「いつもの私じゃ駄目ですか」
泊まりに来た私に、航平が最初に渡したのは、通販の袋だった。
「これ、今日届いた」
袋の口から、白いフリルのついたピンクの布がのぞいていた。
引き出してみると、メイド服だった。先週は看護師風の白い衣装。その前は紺色の制服。
「先にシャワー浴びてきていいよ」
「……お弁当、買ってきたんだけど」
「あとで温めればよくない?」
駅前の店で二十分並んだ。航平が前に、おいしかったと言っていたから。
袋をテーブルに置くと、彼はテレビのリモコンを取った。
私は二十五歳で、彼は二十七歳。付き合って一年四か月になる。
最初に衣装を頼まれたときは、ずいぶん迷った。それでも喜んでもらえるならと思ったし、実際、彼はうれしそうだった。
それで私もうれしかった。
いつから、これを着なければ始まらなくなったんだろう。
メイド服を袋へ戻して、口を折り返す。ピンク色が見えなくなるまで、二度。
「今日は、こういうのなしにしない?」
航平がこちらを向いた。
「なんで?」
「ちょっと疲れてて。着替えたりするの、今日はいいかなって」
「じゃあ別の日でもいいけど」
そこで会話が終わりそうになった。
私は膝に置いた手を握った。
「そうじゃなくて。普通に、くっついたりしたいの」
「普通に?」
「うん。いつもの私じゃ、駄目?」
航平は笑いかけて、やめた。
冗談を待っている顔だった。私が何も言わずにいると、困ったように首の後ろをかいた。
「それはちょっと……」
換気扇が回っていた。
キッチンに洗い物が残っていて、来たとき、あとで片づけようと思ったのを覚えている。
「紗季だって、今まで嫌がってなかったじゃん」
「嫌って言ったら、どうしてた?」
「だから、無理なら別の日でいいって」
別の日に、私が着られるようになるのを待つ。
彼は、それで譲ってくれたつもりなのだ。
「分かった。今日は帰るね」
「え、弁当は?」
「一つ置いてく。私のは持って帰る」
袋入りの割り箸を一膳取ろうとして、二膳とも床に落とした。
航平が拾って差し出した。こういうことはしてくれる。
拾ってくれた手を見て、また少し迷った。
「そんな機嫌悪くなること?」
受け取った箸を、自分の弁当の袋に入れた。
「機嫌が悪いんじゃないよ」
その先は言えなかった。
泣く前に帰りたかった。
◇
別れ話は翌週、駅前の喫茶店でした。
航平の部屋で話す気にはなれなかった。
「あれが原因?」
航平は声を落とした。
私もうなずいた。
「別に紗季が嫌いとか、そういう意味じゃないから」
「うん」
「好みってあるじゃん。それまで否定されたら、俺だって困るよ」
「好きなのはいいと思う。でも私は、毎回は嫌だった」
「言ってくれればよかったのに」
この一週間、何度も思い返した。
今までの返事を。
「先月も言ったよ。今日は着替えないでいたいって」
「あれ、眠いって意味じゃなかったの?」
「その前も。髪、結ぶの痛いからほどきたいって」
「それは、ちょっとぐらい……」
航平が口を閉じた。
私はアイスティーに触れた。氷はもうほとんど溶けていた。
「いつもの私じゃちょっと、って言われたのが、悲しかった」
「だからさ。言い方が悪かったのは謝るって」
「言い直してほしいんじゃないんだよ」
航平はため息をついた。
「分かった。しばらくやめる。それでいい?」
私の返事を待たず、店員を呼ぼうと顔を上げる。
話がまとまったときの癖だった。
「別れたい」
航平の手が止まった。
「そこまでする?」
「する」
自分の口から出た短い返事に、私がいちばん驚いた。
「部屋の荷物、まとめておいてくれる? 来週の土曜、お昼に取りに行く。合鍵もそのとき返す」
彼はしばらく黙って、それから言った。
「また一から付き合う相手探すの、しんどくない?」
探さなくてもいい、と思った。
帰りの電車で、買った弁当が膝の上で冷えていくのを、もう経験しなくて済むなら。
「一人で大丈夫」
伝票を取ると、航平は追ってこなかった。
◇
荷物を引き取った翌日、美容院へ行った。
「結べる長さ、残しますか?」
「残さなくていいです」
肩につかないくらいまで切ってもらった。
鏡の中の首が、頼りなく見えた。
似合うのか分からなくて、帰り道は何度もガラスに映る自分を見た。
火曜日、仕事帰りに商店街の小さな本屋へ寄った。
予約していた旅行の本を受け取るためだった。
「三浦さん、届いてますよ」
レジにいた久保田さんが、奥の棚に手を伸ばした。
二十八歳。店主の息子で、店を継ぐために三年前に戻ってきたと、以前聞いた。
私はその少し後からの客だ。
「ありがとうございます」
「あ、髪切ったんですね」
「はい。切りすぎたかなって、ちょっと」
久保田さんは本にカバーをかけながら、こちらを見た。
「似合ってると思います。洗うの、楽になりました?」
「すごく。乾かすのも、前の半分くらいで」
「それ、うらやましい。自分、短いのに乾かすの面倒で」
「ちゃんと乾かしてください」
つい言うと、久保田さんが笑った。
帰り道、髪を押さえるのをやめた。
旅行の本は、長野のものだった。
航平と行くつもりで予約した。
景色より宿の部屋の写真を長く見ていた彼を、もう思い出したくなかった。
それでも、行ってみたかった喫茶店には、まだ行きたかった。
翌月、一人で出かけた。
特急の指定席でサンドイッチを食べた。宿は駅から近いビジネスホテルにした。二日目は雨で、靴下が濡れた。
喫茶店のチーズケーキは、思っていたよりずっと酸っぱかった。
次は別のものを頼もうと思った。
帰ってから本屋へ寄ると、久保田さんがレジに立っていた。
「行ってきました?」
「行きました。お土産、これ」
店主である久保田さんのお母さんにも渡せるよう、個包装のお菓子を選んでいた。
「うれしい。母さん、こういうの好きなんです」
奥から返事がした。
「あんたがいちばん食べるでしょ」
久保田さんは否定しなかった。
◇
秋に、店の読書会へ初めて参加した。
勧められていたのを、予定が合わないと言って何度も断っていた。土曜の夕方は、航平の部屋へ行くことが多かったからだ。
集まったのは六人で、会の後半は映画や近所の店の話になった。
帰り際、久保田さんのお母さんが私と彼に、空いた皿を差し出した。
「奥に持ってって。私は先に帰るから」
流しで皿を洗っていると、隣で久保田さんが布巾を広げた。
「三浦さん、今日ほとんどしゃべってなかったですね」
「緊張してました」
「自分がしゃべりすぎたかな」
「いえ。映画の話、おもしろかったです」
「本屋の読書会なのにね」
皿を渡しながら笑った。
彼も笑って、拭いた皿を棚へ戻した。
「あの映画、来週までなんですよ。駅前でやってるの」
「そうなんですね」
「もしよかったら、一緒に行きませんか」
水を出したまま、私は彼を見た。
「読書会の皆さんで?」
「二人で、と思ってます」
返事が遅くなると、久保田さんは布巾を畳んだ。
「今、決めなくて大丈夫です。本を買いに来づらくなったら困るし」
「行きたいです」
蛇口を閉めてから、もう一度言った。
「私も見たいです、その映画」
帰り道、日程を決めるために交換した連絡先へ、彼からメッセージが届いた。
上映時間が二つと、私の都合を尋ねる短い文章。
私は翌日の朝に返そうとして、やめた。
駅のベンチに座って、都合のいい時間を送った。返信を待つ間、もう一度、上映時間を見た。
映画の帰り、駅まで歩きながら、私は思い切って言った。
「最後の場面、私はちょっと苦手でした」
「え、あそこがよかったのに」
久保田さんが驚いた顔をして、私も驚いた。
「ごめんなさい」
「いや、謝らなくても。どのへんが?」
「待っていた人が、簡単に許しすぎかなって」
彼は歩く速さを緩めた。
「ああ。自分は帰ってきた側ばっかり見てたかもしれないです」
次に見るなら私の好きな映画も、と言われて、家に着くまで何を勧めようか考えていた。
その後も映画を見たり、本を貸し合ったりした。
貸した小説を返してもらった日には、好きな登場人物の話で一時間近く喫茶店にいた。彼が選んだ人物は、私がいちばん腹を立てた人だった。
それを言うと、久保田さんは吹き出した。
また会いたいと思う理由が、少しずつ増えた。
四度目に二人で出かけた帰り、改札の前で付き合ってほしいと言われた。
私も、と答えると、彼はほっと息を吐いた。
「よかった。今日、いつ言おうかずっと考えてました」
「だから、お昼ほとんど食べなかったんですか」
「……今なら食べられます」
結局、改札には入らず、駅のパン屋へ戻った。
◇
航平から連絡が来たのは、別れて五か月ほど経ったころだった。
『元気?』
通知だけ見て、画面を閉じた。
翌日、もう一通来た。
『この前の店、まだやってるかな。紗季が好きだったパスタのとこ』
あの店で好きだったのは、航平のほうだ。
私は毎回、量が多すぎると言っていた。
『食事に行くつもりはありません』
返すと、すぐ電話が鳴った。出なかった。
長いメッセージが送られてきた。
『俺もいろいろ考えた。あれから付き合った子もいたけど、同じこと頼んだら、自分の希望ばっかりだって振られた。紗季は俺に合わせてくれてたんだって分かった。ちゃんと話したい』
合わせていたことに、気づいてはくれた。
それを読んでも、会いたいとは思わなかった。
『戻るつもりはないです。連絡も、これで終わりにしてください』
送って、連絡をブロックした。
それから二週間後の金曜、会社を出たところに航平がいた。
以前、何度か待ち合わせた場所だった。
「五分だけ」
私は立ち止まった。
後ろから同じ課の先輩が出てきて、私たちを見た。
「三浦さん、大丈夫?」
航平が会釈する。
私は先輩のほうへ一歩戻った。
「すみません。少しだけ、ここにいてもらえますか」
先輩は理由を聞かず、隣に立ってくれた。
航平の顔から笑みが消えた。
「別に、変なことしないよ」
「ここへ来るのはやめて。会わないって伝えたよね」
「連絡できないからだろ」
言い返しかけて、やめた。
私がブロックした理由を、ここで一から説明したくなかった。
「もう着替えろとか言わないから」
先輩がいるせいか、航平は声を落とした。
「普通でもいいよ。紗季が嫌なら、それで」
私は彼を見た。
あの喫茶店で言ってほしかった言葉とは、違っていた。
「普通でもいい、って」
航平が、うん、とせくようにうなずいた。
「まだ、あなたが選ぶ側だと思ってるんだね」
彼は口を開き、そのまま止まった。
「私は、もうあなたとは付き合いたくないの」
「……男できた?」
「いるよ。でも、いなくても戻らない」
久保田さんと付き合い始めたのは、三週間前だ。
けれど、別れを決めたあの日、私に次の相手はいなかった。
「紗季だって、俺に好きって言ってたじゃん」
彼の声が、初めて揺れた。
「言ってたよ」
うそにはしたくなかった。
最初の衣装を着たとき、照れながら彼の前に立った私まで、いなかったことにはしたくなかった。
「好きだったから、嫌でも言えないことがあった。次は喜んでくれるかなって思ってた」
「だったら……」
「今は違う」
先輩が腕時計を見た。
航平もそれに気づいた。
「ごめん。あのとき、本当に。傷つけるつもりじゃなかった」
初めて、言葉を足さない謝罪を聞いた。
私は小さくうなずいた。
「もう来ないでください」
先輩と一緒に駅へ向かった。
背中を呼ぶ声はしなかった。
角を曲がってから、手が震えた。
先輩が温かい缶のお茶を買ってくれた。小銭を出そうとすると、「今度でいい」と言われた。
「すみません、変なことに巻き込んで」
「一人で対応しなくていいよ。次に来たら受付にも伝えよう」
両手で缶を包んだ。
◇
その夜、久保田さんに電話した。
会う約束は翌日だったけれど、声を聞きたかった。
「どうしました?」
電話の向こうで、何かを置く音がした。
事情を話すうちに、喉が詰まった。
「ちゃんと断れたんです。でも、怖くて。今さら」
「うん」
「久保田さんに言うの、嫌かなって思ったんですけど」
「嫌じゃないです。今、家?」
「家です。鍵もかけました」
「分かりました」
彼はそれから、私が途切れ途切れに話すのを聞いていた。
航平の好みの詳細までは言わなかった。頼まれることを断れなくなっていた、とだけ話した。
「私も、最初はいいって言ったから」
言ってから、黙った。
「途中で嫌になったら、言っていいと思います」
久保田さんも少し黙った。
「自分にも、言ってください。気づけないこと、あると思うので」
鼻をすすって、ティッシュを取った。
「……はい」
「明日、会うのはどうします? 休んでも」
「会いたいです」
今度は迷わなかった。
◇
付き合って二か月が経った日、初めて久保田さんの部屋に泊まった。
店から少し離れた、一人暮らしの部屋だった。
洗面所を借りて、持ってきた部屋着に着替える。
買い直そうか迷って、やめたものだ。
紺色の長袖に、柔らかい灰色のズボン。家で何度も洗ったせいで、膝が少し出ている。
鏡の前で裾を引っ張った。
寝るための服なのだから、これでいい。
そう思っても、ドアを開けるのに時間がかかった。
久保田さんはテーブルの前で、湯呑みを二つ並べていた。
「ほうじ茶、飲みます?」
「飲みます」
「熱いので気をつけて」
座ると、彼の視線が足元へ落ちた。
体がこわばった。
「その靴下、猫ですか」
足の甲に、白い猫が一匹ずついた。
「……そうです」
「右のほう、顔が違う」
「何回も洗ってるので」
右足を少し伸ばすと、久保田さんが笑った。
湯呑みから上がる湯気を見ながら、私も笑った。
映画を一本見終えるころには、眠くなっていた。
隣から差し出された手に、自分の手を重ねた。
久保田さんの指が、確かめるように動いた。
「紗季さん」
「はい」
顔が近づいて、私は少しだけ後ろへ引いた。
彼が止まる。
「ごめん、眠い?」
「あの」
手は離したくなかった。
それだけは、自分でもよく分かった。
「今日は、一緒に寝るだけでもいいですか」
「うん」
返事はすぐだった。
彼はテレビを消して、立ち上がった。
「自分、歯磨いてきますね。先、寝ててください」
洗面所のドアが閉まった。
水の音がした。
私は畳んであった毛布を広げた。
怒っていないだろうか。がっかりさせたんじゃないだろうか。
考えてしまう自分に、少し腹が立った。
戻ってきた彼に、聞いた。
「残念じゃないですか」
久保田さんは、ベッドに片膝をついたまま止まった。
それから、困ったように笑った。
「そりゃ、まあ……」
言いかけて、彼は私の顔を見た。
「それ聞いて、無理しようとしてません?」
「少し」
「じゃあ、寝ましょう。自分も、そういうつもりで答えたんじゃないので」
隣へ入って、毛布の端を引っ張る。
「あと、明日店開けるの、自分なので。七時に目覚まし鳴ります」
「早い」
「すみません」
笑うと、ようやく肩から力が抜けた。
彼の袖をつまんだ。
「手、つないでてもいいですか」
毛布の中で、手を握ってくれた。
◇
翌朝、目覚ましは本当に七時に鳴った。
久保田さんは一度止めてから、五分だけ、と言って目を閉じた。
「お店」
「……はい」
起き上がった髪が、片側だけ見事にはねていた。
教えてあげると、手で押さえながら洗面所へ向かった。
顔を洗って戻ってきた久保田さんが、台所から振り向いた。
「朝ごはん、一緒に作ります?」
「はい。何があります?」
「パンと卵。あと、コーヒー」
「じゃあ、卵焼きます。半熟でもいいですか」
「好きです。自分、パン焼きますね」
フライパンを出してもらって、卵を落とす。
一つ、黄身が崩れた。
崩れたほうを自分の皿に載せようとしたら、隣から久保田さんがトーストを差し出した。
「こっちにお願いします」
「卵、パンにのせるんですか」
「のせます。朝は洗い物、増やしたくなくて」
流れた黄身をパンですくって、彼は熱そうに口を開けた。
私は無事だったほうの目玉焼きに、醤油を垂らした。
「今日、店に来ます?」
「いったん帰ってから。午後に」
「じゃあ、例の本、取り置きしておきます」
彼はコーヒーを飲んで、壁の時計を見た。
食器を洗うくらいの時間は、まだありそうだった。
「夜、何食べたいですか」
聞かれて、少し考えた。
「お弁当でもいいですか。駅前に、好きなお店があるんです」
「いいですね。帰りに一緒に寄りましょう」
私は食べ終わった皿を重ねた。
帰る前には着替えるけれど、もう少しこのままでいたかった。
「コーヒー、まだあります?」
「あります。自分にも少し残しておいてください」
ポットを持ち上げて、自分のカップに注いだ。
彼が空のカップをこちらへ寄せてきたので、そちらにも半分ほど注いだ。
~完~
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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