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「いつもの私じゃ駄目ですか」

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/22

 泊まりに来た私に、航平が最初に渡したのは、通販の袋だった。


「これ、今日届いた」


 袋の口から、白いフリルのついたピンクの布がのぞいていた。

 引き出してみると、メイド服だった。先週は看護師風の白い衣装。その前は紺色の制服。


「先にシャワー浴びてきていいよ」

「……お弁当、買ってきたんだけど」

「あとで温めればよくない?」


 駅前の店で二十分並んだ。航平が前に、おいしかったと言っていたから。

 袋をテーブルに置くと、彼はテレビのリモコンを取った。


 私は二十五歳で、彼は二十七歳。付き合って一年四か月になる。

 最初に衣装を頼まれたときは、ずいぶん迷った。それでも喜んでもらえるならと思ったし、実際、彼はうれしそうだった。

 それで私もうれしかった。


 いつから、これを着なければ始まらなくなったんだろう。


 メイド服を袋へ戻して、口を折り返す。ピンク色が見えなくなるまで、二度。


「今日は、こういうのなしにしない?」


 航平がこちらを向いた。


「なんで?」

「ちょっと疲れてて。着替えたりするの、今日はいいかなって」

「じゃあ別の日でもいいけど」


 そこで会話が終わりそうになった。

 私は膝に置いた手を握った。


「そうじゃなくて。普通に、くっついたりしたいの」

「普通に?」

「うん。いつもの私じゃ、駄目?」


 航平は笑いかけて、やめた。

 冗談を待っている顔だった。私が何も言わずにいると、困ったように首の後ろをかいた。


「それはちょっと……」


 換気扇が回っていた。

 キッチンに洗い物が残っていて、来たとき、あとで片づけようと思ったのを覚えている。


「紗季だって、今まで嫌がってなかったじゃん」

「嫌って言ったら、どうしてた?」

「だから、無理なら別の日でいいって」


 別の日に、私が着られるようになるのを待つ。

 彼は、それで譲ってくれたつもりなのだ。


「分かった。今日は帰るね」

「え、弁当は?」

「一つ置いてく。私のは持って帰る」


 袋入りの割り箸を一膳取ろうとして、二膳とも床に落とした。

 航平が拾って差し出した。こういうことはしてくれる。

 拾ってくれた手を見て、また少し迷った。


「そんな機嫌悪くなること?」


 受け取った箸を、自分の弁当の袋に入れた。


「機嫌が悪いんじゃないよ」


 その先は言えなかった。

 泣く前に帰りたかった。


     ◇


 別れ話は翌週、駅前の喫茶店でした。

 航平の部屋で話す気にはなれなかった。


「あれが原因?」


 航平は声を落とした。

 私もうなずいた。


「別に紗季が嫌いとか、そういう意味じゃないから」

「うん」

「好みってあるじゃん。それまで否定されたら、俺だって困るよ」

「好きなのはいいと思う。でも私は、毎回は嫌だった」

「言ってくれればよかったのに」


 この一週間、何度も思い返した。

 今までの返事を。


「先月も言ったよ。今日は着替えないでいたいって」

「あれ、眠いって意味じゃなかったの?」

「その前も。髪、結ぶの痛いからほどきたいって」

「それは、ちょっとぐらい……」


 航平が口を閉じた。


 私はアイスティーに触れた。氷はもうほとんど溶けていた。


「いつもの私じゃちょっと、って言われたのが、悲しかった」

「だからさ。言い方が悪かったのは謝るって」

「言い直してほしいんじゃないんだよ」


 航平はため息をついた。


「分かった。しばらくやめる。それでいい?」


 私の返事を待たず、店員を呼ぼうと顔を上げる。

 話がまとまったときの癖だった。


「別れたい」


 航平の手が止まった。


「そこまでする?」

「する」


 自分の口から出た短い返事に、私がいちばん驚いた。


「部屋の荷物、まとめておいてくれる? 来週の土曜、お昼に取りに行く。合鍵もそのとき返す」


 彼はしばらく黙って、それから言った。


「また一から付き合う相手探すの、しんどくない?」


 探さなくてもいい、と思った。

 帰りの電車で、買った弁当が膝の上で冷えていくのを、もう経験しなくて済むなら。


「一人で大丈夫」


 伝票を取ると、航平は追ってこなかった。


     ◇


 荷物を引き取った翌日、美容院へ行った。


「結べる長さ、残しますか?」

「残さなくていいです」


 肩につかないくらいまで切ってもらった。

 鏡の中の首が、頼りなく見えた。

 似合うのか分からなくて、帰り道は何度もガラスに映る自分を見た。


 火曜日、仕事帰りに商店街の小さな本屋へ寄った。

 予約していた旅行の本を受け取るためだった。


「三浦さん、届いてますよ」


 レジにいた久保田さんが、奥の棚に手を伸ばした。

 二十八歳。店主の息子で、店を継ぐために三年前に戻ってきたと、以前聞いた。

 私はその少し後からの客だ。


「ありがとうございます」

「あ、髪切ったんですね」

「はい。切りすぎたかなって、ちょっと」


 久保田さんは本にカバーをかけながら、こちらを見た。


「似合ってると思います。洗うの、楽になりました?」

「すごく。乾かすのも、前の半分くらいで」

「それ、うらやましい。自分、短いのに乾かすの面倒で」

「ちゃんと乾かしてください」


 つい言うと、久保田さんが笑った。

 帰り道、髪を押さえるのをやめた。


 旅行の本は、長野のものだった。

 航平と行くつもりで予約した。

 景色より宿の部屋の写真を長く見ていた彼を、もう思い出したくなかった。


 それでも、行ってみたかった喫茶店には、まだ行きたかった。


 翌月、一人で出かけた。

 特急の指定席でサンドイッチを食べた。宿は駅から近いビジネスホテルにした。二日目は雨で、靴下が濡れた。

 喫茶店のチーズケーキは、思っていたよりずっと酸っぱかった。

 次は別のものを頼もうと思った。


 帰ってから本屋へ寄ると、久保田さんがレジに立っていた。


「行ってきました?」

「行きました。お土産、これ」


 店主である久保田さんのお母さんにも渡せるよう、個包装のお菓子を選んでいた。


「うれしい。母さん、こういうの好きなんです」


 奥から返事がした。


「あんたがいちばん食べるでしょ」


 久保田さんは否定しなかった。


     ◇


 秋に、店の読書会へ初めて参加した。

 勧められていたのを、予定が合わないと言って何度も断っていた。土曜の夕方は、航平の部屋へ行くことが多かったからだ。


 集まったのは六人で、会の後半は映画や近所の店の話になった。

 帰り際、久保田さんのお母さんが私と彼に、空いた皿を差し出した。


「奥に持ってって。私は先に帰るから」


 流しで皿を洗っていると、隣で久保田さんが布巾を広げた。


「三浦さん、今日ほとんどしゃべってなかったですね」

「緊張してました」

「自分がしゃべりすぎたかな」

「いえ。映画の話、おもしろかったです」

「本屋の読書会なのにね」


 皿を渡しながら笑った。

 彼も笑って、拭いた皿を棚へ戻した。


「あの映画、来週までなんですよ。駅前でやってるの」

「そうなんですね」

「もしよかったら、一緒に行きませんか」


 水を出したまま、私は彼を見た。


「読書会の皆さんで?」

「二人で、と思ってます」


 返事が遅くなると、久保田さんは布巾を畳んだ。


「今、決めなくて大丈夫です。本を買いに来づらくなったら困るし」

「行きたいです」


 蛇口を閉めてから、もう一度言った。


「私も見たいです、その映画」


 帰り道、日程を決めるために交換した連絡先へ、彼からメッセージが届いた。

 上映時間が二つと、私の都合を尋ねる短い文章。

 私は翌日の朝に返そうとして、やめた。

 駅のベンチに座って、都合のいい時間を送った。返信を待つ間、もう一度、上映時間を見た。


 映画の帰り、駅まで歩きながら、私は思い切って言った。


「最後の場面、私はちょっと苦手でした」

「え、あそこがよかったのに」


 久保田さんが驚いた顔をして、私も驚いた。


「ごめんなさい」

「いや、謝らなくても。どのへんが?」

「待っていた人が、簡単に許しすぎかなって」


 彼は歩く速さを緩めた。


「ああ。自分は帰ってきた側ばっかり見てたかもしれないです」


 次に見るなら私の好きな映画も、と言われて、家に着くまで何を勧めようか考えていた。


 その後も映画を見たり、本を貸し合ったりした。

 貸した小説を返してもらった日には、好きな登場人物の話で一時間近く喫茶店にいた。彼が選んだ人物は、私がいちばん腹を立てた人だった。

 それを言うと、久保田さんは吹き出した。


 また会いたいと思う理由が、少しずつ増えた。


 四度目に二人で出かけた帰り、改札の前で付き合ってほしいと言われた。

 私も、と答えると、彼はほっと息を吐いた。


「よかった。今日、いつ言おうかずっと考えてました」

「だから、お昼ほとんど食べなかったんですか」

「……今なら食べられます」


 結局、改札には入らず、駅のパン屋へ戻った。


     ◇


 航平から連絡が来たのは、別れて五か月ほど経ったころだった。


『元気?』


 通知だけ見て、画面を閉じた。

 翌日、もう一通来た。


『この前の店、まだやってるかな。紗季が好きだったパスタのとこ』


 あの店で好きだったのは、航平のほうだ。

 私は毎回、量が多すぎると言っていた。


『食事に行くつもりはありません』


 返すと、すぐ電話が鳴った。出なかった。

 長いメッセージが送られてきた。


『俺もいろいろ考えた。あれから付き合った子もいたけど、同じこと頼んだら、自分の希望ばっかりだって振られた。紗季は俺に合わせてくれてたんだって分かった。ちゃんと話したい』


 合わせていたことに、気づいてはくれた。

 それを読んでも、会いたいとは思わなかった。


『戻るつもりはないです。連絡も、これで終わりにしてください』


 送って、連絡をブロックした。


 それから二週間後の金曜、会社を出たところに航平がいた。

 以前、何度か待ち合わせた場所だった。


「五分だけ」


 私は立ち止まった。

 後ろから同じ課の先輩が出てきて、私たちを見た。


「三浦さん、大丈夫?」


 航平が会釈する。

 私は先輩のほうへ一歩戻った。


「すみません。少しだけ、ここにいてもらえますか」


 先輩は理由を聞かず、隣に立ってくれた。

 航平の顔から笑みが消えた。


「別に、変なことしないよ」

「ここへ来るのはやめて。会わないって伝えたよね」

「連絡できないからだろ」


 言い返しかけて、やめた。

 私がブロックした理由を、ここで一から説明したくなかった。


「もう着替えろとか言わないから」


 先輩がいるせいか、航平は声を落とした。


「普通でもいいよ。紗季が嫌なら、それで」


 私は彼を見た。

 あの喫茶店で言ってほしかった言葉とは、違っていた。


「普通でもいい、って」


 航平が、うん、とせくようにうなずいた。


「まだ、あなたが選ぶ側だと思ってるんだね」


 彼は口を開き、そのまま止まった。


「私は、もうあなたとは付き合いたくないの」

「……男できた?」

「いるよ。でも、いなくても戻らない」


 久保田さんと付き合い始めたのは、三週間前だ。

 けれど、別れを決めたあの日、私に次の相手はいなかった。


「紗季だって、俺に好きって言ってたじゃん」


 彼の声が、初めて揺れた。


「言ってたよ」


 うそにはしたくなかった。

 最初の衣装を着たとき、照れながら彼の前に立った私まで、いなかったことにはしたくなかった。


「好きだったから、嫌でも言えないことがあった。次は喜んでくれるかなって思ってた」

「だったら……」

「今は違う」


 先輩が腕時計を見た。

 航平もそれに気づいた。


「ごめん。あのとき、本当に。傷つけるつもりじゃなかった」


 初めて、言葉を足さない謝罪を聞いた。

 私は小さくうなずいた。


「もう来ないでください」


 先輩と一緒に駅へ向かった。

 背中を呼ぶ声はしなかった。


 角を曲がってから、手が震えた。

 先輩が温かい缶のお茶を買ってくれた。小銭を出そうとすると、「今度でいい」と言われた。


「すみません、変なことに巻き込んで」

「一人で対応しなくていいよ。次に来たら受付にも伝えよう」


 両手で缶を包んだ。


     ◇


 その夜、久保田さんに電話した。

 会う約束は翌日だったけれど、声を聞きたかった。


「どうしました?」


 電話の向こうで、何かを置く音がした。

 事情を話すうちに、喉が詰まった。


「ちゃんと断れたんです。でも、怖くて。今さら」

「うん」

「久保田さんに言うの、嫌かなって思ったんですけど」

「嫌じゃないです。今、家?」

「家です。鍵もかけました」

「分かりました」


 彼はそれから、私が途切れ途切れに話すのを聞いていた。

 航平の好みの詳細までは言わなかった。頼まれることを断れなくなっていた、とだけ話した。


「私も、最初はいいって言ったから」


 言ってから、黙った。


「途中で嫌になったら、言っていいと思います」


 久保田さんも少し黙った。


「自分にも、言ってください。気づけないこと、あると思うので」


 鼻をすすって、ティッシュを取った。


「……はい」

「明日、会うのはどうします? 休んでも」

「会いたいです」


 今度は迷わなかった。


     ◇


 付き合って二か月が経った日、初めて久保田さんの部屋に泊まった。

 店から少し離れた、一人暮らしの部屋だった。


 洗面所を借りて、持ってきた部屋着に着替える。

 買い直そうか迷って、やめたものだ。

 紺色の長袖に、柔らかい灰色のズボン。家で何度も洗ったせいで、膝が少し出ている。


 鏡の前で裾を引っ張った。

 寝るための服なのだから、これでいい。

 そう思っても、ドアを開けるのに時間がかかった。


 久保田さんはテーブルの前で、湯呑みを二つ並べていた。


「ほうじ茶、飲みます?」

「飲みます」

「熱いので気をつけて」


 座ると、彼の視線が足元へ落ちた。

 体がこわばった。


「その靴下、猫ですか」


 足の甲に、白い猫が一匹ずついた。


「……そうです」

「右のほう、顔が違う」

「何回も洗ってるので」


 右足を少し伸ばすと、久保田さんが笑った。

 湯呑みから上がる湯気を見ながら、私も笑った。


 映画を一本見終えるころには、眠くなっていた。

 隣から差し出された手に、自分の手を重ねた。

 久保田さんの指が、確かめるように動いた。


「紗季さん」

「はい」


 顔が近づいて、私は少しだけ後ろへ引いた。

 彼が止まる。


「ごめん、眠い?」

「あの」


 手は離したくなかった。

 それだけは、自分でもよく分かった。


「今日は、一緒に寝るだけでもいいですか」

「うん」


 返事はすぐだった。

 彼はテレビを消して、立ち上がった。


「自分、歯磨いてきますね。先、寝ててください」


 洗面所のドアが閉まった。

 水の音がした。


 私は畳んであった毛布を広げた。

 怒っていないだろうか。がっかりさせたんじゃないだろうか。

 考えてしまう自分に、少し腹が立った。


 戻ってきた彼に、聞いた。


「残念じゃないですか」


 久保田さんは、ベッドに片膝をついたまま止まった。

 それから、困ったように笑った。


「そりゃ、まあ……」


 言いかけて、彼は私の顔を見た。


「それ聞いて、無理しようとしてません?」

「少し」

「じゃあ、寝ましょう。自分も、そういうつもりで答えたんじゃないので」


 隣へ入って、毛布の端を引っ張る。


「あと、明日店開けるの、自分なので。七時に目覚まし鳴ります」

「早い」

「すみません」


 笑うと、ようやく肩から力が抜けた。

 彼の袖をつまんだ。


「手、つないでてもいいですか」


 毛布の中で、手を握ってくれた。


     ◇


 翌朝、目覚ましは本当に七時に鳴った。

 久保田さんは一度止めてから、五分だけ、と言って目を閉じた。


「お店」

「……はい」


 起き上がった髪が、片側だけ見事にはねていた。

 教えてあげると、手で押さえながら洗面所へ向かった。


 顔を洗って戻ってきた久保田さんが、台所から振り向いた。


「朝ごはん、一緒に作ります?」

「はい。何があります?」

「パンと卵。あと、コーヒー」

「じゃあ、卵焼きます。半熟でもいいですか」

「好きです。自分、パン焼きますね」


 フライパンを出してもらって、卵を落とす。

 一つ、黄身が崩れた。

 崩れたほうを自分の皿に載せようとしたら、隣から久保田さんがトーストを差し出した。


「こっちにお願いします」

「卵、パンにのせるんですか」

「のせます。朝は洗い物、増やしたくなくて」


 流れた黄身をパンですくって、彼は熱そうに口を開けた。

 私は無事だったほうの目玉焼きに、醤油を垂らした。


「今日、店に来ます?」

「いったん帰ってから。午後に」

「じゃあ、例の本、取り置きしておきます」


 彼はコーヒーを飲んで、壁の時計を見た。

 食器を洗うくらいの時間は、まだありそうだった。


「夜、何食べたいですか」


 聞かれて、少し考えた。


「お弁当でもいいですか。駅前に、好きなお店があるんです」

「いいですね。帰りに一緒に寄りましょう」


 私は食べ終わった皿を重ねた。

 帰る前には着替えるけれど、もう少しこのままでいたかった。


「コーヒー、まだあります?」

「あります。自分にも少し残しておいてください」


 ポットを持ち上げて、自分のカップに注いだ。

 彼が空のカップをこちらへ寄せてきたので、そちらにも半分ほど注いだ。


~完~


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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