02
目を覚ました私を待っていたのは、なんと絶世の美女だった。傾城の美女というべきか。目を覚まして、なんとなく朦朧としたまま身じろぎをすると、ふわりと体が持ち上がった。足をバタバタとさせるがどういうわけか地に足がつかない。体にもなんとなくであるが無視しがたい違和感がある。ばたばたと手足を動かす。動いた。よかった。
「こら。暴れるな」
命令された。声のしたほうを見ると、ものすごく美しい顔があった。それはしかしながら、どういうわけか巨大であった。ひ、と息をのむ。美しい顔は私を見るとニコリと笑った。それがまた、写真に収めておきたいほどの可愛らしさで、笑うと少し幼く見えるんだ、と感心した。
「元気になって良かったな、ジブリール」
(ジブリール?)
しばしののち、どうやら彼の人が私に向かってそう言っているようであろうとの考えに至る。私をジブリールと呼んでいるのか。神様に仕える天使の名前だ。しかし私の名前ではない。申し遅れたが私の名前は柏木紗彩という。かしわぎさあや。ジブリールではない。
私、ジブリールじゃないわ、お姉さん。
私はそういった。そう言ったつもりであったのだけれど、私の口から飛び出したのは、そんな論理的な言葉ではなかった。
「にゃああ」
「お、気に入ったのか。ジブリール」
「にゃあ!(違う!)」
絶世の美女はそうかそうか、と笑った。会話がまるで成立していない。当たり前だ。私の口から人間の言葉が出ていないのだから。そして傾国の美女は私を膝の上におろした。そう。膝の上に。私は小さくなってしまったらしい。しかも口からはにゃあ、という音が出るが、それ以外は発することはできない。美女は私の頭をなでる。私は丸くなる。丸くなると、頬に触れる自分の腕がふさふさとしている。我ながら気持ち良い。ではなくて。
(……私)
もしかして。
(私、猫になっちゃったの?)
なんて非現実的で非科学的で、オカルトチックな結論なのか!
冷静な別の私がそう叫んだが、果たして彼の私のほうが冷静で論理的だったかどうかはわからない。現実を見ていたのはこちらの私のほうで、私が猫になってしまって、そして見ず知らずの美女に拾われて、ジブリールという恐れ多い名前を付けられてらしい、という事実をもう信じかけている。
「もう少しで町につく。上手いものを沢山食わせてやるから、辛抱しろ」
そう言って少し乱暴な言葉遣いの美女は私の頭をなで続けた。私はなんだか気持ち良くて眠くなってきて、そして瞳を閉じると、心地よい混濁の中へゆるゆると沈んでいった。
「到着致した」
私が呼ばれたというわけではないけれど、その声に、まどろんでいた私の意識は現実に引き戻された。もっとも、引き戻された先は相変わらず彼の女性の膝の上であって、私にはこれが現実だと確証を持って判断する自信がまだない。
「ありがとう」
美女はそう言うと私を持ち上げて自身も立ち上がった。突然強い光が差し込んで、私は目を細める。どうやら輿のようなものに私たちは乗っていたようで、カーテンのように布で仕切られた入口が外から開けられ、美女が礼を言いながら外に出る。一段下がって地面に降り立つと、忘れていた日の光が私を差した。私はそのまま足元に下される。視界がたちまち低くなって、私は精一杯上を見上げたが、照りつける太陽で立っている人間たちが全員同じ姿に見えた。暑い。たまらずに、声を上げる。にゃあ。やっぱり人間の言葉は出てこなかった。
「私みたいな女に輿まで出してくれるなんて、お優しい陛下」
それは私には嫌味に聞こえたけれど、たぶん彼の女性がとても美しかったからであろう、言葉を向けられた男性は照れたように笑った。それでいいのか。と私はあきれたけれど、おそらく女性もそういう反応しか返ってこないと知ってそれをぶつけたのだろう。
「ここから先は輿を降りて頂くが、よろしいか」
「構わない。案内ご苦労」
美女は優雅に頭を下げると、私を抱き上げて歩き出す。どこに連れて行かれるのだろう。私は不安になった。よもや食卓に並べられるのではないかという不安に不意に襲われたのだ。人間は得体のしれないもの、理解できないもの、正体がわからないものを怖がるのだ。私には、この美女が私を抱き上げてどこかに連れて行こうとする理由がわからなかった。
輿を降りたのはどうやら市街を囲う壁の外側であったようで、石でできた市壁の内側に入ると、そこは活気で満ち溢れていた。私は見たことがないのだけれど、例えばRPGのゲームソフトの砂漠の町と言えば分るかもしれない。商人であろう人々がものの売り買いをする声や、動物の鳴き声。子供の高い声や女性の怒鳴る声。いろいろな音が聞こえる。どれも私にはなじみのないものであったけれど、私を抱き上げる女性はなれたように人と人の間をすり抜けていく。どうやら、前を歩く男性に誘導されているらしい。
賑やかな繁華街を通り抜けると、急に開けた場所に出た。どうやらそこは水に満ちた堀のような囲いと、その内側には市壁に比べるとずいぶん華美で薄い城壁の機能をするであろう壁に囲まれている。鉄のような黒い金属でできた大きな門が開かれ、私たちはその壁の中へと導かれた。門の向こう側には大きな建物がある。左右対称の巨大な建物は白く輝く石で作られているようで、巨大な帽子のような半円のドームが建物のいくつかの塔の上にかぶさっている。中心の一番高い塔の上には三角形の旗がはためいていて、その周りを鳥たちの黒い影がゆったりと旋回しているのが見える。
繁華街は人間の声であふれかえっていたが、この場所はずっと静かで、聞こえるのは訓練された人間が歩くような規則正しい音と、絶え間ない水の流れる音である。砂漠にたたずむとは思えないほどの緑と水にあふれたそこは、どうやら宮殿のようであった。建物の中に入ると涼しく、同じようなひらひらとした衣装をまとった美しい女性たちが、すれ違うたびに優雅なしぐさで会釈を投げてきた。
「こちらが控えの間となる」
「ありがとう」
「楽師の各位には別の部屋を用意した。周辺のことに関しては、部屋の中に侍女が控えているから、申し付けるように。陛下はずいぶんとお待ちかねであるから、用意が出来たら早速謁見の間に来られたい。では」
私たちを誘導してくれた二人の男は機械のように同じ動作で腰を曲げると、ロボットのような足取りで去っていく。
「さて、じゃあ、行きますか」
部屋の入口は厚手の布で間切られていて、美女はそれをふわりと捲った。私の鼻を、とても心地よい香りがかすめる。それは部屋の中で焚かれたお香のようなものであったらしく、彼の女性が私を連れて部屋に入ると、その香りは一層強くなり私はくらくらと眩暈に見舞われた。おそらく猫の嗅覚が人間のそれより優れているからであろう。部屋に入ると私はまた足元にすとん、と下された。
「お待ちしておりました、ジャジーラ様。早速お召替えを」
ジャジーラ。それがこの美女の名前なのか。
「あー、俺…じゃなかった。私、自分のことは自分でできますから、この猫に何かきれいな石でも付けてやってください」
「猫? あら、かわいい猫ちゃん。それに立派な毛並みですこと」
部屋の中で頭を垂れていたのは二人の女性で、その女性たちがこちらを見る。私はたじろいでにゃあ、と鳴いた。それが気に入ったようで、女性たちの顔が花が咲いたように明るくなる。
「新しい踊りにはその猫が必要なんだ。頼みますよ、お嬢さん方」
必要? どういうこと? 私が見上げるとジャジーラと呼ばれたその女性はにこりと笑ってみせた。なんだか含みのある笑みだったけれど、私には人間の言葉が話せないので、それ以上追及することが出来なかった。
ともあれ、ジャジーラが私を食べてしまうつもりではないらしいとわかって私はほっとした。ほっとしたところを侍女たちに抱き上げられて、抵抗する理由もなかったので、なされるがままになることにした。