魔女の赤子
!注意!【☆付きの改行と通常の改行について】
☆付き:場面転換とプラスアルファで一人称視点の変化を表します。
通常の改行:場面転換のみ(一人称視点は変化しません)。
乳母として働く最初の家は、王都にある立派な屋敷であった。入り口には草が華麗に絡みついた白銀の門があって、虫除けと装飾を兼ねるマリーゴールドが園庭には咲き誇っていた。戸を叩くと一人、目が眩むような燦然と輝く装飾に身を包んだ婦人が出てきた。
「まあ、そんなに乱暴に戸を叩かずとも、そこに鐘がありましょうに」
彼女は手を口元に据えて上品に笑いながら私を優しく招き入れた。入ってすぐに内装までも豪華絢爛といったことを私は察した。玄関の真上に見つけたシャンデリアは正にその象徴で、劣等感か、あるいは眩しかったのか、私は目を細めたらしかった。
「私はあまり気にしないのだけれど、主人は呼び鈴を使わず戸を叩くとか、一々そういうところを『下品だ』と言って嫌うから、注意して」
「はい、ごめんなさい」
それから彼女の諸注意を聴きながら、彼女の旦那様の部屋へと続く廊下を歩いていた。流石は王都で家を構えるだけあって、その廊下は随分と長く、意味の分からない絵画やら壮大な生花を視界の端に見ながら、私は彼女の言うことを承ったのだった。
やがて私は一つの戸の前に立っていた。
「あなた? 頼んでいた乳母の方が来ましたよ。開けますからね」
一度、唾を飲む音を静寂の中に響かせ、私は奥様に続いて旦那様の部屋へと入った。部屋の奥からは、窓から日光が差していた。逆光によって切り抜かれた黒の輪郭が、珈琲を一口飲んだ。
「君が、乳母か。まあ、励んでくれたまえよ。それと......何か我が家へ泥を塗るようなことがあれば、直ちに追放する。努々、忘れるなかれ」
「承知しました」
それから私はまた暫く長い廊下を奥様の後ろでひたひたと歩いていた。呆れるほどに飾られた家具の中で一つ、目に留まった絵画があった。長い爪に、異形の翼、漆黒の肉体の化け物が、不敵な笑みをこちらに向けている絵。
「......この絵、なんでしょう?」
「気になる?」
「ええ」
奥様は頬を摩りながら考える仕草をした。
「確か、題名は......『悪魔』だったかしらねえ」
その絵にはどこか惹かれるものがあった。暗い色調を己に重ねたのか、あるいは立体的な美しさか......否、やはり理屈ではない。このままでいい。この絵に惹かれる原因の、その正体は明かさない方が良いのだろう。
目の前で、穏やかな寝顔を見せる赤子が一人。私はその子に、見惚れていた。
「あなたに担当してもらうのはこの子よ。どうか、守ってあげてね」
「承知しました。奥様」
赤子を抱きかかえたまま、私は頭を下げる。彼女は私の肩に優しく触れ、彼女の部屋へと戻っていった。私はそれを引き留め、問うた。
「この子の名前は何というんですか?」
「それがねえ、あの人ったら名前を付けていないのよ。『娘』では跡継ぎにはなれないとか言っちゃって」
「じゃあ私が付けても良いですか?」
彼女が頷くのを確認してから、私は考えた。人の名前など付けたことはなかったし、ましてや社会的な地位の高い人様のご令嬢の名前を考えるのは中々にプレッシャーが高いものだった。しかし、その名は自然と頭に浮かんだのだ。『アネモネ』。そう名付けた。
☆
誇り高き名家、その家系図の線を上から下へ指でなぞっていく。家系図の紙は指と擦れ、スーッと音を立てながら、やがて指は一人の男の名前に辿り着く。『ヴェルナー・グルース』。
「あなた? 入りますよ......ああ、また......それを見ているのですか?」
妻は、入ってきては呆れたようにそう呟いた。
「何度も言っているだろう。名家たるグルース家の誇り高き血の命運は、この俺、ヴェルナーに懸かっている。跡継ぎは『男』だ。次の子を迅速に産めるよう、お前も尽力したまえ。乳母を雇ったのは決してお前を怠けさせたいからではないぞ」
グルース家において、一族の跡を継ぐのは男でなければならない。しかし、俺と妻の間に産まれたのは、娘────つまり、『女』であった。こんなことはあってはならない。早く、次の機会を作らねばならぬ......。
☆
私がこの豪邸に足を踏み入れてからというもの、あれからおよそ一か月が経過した。ともあれ、なかなかどうして子育てというものはかくも困難なものだとは思っていなかった。空腹で泣いているのか、あるいは眠気で泣いているのか、原因は幾つもあるのにも関わらず、いずれもアネモネが表現するのは泣くことのみ。深夜まで寝付かずに泣き喚くものだから、私は睡眠不足のままで生活することが当たり前のようになっていた。奥様の多少の補助はあれど、やはり私一人で何かとこなさなければならない場面が多い故、忙しい日々を送ってきた。その所為だろうか、この一か月は私にとって非常に短く感じられた。しかしながら、これだけ苦労をかける甲斐がやはりアネモネには秘められている。実の子供ではないが、それでもなお愛しいと感じる仕草や声が私を癒すのだ。
「それで、どうかしら? アネモネの調子は」
「ええ、奥様。今のところは落ち着いています。どうやら、この鞠を気に入っているようで......飽きもせずに、ずうっと舐っています」
「そう、良かった。」
奥様は微笑みながらアネモネを見つめていた。それは愛しいと思っているよりは、慈しみを感じる優しい顔だった。アネモネを見つめているその眼は、どこまでも深い瞳孔の黒がただでさえ小さなアネモネの身体をさらに小さく反射していた。宝石のように深い趣のあるその眼に、私は思わず惹かれ手を伸ばしかけたが、直前で理性のブレーキがかかり拳を握りしめるだけに留まった。
「やっぱり、血は繋がっているのね......」
「どういうことですか?」
「この鞠、私の実家から持ってきたものなの。私が小さい頃も、この子と同じようにそれを気に入って、傍に置いていたんですって。存外、こういうところも似るのね」
「それは感慨深いでしょうね」
「ええ......そういえば、あなたはそういう思い出はあるかしら? 差し支えなければ、これからあなたのことも知っていきたいの」
「私ですか......私は......」
私は、そうして自分の脳内を遡っていった────
物心が付けば私は往来をひたひたと歩いていた。確かに踏みしめているはずの地面は依然として景色が変わらず、私の一歩の小ささを理屈ではないが理解は出来た。食料を鼠と奪い合い、雨風が酷い時には軒下でひっそりと息を潜める。そんな生活をしていた。
語り終えた時には部屋の空気はずんと重く静まっていた。私は温かい雰囲気を冷ましてしまったことを、少し悔いた。焦って詫びようとした刹那、奥様は私を抱き締めて言った。
「辛い事、話してくれてありがとう。大丈夫、あなたは確かにお金で雇われただけかもしれないけれど、ここはあなたの居場所だから。私が保証するわ」
奥様の抱き締める力は一層強まったが、私がそれを痛いと感じることはなかった。寧ろ、心を直接人肌で温められているような、そんな気がして......ああ、これが抱擁なんだな。
過去を打ち明けてからは奥様との仲がより深まった。あの抱擁は非常に良いものだった。アネモネを育てることに対してやはり疲弊はしていたものの、もう一度意欲を取り戻すことが出来た。果たして私がアネモネを順調に育てられているのか、今はまだそれを確かめる術はないが、ただアネモネが素敵な人になるように......幸せになるように尽力するのみだろう。そうして振り返りながら今日も眠ろうとした時、廊下から何か小さく音が響いてきていた。小さいながらも、確かに鼓膜に届くその音に、私は眠ろうにも眠ることが出来なかった。私は既に眠っているアネモネを起こさぬよう、こっそりと部屋を出て確認に向かったのだった。音のする方へと足を運んでいくと、その正体はまるで御伽話のような、信じられない光景が私の目に映し出された。黒い装束に身を包んで、目元が見えないほど深く帽子を被る人。見慣れない服装だが、あれは確かに奥様だと察した。奥様はそこにいないはずの『何か』と会話をしていた。奥様の目の前にあるのは、あの『悪魔』の絵画......一体あの絵の中に、何が潜むというのか。どことなく感じられる禍々しい雰囲気に私は足が竦んで、その場から動けなかった。
「そこにいるのは、誰かしら?」
普段と違う妖しい声色で私を呼んでいる。
「奥様......」
歩み寄ってきた奥様は、非常に残念そうな眼をしていた。私は腰を抜かして、また彼女の眼をじっと見つめていた。けれども、あの時とは確実に意図が違う。見惚れている余裕などはなく、ただ彼女の感情を逆撫でしないよう、様子を窺っている。
「見られてしまっては、仕方がないわね......不本意だったけれど、魔女の人生も意外に悪くなかったわね......」
眉尻を下げて、口角を微妙に上げている。何かを思い返すように頬に手を当てている。私のことなど眼中にないように。何故こんなにも彼女が『観念』を漂わせているのか、それが分からない。魔女であるからだろうか。しかしながら、まともな学のない私には彼女が魔女であることの問題が分からなかった。魔女だとしても、あの抱擁は確かに人肌の温かみがあった。それだけを身体が憶えている。彼女が善い人であることは、私が知っている。故に、私は。
「......どうして」
魔女を、抱き締めた。
☆
妻の英気は順調に養われている。次の子を孕むことになるのも時間の問題だろう。しかしここ最近、俺の中で新たな懸念が浮上してきた。あの乳母......妻との仲睦まじい様子はしばしば目に入っていたが、近頃はやたらと距離感が近い。おかげで妻もあの乳母を気に掛ける頻度が増してきたわけだが、どうにも俺はいけ好かない。乳母を雇う際、目的はあくまでも娘を預かるだけの者を探していた故、素性が曖昧でも低賃金で雇えるあやつを選んだわけだが......あのような行動は訝しまざるを得ない。あるいは、奴が妻を篭絡し権威を得ようとしているのだったら、それは大変な危険因子であろう。解雇したとしても手段を選ばず策を講じてくる気概を持ち合わせているかは分からないが、念には念を入れるべきだ。奴の命はここで絶っておくべきだろう。
思い立ったが吉日。俺は早速従者を呼び出していた。
「『屋根の一部を少し崩せ』......って、どういうことなんです、ご主人?」
「野暮用だ。それ以上は言わん。報酬は出すんだから黙って取り掛かりたまえ」
☆
最近は赤子というものはやはり成長が早いものなんだろうということを実感している。アネモネが以前よりも声を出すことや笑顔を見せることが多くなった気がして嬉しい限りである。奥様はあの一件以来私に恩義を感じているようで、何かとすぐに手伝おうとしてくる。私にとっては大したことをしたつもりもないので申し訳なく思い断っているが、奥様にはどうやら焦りが見える。やはり貴族である以上は義理堅くなければならないプライドがあるのだろうか。ともあれ、彼女によく思ってもらえることはやぶさかではない。彼女の宣言通り、私は確かに居場所を与えてもらっている。寧ろ感謝するべきはこちらなのかもしれない。
暖かい陽が窓から差し込む昼下がりに、私は旦那様から呼び出されていた。彼は如何にも困ったといった表情で、『悪いが......』と切り出した。
「......しかし、旦那様。私はあくまでも一介の乳母であるので......屋根に上って修繕するなど、心得が無いのです」
「今は少し都合が悪くてな。君以外に頼れる者がいなかった。娘は一時的にこちらで預かることが出来るから、安心してくれたまえ」
これはどうしてもやることになる流れだと感じ取った私は、仕方なく依頼を承った。
幼少期はあれだけ高い時計塔の天辺を見て目を輝かせていて、憧憬の念を抱いていたものだが、いざ肉体ばかりが一丁前に成長すると動きが軽やかではなくなって、屋根に上った今は恐怖を感じている。どうか、無事でありますように......その一心で修繕に取り掛かろうとした。その時、自分の体重が、空中へ逃げた。
「え......」
景色が真逆になる。ただ素早く、落ちている。建物の輪郭がぼやけて曖昧に見えるある種の夢見心地に、これまでの思い出が次々と重なった。しかし、地面に衝突する痛みはなく、瞬く間に景色は逆さのままで止まっていた。
「良かった......無事で......」
私は奥様に抱えられていた。しかし彼女は黒の装束を身に纏っていた。一瞬だけ、何が起きているのか分からなかった。真下を見て、私たちが空を飛んでいることに気が付くまでは。
「奥様! そんな、その姿は......」
彼女は何も話さなかった。けれども顔は凛々しいものであった。それが物語る『何か』を、私はなんとなくだが理解していた。
「おい! あいつ空を飛んでる! 魔女だ、魔女が出たぞ! ひっ捕らえろ!」
周囲が喧騒に塗れていく中で、私と奥様の間でだけ、時が止まっていた。沈黙を打ち破ったのは奥様であった。
「アネモネを、どうかお願いね」
私には有無を言わさず、ただそれだけを口にして私を地面に降ろした。私は屋敷へと駆け込んでいった。
荷物をまとめた私はアネモネを抱え王都の往来をひたすらに走っていた。夏の熱帯夜、身体も熱いはずにも関わらず、踏みしめる地面は雪原を走っているかのように私の足取りを重くさせた。炎が燃え盛る音、魔女狩りの達成に喜びを分かち合う民衆の声。後ろでは、既に魔女の処刑が執行されていた。しかし迷いはなく、後ろを振り返ることもせず走り抜けた。やがて門を抜け、林へ入り、脇目も振らず走って、一度呼吸を整える頃には、見晴らしの良い崖に出ていた。アネモネを抱きかかえながら、私は天際にまで広がる夜の藍を見ていた。そこにぶらりと懸かった満月は、私たちを嘲るように酷く輝いていた。
「奥様......お任せください」




