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指輪

次の日の朝、瑠維は、すっかり勝手を知った月の宮の中を歩いて、台番所へと急いだ。

台番所へ着くと、もう維月が来ていて、瑠維を見て微笑んだ。

「まあ、瑠維、おはよう。今から、生地をこねようと思って。美加ももう来ると思うわ。」

瑠維は、母に頭を下げた。

「お母様、おはようございます。本当に、楽しみにしておりましたの。この、白い粉が菓子になるのですか?」

維月は、頷いた。

「ええ、そうなの。分量はもう量ってあるから、これをあわせてこねるだけなんだけど…」

すると、そこへ美加が入って来た。

「おはようございます、お祖母様、瑠維殿。」

美加は、すこぶる機嫌が良かった。瑠維が、頭を下げる。維月が微笑んで言った。

「おはよう。では、生地をこねようかしら。」

維月は、指輪をそっと抜いた。瑠維はびっくりした…母が、それを外すのを初めて見たからだ。

「まあ、お母様。それを、外されるのですか?」

維月は、困ったように微笑みながら、頷いた。

「指輪をしていると、こびりついてしまって洗うのが大変なの。だから、作っている間はこちらへ置いておくわね。」

維月は、振り返って側の調味料の棚に、懐紙を敷いて指輪を置いた。そして、着物の袖を上げて言った。

「これをこねて、生地を作るの。今日は、パイを作りましょうね。」

そうして、三人は一生懸命生地を練って、それを棍棒で伸ばしたりしながら、楽しく会話を楽しんで菓子の製作をしたのだった。


一時ほどして、三つのパイが完成し、後は焼くだけの状態になった。

「後は、これをオーブンで焼くだけよ。さ、こちらへ。」

維月が、パイ皿を持って先に、次の間にあるオーブンへと歩いて行く。瑠維も、美加もそれに続いた。維月がオーブンを開けて自分のパイを端に置いていると、瑠維が入って来た。かと思うと、向こうの部屋から声がした。

「きゃあ!」

二人は、同時に振り返った。維月からは見えなかったが、瑠維からは見えたらしい。慌てて自分のパイを側の台に置くと、そちらへ向かった。

「まあ、美加殿!大変!」

維月は、何事かと急いで戸へと走った。すると、美加がパイ皿を落として、床へ中身をばら撒いているところだった。

「せっかく、綺麗に出来たと思っていたのに…。」

美加が、泣きそうになりながらそれを見ていると、瑠維が屈んでそれを拾い出した。

「ああ、うまく出来ておりましたのに。どうしましょう。」

維月が、残念そうに言った。

「床へ落ちてしまったのだもの、仕方がないわ。さあ美加、後でまた作り直しましょう。とにかくは、先にこちらをオーブンに入れないと。その後、一緒に作り直しましょうね。」

美加は、目に涙を溜め、床へ屈んで生地を拾い上げた。

「でも、これを片付けなくては。」

そうして、側のゴミ箱へとそれを放り込もうとした。瑠維が、首を振ってそれを受け取った。

「これは、我が。美加殿は、そちらでお母様とオーブンに点火して来てくださいませ。」

維月は、美加がかわいそうになって、頷いた。

「瑠維、よろしくね。では美加、こちらへいらっしゃい。さあ。」

そうして、維月は美加を連れてそこへ入って行った。瑠維は、掃除などしたことがなかったが、侍女達がしているのを見てはいた。なので、一生懸命床を綺麗に吹き上げたのだった。


床も綺麗になり、美加のパイも無事作り直すことに成功し、オーブンに入れた。維月はホッとして、言った。

「さあ、これで後は待つだけよ。私たちの方が先に焼きあがるけれど、美加のものも後から出来あがるから。」

美加は、機嫌よく頷いた。

「はい、お祖母様。とても楽しみですわ。」

維月は頷いて、背後の調味料の棚を振り返った。そうして、驚いたように口を押さえ、その回りをきょろきょろと見ている。瑠維は、何事だろうと声を掛けた。

「お母様?いかがなさいましたか?」

維月は、青い顔で瑠維を見た。

「指輪がないの。」と、まだ回りをひっくり返して探している。「ここに、確かに置いたのに。」

「ええ?!」

瑠維も、驚いて急いでそちらへ行くと、一緒になって探している。美加は、側に来て言った。

「あれは、大切なものなのに!代わりはないっておっしゃっておられたわ。」

維月は、頷いた。

「そうよ。前世から黄泉、それに今生まで持って来たものだもの。神世ではそんなに価値のあるものではないし、盗まれる心配もないって、維心様もおっしゃっておられたわ。それが、どうして無くなったの?」

維月は、さすがにおろおろと探し回っている。瑠維も、一緒になって探していた。美加は、言った。

「大変!宮に、怪しい者は入っておりませんの?」

維月は、首を振った。

「月の結界があるのに、ここへは誰も入って来れないわ。今まで、賊など入ったことも無いのよ。」

美加は、おろおろとしている二人に対して、冷静に考え込んで、言った。

「…ならば、知っておる者が隠したとしか、考えられませぬわ。」

維月は、びっくりして振り返った。

「え、ただここから転がり落ちただけかもしれないわ。そこまで考えるのは、性急よ。」

美加は、首を振った。

「風もない日ですのに。」維月は、外を見た。確かにそうだった。美加は続けた。「まさか、この宮にそのようなことをするような、心根の悪い者が居るなんて。帝羽は居りませぬの?帝羽に調べてもらいましょう。」

維月は、瑠維と顔を見合わせた。瑠維が、小さく頷く。維月は、美加を見た。

「そうね。犯人探しとまでは行かなくても、どこへ行ったか探してもらえたら助かるわ。」と、侍女を呼んだ。「侍女!帝羽をこちらへ。」

侍女が、頷いて出て行く。

瑠維と維月は、まだ必死に回りを探すのをやめない。美加は、それを見ながら、少し頬を緩めていた。


帝羽は、その部屋の中をとっくりと探した。しかし、指輪は見つからなかった。ここには、たった三人しかいない…維月は、自分の指輪を隠すなどと思えない。瑠維も、そんなことをするような性格ではない。美加は、あれがどれほど大切なのか知っていて、自分に探すように言ったのも美加だった。誰も疑えない状況だ。

「…ここで、誰か一人になった時間はありませんでしたか?もしくは、無人になった時間は?」

維月が、答えた。

「いつも、誰かしらここに居たわ。一人になったのは瑠維が、美加の落としたパイを掃除してくれておった時ぐらいかしら。きれいに拭き上げてくれたのよ。」

美加も、頷いた。

「ええ。全部、瑠維殿が掃除してくださったの。皇女なのに。」

帝羽は、眉を寄せた。

「ならば、無くなるわけがありませぬな。しかし、無くなった。他に、何か忘れておるようなことは?」

維月は、首を振った。

「何も。本当に三人だけで、ここでパイを作っていただけなの。誰か入って来たら、月の宮なのに私が気取るわ。私だって月なのだもの。」

帝羽は、お手上げだと肩を落とした。ならば、指輪はどこへ行ったのだ。

そこへ、維心が入って来た。

「聞いたぞ。指輪が無うなったのだと?」

維月は、維心に頭を下げた。

「申し訳ありませぬ。汚れてはとそこへ懐紙に乗せて置いておったのでございます。それが、どこにも見当たりませぬの。」

維心は、頷いた。

「良い。我が探す。」

そんなことが出来るのか?!

帝羽も含めた四人がびっくりしていると、維心は指輪をしている左手を上げた。そうして、その指輪が光ったかと思うと、すーっとそこから光が流れ出て、その光は側の、ゴミ箱の方へと流れた。そして、そこへ突き刺さるように、その光は入って行って消えた。

四人が呆然とそれを見ていると、維心が顔をしかめた。

「そこか。」

そして、引き上げるように手の平を上に向けて、くいと持ち上げる仕草をした。すると、ゴミの中から何かが飛び出して来て、宙に浮いた。

「ああ!」

維月が叫んでそれを掴むと、慌てて水へと突っ込んだ。そして、ざぶざぶと着物の袖が濡れるのも忘れて洗うと、指で挟んでそれを見せた。

「ああ良かった…!もう、二度と戻って来ぬかと…。」

維月が涙ぐんで言うと、維心が進み出て、維月の肩を抱いて苦笑した。

「我の指輪と同じ物であるから。これの波動から辿れば、こんなものすぐに見つかるわ。我に出来ぬことなどない。」そして、瑠維と美加を見た。「しかし、なぜにこのような場所にある。あの位置からこちらへ来るなど、おかしいではないか。主ら、何か知っておるのではないのか。」

瑠維は、首を振った。

「何も!本当に、何も知りませんでした。なぜに無くなったのかと、そればかり…。」

しかし、美加が言った。

「そうですわ。確かに瑠維殿はお一人で落ちてしまったパイを片付けて下さっておりましたけれど、そのようなことをするはずはありませんわ。」

維心と帝羽が、美加を見た。パイ?

「…ここで、一人で片付けておったのか。」

美加は、頷いた。

「はい。我が落としてしまった物を、捨てなくてはなりませんでした。それを、瑠維殿が代わってやってくださったのです。」

帝羽は、維心を見上げた。

「指輪は、ゴミ箱から出て参りましたね。」

維心は、頷いた。瑠維は、急にその意味を悟って首を振った。

「何も!本当に、我は何もしておりませぬわ!」

維心は、ため息をついた。

「主がわざとやったと言うておるのではない。だが、床を片付けるのに、慣れぬから落ちておった指輪まで捨ててしもうたやもしれぬの。」

維月も、頷いた。

「そうね。私も瑠維にそんなことを頼んでしまったのだもの、仕方がないわ。これから、侍女を呼びましょう。ここは、呼ばないと侍女が来ないから、つい自分で何でもしてしまって。」

瑠維は、まだ首を振った。

「そのような…いくら我でも、指輪が混じっておりましたなら、気が付きまする。」

美加が、言った。

「仕方がないわ。やっぱり、我がやれば良かったのよ。瑠維殿に頼んでしまった、我が悪いのですわ。」

帝羽は、黙ってそれを聞いている。瑠維は、居た堪れなかった。そんなはずはないのに。

しかし、維心と維月は踵を返した。

「良いのよ、大丈夫。こうして、お父様が探してくださったから。でもこれからは、私もこれを外さないようにするわ。」

維心は、頷いた。

「気を付けよ。」

そして、二人はそこを出て行った。瑠維は、その背に言った。

「ですが、お父様、お母様…、」それでも、行ってしまった父母に、瑠維は帝羽の方を見た。「帝羽殿…本当に、我は…」

美加が、割り込むように前に出た。

「帝羽、我が作ったパイが、もう焼き上がるの。是非、我のパイを食べて欲しいわ。」

帝羽は、瑠維を気にしながらも、ためらいがちに、美加に頷いた。

「は…美加様。」

そして、美加に引っ張られてそこを出て行った。

瑠維は、取り残されてどうしたらいいのか分からなかった。

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