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猫は月夜に恋をして  作者: 千瑞
1,もしもわたしが
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04

 ジャジーラの舞はつつがなく完了した。私はジャジーラに言われたとおりに、時折難しい挑戦もあったけれども、一通りの動きをこなした。踊っているというより動き回っているという気分であったが、それはなれない猫としての動きの良い練習になった。スタンディングオベーションの中退場するジャジーラの首に巻きつくように座した私は、さながら高級な毛皮のマフラーのようにジャジーラの美しさを際立たせたことだろう。間違いない。


「うまくいったな、ジブリール」

 宮殿の廊下から、中庭が見えて、沈む夕日が空を橙色に染めているのが分かった。涼しい風がほおをなでる。ジャジーラのヴェールがさらさらと動いてくすぐったい。

「あんたのおかげだ。ありがとう」

 猫に人間のような自我があるという、信じがたい事実をもうすっかり頭から信じているらしいジャジーラは、私に礼を言った。私が満足げに鳴いてきかせると、ジャジーラは私の頭をなでてくれた。

「もうすぐ日が暮れる。……なあ、ジブリール。お前、もしかして」


「ジャジーラ様!」


 ジャジーラが何か言いかけたところを、後ろから甲高い声がかき消した。それはジャジーラを呼ぶ声であって、夕日を見上げていた私とジャジーラはそろってそちらに顔を向けた。見覚えのある顔だった。まだ幼さの残る顔立ちの少女で、確か楽士団の中にその顔を見た気がした。

 少女はジャジーラの姿に安心するように息をつくと、どうしたの、と尋ねる頭一つ分高いジャジーラの顔を見上げて、困ったように言った。

「その、マフディー様が、ジャジーラ様に今夜は宮殿にとどまるように、と」

「マフディー様が? それは大変ありがたいが、俺はもう宿に話をつけてあるし、遠慮するよ」

「いえ、あの、それが」

 少女がうつむく。もごもごと何か言っているけれど、私の耳にも何も聞こえない。たぶんあの、とか、ええと、とか、言葉を濁しているのだ。しばらくそうしていたあと、少女は決心したように顔を上げた。

「あの……マフディー様は、その、今夜は、ジャジーラ様に、後宮に、……来るように、と」

「……なんだって?」

 こうきゅう。高級。否。後宮だ。私はジャジーラを見て、少女を見て、それからまたジャジーラを見た。ジャジーラは美しい。踊る姿はいっそうに綺麗だった。たぶん、あの壮年の男の傍らに侍っていたどの女性たちよりも美しいだろう。少女はうつむいている。私にはどうすることもできない。

「マフディー様が、わたくしに、ジャジーラ様を説得するようにと申しました。もしできなければ、楽士の皆が」

「……そうか。わかった」

 楽士とジャジーラの部屋を別々にしたのはそういうことだったのか、と私は納得した。おそらく、舞を披露する前はそれは可能性に過ぎなかったのであろう。とどめ置くか否かはまだ決まっていなかった。けれど舞の出来があまりにもよすぎたのだ。それが、マフディーと呼ばれたあの男の目に留まった。

「でも、その、ジャジーラ様は」

「いいんだ。あんたたちを危険な目には合わせねぇよ」

「ジャジーラ様……」

「もうすぐ日が沈む。セシルは急いで戻って了承の旨を伝えてくれ。ただし、楽士たちは今夜中にバスラを出ることを許させろ。急なことになっちまって礼の一つも言えやしないが、しばしの別れだ。楽士団の皆にもよろしく伝えておいてくれ」

「はい! あの、あの、ジャジーラ様!」

「なんだ、セシル」

「私、私、ジャジーラ様のこと、お、お慕いしておりましたっ」

(ええーっ!!)

 急展開に私はなんだか、覗き見しているような気分になった。私を肩に乗せたままのジャジーラが息をのむ気配がしたけれど、どんな顔をしたのかまではわからない。ただジャジーラがちらりと中庭の空に顔を向けたのはわかった。

「ありがとよ。セシル」

 ジャジーラは身をかがめると、私をおろし、ついでにヴェールを私の頭にかぶせた。そしてセシルと呼ばれたまだ幼い顔つき少女の唇に自身のそれを一瞬だけ合わせる。一瞬のことで私は目をそらす隙を与えられなかったので、しっかりとそれを見てしまった。

 少女の顔が途端に燃え上がるように真っ赤になる。それがあまりにも可愛らしくて、見とれる私を抱き上げると、ジャジーラはセシルに背を向けた。それから少し足を速める。その背中を、少女の声が追いかける。

「どうぞ、ご無事で!」

(この人、女ったらしだったの!?)

 傾城の美女ならば少女が憧れるのもわかる。しかしこれはやりすぎではなかろうか。私はにゃあ、と抗議の声を上げた。けれどジャジーラは私の声よりも、中庭の空を気にしているようだった。



 宮殿について最初に通された部屋に戻ると、そこには同じように二人の女性が控えていた。しかし宴の前とは打って変わって、ジャジーラは少しだけ乱暴に、焦っているような口ぶりで二人の侍女を退出させた。彼女たちはどちらも少し不満そうであったけれど、ジャジーラが夜のことを考えて気を急いているのだと解釈したらしい。恭しくお辞儀をして去っていった。

「……さて、困ったことになった」

 ジャジーラは、部屋に用意された天蓋つきのベッドに腰を掛けると、その膝の上に私を座らせた。

「もうすぐ日が沈む。日が沈む前に日当をもらって俺はここから退散する予定だったが、どうやら予定が狂ったらしい。まあ、俺は美しいからな。仕方ない」

 ジャジーラは焦っているようで、私に話しかけるでもなく独り言のようにそう言った。

「俺がカリフ様の要望に応えなきゃ、ここまで世話になった楽士の皆が首を撥ねられちまう。だが、俺は……うっ」


 それは突然のことだった。カーテンが揺れる窓の外から、夜の涼しい風が流れ込み、それがジャジーラと私をさらりとなでた。それを合図にするようにジャジーラがいきなり頭を抱えて眉をしかめた。苦しそうだった。私はどうしていいのかわからずにジャジーラの顔を覗き込んだけれど、ジャジーラは私を払いのけるようにばっと手を払った。

 猫になっていた私の体は、容易にそれを交わしたが、ジャジーラの膝の上にはとどまっていられずに床に飛び降りる。着地をしたときに一瞬だけジャジーラに背を向けた。ガチャン、とサイドテーブルの金の水差しが落ちる音がして、ジャジーラが膝をつく気配がした。

 私は振り返る。

 振り返って、そして。


「!?」


 驚愕した。


 目の前に膝をついていたジャジーラが顔を上げる。否。ジャジーラのはずだったその影が、私を見下ろしていた。

 その人は。

 その人はジャジーラが今までしていたのと同じ格好をしていた。ひらひらと揺れる上質な服と高価な宝石を身につけて、長い髪を腰のあたりで揺らしている。ジャジーラの髪の毛は絹糸みたいにキラキラと光っていて、私はとてもうらやましかった。けれどジャジーラはそこにはいなかった。

「畜生。やっぱり慣れねえな」


 男がいた。


 ジャジーラの格好をした男が、私を見下ろしていた。

「ああ、やっぱりあんたは違うのか。あんたは……」

 男がうめいて、私のほうに手を伸ばす。私は何が何だかわからないまま後ずさろうとしたけれど、猫の体にとってそれがずいぶん難しいことに気付いた。

「キシャー!!!」

 全身の毛が逆立つ。引っ込んでいた前足の爪が伸びる。私はそれで思い切り伸びてきた腕を振り払った。

「うわっ」

 男がうめく。男の腕には3本の赤い線が描いたように美しく走っていた。私はそれを自分がやったことであると理解するのに数秒を要し、そして危機に瀕した自分の潜在的な能力に感心した。男は私をにらみつけると、なおも懲りずに手を伸ばしてくる。私は身をひるがえしたが、子猫の姿の私と、体格の良い若い男では運動能力に差があった。

 男は私に覆いかぶさるように退路を塞ぐと、その腕をもう一度私のほうに伸ばす。そしてついにその腕が私の体に触れた。


 瞬間。


「わっ」

 私は強い眩暈に襲われた。男が声を漏らしたのが聞こえたが、それどころではなかった。地面が回っているような気がする。私は平衡感覚を失って、あおむけに倒れるような形になった。思わず背中の後ろに手を伸ばして、迫りくる地面に受け身の体制をとる。掌が地面をとらえたおかげで、背中が地面にあたる衝撃がだいぶ和らいだ。それでも、衝撃にうめき声をあげる。

「ううっ」


 そこで。


 私は気づいた。


 猫は受け身は取れない。猫は背中をぶつけない。猫はもっと身軽である。よって、考えうる結論は一つだ。私は、その推測が外れていてくれたらいいのにと心から念じながら自分の身体を見下ろした。見下ろして、そして天井を見上げる。天井は見えなかった。代わりに、私にのしかかるような体勢で私を見下ろす女装した男が見えた。

 そして。

「……っ」

「わ、待て!」

 男が寸でのところで私の口を押えた。

 そのおかげで、私は夜の見知らぬ宮殿で不用意に大声を上げずに済んだのだから、感謝すべきだったのかもしれない。私は人間に戻っていた。ただし、もちろん、人間に戻った私は素っ裸だった。

 

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