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華族令嬢・美禰子は、政略結婚から逃げたい 〜大正帝都で三人の男に溺愛されました〜

掲載日:2026/02/01

第一章 春宵の断罪


 帝都に春の宵が訪れる頃、華族会館の大広間は、淡い灯りと花の香りに満ちていた。


 天井から吊るされた硝子のシャンデリアは、無数の光を反射し、磨き上げられた床にきらめきを落としている。絹のドレスに身を包んだ令嬢たちと、正装の紳士たちが、音楽に合わせて優雅に輪を描いていた。


 その中心に立つのが、私――美禰子である。


 今年十八歳。華族女学校を卒業する年を迎え、社交界でも一人前として扱われるようになった。


 今夜は、春の舞踏会。


 そして、政夫様との婚約を正式に披露する、大切な場でもあった。


「……素敵ね、美禰子」


 隣で微笑むのは、幼なじみであり親友の綾子だ。


「ありがとう。でも、少し緊張してしまって」


「当然よ。今日の主役なんだから」


 冗談めかして言う綾子に、私は小さく笑った。


 視線の先には、濃紺の礼服に身を包んだ政夫様の姿がある。背筋を伸ばし、誰に対しても堂々と応対するその姿は、将来を嘱望された官僚候補そのものだった。


 ――この人と生きていくのだ。


 そう思ってきた。


 恋というより、信頼に近い感情だったけれど、それで十分だと、私は信じていた。


 やがて楽団の演奏が終わり、会場が静まり返る。


 司会役の紳士が、一歩前へ出た。


「皆様、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。本日は――」


 形式的な挨拶が続く。


 そして。


「本日は、鷹宮政夫様と、鷹宮美禰子様のご婚約を、ここに――」


 その言葉を遮るように。


「待ってください」


 低く、張り詰めた声が響いた。


 ざわ、と空気が揺れる。


 視線の先に立っていたのは、政夫様だった。


「……政夫様?」


 胸が、嫌な音を立てた。


 政夫様は私を見据え、ゆっくりと口を開く。


「美禰子。君との婚約は、ここで解消する」


 一瞬、意味が理解できなかった。


「……え?」


「君は、佳奈を陰湿に貶めてきた。裏で噂を流し、孤立させ、精神的に追い詰めた。その証拠も、すでに揃っている」


 どくん、と心臓が跳ねた。


「そんな……私は……」


 知らない。


 何のことか、まったく分からない。


「とぼけないでくれ。君は、僕が佳奈を気にかけていることを妬んでいたんだろう?」


 政夫様の隣に、白いドレスの少女が現れる。


 佳奈だった。


 伏し目がちに立ち、今にも泣き出しそうな表情をしている。


「……政夫様、もう……」


「大丈夫だ、佳奈。僕が守る」


 その光景に、会場がざわめく。


 私は、声を絞り出した。


「政夫様……私は、佳奈さんと、ほとんどお話ししたことすらありません」


「嘘だ。君は陰で彼女を嘲笑い、使用人にまで悪評を流していた」


「そんなこと……」


 していない。


 一度も。


 なのに、誰も私の言葉を聞こうとしない。


 周囲から、ひそひそと囁きが漏れ始める。


「……やっぱり表と裏があるのね」


「怖いわ……」


 胸が締めつけられる。


 逃げ出したい。


 でも、逃げられない。


 ここは、私の居場所だったはずなのに。


「このような卑劣な行為を働いた以上、鷹宮家の名誉は守れない」


 政夫様は冷たく言い放つ。


「婚約は破棄する。そして――君は、社交界から身を引くべきだ」


 頭の中が、真っ白になった。


 社交界からの追放。


 それは、華族令嬢にとって、社会的な死を意味する。


 その時。


 客席の奥で、ひとりの青年が静かに立ち上がった。


 端正な顔立ち。


 落ち着いた眼差し。


 灰色の瞳が、こちらを見つめている。


 ――光弥様。


 伯爵家の嫡男。


 海外帰りの異端児。


 社交界では、距離を置く存在として知られている人物だった。


 彼は、ゆっくりと口を開いた。


「……興味深い話だな」


 その低い声が、会場に響く。


 ざわめきが、さらに広がる。


 光弥様は、政夫様をまっすぐに見据えた。


「だが、証拠とは、具体的に何を指す?」


 私は、初めて気づく。


 ――この夜は、まだ終わっていないのだと。




第二章 噂という刃


 舞踏会の翌朝、帝都はまだ春の霞に包まれていた。


 けれど、私の胸の内は、昨夜の出来事を映すかのように、重く濁っていた。


 ――婚約破棄。


 ――いじめの濡れ衣。


 ――社交界からの排除。


 思い出すたび、心臓が締めつけられる。


 馬車の窓から流れる街並みを眺めながら、私は小さく息を吐いた。


 あれから、舞踏会は途中でお開きとなり、私は両親に付き添われて、静かに帰宅した。


 誰も、私を責めはしなかった。


 けれど、それがかえって辛かった。


「……美禰子、大丈夫?」


 向かいに座る母が、そっと声をかけてくる。


「はい……少し、疲れただけです」


 そう答えながら、私は微笑んだ。


 本当は、何も大丈夫ではない。


 でも、泣くわけにはいかなかった。


 家に戻ると、すでに応接間には来客がいた。


 新聞社の記者。


 それも、複数。


 父は渋い顔で応対している。


「昨夜の件について、取材を……」


「公式な発表は、後日まとめて行う」


 父の低い声が響く。


 私は階段の陰から、その様子を見ていた。


 胸の奥が、ひやりと冷える。


 ――もう、記事になる。


 噂は、噂のままでは終わらない。


 文字になった瞬間、それは「事実」に変わる。


 その予感は、的中した。


 翌朝。


 女中が震える手で新聞を差し出してきた。


「……お嬢様……」


 私は無言で受け取り、紙面を開く。


 大きな見出しが、目に飛び込んできた。


『華族令嬢、陰湿な嫌がらせ』


『婚約破棄の真相』


『純真な少女を苦しめた裏の顔』


 視界が、歪んだ。


 そこには、私が佳奈を貶めた「証言」や、「関係者の話」が、事実のように並んでいる。


 ――全部、嘘なのに。


「……こんなの……」


 指先が、震えた。


 記事は瞬く間に広まり、帝都中を駆け巡った。


 女学校に登校すると、空気が一変しているのが分かった。


 廊下を歩くだけで、視線が突き刺さる。


「……あの人よ」


「怖いわね……」


 ひそひそ声が、背中に絡みつく。


 教室に入ると、いつも隣に座っていた友人たちが、そっと距離を取った。


 机の周りに、ぽつんと空間ができる。


 まるで、見えない壁が張られたかのようだった。


 綾子だけが、迷いなく近づいてきた。


「美禰子」


 彼女は、私の手をぎゅっと握る。


「信じてる。あんな記事、全部嘘よ」


「……ありがとう」


 その言葉だけで、涙がこぼれそうになる。


 けれど、私は堪えた。


 昼休み。


 中庭の片隅で、ゆりやが駆け寄ってきた。


「先輩……!」


 小さな肩を震わせながら、彼女は言う。


「私、信じてます。先輩がそんなことする人じゃないって……」


「……ゆりや」


 私は、そっと彼女の頭を撫でた。


「ありがとう。嬉しいわ」


 少しだけ、心が温かくなる。


 だが、それ以上に冷たい現実が、押し寄せていた。


 放課後、校門の前で待っていたのは、政夫様だった。


 以前と変わらぬ姿。


 けれど、その瞳には、かつての優しさはない。


「……話がある」


「今さら、何を……」


 私は立ち止まらなかった。


 それでも、彼は歩調を合わせてくる。


「君は、事態を軽く考えている」


「いいえ。重く受け止めています」


 立ち止まり、振り返る。


「だからこそ、納得できないんです」


 政夫様は眉をひそめた。


「佳奈は、今も苦しんでいる」


「それは……私のせいですか?」


「……結果的には」


 その言葉が、胸に突き刺さる。


「君は謝罪すべきだ」


「していないことを、謝れと?」


 初めて、強い声が出た。


 政夫様は、わずかにたじろぐ。


「……もういい」


 吐き捨てるように言い、彼は背を向けた。


 私は、その背中を見つめながら、思った。


 ――この人は、もう私を見ていない。


 夜。


 自室の窓辺で、私は街の灯を眺めていた。


 噂は刃物のようだ。


 見えないのに、確実に人を傷つける。


「……負けない」


 小さく、呟く。


 どれほど切り刻まれても。


 私は、真実を失わない。


 その時だった。


 庭の門の外に、一台の馬車が止まる。


 月明かりの下で、ひとりの青年が降り立った。


 ――光弥様。


 彼は、屋敷を見上げ、静かに微笑んだ。


 まるで、嵐の前触れのように。


 私の運命が、再び動き出そうとしていた。




第三章 信じる者たち


 春の雨が、帝都の街を静かに濡らしていた。


 細い雨粒が窓硝子を伝い落ちるのを、私はぼんやりと眺めていた。


 舞踏会から、すでに数日が経っている。


 けれど、状況は好転するどころか、悪化する一方だった。


 新聞は連日のように私の記事を載せ、社交界の噂話は尾ひれをつけて広がっていく。


 女学校では、私の席だけが不自然に空白を作り続けていた。


「……慣れるものね」


 小さく呟き、自嘲する。


 慣れてなどいない。


 ただ、感情を殺すことを覚えただけだ。


 その日、授業が終わると、綾子が私の机にやってきた。


「美禰子、今日は一緒に帰りましょう」


「え?」


「一人で帰らせるわけないでしょ」


 有無を言わせぬ口調だった。


 私は、思わず微笑んでしまう。


「ありがとう」


 校門を出ると、雨はまだ降り続いていた。


 二人で一つの傘に入る。


 肩が触れ合い、ぬくもりが伝わる。


「……ねえ、美禰子」


 綾子が、静かに言った。


「あなた、本当に何もしてないんでしょう?」


「ええ。誓って」


「なら、大丈夫よ」


「……どうして?」


「だって、私はあなたを知ってるもの」


 迷いのない言葉だった。


「困ってる人を放っておけない人。自分が損しても、誰かを守る人。そんなあなたが、いじめなんてするわけない」


 胸の奥が、熱くなる。


「綾子……」


「泣くのは禁止」


 彼女は照れ隠しのように言った。


 翌日。


 昼休みの図書室で、私はゆりやと向かい合っていた。


「……先輩」


 ゆりやは、膝の上で手を握りしめながら話す。


「佳奈先輩、最近……変なんです」


「変?」


「私たち後輩に、きつく当たるようになって……。それに、誰かの悪口を言わせようとしたり……」


 私は、眉をひそめた。


「どんなことを?」


「美禰子先輩のこと、です……」


 胸が、きゅっと縮む。


「私に……『あの人は裏表がある』『近づかない方がいい』って……」


「……そう」


 やはり、噂の出所は――。


「それから……」


 ゆりやは、ためらいながら続けた。


「前に、佳奈先輩が……手紙を破いて捨てているのを見ました」


「手紙?」


「はい。封筒に……政夫様のお名前が……」


 私は、息を呑んだ。


 何かが、少しずつ繋がっていく。


 放課後、私は綾子とゆりやを、自室に招いた。


 机の上には、新聞の切り抜きや、噂の書き写しが並んでいる。


「……探偵みたいね」


 綾子が苦笑する。


「このままじゃ、終われないもの」


 私は、静かに言った。


「黙って潰されるつもりはないわ」


 三人で、情報を整理していく。


 どの記事にも、共通している点があった。


 「匿名の関係者」


 「親しい友人の証言」


 そのほとんどが、佳奈の周辺から出ている。


「……やっぱり」


 綾子が唇を噛む。


「仕組まれてる」


 私は、深く頷いた。


「でも、証拠がない」


 それが、最大の問題だった。


 噂だけでは、何も覆せない。


 その夜。


 私は、久しぶりに筆を取った。


 宛先は――光弥様。


 数日前、彼から名刺とともに、短い手紙が届いていたのだ。


『何か困ったことがあれば、連絡を』


 その言葉を、何度も読み返した。


 正直、迷った。


 頼ることは、弱さのように思えたから。


 けれど――。


「……今は、意地を張る時じゃない」


 私は、静かに書き始めた。


 すべての経緯。


 自分の無実。


 そして、助けを求める言葉。


 数日後。


 放課後の昇降口で、私は呼び止められた。


「鷹宮美禰子さん」


 振り向くと、そこに立っていたのは光弥だった。


 柔らかな春の光を背に、静かに微笑んでいる。


「お手紙、拝見しました」


 胸が、高鳴る。


「……ありがとうございます」


「こちらこそ。信じてくれて」


 彼は、低い声で続けた。


「君の話は、筋が通っている」


 そして、まっすぐに私を見た。


「――僕が、力になろう」


 その言葉は、雨に濡れた心に、確かな灯をともした。




第四章 揺れる縁談と真実の影

――――――――――


 春の陽は、屋敷の縁側に淡く差し込み、畳の上に柔らかな光の帯を落としていた。


 美禰子は、静かに膝をそろえ、座敷の中央に座っていた。


 正面には、祖父と父。そして、その隣には見慣れぬ紳士の姿があった。


 深い紺の羽織に身を包み、背筋を正して座るその男――政夫である。


 初めて正式に顔を合わせる場だった。


「本日は、お忙しいところをありがとうございます」


 政夫は丁寧に頭を下げた。


 落ち着いた声。無駄のない所作。育ちの良さが自然とにじみ出ている。


 祖父は満足そうに頷いた。


「こちらこそ。遠いところをよく来てくれました」


 美禰子は、視線を伏せたまま、その様子を静かに見つめていた。


(……これが、縁談の場……)


 心臓が、微かに早鐘を打つ。


 数日前、祖父から突然告げられた話だった。


――政夫との縁談を進めたい。


 断る余地など、最初からなかった。


 華族の娘として生まれた以上、いずれこうなることは分かっていたはずなのに。


 いざ現実になると、胸の奥が重く沈んでいく。


「美禰子さん」


 政夫が、穏やかに声をかけてきた。


「お加減はいかがですか」


「……はい。おかげさまで」


 短く答えながら、そっと顔を上げる。


 政夫の目は、驚くほど真っ直ぐだった。


 探るようでもなく、値踏みするようでもない。


 ただ、誠実にこちらを見つめている。


(悪い人では……ない)


 そう思う。


 けれど、それだけで心が決まるほど、単純でもなかった。


 ◇


 その日の夕刻。


 応接の場が終わり、政夫が帰ったあと、美禰子は庭に出ていた。


 薄紅色の椿が、風に揺れている。


 その下で、佳奈がほうきを持って立っていた。


「お嬢様」


「佳奈……」


 美禰子は、ほっと息をついた。


 唯一、心を許せる存在だった。


「……どうだった?」


 佳奈は小声で尋ねる。


「縁談の人」


「……優しそうな方だったわ」


「それだけ?」


 図星だった。


 美禰子は苦笑する。


「……それだけ、ね」


 佳奈は、しばらく考え込むようにしてから言った。


「ねえ、お嬢様。本当に、それでいいの?」


「……どういう意味?」


「決められた道を歩くだけで、後悔しない?」


 その言葉は、胸の奥に静かに刺さった。


 答えられない。


 自分でも分からなかったからだ。


「私は……」


 言いかけて、言葉を飲み込む。


 すると、遠くから足音が聞こえた。


「美禰子」


 雄二郎だった。


 彼は少し息を切らしながら、こちらへ近づいてくる。


「祖父上がお呼びだ」


「……今、行くわ」


 佳奈は、二人の様子を静かに見つめていた。


 ◇


 祖父の書斎は、いつも薄暗かった。


 重厚な書棚に囲まれた空間は、まるで別世界のようだ。


 美禰子は正座し、祖父の前に座る。


「今日の政夫殿、どう思った」


 単刀直入だった。


「……立派な方だと思います」


「そうか」


 祖父は満足げに頷いた。


「家柄、学識、人柄。申し分ない」


 一息つき、続ける。


「早ければ、夏には話をまとめたい」


 美禰子の胸が、ぎゅっと締めつけられた。


「……そんなに、早く……」


「何か不満でもあるのか」


 鋭い視線。


 逃げ場はない。


「いえ……」


 そう答えるしかなかった。


 祖父は、しばらく沈黙した後、低い声で言った。


「美禰子。お前は、この家の希望だ」


「……」


「感情で生きる立場ではないことを、忘れるな」


 その言葉は、冷たく、重かった。


 ◇


 夜。


 美禰子は自室で、灯りを落としたまま座っていた。


 障子越しに、月の光が滲む。


 胸の奥がざわついて眠れない。


(私は……どうしたいの……)


 そこへ、そっと戸が開いた。


「失礼します」


 綾子だった。


「眠れない顔をしているわね」


「……綾子さん」


 綾子は、美禰子の隣に座る。


「縁談のことでしょ?」


 隠す必要はなかった。


「……はい」


「昔ね、私にも話があったの」


「え……?」


 意外な言葉だった。


「でも、私は逃げた」


 綾子は、静かに微笑んだ。


「後悔もした。でも……後悔しなかったこともある」


「……どういうことですか」


「自分で選んだ、っていう事実が、私を支えてくれたの」


 美禰子は、その言葉を噛みしめる。


「お嬢様。誰かに決められた幸せは、本当に幸せかしら」


 答えは、まだ見えない。


 けれど、心の奥で、小さな火が灯った気がした。


 ◇


 翌日。


 美禰子は、屋敷の裏庭で、偶然ゆりやと出会った。


「お姉さま」


 ゆりやは、無邪気に微笑む。


「縁談の人、かっこよかったね」


「……見ていたの?」


「ちょっとだけ」


 くすっと笑う。


「でもね」


 ゆりやは真剣な目になる。


「お姉さま、最近、笑わなくなった」


 胸が詰まる。


「……そうかしら」


「うん。前は、もっと優しい顔してた」


 その言葉は、痛いほど正確だった。


 ◇


 その夜。


 美禰子は、決意する。


 自分の気持ちを確かめよう、と。


 誰かに決められる前に。


 自分自身と向き合おう、と。


 月明かりの下、彼女はそっと窓を開けた。


 遠くで、汽笛の音が響く。


 まるで、新しい時代の訪れを告げるように。


 美禰子は、小さく呟いた。


「……私は、まだ……終わっていない」


 揺れる心と、芽生え始めた意志。


 それはやがて、大きな運命の波へとつながっていくことになる――。


――――――――――



――――――――――

第五章 雨音に秘めた想い

――――――――――


 梅雨の気配が、屋敷に忍び寄っていた。


 朝から空は重く垂れ込め、庭の紫陽花は淡く色づき始めている。


 美禰子は縁側に座り、膝の上に帳面を広げていた。


 けれど、筆はほとんど進んでいない。


 心は、別のところにあった。


(……私は、どうしたいの……)


 あの夜から、何度も自問している。


 自分で選ぶ。


 綾子の言葉が、頭から離れなかった。


 けれど、選ぶとは何を選ぶのか。


 自由か、家か、縁談か――。


 答えは、まだ霧の中だった。


 ぽつり。


 雨が落ちる音がした。


 やがて、それは連なり、屋根を叩く静かな調べへと変わっていく。


「……降ってきたわね」


 美禰子は帳面を閉じ、立ち上がった。


 ◇


 昼過ぎ。


 母屋では来客の準備が進められていた。


「今日、政夫様がお見えになるそうよ」


 佳奈が小声で知らせてくる。


「え……?」


 胸が、跳ねた。


「急に決まったみたい」


「……そう」


 平静を装うが、心は騒がしい。


 まだ、気持ちは定まっていない。


 そんな中での再会。


 戸惑いしかなかった。


 ◇


 午後三時。


 客間に通された政夫は、前回と同じように端正な姿で座っていた。


「ご無沙汰しております」


「……お久しぶりです」


 互いに丁寧に頭を下げる。


 祖父と父は別室で用があるらしく、しばらく二人きりになった。


 沈黙が落ちる。


 雨音だけが、障子の向こうで響いていた。


「……今日は、突然お伺いしてしまい、失礼しました」


 先に口を開いたのは、政夫だった。


「いえ……」


「どうしても、お話ししたいことがあって」


 その声は、少しだけ緊張を帯びていた。


 美禰子は、思わず背筋を伸ばす。


「……お話、ですか」


「はい」


 政夫は、一度視線を伏せ、それから真っ直ぐに見つめてきた。


「美禰子さんは、この縁談を……どう思っておられますか」


 直球だった。


 逃げ場はない。


 胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「……正直に、申してもよろしいですか」


「もちろんです」


「……まだ、分かりません」


 小さな声だった。


「突然すぎて……心が、追いつかなくて……」


 政夫は、黙って聞いている。


「家のことも、大切です。でも……自分の気持ちも……」


 言葉が震えた。


「……迷っています」


 沈黙。


 雨が、強まる。


 しばらくして、政夫は静かに微笑んだ。


「……そうだと思っていました」


「え……?」


「あなたは、そういう方です」


 驚いて見つめると、彼は穏やかに続けた。


「誰かに言われたからといって、簡単に頷く人ではない」


「……」


「だからこそ、私は……」


 一瞬、言葉に詰まる。


「……あなたを、尊敬しています」


 胸が、どくんと鳴った。


「私は、家同士の話だから、という理由だけで、この縁談を受けたわけではありません」


 政夫の声は、真剣だった。


「あなた自身と、向き合いたいと思ったからです」


 その言葉は、静かに、しかし深く、美禰子の心に染み込んだ。


「……そんなふうに、考えてくださっていたなんて……」


「ええ」


 政夫は照れたように、少し視線を逸らす。


「ですから……急がせるつもりはありません」


「……」


「あなたが、ご自分で答えを出すまで、待ちます」


 その優しさが、かえって胸を苦しくさせた。


(どうして……こんなに誠実なの……)


 ◇


 その後、祖父たちが戻り、形式的な挨拶を交わして政夫は帰っていった。


 雨は、夕方になっても止まなかった。


 ◇


 美禰子は、裏庭の東屋にいた。


 雨宿りをしながら、ぼんやりと池を眺めている。


 そこへ、足音が近づいた。


「……美禰子」


 振り返ると、光弥だった。


「光弥さん……」


 久しぶりの再会だった。


 学生帽を手に持ち、少し濡れた髪を気にする様子が懐かしい。


「急に来て、すまない」


「いえ……」


 二人は、並んで腰を下ろす。


 雨音が、二人を包む。


「……縁談の話、聞いた」


 やはり、もう知られている。


「……はい」


「……本当に、それでいいのか」


 光弥の声は、低く、真剣だった。


「分かりません……」


 正直に答える。


「でも……怖いんです」


「何が」


「選ぶことが」


 失敗すること。


 後悔すること。


 誰かを傷つけること。


「……美禰子」


 光弥は、ゆっくりと口を開く。


「俺は……昔から、お前が好きだ」


 雷のような言葉だった。


「え……?」


「ずっと、言えなかった」


 拳を握りしめる。


「家柄とか、立場とか……全部、言い訳にして」


 胸が、激しく脈打つ。


「でも……このまま黙っていたら、一生後悔すると思った」


 雨が、二人の間を打つ。


 美禰子は、言葉を失った。


 ◇


 夜。


 自室に戻った美禰子は、布団に座り込んでいた。


 政夫の誠実な眼差し。


 光弥の真剣な告白。


 二つの想いが、胸の中で交錯する。


(私は……どうすれば……)


 選ばなければならない。


 もう、逃げられない。


 雨は止み、雲の切れ間から月が覗いていた。


 揺れる心は、静かに、次の嵐を予感していた――。




――――――――――

第六章 絡み合う宿命の糸

――――――――――


 朝靄が、屋敷の庭を白く包んでいた。


 鳥の声さえ遠く、世界が静止したかのような朝。


 美禰子は、鏡の前に座ったまま、じっと自分の顔を見つめていた。


 一晩、ほとんど眠れなかった。


 光弥の告白が、何度も胸によみがえる。


「……好きだ」


 その声が、耳から離れない。


 そして、政夫の誠実な眼差し。


 待つ、と言ってくれた優しさ。


(二人とも……ずるい……)


 どちらも、真剣だからこそ、選べない。


 ◇


 朝食の席。


 祖父は、いつになく無言だった。


 箸の音だけが、やけに響く。


 やがて、低い声が落ちた。


「……美禰子」


「はい」


「来月、政夫殿の家へ挨拶に行く」


 唐突だった。


「え……?」


「正式に、婚約を進める」


 息が詰まる。


「ま、待ってください……!」


 思わず声が出た。


 場の空気が凍る。


 祖父の視線が、鋭く突き刺さる。


「……何だ」


「そんなに急に……私は……」


「迷っている時間はない」


 ぴしゃりと言い切られた。


「この家は、財政も人脈も、政夫家に支えられている」


「……!」


 初めて聞く話だった。


「近年の不況で、我が家はかなり苦しい」


 祖父は、苦々しく続ける。


「この縁談がなければ……没落も免れん」


 胸が、締めつけられる。


(そんな……私が……家を……)


「美禰子。お前一人の問題ではない」


 重すぎる言葉だった。


 ◇


 食後。


 美禰子は、衝動的に屋敷を飛び出した。


 着物の裾を乱しながら、裏門へ向かう。


 そこに立っていたのは――光弥だった。


「……美禰子?」


「光弥さん……!」


 思わず、胸に飛び込んでしまいそうになるのを必死でこらえる。


「……どうした」


「私……私……」


 言葉にならない。


 涙が、溢れそうになる。


「……家が……この縁談がないと……」


 震える声で、すべてを打ち明けた。


 財政難。


 没落の危機。


 祖父の言葉。


 光弥は、黙って聞いていた。


「……そういうことか」


 拳を強く握る。


「だから……俺は、何も言えなかったんだ」


「え……?」


「昔から、分かってた」


 光弥は、苦く笑った。


「俺の家は……お前の家と因縁がある」


「因縁……?」


 ◇


 光弥は、ゆっくりと語り始めた。


 数年前。


 美禰子の父と、光弥の父は、ある事業を共にしていた。


 だが、その計画は失敗に終わった。


 多額の損失。


 責任は、すべて光弥の父に押しつけられた。


「……父は、そのせいで、心を病んだ」


 声が低く震える。


「家は没落し、親戚にも見放された」


 美禰子は、息を呑む。


 そんな話、聞いたこともなかった。


「本当は……お前の家にも責任があった」


「……!」


「でも、表に出なかった」


 沈黙が落ちる。


「俺は……悔しかった」


 光弥は、唇を噛みしめた。


「でも……お前を恨んだことは、一度もない」


「光弥さん……」


「むしろ……支えになりたかった」


 その言葉は、切実だった。


 ◇


 その日の午後。


 美禰子は、書斎に呼び出された。


 そこには、祖父と――政夫がいた。


「……政夫様?」


 戸惑う美禰子に、祖父は告げる。


「話がある」


 政夫は、静かに頭を下げた。


「私から、お願いしました」


「……え?」


「美禰子さんに、すべてを伝えるべきだと思ったのです」


 祖父は、渋い顔をする。


「……余計なことを」


 だが、政夫は引かなかった。


「隠したままの結婚は、卑怯です」


 はっきりと言う。


「……この縁談は、事業再建も目的の一つです」


 ついに、真実が語られた。


 美禰子の胸が、締めつけられる。


「……やはり……」


「ですが」


 政夫は、強く言った。


「それだけではありません」


 真っ直ぐ、美禰子を見る。


「私は……あなたを想っています」


 言葉に、偽りはなかった。


「家の事情を差し引いても、私はあなたと共に生きたい」


 ◇


 三人の視線が交錯する。


 重たい沈黙。


 誰も、簡単には動けない。


 美禰子は、静かに口を開いた。


「……少しだけ、時間をください」


 二人を見る。


「逃げません」


「でも……自分で、決めたいんです」


 祖父は、眉をひそめる。


 政夫は、静かに頷いた。


「……分かりました」


 光弥は、遠くから、その様子を見つめていた。


 胸の奥で、何かが崩れる音を聞きながら。


 ◇


 夜。


 美禰子は、灯りの下で日記を開いた。


『私は、誰のために生きるの?

 家のため?

 誰かのため?

 それとも――私自身のため?』


 筆は、止まったままだった。


 運命の糸は、今、激しく絡み合い始めている。


 ほどけるのか、断ち切れるのか。


 それは、彼女自身の選択に委ねられていた――。


――――――――――



――――――――――

第七章 崩れゆく約束と真実の刃

――――――――――


 初夏の風が、屋敷の長廊下を吹き抜けていた。


 障子が微かに鳴り、淡い光が床に揺れる。


 けれど、美禰子の心は、少しも穏やかではなかった。


(……時間をください、なんて……)


 あの場で口にした言葉が、今になって重くのしかかる。


 祖父。


 政夫。


 光弥。


 三人の想いと事情を背負いながら、なお答えを出せない自分。


 それが、情けなくもあり、怖くもあった。


 ◇


 数日後。


 屋敷では、大きな宴の準備が進んでいた。


 政夫の家との親睦を深めるための集まり。


 名目は“顔合わせ”。


 実質は――婚約前提の披露だった。


「こんなの……もう決まったも同然じゃない……」


 鏡の前で、美禰子は呟く。


 淡い藤色の振袖。


 祖父が選ばせたものだ。


「お嬢様……」


 佳奈が、そっと帯を整える。


「……やっぱり、嫌?」


「……分からない」


 正直な答えだった。


 佳奈は、唇を噛みしめる。


「ねえ……もし、逃げたくなったら……私、ついていくよ」


「佳奈……?」


「冗談じゃないよ。本気」


 その言葉に、胸が熱くなる。


 ◇


 夕刻。


 屋敷は、華やかな客で満ちていた。


 政夫も、正装で現れる。


 落ち着いた佇まいは、多くの客の好意を集めていた。


「お似合いですねえ」


「まるで夫婦のようだ」


 そんな声が、耳に刺さる。


 美禰子は、微笑みながら、心の中で泣いていた。


 ◇


 庭園の一角。


 人目を避けるように、光弥が立っていた。


 黒い洋装に身を包み、どこか影を帯びている。


「……来るんじゃなかったな」


 自嘲気味に呟く。


 そこへ――


「光弥さん」


 綾子が現れた。


「……話があるの」


 ◇


 二人は、離れた東屋に移った。


「……あの子のこと、本気なのね」


 綾子は静かに言う。


「……ああ」


「だったら……これを知っておくべきよ」


 懐から、封筒を取り出す。


「……何だ」


「昔の書類」


 中には、古びた契約書と手紙。


「美禰子の父と、あなたの父の事業――」


 光弥の表情が変わる。


「……真相よ」


 そこには、はっきりと記されていた。


“損失の責任を光弥の父に集中させる”という密約。


「……そんな……」


「美禰子は、知らない」


 綾子は、目を伏せる。


「でも……いずれ知る」


「……祖父が?」


「ええ。主導したのは、あの人よ」


 光弥の拳が、震える。


 怒りと絶望が、胸に渦巻く。


 ◇


 一方、美禰子は客間で政夫と並んでいた。


「……お疲れでしょう」


 政夫が気遣う。


「……はい、少し」


 その時だった。


 庭の方から、騒がしい声が聞こえてくる。


「……何かしら?」


 次の瞬間。


 障子が、勢いよく開いた。


「美禰子!!」


 光弥だった。


 顔は青ざめ、目は燃えるように光っている。


「……光弥さん?」


 場が凍る。


 客たちが、一斉に振り向く。


「……黙っていられない」


 彼は、震える声で叫んだ。


「この縁談は……嘘の上に成り立っている!!」


「な……何を……!」


 祖父が立ち上がる。


 光弥は、書類を掲げた。


「これを見ろ!」


 床に叩きつけられた紙が、散らばる。


「昔の事業の損失……」


「責任を俺の父に押しつけたのは……あんたたちだ!!」


 ざわめきが広がる。


「……嘘よ……」


 美禰子は、立ち尽くす。


 政夫が、書類を拾い上げ、目を通す。


 顔色が変わった。


「……これは……本物です」


 低い声。


 祖父の顔が、歪む。


「……黙れ」


「黙れるか!!」


 光弥は叫ぶ。


「俺の父は……それで壊れた!!」


 声が割れる。


「人生を……奪われたんだ!!」


 ◇


 美禰子の頭が、真っ白になる。


「……お祖父様……」


 震える声。


「……本当なの……?」


 祖父は、視線を逸らした。


 それが、答えだった。


「……どうして……」


 涙が溢れる。


「私……何も知らずに……」


「……美禰子」


 政夫が、そっと肩に手を置く。


「……あなたは、何も悪くない」


「でも……」


「悪いのは、大人たちです」


 その声は、苦しかった。


 ◇


 会場は、もはや収拾がつかなかった。


 客たちは次々に帰り始める。


 噂は、瞬く間に広がるだろう。


 華族の名誉は、地に落ちた。


 ◇


 夜。


 美禰子は、自室に閉じこもっていた。


 膝を抱え、泣き続ける。


(私は……騙されていた……)


 家も。


 縁談も。


 すべてが、嘘の上にあった。


 そこへ、静かなノック。


「……誰?」


「……政夫です」


 戸を開ける。


 彼は、深く頭を下げた。


「……申し訳ありません」


「……どうして、あなたが……」


「私も……知らなかった」


 苦しげに言う。


「ですが……今日、すべてを知りました」


 顔を上げる。


「……それでも、私は……」


 真っ直ぐな瞳。


「あなたを守りたい」


 涙が、また溢れる。


 ◇


 少し遅れて、光弥も現れた。


「……すまない」


「……光弥さん……」


「傷つけるつもりは……なかった」


「……分かってる」


 三人は、廊下に立ち尽くす。


 沈黙。


 それぞれの想いが、交錯する。


 ◇


 その夜。


 美禰子は、初めて決意する。


(……もう、誰かの操り人形にはならない)


 家のためでもない。


 誰かのためだけでもない。


 自分の人生を、自分で選ぶ。


 そのために――


 彼女は、ある“行動”を起こすことを決めた。


 それが、すべてを変えるとは、まだ知らずに――。


――――――――――



――――――――――

第八章 裂けた家と、選び取る未来

――――――――――


 夜明け前の空は、薄墨色に沈んでいた。


 鳥の声もまだなく、屋敷は眠ったままのように静まり返っている。


 しかし、美禰子の部屋だけは違った。


 灯りが消えることなく、一晩中揺れていた。


 鏡の前に座ったまま、彼女はほとんど眠っていなかった。


(……もう、戻れない)


 昨夜の光景が、何度も脳裏をよぎる。


 書類。


 祖父の沈黙。


 光弥の叫び。


 政夫の震える声。


 すべてが、現実だった。


 逃げ場はない。


 ◇


 夜明けとともに、佳奈が部屋を訪れた。


「……お嬢様」


 声が、かすれている。


「……起きてる」


 美禰子は、小さく答えた。


 佳奈は、そっと近づく。


「……荷物、まとめました」


「……え?」


「逃げるんでしょ」


 まっすぐな目。


 迷いがない。


「……まだ、決めてない」


「嘘」


 佳奈は微笑んだ。


「昨日の顔……決めた人の顔だった」


 美禰子は、黙った。


 図星だった。


 ◇


 小さな旅行鞄。


 本。


 着替え。


 母の形見の櫛。


 それだけ。


「……少なすぎない?」


「十分」


 佳奈は即答した。


「人生、詰め込めないから」


 その言葉に、少し笑う。


 ◇


 二人は裏口から屋敷を出た。


 使用人用の通用門。


 誰にも気づかれずに。


 朝霧が、庭を包んでいる。


 振り返らない。


 振り返ったら、戻ってしまう。


 ◇


 駅へ向かう道。


 石畳が、ひんやりと冷たい。


「……怖い?」


 佳奈が聞く。


「……うん」


 正直な答え。


「でも……このままの方が、もっと怖い」


 佳奈は、何も言わずに頷いた。


 ◇


 汽車の煙が、空に溶けていく。


 切符売り場。


 人の波。


 知らない匂い。


 すべてが、新しかった。


「……どこ行くの?」


「……東京」


 ぽつり。


「新聞社が、女性記者を募集してるって……」


 昔、雑誌で読んだ。


 夢物語だと思っていた。


「……本気?」


「……初めて、本気」


 佳奈は、目を輝かせた。


「最高じゃん」


 ◇


 その頃。


 屋敷では、嵐が吹き荒れていた。


「……いない?」


 祖父の声が、震える。


「……は、はい」


 使用人が答える。


「……佳奈も?」


「……はい」


 湯呑が、床に叩きつけられた。


 割れる音。


「……連れ戻せ!!」


 怒号。


 家の威信が、揺らいでいる。


 ◇


 政夫は、その知らせを職場で受け取った。


「……失踪?」


「……家出だそうです」


 部下の声。


 政夫は、机を強く握った。


(……彼女らしい)


 逃げたのではない。


 選んだのだ。


 ◇


 光弥もまた、噂で知った。


 喫茶店の片隅。


「……行ったか」


 カップを握る手に、力が入る。


「……追う資格、あるのか」


 自問する。


 ◇


 汽車の中。


 窓の外は、流れる田園。


 美禰子は、初めて深く息を吐いた。


「……自由だね」


「……うん」


「……でも、不安」


「セットだよ、それ」


 佳奈は笑う。


 ◇


 東京。


 人の海。


 電車。


 看板。


 喧騒。


「……すごい」


 圧倒される。


 宿は、安い下宿。


 六畳一間。


 共同炊事場。


「……狭い」


「……落ち着く」


 二人で笑う。


 ◇


 数日後。


 美禰子は、新聞社の門を叩いた。


「……華族のご令嬢?」


 面接官は、怪訝そうに眉をひそめる。


「……はい」


「……なぜ?」


 美禰子は、背筋を伸ばす。


「……自分の言葉で、生きたいからです」


 一瞬の沈黙。


「……面白い」


 そう言われた。


 ◇


 帰り道。


 雨が降り出す。


「……どうだった?」


「……わからない」


「でも、顔が違う」


 佳奈は言う。


「生きてる顔」


 ◇


 その夜。


 下宿の窓を打つ雨音。


 美禰子は、机に向かい、日記を書いていた。


『私は、家を出た。

 怖い。

 でも、後悔していない。』


 ペンを止める。


『誰かの娘でも、誰かの婚約者でもなく、

 私は、私になる。』


 ◇


 その頃。


 政夫は、手紙を書いていた。


『君の選択を、尊敬する。

 だが、もし戻りたくなったら――

 私は、いつでも味方だ。』


 光弥もまた、封筒を閉じる。


『逃げたと思っていない。

 戦いに行ったのだと、思っている。』


 ◇


 東京の夜。


 ガス灯が揺れる。


 美禰子は、窓辺に立つ。


(……私は、どこへ行くのだろう)


 答えは、まだない。


 けれど。


 歩き始めたことだけは、確かだった。


 ――運命の歯車は、ここから本格的に回り始める。




第九章 選ばれる愛、選び抜く人生

――――――――――


 東京に来て、三か月が過ぎていた。


 秋の風が、街路樹の葉を揺らす。


 美禰子は、新聞社の校正室で原稿を読んでいた。


 まだ見習い。


 雑用も多い。


 それでも――充実していた。


「美禰子さん、これ直せる?」


「はい」


 即答できる自分が、少し誇らしい。


 ◇


 その日の夕方。


 受付から声がかかった。


「……来客です」


「……私に?」


 首を傾げながら向かうと。


 そこに立っていたのは――政夫だった。


 濃紺の外套。


 変わらぬ佇まい。


「……政夫さん」


「……久しぶりだね」


 ぎこちなく微笑む。


 ◇


 近くの喫茶店。


 珈琲の香り。


 二人は向かい合った。


「……元気そうで、安心した」


「……はい」


「……ずいぶん、遠くに行ってしまったな」


 責める調子ではない。


 ただ、寂しさが滲んでいた。


「……逃げたわけじゃないです」


「分かってる」


 政夫は頷く。


「だからこそ……今日、来た」


 真剣な眼差し。


「……迎えに来た」


 美禰子の胸が、強く鳴る。


「……戻ってきてほしい」


 ◇


 言葉は、穏やかだった。


 けれど、その重みは計り知れない。


「……家も、世間も……全部、俺が守る」


「……祖父も、反省している」


「君が必要なんだ」


 必要。


 その言葉が、胸に刺さる。


「……私は……」


 答えに迷う。


 ◇


「……君がいない家は、空っぽだ」


 政夫は続ける。


「……俺は、君と生きたい」


 初めて聞く、率直な想い。


 けれど――


 美禰子は、静かに首を振った。


「……ごめんなさい」


 政夫の目が揺れる。


「……どうして」


「……守られるために、戻りたくない」


 震えながらも、言い切る。


「……私は、自分で立ちたい」


 ◇


 沈黙。


 長い、長い沈黙。


「……そうか」


 政夫は、微笑んだ。


 どこか寂しそうに。


「……やっぱり、君は強い」


 立ち上がる。


「……俺は、君の選択を尊重する」


「……ありがとう」


 ◇


 数日後。


 突然、下宿に知らせが届いた。


「……本家から呼び出し?」


 差出人は、祖父。


「……行く?」


 佳奈が心配そうに聞く。


「……行く」


 逃げない。


 それが、今の自分。


 ◇


 久しぶりの屋敷。


 庭の紅葉が、美しい。


 けれど、心は揺れない。


 応接間。


 祖父が座っていた。


 老けた。


 明らかに。


「……美禰子」


「……ご無沙汰しております」


 深く礼をする。


 ◇


「……すまなかった」


 祖父は、頭を下げた。


 初めて。


 人生で初めて。


「……すべて、わしの過ちだ」


 声が震える。


「……お前を、駒にした」


 美禰子は、黙って聞いた。


「……戻ってきてほしい」


 懇願。


「……家を、継いでほしい」


 ◇


「……無理です」


 即答だった。


 祖父が目を見開く。


「……私は、家の道具には戻れません」


「……でも、見捨てるわけじゃない」


 まっすぐに見つめる。


「……私は、外から、この家を支えます」


 言葉に、覚悟があった。


 ◇


「……わしは……」


 祖父は、涙を流した。


「……負けたな」


 小さく笑う。


「……お前に」


 ◇


 屋敷を出るとき。


 誰かが待っていた。


 光弥だった。


「……話がある」


 夕暮れの庭。


 二人きり。


 ◇


「……東京での生活、聞いた」


「……うん」


「……立派だ」


 素直な称賛。


「……でも」


 視線が揺れる。


「……俺は、まだ諦めていない」


 胸が跳ねる。


 ◇


「……好きだ」


 直球だった。


「……昔から」


「……でも、言えなかった」


「……君は、高すぎた」


 苦笑する。


「……今も、高い」


 ◇


「……それでも」


 一歩、近づく。


「……一緒に、歩きたい」


 真剣な瞳。


 逃げ場はない。


 ◇


 美禰子は、深く息を吸った。


「……ありがとう」


「……でも」


 目を逸らさない。


「……今は、選べない」


 光弥の表情が曇る。


「……どうして」


「……私は、まだ“私”になりきれていない」


 正直な答え。


「……誰かの恋人になる前に、自分になりたい」


 ◇


 沈黙。


 風が、木々を揺らす。


「……君らしいな」


 光弥は、苦笑した。


「……待つよ」


「……え?」


「……勝手に」


 優しく笑う。


「……逃げない」


 ◇


 東京へ戻る汽車。


 窓の外が、流れる。


 美禰子は、静かに涙を流していた。


(……私は、残酷なのかもしれない)


 二人を傷つけた。


 それでも――


 後悔はなかった。


 ◇


 数週間後。


 新聞社で、正式採用が決まった。


「……おめでとう!」


 佳奈が抱きつく。


「……ありがとう」


 胸が熱い。


 ◇


 初めて、自分の署名入り記事が載った日。


 美禰子は、駅前で新聞を広げた。


 そこに――


 二通の手紙が挟まっていた。


 政夫から。


 光弥から。


 どちらも、短い。


『誇りに思う』


『ずっと見てる』


 ◇


 夜。


 下宿の部屋。


 机に向かい、ペンを握る。


(……私は、私を選んだ)


 恋も。


 家も。


 過去も。


 すべてを抱えたまま。


 それでも前に進む。


 ◇


 窓の外。


 東京の灯り。


 未来は、まだ不確かだ。


 けれど。


 もう、怖くない。


 ――彼女は、自分の人生を、初めて自分の手で選んだのだから。


――――――――――

――――――――――

第十章 ふたりで歩く、私の人生

――――――――――


 東京の春は、思ったより早く訪れた。


 神田川沿いの桜並木が、淡い桃色に染まり始めた頃。


 美禰子は、忙しなく原稿を抱えて走っていた。


「すみません、遅れました!」


「また徹夜か?」


 編集長が呆れ顔で笑う。


「……少しだけ」


 少し、というには目の下に隈があった。


 それでも、表情は明るい。


 ◇


 新聞社に勤めて、三年。


 今では、社会部の看板記者の一人になっていた。


 女性記者は、まだ少ない。


 だからこそ、彼女の記事は目立った。


 労働問題。


 女性工場員の待遇。


 貧困層の実態。


 華族出身という経歴を逆手に取り、権力の闇を切り込んでいく。


「……よくここまで来たな」


 佳奈は、同じ編集部で働いている。


 今や、最高の相棒だった。


「……ほんとだね」


 二人で笑う。


 ◇


 その日の帰り道。


 夕暮れの駅前。


 人混みの中に、見慣れた背中を見つけた。


「……光弥さん?」


 振り向く。


「……久しぶり」


 相変わらず、不器用な笑顔。


「……東京、慣れた?」


「……まあね」


 二人で歩き出す。


 ◇


 近くの喫茶店。


 変わらぬ珈琲の香り。


「……新聞、読んでる」


 光弥が言う。


「……全部」


「……恥ずかしい」


「誇らしい」


 即答だった。


 胸が熱くなる。


 ◇


「……俺な」


 光弥は、カップを見つめる。


「……今、事業を立て直してる」


「……知ってる」


 噂で聞いていた。


 父の名誉回復。


 借金整理。


 すべて一人で。


「……やっと、胸張れる」


 ◇


 沈黙。


 そして――


「……まだ、好きだ」


 静かな告白。


 逃げも飾りもない。


 ◇


 美禰子は、ゆっくり息を吸う。


「……私も」


 初めて、はっきり言った。


 光弥の目が見開かれる。


「……でも」


「……分かってる」


 先に言われる。


「……仕事、だろ」


 微笑む。


「……奪う気はない」


 ◇


 その瞬間。


 心が、ほどけた。


(……この人なら)


 ◇


 数か月後。


 美禰子は、実家を訪れていた。


 久しぶりの庭。


 穏やかだった。


「……元気そうだな」


 祖父が言う。


「……はい」


「……聞いたぞ」


「……何を?」


「……光弥とのこと」


 驚く。


「……許す」


 短く。


「……いや、祝う」


 微笑んだ。


 ◇


「……家は?」


「……外から支えます」


「……それでいい」


 頷く。


「……お前は、家より大きな仕事をしている」


 ◇


 秋。


 小さな結婚式が行われた。


 教会でも、豪華な式場でもない。


 洋館の庭。


 親しい人だけ。


 佳奈は、泣きながら祝福した。


「……ほんと、遠くまで行ったね」


「……一緒に来たんだよ」


 手を握る。


 ◇


 政夫も来ていた。


 穏やかな笑顔で。


「……おめでとう」


「……ありがとうございます」


 心から。


 ◇


 夜。


 新居。


 小さな洋風住宅。


 二人暮らし。


「……狭いな」


「……落ち着く」


 笑い合う。


 ◇


 結婚後も、美禰子は働き続けた。


 周囲は言う。


「奥様なんだから――」


「家庭に――」


 それでも、辞めなかった。


「……私は、私です」


 光弥は、必ず味方した。


「……俺の妻は、記者だ」


 誇らしげに。


 ◇


 忙しい日々。


 すれ違う夜。


 喧嘩もした。


 涙も流した。


 それでも――


 話し合った。


 逃げなかった。


 ◇


 数年後。


 美禰子の連載は、本になった。


『時代を生きる女たち』


 ベストセラー。


 書店に並ぶ。


「……すごいね」


 光弥が言う。


「……二人でだよ」


 微笑む。


 ◇


 ある春の日。


 縁側で並んで座る。


 桜吹雪。


「……ねえ」


 光弥が言う。


「……幸せ?」


「……うん」


 即答。


「……忙しいけど」


「……大変だけど」


「……全部、私の人生だから」


 ◇


 手を握る。


 温かい。


 確かな現実。


 ◇


 美禰子は、空を見上げる。


 あの頃。


 家を飛び出した少女は。


 今、ここにいる。


 愛する人と。


 誇れる仕事と。


 自分の名前で。


 自分の人生を生きて。


 ◇


 ――私は、誰かに選ばれるために生きてきたんじゃない。


 ――私は、私を選ぶために生きてきた。


 ――そして、選んだ人と、共に歩いている。


 それが、何よりの幸福だった。


――――――――――















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