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夢幻航路

作者: 一瀬詞貴(一ノ瀬貴斗名義にて投稿)

「……『死』が背中に張り付いているんです」

 夕焼けが教室に長い影を落とす頃、机を間に相対したその女生徒は、俯いたまま言った。

 新米教師・村上唯子は暫く頭を抱える事となった。彼女は「死にたい」ではなく「死ぬのが怖い」と相談してきたのだ。

 〈死の夢〉はマイナスなものではない。どちらかと言えば未来への助走期間と言うように、新しく生まれ変わりたい願望の萌芽を表すと言う。唯子はそう切々と説いたのだが、どうやっても彼女の心を晴らす事は出来なかった。専門家へ話してみるよう提案するも、彼女は激しい人見知りのせいで唯子以外とはまともに口も聞けないから、と首を振った。

 ぼんやりした性格が災いし、人に世話を焼かれる事はあっても頼られた事などなかった唯子は、この相談が嬉しく無下に出来なかった。教員免許を取って後、初めて受け持った生徒だった事も背を押した。しかしアドバイスは簡単には思い浮かばない。同僚に相談するも専門家に任せろと取り合ってはくれず、そうこうする内に無駄に日々は過ぎてしまった。心配と焦りが募った。

「『命のこり、ほぐします』……ここだ」

 凄腕のカウンセラーのことを小耳に挟んだのはそんな時だ。

 雑居ビルの建ち並ぶ繁華街を裏道に逸れた所に、ひっそりとそのクリニックはあった。壁面を蔦が走る寂れた三階建てのビルの一階、玄関の扉には「夢時間クリニック」と掠れた文字で書かれた木製の看板がぶら下がっている。近づいて目を懲らせば、下方に小さくカウンセリングサービスと彫られていた。場所柄、クライアントは多いのかもしれないが、それにしても全てが胡散臭い。

 噂によれば、不思議な幻術でもってどんな相談者の悩みも解消するのだとか。まさか得体のしれない人物に生徒を会わせる訳にもいかず、かと言って打開案も思いつかなかったから、唯子は助言を求め藁にも縋る思いで相談しにきたのだったが……

「あ、あやしい。あやし過ぎる……」

 ボストンバッグを抱える腕に力が籠もる。

「営業妨害で訴えちゃうぞ」

「ぎゃっ……」

 と、背後で聞こえた穏やかなテノールの声に、唯子は悲鳴を上げて振り返った。次いでコンビニ袋を手に提げ立っていた人物の容姿に、卒倒せんばかりに驚愕して立ち尽くす。

「ははっ。顔、青いよ、君」

 そう言って明るい笑い声をたてたのは、ハンチング帽子を被り着物に袴というレトロな書生スタイルの―――骸骨、だった。コスプレにしてはこっている。質感など理科室で見かける人体全身骨格模型そのものだ。

「すっ、すいません……」

 白骨の手に馴れ馴れしく肩を叩かれた唯子は思わず謝罪を口にして身を竦ませた。

「んん? 何か悩んでる様子だね……て事は君、お客さん? あ、分かった! 村上唯子……ちゃんでしょ?」

 骸骨姿の書生は、顎を指で撫でると小首を傾げ、ややあってからズバリと言い放った。 二七の女に向かい「ちゃん」付けとは、いくら唯子が童顔と言えども失礼極まりない。

「ち、違います」

 むっとはしたものの、彼の姿に圧倒されてやっと絞り出た言葉はこれだけだった。

「相談無料なんだし。気軽に寄っていってよ」

「ひ、人違いです! それに私、別に悩んでなんていませんから。気のせいですから!!」

 半泣きになって叫べば、彼はさも当り前だと言うように首を振った。

「ウソだね」

「……………あ、あなたは一体……?」

「俺はシャグジ。此処のカウンセラーだよ」

 ぽかん、とする唯子を覗き込むように、彼は長身を屈めると続けた。

「俺はね、悩む女性を放っておくと死んでしまうんだ。ささ、俺を救うと思って……」

 彼は素早く優雅な身のこなしで唯子の顎を取った。闇を穿った眼窩で唯子の双眸を見つめ、やがてシャグジはカタカタと歯を打ち鳴らした。笑ったのかもしれない。が、唯子は恐怖に凍り付いて身動き出来なくなる。

「君は紅茶派かな?」

 彼は腕を掴むと無理矢理唯子を引きずり、クリニックの扉を押し開けた。


* * *


 院内はやはり普通とは様子が違っていた。他のカウンセリングサービスと差別化するにしても凝った内装だった。天上からぶらさがったペンダントランプの橙色の光が照らし出す受付も待合室も、安心をもたらす暖かい雰囲気とはかけ離れて薄暗い。けれどレコードから流れる、切なげなシャンソンの声は不思議と心を安らかにした。

「客か?」

「彼は北斗。ここの受付ね」

 奥の間から声がかけられると、すかさずシャグジが紹介してくれた。恐る恐る声のした方へと目線をやり……右手に分厚い本を持った美しい貴族然とした青年の出現に唯子は息を飲んだ。紺地のスーツにアスコットタイを結び、胸元に覗くえんじのベストがいかにも洒落ている。眼鏡をかけた端正な目元は涼しげだ。その浮世離れした彼の様子と、大正浪漫を思わせるミステリアスな院内の様相は、唯子を百年ほど時を遡った気持ちにさせる。束の間、惚けた後、彼女は頭を振って邪念を追い払った。得体の知れないシャグジより頼りになりそうな人だ、と現実的に物事を考えて内心安堵する。が。

「………用のない奴は出て行け」

 今にも左腰に帯びたサーベルを抜き放たんばかりの殺気でもって吐き捨てられた言葉に、淡い印象は瞬く間に消し飛んだ。神経質そうに細められた切れ長の目に侮蔑と憎しみの青い炎がちらつく。威圧的なその眼差しはシャグジの骸骨姿よりも恐ろしい。

「わっ、私これで失礼しま―――」

「相談者だよ。メール来てただろ」

 慌てて踵を返した唯子の肩をシャグジは掴むと、逃げる暇も与えず、彼女を待合室の椅子へと腰掛けさせた。

「帰ります。か、帰らせて下さい……」

 受付青年の辺りから流れくる不機嫌さに歪んだ空気に、唯子は小柄な身体をますます縮めると涙声で請うた。初対面の人間に此処まで厭われる理由が分からない。悲しみを通り越してショックだ。

「ほーくと。クライアントにその態度はないだろ。お前、ちゃんと受付の自覚ある?」

 シャグジは苛立たしげにそう叱責すると、一変して唯子に優しい声音で告げた。

「唯子ちゃん。気にせず此処にいていいんだよ。君はお客様なんだから」

「で、でも……」

 唯子の怯えた様子に、北斗は溜息を吐いた。

「………いつものナンパかと思ったんだ。すまない」

「ナンパ……?」

 不信感に立ち上がってシャグジを振り返れば、彼は両手を挙げて苦笑を零した。

「公私混同はしないよ」

 そう肩を竦めたものの彼は逃げるように奥へと引っ込む。

「………座ったらどうだ?」

 そう促した北斗は、身の振りを考え立ち尽くす唯子などお構いなく、机を挟んだ向かい側に腰掛けると、分厚い本に目を落とした。

「は、はあ……」

 暫しの躊躇いの後、唯子は怖ず怖ずと腰を下ろす。

 沈黙。

 一応、客だと認めて貰えたようだったが……唯子は余りの居心地の悪さに身動ぎした。ひたすらテーブルに備え付けられたカンテラの炎が揺れるのを眺めていたが、やがて耐えきれず、控えめに話しかける。

「………あの、質問、宜しいでしょうか」

「……何だ?」

「彼のあれは特殊メイクか何かでしょうか」

 もちろん疑ってなどいない。単にこの居た堪れない空気を和ませようと話を振っただけだった。けれど。

「あれ……?」

 眉根をぎゅっと寄せると、北斗は至って真面目に答えた。

「あれは、本物だ。奴は神の一人だからな」

「は?」

 鬱陶しげに鼻で息を吐き、本を閉じる。

「終焉を迎えた命は三〇年、六〇年と月日を経て家族や子孫に忘れられると、自己認識が出来なくなる。やがて崇め奉られる神のような集合体に吸収され、かき消える。それが自然であり普遍的な事だ。だが中には永遠に忘れられない存在もある。神などがそれだ」

 唯子の目が点になる。彼は淀みなく続けた。

「シャグジは宿(すく)の神。幻境を治める神だ。奴は祀られたがために、あのように身体が朽ちても自然に戻れない。存在するはずのない時―――幻の中で生き続ける事しかできない」

 語り終えた青年はあくまで真剣な様子だった。唯子は何と返せば良いか答えに窮して、唾を飲み込む。と、

「お前の顔は冗談には向いてないって言ってるだろ」

 紅茶を乗せた盆を手にしてやってきたシャグジが、北斗に肘打ちを食らわせた。

「ごめんねー唯子ちゃん。これ、俺なりの相手を緊張させないための工夫。コスプレね。実は俺、超イケメンでさ、外歩いてるとホストの客引きと間違えられちゃうんだよね」

「そっ、そうだったんですね」

 そう言って北斗の隣に腰を下ろした彼にいろいろ思う事はあったが、これ以上聞いてはならない気がして、唯子は無理矢理納得した。

「それで? 君は何に悩んでいるの?」

「は、はあ。あの、その前に……」

 早速話に入ったシャグジの言葉を遮り、唯子は恐る恐る手を上げた。

「ん? なになに?」

「料金に関して窺いたいんですけど……その、安月給で。あ、余りお金がないんです……」

 北斗と顔を見合わせてからシャグジは首を振った。

「お金なんてかからないよー」

「お金が……掛からない?」

 北斗が続きを受けて頷く。

「ああ。このボンクラが言ったように相談は無料だ。施術する場合は有償だがな。それでも私たちが望むのは金ではない。時間だ」

「時間……?」

 意味不明な答えに、不穏な考えに思い当たった唯子は恐る恐る問いを重ねた。

「それは、あの、何か……何処かへ派遣されて、不健全な事を求められたりするような?」

 唯子の問いにシャグジは口元を押えると身体を震わせて笑い出した。隣で北斗が形の良い眉を吊り上げ、思い切り顔を顰めた。

「………全く、そのような事はない」

「す、すいません」

 唯子が鞄を抱いて小さくなると、こめかみに青筋を浮かべたまま、北斗は大仰に溜息を吐き、眉間を揉む。口を開きかけたところでシャグジが彼を押しのけて言った。

「本当は俺ね、看板出せるような身分じゃなくて修行中なんだ。だからお金取ったらまずいの。報酬が時間って言うのは……経験を積みたい俺にとっては、君が貴重な時間を割いてくれるのが何よりの報酬だよって事。相談してくれる悩みが、俺にとってはお金の何倍もの価値があるんだ」

 穏やかな声音でそう言ったシャグジの横で北斗は不機嫌そうにぼやいた。

「という設定だ」

「せ……?」

「人が物を食べてこの世界に定着する身体を維持するように、時の循環から外れた彼も存在を維持するため時を喰らわねばならな」

 中途でシャグジに殴られると彼はしぶしぶ口を閉ざす。

「早速話してくれるかな? 唯子ちゃん」

 シャグジは一連の事を華麗に無視して、両手を組むとその上に顎を乗せた。唯子は気を取り直して話し始めた。


* * *


 一通り話を聞くと、シャグジは白骨の指先でもって自身の顎をなぞった。

「……ふーむ。じゃ、君はその女生徒に有意義なアドバイスをしたい、って訳なんだね」

「はい」

「だけど、その内容が思い浮かばない、と」

「………情けない事に」

 肩を落とす唯子にシャグジは首を振った。

「いやいや、情けなくなんかないよ。一人の生徒のためにそうやって真剣に考えられる教師ってなかなか貴重だと思うよ?」

「……はあ」

 恥ずかしげもなくそう言われて、唯子の方が戸惑ってしまう。

「じゃあ、一緒に考えてみようか。まず確認したいんだけど……君はその生徒にどうアプローチしたいのかな」

「……私は彼女の不安を取り除きたいです」

 思案を巡らせてから、唯子は顔を上げてシャグジを真っ直ぐ見た。

「だってそうでしょう? 『死』なんて私含めてみんなが怖いと思う事です。生物は『死ぬために生きている』んですから。でも普通は生活出来る程度に死なんて怖くない。現に私はいつか死ぬって知っているけれど想像もしない。この図太さを彼女に伝えたいんです」

「分かった。それじゃ、唯子ちゃん。そもそもどうして俺たちは死ぬのが怖いんだろう? 死にたくないと思うんだろう? 君の考えを聞かせてくれる?」

 唯子は暫く考え込んでから口を開いた。

「……痛いから、だと思います。後は……存在を忘れられてしまうから、死んだ後、どうなるかが分からないから……」

「うん。中には地獄に落ちるのが怖いっていう人もいるかもしれないよね」

「後は……やり残した事があるから、死にたくないのかもしれません」

 シャグジは小さく頷いた。

「それくらいかな。……ところで、唯子ちゃん。君、北斗星君って知ってる?」

「北斗星君……?」

「北斗七星を神格化したもので、死神の別名だよ。その神様はね、全生命の寿命を記した書物と……どんな生でも断ち切る宝剣『七星剣』を持っている」

 自然、シャグジの隣に視線を移した唯子は、そこで厚い書物に怜悧な瞳をそそぐ受付の青年の姿を見つけられず、急に不安になった。

「お前たちの話は、所詮、机上の空論だ」

 背後から聞こえた落ち着き払った声に、振り返り、唯子は息を引き攣らせる。

「と、言う訳で……試しに死んでみよっか、唯子ちゃん」

 シャグジの言葉が終わらぬうちに、北斗は手にした見事な細工の施されたサーベルでもって唯子の胸を貫いた。テーブルに置かれたカンテラの火がかき消え、暗闇が訪れる。いな、唯子の意識が暗転したのだ。突然、車のクラクションが鼓膜を突き破り―――


* * *


 鈍い衝撃音がたった。ビニール傘が宙を舞う。気付けば唯子は今までいたクリニックとは別の……湿ったコンクリートの上に投げ出されていた。道路を横滑りした自転車の車輪が空しい音を立てて回っている。

「…………ぅ」

 ぽつぽつと頬を雨粒が打つ。

 唯子は肢体を投げ出したまま動けないでいた。遠ざかる意識が痛みで引き戻される。何も考えられない。

 車の扉が開く音に次いで、縺れるように慌てた様子で誰かが近づいてきた。その人物は息を飲んで歩みを止めると、すぐにその場から逃げ出した。エンジン音が遠ざかる。

 為す術もなく唯子は放置された。

 車の行き交う喧噪が遠くから聞こえてくるものの、裏通りなのか近くに人気はない。

「……どうして死ぬのが怖いか分かった?」

 霞んだ視界に袴から覗くブーツのつま先が入った。気配無く現れたその人物の静かな問いに唯子は喘いだ。

「………論点が、ずれてると思います」

「ん? どうして?」

 声になったかどうか怪しかったから、返ってきた反応に幾らか安堵する。唯子は続けた。

「こんな事、確認したって………無意味じゃないですか。恐怖や未練は所詮、全部、生者側の……妄想なんです、から」

「うん。死ぬって事はただ、命が消えるって言うだけの事だからね」

 その人物はそう言って、唯子の投げ出された腕を引っ張った。途端、全身の痛みが和らぎ、視界がはっきりする。

「苛めすぎたね。ごめんね」

 そう言って、赤い唐傘を差し出したのは一昔前の書生スタイルをした明眸皓歯の青年だった。異国の血を彷彿させるすっきりとした頬に微笑みを刻み、爛々と輝く茶の瞳で唯子を見ると、柔らかく目を細めた。

「あなた、は……シャグジ、さん?」

「正解。ね? イケメンでしょ?」

 片目を瞑ってみせるのには答えず、唯子は辺りを見渡した。

「此処は……」

「……今、俺は、君の深層心理に働きかけて過去に遡っているんだ。一種の催眠術のようなものだと思ってくれれば良いよ。俺はこれを『夢時間』って呼んでる」

 少し拗ねたような間の後、彼は答えた。噂の幻術らしい。見覚えのある景色に目眩を感じた唯子の頭に、シャグジはさっと自身のハンチング帽子を被せると手を引いた。

「さ。ちょっと散歩しようか」

 言って、彼はからからと空しく車輪を回していた自転車を引っ繰り返し軽く点検すると、後ろの荷台を指し示した。

「何のために?」

「君の歩いてきた人生に用があるからさ。答えはもう君の中にある。だから、それを見つけにこうして散歩をするんだ」

 唯子は道端に転がった鞄を拾い上げると、シャグジから唐傘を受け取り荷台をまたいだ。傘を右手でさし後輪軸のハブステップに足をかけて立つ。唯子がシャグジの肩に手を置くと、彼は勢いよくペダルを踏んだ。

「う……わあ」

 懐かしい景色の中を走る。思わず唯子の唇から感嘆の溜息が漏れた。

 ビニールハウスの山々に、地平線の向こうまで続く田んぼ、木々の生い茂った一画には神社の屋根が覗く。

 梢が風に揺れて囁くかのような雨音が静寂を打つ中、夏の予感を含む草木の香りを割るように二人は進んだ。唯子は不思議な気持ちでそれらを眺めていた。忘れていた風景……けれど見間違えようもない。このまま、道なりにゆけばやがて、唯子が十七年生活した平屋建ての家が見えてくるはずだ。

「ねぇ、君は……命は死んだら何処へ行くと思う?」

 辺りをぼんやりと眺めていた唯子は、問いに改めてシャグジを見下ろした。癖毛なのか柔らかなウェーブのかかった、赤みを帯びた髪は雨でしっとりと湿っていた。

「山に帰ると言う人がいる。海に帰ると言う人がいる。どっちだって良いよね。命は好きな所に帰るんだろう」

 シャグジは唐突にブレーキをかけると、今来た道を振り返るように自転車の首を返した。自然、唯子の視線は彼のそれを追う。

「死ねばその人は長い月日をかけて忘れられ、やがて仏だとか神だとかの集合体に吸収されて、個を失う。消滅だ。そしてその命の行き着く先が―――此処」

 雨は霧雨に変わっていた。上空では強風が吹くのだろうか、重く垂込めていた雨雲は天を滑り、太陽の光が雲間から顔を覗かせる。光が地上を照らすと草原の如く広がる田は鮮やかな緑色に染まった。

 唯子にとっては見慣れた風景だった。けれど、初めて目の当たりにしたかのように荘厳で美しい。流れる雲に従い、影と光が交互に地上に落ちると、世界は様々に姿を変えた。

 唯子は胸の苦しみを覚えて目を眇めた。やがて目前に広がる景色をそっとしまい込むように瞑目した。青々とした田は秋を過ぎれば黒く寂れて、また春を迎えて色づくだろう。それは永遠に繰り返される時の流れであり、そのまま命の眠る場所だった。

「何となく……分かる気がします」

 瞼の裏にまで陽光は柔らかく届き、草木の香りは優しく鼻孔を擽る。

 ……今のように、時たま自然を死ぬほど美しいと思う時がある。まるで土砂の一つ一つが、この世界の粒子一つ一つが命で出来てるかのように、自ら光りを放つ。眼前に広がる風景は、幾つもの死を飲み込み、生を送り出す、壮大な命のシンフォニーだった。

 気恥ずかしい思いを感じながらも、そんな事を言えばシャグジは深く頷いた。

「俺もそう思うよ。命は何一つ語らず、ただそこにあり続ける。……広くて、大きいねぇ」

 感慨深げな溜息を吐いてから、シャグジは再び自転車を走らせた。慌てて唯子は彼の背に抱きつく。

「……唯子ちゃん。もう答えは見つかったね」

 片手で傘を閉じようと奮戦していた唯子は曖昧に笑うと首を捻る。

「シャグジさんだったら……どうアドバイスするんですか?」

「ん? その前に君の意見が聞きたいな」

 唯子はうん、と唸ってから言葉を選びつつ口を開く。

「私は……ただ生きたら良いんじゃない? とか言うと思います。死んだら死んだで、そんなもんだーって割り切れるように覚悟して、ただ生きたら良いんじゃないか、って」

 唯子は天を仰ぐ。

 いずれ自分も死ぬのだと、そんな恐怖に心が休まらないと、あの娘は訴えたけれど。

「……いずれ死ぬときちんと知っているなら、彼女は今を精一杯生きられるんじゃないでしょうか。だから、つまり……彼女の不安は決して間違ってない。少し見方を考えればもっと素敵な生き方が出来る、と……思うんです」

 死んで後に帰る場所は怖いところなどではなく、目前に広がる世界だ。死はそこにある。ただ、ある。綺麗でも醜くもない。それでもこうして時たま命の果てを美しく感じるのは、それだけ命が尊いものだからだろう。

 豊かな緑に囲まれた道をひた走る。市民館を左手に過ぎればやがて小さな住居の集落が見えてくる。二階建ての家々に囲まれて、その平屋はあった。唯子が生まれ育った場所だ。

 家屋の前に広がる花壇には、夏を控えた今、色とりどりの花々が咲き乱れている事だろう。水を張った鉢には孵化したメダカの幼魚が忙しなく泳いでいるに違いない。

「俺も君の意見に賛成かな。理想的な生き方なんて一つじゃないけど、君の言うように……いや、究極なことを言えば過去に縛られず、ただ各々が今を生きる。本当は歴史に学び、より良く生きられるのが最善なんだろうけど、それが出来ないくらい人は高性能に出来てて……逞しいんだ」

 シャグジは自転車を止めた。唯子は飛び降りると、暫くぶりの我が家を見上げた。シャグジが隣に並ぶ。

 雲の流れがとても速い。

 蒼穹に、鳥の影が曲線を描く。耳を澄ませば、命のざわめきに胸が躍った。

「つまり……ただ、今、私が存在している居場所に誠実でありながら、それでも、人生なんてそんなもんだと割り切る強さを持つ。そうやって生きられたら良い……いや、生きられように人は出来ているんですね」

「俺はそう思うよ。この世では明日を夢想する生者の今が至上なんだ」

「そうですね……」

 シャグジの言葉が後押しする。唯子はうん、と唸った。

「口べたなせいでうまく伝えきれるか分からないけど」

 死にたくないと不安になるのは誠実に生きている証拠なのだと伝えられたら良いと唯子は思う。少し見方を変えるだけで、その暗い影はこれから生きる希望となる事を。

 そして、彼女のこれからを一緒に考えてみたいと思うのだ。あるがままに世界を見、あるがままに生きるためにはどうすれば良いのか。明日に想いを馳せ、同時に、最期に目を据えたまま、今を生きる方法を考えてみたいと。都合よく忘れ、ちっぽけで、でも逞しい自分たちにはそれが出来るはずだから。

「何とか、この気持ち、伝えたいと思います」

 人は死ぬために生きるのではなく『生きるために生きている』のだと、今、唯子はハッキリと言える。「ありがとうございました」とお辞儀をした唯子に、シャグジは目を三日月型に細めると頷いた。

「どういたしまして。それじゃあ、次は俺の仕事の番だ」

 彼は自転車の前籠に入れていた唯子のボストンバッグを手渡すと、戸惑う彼女の手を引き彼女の実家の門扉をくぐった。やがて辿り着いた回廊に面したガラス戸を引き開ける。

 ―――……『死』が背中に張り付いているんです。

 突然、女生徒の声が脳裏に響いて、唯子は目をぱちくりさせた。その声が余りに自分のものとそっくりで……いな、同じで心に細波が立つ。シャグジは彼女を安心させるかのように、鉢植えから純白の花を捻り取ると、差し出した。濃厚な香りに唯子は目眩を感じる。

「………これは? ……くちなしの、花?」

「どう生きるかって事は、どう死ぬかって事でもあるんだよ」

 鼻を擽る抹香の香り。

 はっとして最北の間に視線を移せば、唯子の視界に見知らぬ仏壇が飛び込んできた。中央の線香から煙が一筋、棚引いている。

「………そっか。そうだったんだっけ」

 両サイドに添えられた花の間、可愛いキャラクターの写真立てに嵌められた遺影には―――

「さぁ、時間が流れるよ。これで、命の(こり)は解された」

 声に促されるように、唯子は抱きしめていた鞄を見下ろす。恐る恐るチャックを引き開けると、所々黒い染みの滲む、雨に湿った制服がぐしゃりと丸めてあった。

 唯子はやっと、シャグジが二七にもなる自分をちゃん付けで呼ぶ理由を知った。彼の瞳には、唯子は年相応に見えていたのだろう。

 シャグジは労るように唯子の髪に手を置くと、くしゃりとかきまぜた。

「………こんなものですよね」

 口元に少しだけ寂しさを刻んで、唯子は笑った。恐れの、不安の答えはすぐ隣にあった。瞼の裏に横たわる情景……自分はすでにそこに辿り着いていたのだから。鞄を抱き深呼吸すれば、胸につかえていた痼りが氷塊していく……

「……でも、やっぱり、ちょっと残念かな」

 言葉は舌の上で蕩けて、泡となって弾けた。


* * *


 北斗がそっとランプに明かりを灯すと、シャグジがより色濃く落ちた影に浮かび上がった。彼は床に落ちていたハンチング帽と、くちなしの花を白骨の指先で拾いあげると、満足そうに溜息を吐いた。

「あー……美味しかった」

「………結局、何が原因で時が堰き止められていたんだ?」

 向かいに座った北斗の問いに、シャグジは花を弄ぶ手を止めて、顔を上げた。

「唯子ちゃんはね……人よりもちょっとだけ勘が良かったんだよ。で、何となしに死期を悟っちゃってたんだ。でも、そのせいでいざ死んだって時に自覚出来なかったんだな。それでずるずると『ありえない生』を続けてしまっていた」

 生前、自身の死を予知してしまったために怯えていた彼女は、無意識に救いを求め、教師と言う幻を生き始めた。けれど答えを持ち合わせぬまま死んだ彼女は自分を救う事も出来ず不自然に彷徨い、シャグジと言う同じく不自然な存在に引かれた……シャグジは唯子が作り出した夢時間を喰らう代わりに、彼女を本来辿るべき時まで戻したのだった。

「何にせよ、贅沢な食事だったよ。なんせ麗しい十代少女の十年分の夢時間。質も量も文句のつけようがない」

 満足気に剥き出しの歯に指を這わせるシャグジを横目に、北斗は本を開くと筆を走らせた。村上唯子は時の輪に戻り、正常に寿命を終えた。これで死を司る北斗の元に彼女は帰ってきた事になる。後は彼の管轄だ。

 と、その時、クリニックのベルが鳴った。

「お、北斗。お客さんみたいだ」

 シャグジの眼窩に喜色が煌めく。

 ……命は、濃厚な香りを自ら発し、朽ち無く続く。美しく、舌先に触れれば淡雪の如く溶けて消えてしまうほどに儚い。まるで薬物だな、とシャグジは思う。生者の足跡は輝き、それに一度でも魅せられれば逃げ場はない。幻の生ですら、その光の眩さは限りない。

「……さて、次はどんな幻を生きる命かな」

 ハンチング帽を被り直すと、シャグジは期待を胸に、くちなしの花弁を口中に放った。




(了)

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