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猫は月夜に恋をして  作者: 千瑞
1,もしもわたしが
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01

 昔々、そのまた昔、ハールーン・アッラシードという王様がいて、その王様はたいそう賢くて有能な王様であったらしい。というのは、往々にして重要なのはその王様が本当に名君であったかどうかというよりも、名君として人々の心の中に残っているか否か、ということであって、そういう長いスパンでの情報操作というのは以外にも世間の役に立たないと思われがちな歴史学を学ぶ学生さんの将来の最も輝かしい展望であったりする。


 閑話休題。私は今、命の危機に瀕している。


 あの後、頭の中に突如聞こえてきた命題に答えるがごとく私は路地裏に一歩足を踏み出した。そして暗い闇の中に歩みを進めることはそれほど恐ろしいことではなかったけれど、おかしいな、と少しでも感じたら引き返すべきだったことは認める。路地の先は灼熱だった。

 路地の闇のその先がどういう風になっていたかというと、そこには砂漠が広がっていた。私が言っていることはとても信じがたいかもしれないが、とりあえず文字通りの意味に受け取ってほしい。舗装されていたはずの地面は気が付くと砂になっていて、次第に私の足をすくうように砂の大地は深く柔らかくなっていった。路地は思ったよりずっと長かったけれど、どんなものにも終わりがある。終わりに近くなるにつれてだんだんと強くなる光に導かれるように私は路地を抜けた。そして、数歩歩いて振り返る。そこには石の壁があった。

 石の壁は左右に長く続いていてその両端は見えなかった。見上げるとはるか高いところまでそびえて私はまぶしさに目を細めるしかなかった。暑い。焼け付くように暑かった。皮膚が焼けるような気がして私はカバンからカーデガンを取り出して頭の上から羽織った。ローファーの裏から焼けた砂の熱が足の裏を焼く。私は前を見た。どこまで続くともわからない砂と空と太陽の大地が続いている。私は砂漠に立ったことはないけれど、おそらくそれは砂漠だった。

 数歩歩く。そして我に返る。戻ろう。そう思った。私は水も食料も、カバンの中の飴玉以外は何も持っていなかったし、砂漠を歩くための装備もしていなかった。高校の制服と、ローファーとカーデガン。そんな恰好でどこへ行こうというのか、ばからしい。私は歩くのをやめて踵を返した。


 そして絶望した。


 石の壁はどこまでも石の壁であって、そこには一寸の切れ目すらなかった。私が通ってきたはずの闇はどこにもなかったのだ。私はあわてて石の壁を伝ってうろうろと歩いたが、どこにも人が出入りするような穴はおろか、この壁の向こうとこちら側をつなぐであろう門や橋も見えなかった。私は砂漠の真ん中に取り残されたも同じだった。誰が、誰が私をこんなところに連れてきたのか。否。私は歩いてここに来たのだ。けれど、私が住む町に砂漠などなかった。


 つう、とこめかみから汗が流れ落ちるのを感じた。その瞬間に私は強い恐怖をと確かな絶望を知った。それはやがて来るであろう渇きへの直接的な恐怖と、自分が置かれた状況が全く分からないことへのあいまいな、漠然とした恐怖がないまぜになったものだった。

「…どうしよう」

 どうしたらいいのかわからなかったが、ここにただ立っているだけでは、恐怖と絶望に負けてしまうような気がした。

「どうしよう!」

 声を上げたが、答えはない。

 私は歩くことにした。壁に伝って歩けば、何か人間の気配のようなものに出会えるかもしれないと思ったのだ。私は壁に右手をあてた。そしてそのまま一歩を踏み出した。

 焼けるように暑かった。太陽がじりじりと黒いカーデガンを焼いている。ローファーが溶けてしまうのではないかと不安があったけれど、脱げば足が使えなくなることは私にだって容易に予測できた。暑い。暑い。ただそれだけだ。私は歩いた。どれほど歩いただろうか。ついに私は歩けなくなった。きっかけは私の足がもつれて、両膝が砂に沈んだことだった。立ち上がれないことに気が付いて両腕をついた。めまいがして、そのまま身を砂に沈めた。暑かった。焼けてしまうのだろうという確信があったほどに。


 そうして、私は今度は意識の混濁の中を漂った。朦朧とする自分の体が水を求めていることを知っていたけれど、私はその願いをかなえてやれなかった。暗く沈んでいく意識の中、何度か前に進もうとしたけれど、体が動かなかった。


 しばらくして。

「お、なんだこれ。死んでるのか」

「なんだって、こんな砂漠の真ん中に」

「食えるかな」

「食う場所ないだろ」

 そんな会話が聞こえたような気がした。私を食べたらおいしいのだろうか。でももう、丸焼きになっているのかもしれない。そんなことを考えたような気がする。瞼を開く気力もなかったから、私は、食べられてしまうならそれでもいいのかもしれない、と思った。だって暑くて、この苦痛から一秒でも早く解放してほしかったのだ。


「待て」


 それは風鈴の音のごとく涼しげな声だった。

「食うな。連れてく」

「連れてく? こいつをですか? 死骸なんざ運べねーですよ」

「よく見ろよ。生きてるじゃねぇか」

「え?」

(え?)

 私は生きているんだ。涼しげな鈴の音が最後に、とても軽やかな、歌うような口調で不思議なことを言った。


「名前、何にしようかな」

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