第6話1章 突然の依頼とリューシャル家への旅立ち
朝の陽射しがやわらかく差し込む書斎で、わたしはそっと扉を開けた。両手には一通の封筒。
「ご主人様、お手紙が届いています」
郵便係の青年が、珍しく神妙な面持ちで手渡してくれた手紙。それは、見覚えのある紋章が封蝋に刻まれた、格式の高い一通だった。
アルベルト様は机の手を止め、わたしから手紙を受け取る。
「ありがとう、サチ」
開封された手紙を読み進めるご主人様の眉間に、ゆっくりと皺が寄っていく。
その表情にかすかな陰りが差すのを、わたしは見逃さなかった。
「ご主人様……何か、あったんですか?」
わたしが尋ねると、アルベルト様は静かに頷いた。
「リューシャル家からの手紙だ。領地の経済が深刻な状況らしく、助けを求められた」
リューシャル家――猫耳獣人の古い名門貴族であり、長きにわたりアルベルト家とは親交を深めてきた家系だ。とくに現当主である夫妻は、ご主人様とも個人的な交流があったと聞いている。そのため今回の手紙も、単なる政務的な依頼ではなく、深い信頼に基づくものだと感じられた。リューシャル家のような誇り高い貴族が、こうして助けを求めること自体がどれほどの覚悟を伴うものか、わたしにも想像がつく。だからこそ、その声に応えたい。わたしにできることがあるのなら、少しでもその力になりたい。
「わたしも……一緒に行きます」
そう言ったわたしに、アルベルト様は微笑んで頷いてくださった。
「もちろんだよ。マイにも同行してもらう。視察という形だが、きみたちの力が必要だ」
マイは最初、少し不安そうに眉を寄せていたけれど、すぐにしっかりとした表情で言った。
「わたしにできることがあるなら……がんばります」
視察先の領地までは、馬車で一週間ほどの道のり。わたしはアルベルト様と旅ができるというだけで、胸が高鳴って仕方なかった。
支度は慌ただしくも楽しかった。旅用の荷物をまとめながら、何を持っていくべきか、どんな服を選ぼうかと迷うのも新鮮で、思わず頬が緩んでしまう。屋敷の厨房では、使用人たちが旅路の食料を用意してくれていて、わたしとマイも簡単な手伝いをした。彼女は「初めての長旅」と少し緊張していたけれど、それでも一生懸命に準備を進める姿が印象的だった。
朝早くに出発する馬車に、わたしたちは揺られて走り出した。
しかし道中は──
「サチさん、こっち……」
マイがわたしの隣にぴったりとくっついて座り、ふにゃっとした笑顔を浮かべてくる。暖かくて、柔らかくて、なんだか落ち着かない。
「ま、マイ……ちょっと暑いんだけど……」
「サチさん、あったかいです……」
うとうとしながらマイがわたしの肩に頭を預けてくる。あぁもう……この子、無自覚でこういうことするから、わたしの心がもたない……!
「ご主人様〜……た、助けてください〜……」
助けを求めた視線を向けると、アルベルト様はくすっと笑いながら、ただ一言。
「サチは人気者だな」
……た、助けてくれる気、ないですよね!?
わたしはぷいっと顔をそらして、腕を組む。視線の端で楽しそうにアルベルト様と話すマイの姿が目に入り、なんだか余計にむずむずしてしまった。
「……別にいいですけど。どうせ、わたしなんか……」
小声でつぶやいてみたものの、馬車の揺れにかき消されて誰にも届かない。わたしはひとり、少しだけ不貞腐れながら、頬をふくらませて窓の外を眺めた。
すると、隣から少し焦ったような気配が伝わってくる。
「……すまない、サチ。別に、無視していたわけじゃないんだ」
アルベルト様の声が聞こえてきて、わたしはびくっと肩をすくめた。
「……お前がどうするか、少し見守ってただけなんだ。下手に手を出して、逆に嫌がられたら困ると思ってな。……気に障ったなら、謝る」
わたしは顔をそむけたまま、小さく「別に……」と呟いたけれど、頬は熱くなっていて。
「……次は、最初からお前の隣に座るようにするよ」
その言葉に、胸がふわっとなった。
わたしは小さく頷きながら、窓の外に視線を戻した。けれど、心の中は少しだけ、晴れていた。
「サチさん、怒ってるの可愛い〜」
隣からマイが楽しそうな声を上げながら、またぴとっとわたしにくっついてくる。
「もう〜!くっつかないでって言ってるでしょ!」
わたしがぷいっと顔をそむけると、マイはまったく気にせず笑っていて、アルベルト様までもがふわりと笑みを浮かべているのが目に入った。
「……もう、2人とも嫌いっ!」
わたしは思わず声を上げて、両腕をぎゅっと組み直す。
でもたぶん、顔は真っ赤になっていた。
「……ごめんね、サチさん。わたし、ちょっとはしゃぎすぎました……」
マイがしょんぼりと肩を落として謝ってくる。続いて、アルベルト様も少し困ったような顔をして口を開いた。
「悪かったな、サチ。冗談が過ぎた」
ふたりのまじめな謝罪に、わたしはむぅっと唇を尖らせたまま、腕を組み直す。
「ふん……許しません!少しは反省してください!」
思わず声を張り上げてしまったけれど、その勢いに自分でも驚いて、わたしはごまかすように視線をそらした。
ふたりはというと、静かになってしまったわたしの態度に気づいたのか、しばらくの間、なんとなく気まずそうな雰囲気で押し黙っていた。どちらもほんの少しだけ肩をすぼめて、わたしの機嫌をうかがっているようだった。
その後の馬車の中は、少しだけ気まずくて、でもどこか心地よい静けさが続いた。誰も何も言わない時間が流れる中、わたしはちらりとアルベルト様の横顔を盗み見て、ひとりで胸を騒がせていた。
そのとき、アルベルト様がわたしの方へと視線を向けた。ほんの少し反省したような表情に、いつもの余裕ある微笑みが添えられていて、思わずドキッとする。
「……さっきは悪かったな、本当に」
その一言に、わたしはふっと力が抜けて、頬の力も自然と緩んだ。
「もう……しょうがないんですから」
マイが心配そうに見ているのに気づいて、わたしは優しく手を伸ばし、彼女の頭をそっと撫でた。
「ちゃんと反省してるなら、許してあげます」
「次は、必ずサチの隣に座らせてくれ」
…もぉ…ご主人様、ずるいです。
──────
旅の道中は穏やかで、時にはわたしの知識で火を起こしたり、マイが道に迷わないように何かを感じ取って進んだり、そんな日々が続いた。
そして、目的の領地の一日前の夜。今夜は近くの森でキャンプを張って休むことになった。
焚き火の火が静かに揺れる中、わたしは胸騒ぎを覚えた。
──視えた。
歪んだ影。黒くねじれた何かが、領地の中心に広がっていく光景。
「ご主人様……マイ、ちょっといいですか」
わたしの表情の変化に気づいたふたりが、すぐに寄ってくる。
「未来視、ですか?」とマイが尋ね、わたしは小さく頷いた。
「はい……リューシャル家には、その…何か、よくないものが潜んでる気がします」
アルベルト様は表情を引き締め、静かに言った。
「明日の視察は慎重に行こう。油断は禁物だ」
焚き火の火が、ぱちりと音を立ててはじけた。
明日、なにが待っているのか。
わたしは、しっかりと胸の奥に力を込めた。