森のお犬様
己がどこに立っているかなど、考えずとも分かる。
しかし問題がある。
この場合、分かること自体が問題だった。
◇
草木を掻き分け、小物を仕留めては塒に帰る生活。
父や母の存在などとうの昔に忘れてしまったが、狩りの仕方はしっかりと教え込まれていたらしい。
昨日もそうだ。
いつも通り、腹が減ったので狩りへ出た。
ただ何となく遠くへ行ってはいけない気がしたので、近場で魔兎を捕らえたのだが……
ふと山から吹き下ろす風が変わったのだ。
血の臭いと、嗅いだことのない獣の臭い。
この辺り一帯は己の領土である。
それなりに暮らしている生き物も把握していたつもりなのだが、これは知らない者の臭い。
己の領土を荒らされのでは堪ったものではない。
魔兎を平らげてから、原因を突き止めに行く。
どんなものがいるのか想像も出来ない。先へ進むと、小物たちが集まっている箇所に辿り着いた。
普段群れを成すことのないものたちで群れが出来ていた。
皆一様に不思議な顔をし、小首を傾げてそれを眺めている。
自分が近付こうとも逃げない。
どうしたのだと小物たちを問い詰めては、よく分からない返事ばかり返ってくる。
『気付いたらいた』
『皆集まってるから』
『見たことない』
情報に纏まりなどありはしなかった。
期待もしていなかったが。
血生臭いそれは息をしているようだったが、辛うじて、といったところだ。
弱くなっていく心音が聞こえる。
ふむ、心音があるということは魔物ではないらしいな。
実に興味深い生き物だ。
人間
小物たちの後ろから、そっと様子を見ていた精霊が呟いた。
ニンゲン? 何だそれは。
長く生きているとはいえ、我らの寿命は到底精霊には及ばない。
故に精霊はこの森一番の博識だ。
その彼らが言うに間違いはないだろうが、初めて聞くその響きはなかなか耳に馴染まない。
ふと、ニンゲンが動いた。
小物たちは一斉に駆け出し、木や茂みに身を隠した。
何かが持ち上がる。
訴えるような、呻き声が聞こえる。
手だ
気を付けて
精霊たちは警戒し、少し近付いてきた。
彼らが警戒色を表すときは森が危機に晒されたときのみ。
ということは、このニンゲンが森に害を成す可能性があるということだろう。
どうせ虫の息だ。
殺したとて問題はあるまい。
保っていた距離を少し詰める。
それだけで、ニンゲンが放つ臭いに鼻が馬鹿になりそうだった。
精霊の風の加護を受けていても、それでも臭う。
持ち上がったテとやらはそのままだが、小刻みに震えている。
力が入らないのだろう。
気配を消しつつ、あと一歩で牙が届く位置まできた。
その時だった。
太陽がそこにあるかのような光が射した。
目を閉じても、顔を伏せてもまだ明るい。
一体何だ。
遮ろうとも遮きれない光は直ぐに収まった。
どうやら隠れていた小物たちは、あの光を直接浴びてはいないようで、影から興味深げに顔を覗かせている。
ニンゲンはもう動いてもいないし、心音も聞こえなくなっていた。
テも今は地に着いている。
大丈夫?
精霊が駆け寄ってくる。
駆け寄ってきたとは言うが、彼らは実体もなく浮いているので駆けたかどうかは分からないが。
強い光を浴び、脳の一部が焼かれたのではないかと思うほどの激痛に耐えかねて、俺はその場に倒れた。
あとは、覚えていない。
気付けば川の畔にいたのだが、精霊が運んでくれたのだろうか。
そしてふと気付く。
ここは俺の領土ではないということに。
しかし、何故かこの場所を知っていることに。
頭を振り、残っている痛みを振り払う。
急に、膨大な知識を脳に詰められたような感覚を受けた。
大丈夫?
姿はないが、精霊の声がする。
心配はないと伝え立ち上がると、いつもより視線が高く視界が狭く感じた。
足取りは覚束ないが、喉の渇きを潤すために川を覗き込む。
これはどうしたことだ。
俺の体はこんな色でも、こんな形でもない。
これではまるで、人間──
大丈夫?
再び声が聞こえた。早く気付くべきだった。
精霊の声だけがする。
いつも感じていた小物たちのざわめきも、森の息吹も、川のせせらぎも、何かもが遠いのだ。
実態がないとは言え姿を捉えていたはずの精霊の姿が見えない。
ボクたちは変わらないよ
声はすれども姿は見えず。
何故見えなくなってしまったのかは分からないが、それでも側にいると言ってくれている。
ただその事が、自分では気付かない程度さざ波立っていた心にストンと落ちた。