第1話.いつもの朝
「お父さん、今年はどれくらいまわるの? 去年と同じ?」
ちょうど玄関を出ようとしている恰幅のいい父に、娘が声をかけました。その娘は肩位まである淡い茶色の髪を後ろでお団子にし、栗色を基調にしたブレザーを着ています。
「ん? ミウか。そうだな、去年よりは少ない予定だよ」
父はそう苦笑いして、スーツの上から羽織っている厚手のコートの前を閉め、その隙間に首からさげていた細長い厚手の布を編むように挿し込んでいきます。これで完全密封です。
そして比較的広い玄関のレンガむき出しの壁に取り付けられた鏡に自分を映しながら、荒れて赤みかかった顎を気にし、ネクタイを締め直し、ほぼシルバー一色の少し縮れた髪を手ぐしで直します。
ミウはそんな父を見ながら言いました。
「少ないの? なんで?」
「この国も信じて待っていてくれる人が減ったからな。楽になったと言っていいのか……」
「ちょっと残念。……ね、お父さん! 今年は私も連れてって、ね?」
ミウは少し顔色を伺いながらおねだりしました。
「ははは。トジもミウぐらい乗り気だったらいいんだけどな。ふう。……まだ、あいつは後を継ぐことを渋ってる。後4、5年の間に何とか乗り気にさせないとな」
「いってらっしゃい」
ミウの言葉に父は軽く微笑み、そして玄関の分厚い木製の扉を太い右手一本で押し開け、出掛けて行きました。その扉の隙間からは湿った冷たい風が舞い込みます。プルッと無意識に体が震えてしまいます。既に雪が降ってもおかしくない季節……。
ここは針葉樹の多い地方……一日の日照時間も短く気温も低く、家も疎らにしかありません。
ほとんどの家のすぐ裏は針葉樹の深い森になっています。ほとんどが平家です。針葉樹の赤い木で組んだログハウスのような骨組みに多少砕けたレンガを内と外に積み上げ固めただけの乱雑な作りのものが多く見られます。
そしてどの家にも必ず大きな煙突が一つ以上あります。大きな暖炉が一つ以上必ずあるのです。今の時期、暖炉の火が消えることはありません。暖炉は暖房の為の他に、明かりとしても使われているのです。
電気は、大きな街にしか来ていません。電気の来ていないこの辺は、交通の便もお世辞にもいいものではありません。
ミウは、リビングの暖炉の前で、一度立ち止まり深呼吸。外と中に熱を吸収してから玄関とは逆のほうの扉を抜けます。
「さふっ」
思わず声が出てしまいます。短い廊下に出てすぐの右手の扉を『ギッ』と開けると、狭い部屋の奥に、腕ぐらいの太さの丸太で組まれたベッドがあります。そのベッドの奥の壁際に大きな布団の団子が見えます。
「ほら、お兄ちゃん、おきて。又、バス、乗り遅れるよ」
「ん~ん」
団子から声がします。ミウは腰に手を当てひとため息をつきます。
「ふう。……顔ふいちゃうよ」
「ん~」
「ふっ」
いつものことなのでしょう。ミウはまたかと言ったような面持ちです。
団子の中には兄のトジがいるはずです。その団子の姿はどう見ても起きる気配はありません。トジが少し身動きする毎にきしむそのベッドの音は、まるで起きるのを拒むトジの気持ちを表しているかの様に『イヤイヤ』と聞こえます。
ミウはベッドの傍らに立ち軽く微笑みます。そして次の瞬間スカートも気にせず右足を振り上げました。
「や!」
そして、その団子に白い靴下を履いたかかとをまっすぐに落としました。
「ぐえ」
「よし、今日は成功」
実は昨日はトジの硬いところに落としてしまい、ミウのほうが痛かったのです。そしてそのままトジには爆睡され、二人共に遅刻していたのです。
「痛てぇ。……んー、ミウかぁ。ふぁぁぁ」
分厚い生地で大きめのダボダボのズボンに、ハイネックのセーターの様な上着と言う、全体的に灰色を基調とした私服に着替え、やっと起きてきたトジは、暖炉のある食堂兼リビングでゆっくりと朝御飯を食べています。
「大丈夫なの?」
「大丈夫。俺の学校は制服ねぇんだから」
「もう、早くしてよー」
制服のミウは慌て気味に言います。
「へいへい」
トジはハイスクール三年生、ミウは一年。でも、二人は別々のハイスクールです。ここは田舎。ハイスクールはこの辺にはありません。数少ないバスを使わなくては行けない距離にしかないのです。