羽は、事態を悟った…このままでは、自分が美加を襲っているように見える。つまりは、何もなくても責任を取って娶れと言われるはずだ!
「放せ!」
美加は、死に物狂いで帝羽いしがみついていた。帝羽は、必死に身を起こし、美加を引きずって宮の方へと足を向けた。
「何事だ!」
十六夜が、真っ先に現われて二人を見た。北の対の将維も、出て来ている。そして、宮の方からは、蒼も寝間着の上に袿を引っ掛けただけの状態で飛んで来た。
「十六夜!帝羽が我を…こんな大事になってしまって、我はもう、どこにも嫁げないわ!」
美加は、帝羽を放して芝に突っ伏して泣いた。十六夜は、首をかしげた。
「そうかあ?何だかお前が帝羽に取りすがってるように見えたがなあ。」
将維が、もう休んでいたらしく不機嫌に言った。
「うるさいの。どうせ主には嫁ぎ先などなかった。良かったではないか、とにかくは行くところがあって。」
蒼が、しかし渋い顔をした。
「しかしなあ。帝羽、責任は取らねばならぬぞ。なぜにこのようなことを。主は謹厳で大変に思慮深いのではなかったか。まあ、妻は一人と決まったことではないし、好きにすれば良いが。」
帝羽は、蒼の前に膝を着いた。
「蒼様。本当に我は、知りませぬ。我ははめられたのだ。」
将維が、よう分かるというふうに頷いた。
「分かるぞ。我も、そうやって二人ほどにはめられた。まあ、それらには一度も通わなかったがの。宮に置くのもけったくそ悪かったが、しかし仕方がないからの。主も、屋敷を一つ用意して、そこへ入れて放って置いたら良いのよ。正妻は別に娶れば良い。」
それを聞いた美加は、泣いていたはずなのに顔を上げた。
「そのようなことを!我は、正妻にしてもらいまするわ!」
大変な騒ぎに、瑠維が出て来た。維月に付き添われて、青い顔をしている。そして、帝羽を見た。
「帝羽殿…。」
維月が、憔悴し切った感じの瑠維の肩を抱いて言った。
「実は、父上に貰った腕輪を、なくしてしまったと…。泣きながら、私たちの部屋へ駆け込んで来たの。そうして、探しておったらこの騒ぎであるし、見に参ったの。」
維心も、不機嫌だった。起こされたのは間違いなかった。
「せっかくに寝台へ入っておったのに。」維心は、睨むように帝羽と美加を見た。「いい加減にせよ!ここは平和なのではなかったか。なぜにこのように次から次へと物が無くなったりするのよ!」
十六夜が、まあまあと維心をなだめた。
「気持ちは分かるが、落ち着け。明日の夜も、お前に譲ってやるから。」すると、維心は静かになった。十六夜は、ため息をついて帝羽を見た。「で、何をしてた。」
帝羽は、やっと話を聞いてもらえると、話始めた。。
「我は、コロシアムで美加様を庇って助けた時に、気になることを聞きました。詳しく聞きたければここへ来いといわれ、ここで待っていた。すると、このようにベールを身につけた女の姿が見え、そうしてそこの茂みに隠れるのを見たのです。その際、これを落として行ったので、我はてっきり、茂みに居るのは瑠維殿だと思うて話しておった。声も、瑠維殿の声であった。」
維心は、進み出て帝羽の手から、腕輪を受け取った。そして、それを見てから、頷いた。
「我が、瑠維に与えたものと相違ない。瑠維のものぞ。」
瑠維は、もつれる足で進み出て、父からそれを受け取った。そして、大事そうに胸に押し当てると、頭を下げた。
「お父様…ありがとうございます。申し訳ありませぬ、このように大切なものを、失くすなど。」
維心は、首を振った。
「どうも、主のせいではないようよ。」と、帝羽を見た。「続けよ。」
帝羽は、頷いた。
「しかし、瑠維殿だと思うておったのは、美加様だった。そして、我にしがみついて離れぬのを、必死に振りほどこうとしておる間に、美加様が叫び出し、このようなことになってしまった次第。我は、何もしておりませぬ。」
しかし、美加が叫んだ。
「そのような作り話を!誰も、我の言うことなど信じてはくれないのですわ!このような目に合っておるのに、庇うどころか、蔑むようなことを…。」と、踵を返した。「もう、いいわ!我は何も悪くはないわ!」
「美加!」
維月が叫ぶ。しかし、美加は宮の中へと飛び込んで行った。




