第6章2章 荒れた領地と、セナとの初対面
夜が明け、朝霧に包まれた森を抜けると、わたしたちの前にリューシャル領の町が姿を現した。
「……ここが、リューシャルの町なんですね」
馬車の窓からそっと覗いたわたしの目に映ったのは、想像とはまるで違う景色だった。
瓦屋根の家々は一見整っているけれど、どこか色を失っていた。干された洗濯物はなく、花壇には枯れ草ばかりが風に揺れている。何より、人々の姿があまりに少なかった。
「静かすぎる……」
わたしがそうつぶやくと、隣に座るマイも顔をしかめて窓の外をのぞいた。
「ん……ねぇサチさん、なんか変なにおいがします。土のにおいじゃなくて……もっとこう、濁ってる感じ」
「におい……?」
マイはわたしの袖を引っ張りながら、鼻をぴくぴくと動かしていた。
「はい。人のにおい。困ってる人たちのにおい、っていうか……空気が、苦しそう」
その言葉に、昨夜の焚き火の記憶がふとよみがえった。
──視えた。
黒くねじれた影が町の中心を這うように広がっていく、あの未来視。
それがただの予感でなかったことを、この空気が証明していた。
アルベルト様は静かに馬車から降り、辺りを見回した。
「町の様子は予想以上に悪いな。慎重に行こう」
「はい」
わたしもその言葉にうなずき、マイと共に馬車を降りた。
⸻
屋敷の門前に到着すると、控えていた兵士に案内され、中庭へと通された。
そして──現れたのは、ひとりの少女だった。
金色の長い髪。猫のように尖った耳。凛とした足取りでまっすぐこちらへと歩いてくる。
その姿はまるで、薄氷の上を滑るように、危ういほどにまっすぐだった。
「ようこそ、お越しくださいました。リューシャル家の娘、セナと申します」
透き通るような声だった。けれどその言葉の端々には、張り詰めた何かが感じ取れた。
アルベルト様が一歩前に出て、穏やかな口調で言う。
「セナ嬢……立派になったな。再会できて嬉しい」
「……お会いするのは、十年ぶりでしょうか。わたし、その頃まだ小さくて……正直、あまり覚えていないんです。申し訳ありません……」
気まずそうに微笑むセナは、少しだけ目を伏せた。
「そして、こちらが──」
「はじめまして。私はサチと申します。アルベルト家の……メイドです」
わたしは少し緊張しながら、丁寧に頭を下げた。
セナは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに礼儀正しく会釈を返してくれた。
「アルベルト様からお名前はうかがっております。とても有能な方で、領の改革にも大きく貢献されているとか……」
セナの言葉に、わたしは一瞬だけ目を瞬かせた。
──有能。そう言われるのは嬉しい。でも、どこか評価されすぎているような、くすぐったさを感じてしまう。
「……いえ、そんな。私はまだまだ未熟で、ご主人様に支えられてばかりです」
そう言って、わたしはもう一度小さく頭を下げた。
そのときだった。
すぐそばに立つアルベルト様が、わたしの方をちらりと見て──
ふいに、片目でウィンクをしながら、いたずらっぽく微笑んだ。
「っ……!」
わたしは思わず目を細めて、じっと覗き込むようにアルベルト様の顔を見つめた。
そして、小さくつぶやく。
「……からかってませんか、ご主人様?」
その声は、誰にも聞こえないくらいの小さなものだった。けれど──
横にいたセナが、わずかに目を見開いた。
「……仲が、良いんですね」
セナの声が、ふっと静かにその場の空気に差し込んだ。
思わず、わたしの背筋がぴんと伸びた。
「あっ、いえっ……っ、申し訳ございませんっ!」
顔が熱くなるのを感じながら、わたしは慌てて深々と頭を下げた。
横を見ると、アルベルト様は口元をゆるませて、明らかにニヤニヤしている。
(ご主人様……絶対、わざと……!)
そんな内心の混乱を隠す暇もなく、セナが一歩前に出て、わたしに向かって丁寧に頭を下げた。
「とんでもございません。これからどうぞ、よろしくお願いいたします、サチさん」
その表情は落ち着いていたけれど、わたしにはほんのわずかに、瞳の奥が揺れているように見えた。
目と目が合った。
優しい笑み。でも、その奥には揺れる影のようなものがあった。
マイはふたりを交互に見ながら、「ねぇサチさん、なんかちょっと似てるね」とぽそっとつぶやいた。
「え? 誰と誰が……?」
わたしが問い返すより早く、マイはにこにこと笑って、ふわっとスカートを揺らしていた。
(……セナさんと、わたし?)
「……マイ、セナさんは貴族の方ですよ。わたしなんかと比べるなんて、失礼です」
その声は小さく、けれど思いははっきりと込められていた。
マイははっとして、ぺこりと頭を下げた。
「……ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんです」
わたしは小さく笑って、マイの頭に手をのせた。
「わかってます。ありがと。でもね、ちゃんと敬意は忘れちゃダメですよ?」
「は、はい……」
ぽんぽん、と優しく頭を撫でると、マイは少しだけ照れくさそうに笑った。
屋敷に通されたわたしたちは、広間でセナのご両親──リューシャル侯と夫人と対面した。
「アルベルト殿、遠いところをよくぞ……」
やや痩せた体を起こし、侯爵がかすれた声で迎える。
「お変わりなく見えます、リューシャル侯。……ただ、少々お疲れのようだ」
「……領地のことで、な。いろいろと……いや、娘から詳しく話させよう。お力添え、何卒」
アルベルト様は真剣な表情で頷いた。
「できる限りの支援をいたします。どうかご安心を」
リューシャル夫人が、わたしに目を留めて優しく微笑んだ。
「あなたが……サチさんね。どうか、うちの娘のことをよろしくお願いね」
「はい。精一杯、お支えできるように努めます」
少しだけ表情を緩めたセナが、わたしの方をちらりと見た。
その瞳の奥には、まだ何か言えない想いがあるようだった。
⸻
その夜、簡素な夕食を終えたあと、わたしたちは屋敷内の応接間に集まった。
「町の商人がいなくなり、税収も激減しています。生活必需品の価格も高騰し、領民たちの暮らしは……」
セナは小さく息をつきながら現状を語った。
「原因は分かっているのか?」
アルベルト様の問いに、セナは少しだけ口ごもる。
「噂はあります。物資の横流し、帳簿の改ざん……けれど証拠がなく、動けずにいます」
その瞬間だった。
わたしの視界にふっと何かが流れ込んでくる──
暗い倉庫の中、帳簿を抱える中年の男。誰かに気づかれぬよう、焦った手つきで木箱の奥へと書類を隠す姿。
未来視。ほんの一瞬だけ見えた、誰かの“悪意”。
「これは……ただの不況じゃない。誰かが、意図的にやってます」
「やっぱり」
すぐ横にいたマイがぽつりとつぶやいた。
「サチさん、わたしも感じました。悪いことしてる人のにおいです」
わたしはセナに目を向けた。
「少し、この町を見て回ってもいいですか?」
セナは驚いたようにわたしを見たあと、ゆっくりと頷いた。
「……わたしでは、どうすることもできませんでした。もし、何か分かることがあるのなら……どうか、お願いします」
⸻
この町に潜んでいる“何か”の正体を探るために──
わたしたちの調査が、いま始まろうとしていた。