挨拶
帝羽は、仕方なく後ろで控える軍神二人に輿を片付けるように言い、瑠維に膝をついた。
「では、我がご案内を。しかし、どちらから参られたいでしょうか。まずは、蒼様にご挨拶に伺いまするか?」
瑠維は、頷いた。侍女の影も見えない月の宮で、今頼れるのはこの帝羽だけだ。何しろ、他の宮に来たのが初めてならば、一人にされるのも初めてなのだ。
「はい、帝羽殿。何しろ、何も知らぬのです。どうか、よろしくお導きのほどをよろしくお願い申します。」
楽しそうだった様子も一変して、少し心細そうにしている瑠維に、帝羽は不憫に思って、微笑んで手を差し出した。瑠維は、ホッとしたように微笑むと、その手を取った。
そして、蒼の居間まで向かう間、通り掛かるあちらこちらを説明したりしながら、二人は仲良く話して歩いて行った。
蒼の居間へと入って行くと、蒼はもう、瑠維がこちらへ向かっているのを知っていて、待っていてくれた。
蒼は、瑠維も小さな頃から度々龍の宮で合うことがあり、よく知っていた。蒼は、穏やかで優しい気を発していて、同じようによく顔を見せてはかわいがってくれた十六夜と共に、とても好きだった。蒼は、瑠維を見て微笑んだ。
「よく来たな、瑠維。それにしても、ここへ来るまで大分時間が掛かったじゃないか。なかなか奥宮から出さなかったのに、維心様がよく許してくれたな。」
瑠維は、微笑んで蒼に頭を下げた。
「こちらでお会い出来て嬉しゅうございまする、蒼様。昨夜、父が急に連れて来てくださるとおっしゃってくださって…こうしてこちらへ参ることが出来ました。」
蒼は、嬉しそうに頷いた。
「いいことだな。いっそのこと、ここへ留学してしばらく過ごしたらいいんじゃないか?ま、そこまでは維心様も許してはくれないかな。前世、それで後悔なさったことがあったし。」
瑠維は、よく分からなかったので、首をかしげた。
「前世の事は…父も母も、我にはあまり話してくれませぬの。ご記憶をお持ちなのは、知っておりまするけれど。此度は、きっと父が居る間はこちらに置いて頂けると思えまするので、少し長く滞在出来るかと思いまするが。」
蒼は、うーんと首をひねった。
「じゃあ、あと3週間ぐらいかな?母さんが、ここに居るのがそれぐらいだから。維心様は、一度来たらよっぽどじゃないと母さんの側を離れたりしないから。」
瑠維は、蒼が言うのに自分のことのように恥ずかしくなった。お父様…お母様と離れたら寂しいといつも言っておられたけど、みんな知っておるのだわ。
「時に…」
蒼が何かを言いかけた時、側の仕切り布が揺れて、一人の美しい若い女が飛び込んで来た。気を見ると、龍のようだ。瑠維が、突然のことにびっくりしていると、その女は言った。
「まあ、やっぱり!帝羽、こちらへ参っておったのね!」
その女は、維心と同じ深い青い瞳をして、しかし金髪だった。走って来たかと思うと、瑠維の隣りに立つ帝羽に飛びついた。帝羽は、言った。
「美加様!そのように王の御前で、なりませぬ。」
そうして、丁重にその女を自分から離した。しかし、美加と呼ばれたその女は、まだ帝羽の手を放さなかった。
「我に一言もなく、龍の宮へ言ってしまって。我がどれほどに驚いたことか…。」
蒼は、美加を嗜めた。
「ならぬ!美加。明維から、甘やかすのはならぬと言われておるのだからの。全く礼儀がなっておらぬではないか。こちらへ!」
美加は、少し膨れっ面になって帝羽から離れ、蒼の隣りに立った。蒼は、ため息をついた。
「すまないな、瑠維。驚いただろう。龍の宮にはこのような女神は居らぬだろうから。」と、美加を見て言った。「主の大叔父に当たる明維と、オレの娘の美羽の間の娘、美加だ。あまりにお転婆で礼儀を知らぬと明維が怒ってな。ここへ礼儀見習いに寄越された。本当は龍の宮でと言ったらしいが、維心様がそんな様では辛かろうと言って、ま、言うなれば断られた。これでもマシになったのだ。」
では、前世の父の息子だという明維様のお子。我と縁続きなのだわ。
瑠維は、そう思った。目が、滅多にない、父や兄と同じ深い青い色だったからだ。瑠維は、幼い頃から身に付いている、美しい所作で美加に頭を下げた。
「美加様。初めてお目にかかりまする。瑠維でございます。」
しかし、美加はじっと瑠維を睨むと、ふいと横を向いた。蒼が、横から嗜めた。
「こら、美加!立場で言えば、瑠維の方が上なのだぞ。そのような不遜な態度ではならぬ。明維にそんな様をまた書状で知らせるぞ!」
美加は、それを聞いてびくっとした。どうやら、父のことはかなり怖いらしい。なので、ぎこちなく頭を下げた。
「初めてお目にかかりまする。美加でございます。」
しかし、二コリともしなかった。蒼は、大げさにため息をついた。
「すまぬな、瑠維。ま、少しずつようなって来るかと思う。また、主も教えてやってくれぬか。思えば、主ほど良い教師は居らぬ。模範的な皇女であるからの。」
瑠維は、扇で顔を隠して深々と蒼に頭を下げた。
「我もまだまだ子供であると父には言われまするの。ですので、共に学ぶのなら、よろしいかと。」
蒼は、頷いた。
「オレから見たら、瑠維は完璧だよ。ま、気が向いたらで良い。よろしく頼む。」
瑠維は、頷いた。すると、帝羽が横から言った。
「では瑠維様、蒼様に許しを得て、このまま宮の中を見て、その後学校など見学されまするか?珍しいものが見れるのではないかと。」
蒼が、頷いた。
「許可する。どこなり見て回るがいい。」
瑠維は、嬉しそうに帝羽に微笑みかけた。
「まあ。楽しみだこと。」
帝羽は、瑠維の手を取った。美加が、慌てて言った。
「帝羽、我と庭へ参る約束でしたわ!」
帝羽は、驚いたように美加を見た。瑠維も、帝羽と美加を代わる代わる見る。
「お約束を?いつ、そのような。ここ数年は、我はこちらへ来てはおりませぬし。」
美加は、首を振った。
「前にこちらへ来た時、次に来た時には共に庭を歩こうと申したもの。」
帝羽は、小さく息をついた。蒼が言った。
「美加、それは主が無理に帝羽が帰ると申すのに押し付けたものだろうが。帝羽はそのようなこと、約してはおらなんだぞ。」
帝羽は、言った。
「どちらにしろ、我は今、任務中なのです。王に、瑠維様のご案内をと言われておる。王から任務を外れて良いと言われなければ、この月の宮に居る間は己の好きには出来ませぬ。申し訳ありませぬが、またの機会に。」
帝羽は、瑠維の手を引いて踵を返した。瑠維は、ためらいがちに美加を見たが、結局そのまま、そこを出て歩いて行った。
美加は、その背をじっと睨んで見送っていた。
蒼は、なぜか嫌な予感を感じたのだった。
維心と維月と十六夜は、三人で十六夜と維月の部屋の居間で座って話していた。維心から瑠維の話を聞いて、維月は息をついた。
「まあ、本当に…。よく辛抱したこと。私なら、きっとあのようには出来ませんでしたのに。」
維心は、苦笑して維月の髪を撫でた。
「そうは言うが、今では主もこうやって礼儀を知っておるではないか。」
十六夜が、あちら側の横から言った。
「きっと、そこんとこは維心に似てるんだよ。辛抱強くて、責務に忠実なんだろう。だが、本当は維月っていう。」
維心は、維月のあちら側の隣りから頷いた。
「我もそのように。そう思うと、あれが不憫になっての。ここへ連れて来てやっても良いかと思うたのだ。」
維月は、維心を見て微笑んだ。
「本当に父親として、維心様は瑠維を見てやってくださっておりまするわ。うれしゅうございます。」
維心は、維月に微笑み返した。
「もちろんよ。我と主の娘であるのだからの。」
すると、あちら側から十六夜が言った。
「でもさ、ってことは、瑠維は帝羽になら自分の本心を話したってことだよな?それって、瑠維は帝羽を好きっていうか、気に入ってるってことなのか?」
それを聞いた維心と維月は、顔を見合わせた。確かにそうだ。
「いや…そんな雰囲気ではなかったが、しかし帝羽が女と話しておるのは見たことがないのに、瑠維とは話しておったな。」
維月が、しかし首を振った。
「いえ、こちらで帝羽が居った時には、美加が帝羽によう話しかけておったのですわ。なので良く見かけましたけれど。」
維心が、眉を寄せた。
「明維の子よな。我らの孫にあたるぞ、維月。我はあまりそうは思いとうない状態だったが。」
十六夜が、苦笑しながらも言った。
「あれは、美加が帝羽にまとわり着いてただけだ。帝羽は、そういうの苦手っていうか、面倒みたいだったぞ。だが、悪いやつじゃないんだよ…帝羽が龍の宮へ行った後なんか、しばらく部屋へ篭って出てこなかったんだ。きっとショックだったんじゃないかな。」
維月は、少し考えるような顔をした。
「そうか、じゃあ帝羽は美加と仲が良いのね。」
十六夜が維月を見た。
「お前、ちゃんと聞いてたか?美加のほうがまとわりついてただけで、帝羽は迷惑してたんだっての。」
維月は、十六夜を見た。
「でも…じゃ、瑠維がもし帝羽のことを気に入ってたら、ちょっと困ったことにならない?」
十六夜は、うーんと眉を寄せた。
「確かにそうだが、あいつらがケンカなんかねぇよ。瑠維が相手で、ケンカになんかならねぇだろう。」
維心が、憮然として言った。
「ケンカとな?美加と瑠維では、地位が違うわ。我の子であるのと、第二皇子の子であるのでは、雲泥の差ぞ。同じにするでないわ。」
維月は、慌てて維心をなだめた。
「維心様、そのようにおっしゃらないで。美加も孫なのですわ。でも確かに瑠維は諍いなど起こさないでしょう。とにかくは、あまり瑠維をここに長く置かぬほうが良いかもしれませぬわね。ややこしいことになってはいけないから。」
維心と十六夜は、それには同時に頷いた。もう、いろいろごたごたは迷惑だ。
しかし、嫌な空気は、既に流れ始めていた。




