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猫は月夜に恋をして  作者: 千瑞
1,もしもわたしが
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05

 目の前には半裸の男が座っている。その難しくしかめられた頬には、私の掌と同じ大きさの、同じ形の赤い跡がついているが、それは私が声を上げる代わりに自分の身体にのしかかる大柄の男をたたいたからである。当たり前の防衛策をとったのだ。


「だから、ごめんねって言っているじゃない」

「それが謝る人間の態度か。畜生、いてえ」


 ジャジーラは男だった。否、私の体が人間に戻ったように、男の姿に変わった。どうして私たちがそうなったのか私にはわからないけれど、ジャジーラには思い当たる節があるのかもしれない。

 ジャジーラは素っ裸の私をしばし驚いた表情で見つめた後(あまりにも長い間見つめるので私はジャジーラをひっぱたいて正気に戻してやった)無言で立ち上がると、背を向けて来ていた女性用の服を脱いだ。そしてそれを私に差し出すと、深いため息をつきながら寝台に腰を掛け、痛ぇ、とうめいて私をにらんだ。


「化け猫だったのか。だから人間の言葉が分かったんだな」

「違うわ。私、もともとは人間なんだけど、猫になっちゃったの。今は人間の姿に戻ったみたいだけど、どうしてそうなったのか分からないの」

 それに、自分が見たこともない世界にいるのだと付け加えたが、それについてはジャジーラは納得していないようだった。

「あなたは、男なの?女なの?」

「……俺は男だよ。もともとはな」

「じゃあ、夜だけ本当の姿に戻れるってこと? 私も同じなのかな」

「多分な。……同じ、か」

「あなたはどうして、」

「しっ」


 ジャジーラが自分の唇の前に指を立てた。そして入口のほうに目配せをする。私は気づかなかったけれど、それを合図にカーテンの向こう側から声が聞こえた。


「ジャジーラ殿。マフディー様がお待ちです」


 ジャジーラは答えず、代わりに私を見て、それから顎で入口を指し示す。私は一瞬考えてそれから入口に向かって「しばしお待ちくださいませ!」と叫んだ。カーテンの向こうから是の旨が帰ってきて、気配が少し遠のく。入口のそばで待っているのだろう。ジャジーラが寝台から降りて私のすぐ近くに座った。女になって綺麗だったのが頷ける精悍な顔立ちだ。うらやましい。


「いいか。よく考えてみろ。俺が、この格好で、後宮に行ったら何が起こると思う」

「……何が言いたいの?」

「夜になるとこうなっちまうってわかっていたから、さっさと宿に退散するつもりだったんだ。が、今は楽士たちが人質にとられている。上手く逃げ出してもらうのを祈るばかりだったが、今、別の作戦を俺は思い浮かべている」

「……嫌よ。私まだ高校生だもん。それに私、そういうことってしたことないの」

「大丈夫だ。そういうことは逆に、よく知らないほうが男はうれしいもんだ」

「嫌! 絶対に嫌! あんなおじさんの相手なんて無理!」

「何言ってるんだよ。相手はカリフ様だぞ。お前みたいな女はみんな寵を欲しがるだろう」

「誰があんなオジサンとしたいって思うのよ! ばか!」

「何も最後までして来いっていうんじゃないんだ。俺が楽士たちを逃がすまで時間を稼いでくれさえすればいい。楽士を逃がしたら助けに行くから。な?」

「……でも!」

「それに」


 ふと。ジャジーラが身を引いて、私を頭のてっぺんからつま先まで眺めてから、至極真面目な顔で言葉をつづけた。


「ヴェールの下がそんなガキだって知ったら、マフディー様も萎えるだろ」

「……!!」

 私は迷わず失礼な男の顔面をひっぱたいた。



 そして、結局私は広い天蓋のついた寝台の上に正座をしている。昔見た、江戸時代の大奥の内部のドロドロした人間模様を描いたドラマのワンシーンがこうなっていたから、私もこうするのがよいのかと思ったのだ。私はひらひらの洋服を着せられて、ジャジーラが舞っていた時につけていたようなヴェールをかぶせられた。思えば、ジャジーラのあの衣装はかなりきわどい衣装だったのかもしれない。踊り子が踊ったあとどうするか、なんてそんなものだ。この時代は身分の低い職業だったのだから。


(この時代は、とか)


 私は自分の思考の方向性に苦笑した。こんな不可思議な状況に置かれながらもまだ私は、自分の常識の範囲内でことの経緯を説明しようとしている。つまりこのおかしな世界が「過去」であり、何らかの形で私はあの暗い路地から過去に飛ばされてしまったのだ、と。


(いや、だって、そうとしか考えられない)


 私が生きる世界で中東にこのような文化はない。銃と石油が無い大都市が果たしてアラビア半島やアフリカ大陸にあるのだとしたら、それは私の知識不足かもしれないけれど。


(本当に、助けてくれるんでしょうね)


 今、この世界で、私には身分も生い立ちも何もない。私はもしかしたらとても危険な場所にいるかもしれない、と思った。そして、ジャジーラを信じる根拠も何もない。何もないけれど、今頼れるのはジャジーラしかいないのだ。

 かすかに、衣擦れの音が聞こえた。私は顔を上げる。天蓋が引かれて、薄暗い部屋の中に、存在感が現れる。それは大きな体をした男で、猫から何倍も大きな人間の姿になった今でも、彼の男の大きさは変わらないようだった。

 マフディーは私を静かに見下ろしている。その静けさが不気味だった。私はヴェールの向こう側にうすぼんやりと見える壮年の男を見上げるしかない。男が、私の傍らに坐す。そして私の肩を抱き。ゆっくりと、寝台の上に押し倒した。


(ちょ、て、展開早いよ!)


 一言二言の言葉を交わして、談笑してから入るものだと思っていたけれど、どうやらそういう面倒くさいやり取りは省いていくのが主流らしい。しかし抵抗していいものかわからない。得体のしれないものに対する恐怖だ。体が、うまく動かない。

 ヴェールがゆっくりとはずされる。視界が鮮明になる。マフディーがこちらを見下ろしている。その顔は、謁見の間で傍らに坐していた青年の父親なのであろう、この男にふさわしく、老いてはいたものの精悍だった。


(うーん、悪くない……って、いやいやいや)


 いけない。流されそうになった。


「やはり異国の踊り子であったか。珍しいな」

「はあ、あの」

「黙れ」


 命じられて、怖い、と、そう思った。ジャジーラの乱暴な命令口調とは違う。同じでも威圧感が全く違った。これが、この世界の中心に座している人なのだ。私は射すくめられてすっかり動けなくなった。動かなければこのままこの男の思い通りになってしまうと頭では分かっているのに、どうしても動けなかった。


(ああ、わたしはこのまま)


 どうしてこういう肝心な時に私の体は猫じゃないのだろう。別に、この人と何をしたって死んでしまうわけではないのに、どうしてかわからないけれどとても悲しかった。何か大事なものを取り上げられてしまうような悲しさだ。私は目を閉じた。マフディーが私の体にのしかかってくる。その体重が私の体を押さえつける。


(っ……!)


 嫌だ。でも。でも嫌だ。ぐぐぐ、と体が寝台に沈む。


「い、嫌っ」


 私は思わず声を上げて、のしかかってくる体を渾身の力で押し返した。ジャジーラなんて待っていられるか。


「うぐっ」

「えっ?」


 うめき声が聞こえた。それから、ふ、とのしかかる体重が軽くなった。私はそっと目を開く。目の前にマフディーの顔がある。にらみつけるように私を見ていた。その口が、動く。


「にげ、よ」

「え、」

「早く!」


 マフディーが叫んだ瞬間、その口元から何かがあふれ出した。それは薄暗い部屋の中では黒く見えたが、頬に降りかかるそれが鉄のにおいをしていたので、私がそれが一体何なのかを知るに至る。ひ、と声を上げてマフディーを見上げた。口元からあふれ出る血液をぬぐおうともせず、逃げよ、ともう一度言った。それから、私から視線を外して目を伏せる。マフディーの視線の先に誘導されるように私は目をやった。

 マフディーの腹部から何かが細いものが付きだしている。それが、ずるりと嫌な音を立てて引っ込んだ。その衝撃でマフディーの腕が折れる。私とマフディーの間にあった空洞がなくなったが、マフディーはそれでも私の体を押しつぶさぬよう、うめき声をあげながら体勢を立て直した。


「しぶとい男だ。まだ生きている」


 マフディーの後ろから、冷たい、刃のような声が降ってきた。私はマフディーの体の下からようやく這い出て、何が起きているのかを見極める。


「マフディー様、マフ……うわぁぁぁ!」


 部屋の外から叫び声が聞こえた。にわかに騒がしくなる。私は後ずさり、そして偶然寝台の枕の下の固いものに手が触れる。私はそれがなんであるかすぐに理解した。火事場の馬鹿力がこんな方向に発揮されたらしい。それは細い剣であった。おそらくマフディーが隠していたのだろう。


「あなた、誰!」


 私はそれを抜き放ち、マフディーの後ろに向かって叫ぶ。


「威勢がいい娘だな。殺し甲斐がありそうだ」


 男の声が聞こえた。その声と私との間に立ち上がろうとしたマフディーの体が揺らいだ。振り返ったところを男の刃が一閃した。マフディーがまさに糸の切れた人形のように、床に伏す。そしてしばらく痙攣し、動かなくなった。私はそれを視界の端っこでみとめただけで、視線そのものは前を見つめていた。そうしなければ、ふと視線を逸らしたその瞬間が私が死ぬ瞬間だと本能的に確信した。若い男がこちらを見下ろしている。


「父上はおろかな男だった。もっと早く、私を殺しておけばよかったんだ」

「……この人、貴方のお父さんなの」

「そうだ。だが、もう死んだ」


 冷たい声が返ってくる。会話をしているのに、どこかかみ合っていない。機械と話しているようだ、と思った。背筋が凍る。


「私も、殺すの」

「死にたくないのか。ならば、私を殺すしかない。お前は私が父を殺したことを知っている。無論、お前が父を殺したことになるのだ」

「……そんな」


 私の反論を待たずに男が剣を振り上げた。マフディーの血液が剣から飛び散り、私の頬を濡らす。私は必死に、握った短剣を掲げた。それがガチン、と男の刃を受ける。それは私が覚悟していたよりずっと重く、私をじりじりと寝台に沈めた。


「なかなかいい動きをする。が。残念だ」


 男が笑った。ああ、もうだめだ。私は確信した。それはあきらめに似た確信だった。私が短剣を握った力を抜く、その瞬間。


「っ」


 男が突然私の体の上から跳びのいた。そして何か猛烈な勢いの大きなものが突進してきて、それが男とぶつかって重い金属音を立てた。


「兄上。お久しゅうございます」

「……ハールーンか。ちょうどいい。今から殺しに行くところだったんだ」


 男は何ら感情のこもっていない口調で、台本を読むようにそう言った。部屋に飛び込んできた大きな影がこちらを見る。その顔に見覚えがあった。謁見の間で、マフディーの右側に座っていた青年だ。青年は私に向かってほほ笑むと、剣を持っていないほうの手を自らの懐に持っていくと、何かを取り出してそれを男に向かって投げつけた。


「!」


 男がひるむ。ハールーンと呼ばれた青年が投げたそれは、男の顔を覆うように粉状に広がった。その一瞬のすきをついてハールーンが自らの剣を強く降る。金属がこすれる音がして、男の剣が吹き飛んだ。


「逃げるぞ!」


 ハールーンが私の手を引く。私は引かれるがままに走った。片手はハールーンの掌を、もう片方の手には短剣を握りしめて。後ろから男が追いかけてくるのが分かった。背中を焦がすような威圧感を感じて、私はより必死になった。


「宮殿が包囲されている。クソ、どうして気が付かなかったんだ」


 反乱だ。ハールーンが苦々しげに吐き捨てた。その時。


「こっちだ、ジブリール!」


 声が聞こえた。中庭のほうだ。私がそれにつられてハールーンの腕を引いたので、ハールーンがこちらを見る。それから、私の視線を追って中庭に目をやった。中庭に。私は中庭に目を奪われていた。


(うそ)


 私は、この期に及んでまだこれは私が生きてきた世界と同じ世界なのだと信じたかった。目の前でひとが殺されても、その殺人鬼に追いかけられても、まだこれが私の理解の及ぶ範囲で起こっていることなのだと勝手に思い込んでいた。けれど、どうやらその考えも改めなければならないらしい。


「これは助かった!」


 私の絶望とは裏腹に、ハールーンは希望に満ちた声を上げた。


「さすが世間を騒がせる踊り子だ。気難しいドラゴン使いの寵愛まで受けているとは」


 巨大なトカゲが宙に浮いていた。

 そして、その背中にジャジーラが乗って、私に向かって手を差し出していた。その上に乗れというのか。巨大なトカゲの上に。どうやら私は、この世界の位置づけについての自説を考え直さねばならないようだった。

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