第5話 ご主人様とふたりきり、のはずだったのに…?
屋敷の中庭には、淡く咲いた花々と、そよ風に揺れる木々の音。
午後のひととき、陽光がテーブルの上の紅茶をきらめかせていた。
「……サチ、今日は一緒にお茶を飲もうか」
朝、そう声をかけてきたのはご主人様――アルベルト。
その言葉に、サチはそれはもう心臓が跳ね上がる思いだった。
「は、はいっ……よろこんで……!」
(ど、どうしよう……今日に限って制服のリボン、ちょっと曲がってない?)
鏡の前でリボンを整え、スカートの皺を伸ばし、何度も深呼吸をして――
サチは緊張しながら、庭園のティーテーブルへと向かった。
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「今日は君が淹れてくれた紅茶かな?」
「はい……いつもより、ちょっとだけ濃いめにしてみました」
「ふふ。君の紅茶は、どんな味でも好きだよ」
さらりとした一言に、サチの手がぴくっと止まる。
「も、もう……ご主人様……」
「本当のことを言っただけさ」
アルベルトはカップを持ち上げ、香りを楽しむように目を細める。
その仕草すら優雅で、サチは思わず見とれてしまう。
「……この庭、サチが提案してくれた花を植えてから、少し雰囲気が柔らかくなったね」
「えっ……本当ですか?」
「うん。私は好きだよ、こういう静かな午後も――君と一緒に」
「……っ」
カップを手にしたまま、サチは一瞬言葉を失う。
(なんでそんなこと言うの〜……ズルいですよぉ……)
でも、うれしかった。
胸の奥に、温かいものがじんわりと満ちてくる。
「……わたし、まだまだ至らないところばかりで……マイみたいに明るいわけじゃないし、ドジもするし……」
「そんなふうに思っていたのかい?」
「……はい。でも、こうしてご主人様にお茶を淹れられるようになって……ほんの少しだけ、“屋敷の一員”になれた気がしてるんです」
ご主人様は静かにサチの言葉を聞き、そしてひとこと。
「サチ。君はね、最初から“特別”なんだよ」
「……っ!」
その声は穏やかで、でもどこか深くて――
サチの胸の奥に、まっすぐ届いた。
カップの中の紅茶が、揺れた。
その揺れをそっと見つめながら、サチは少しだけ目を伏せて微笑んだ。
「……ありがとうございます、ご主人様」
アルベルトはカップを持ち上げ、香りを楽しむように目を細める。
サチはそんな彼の横顔を見つめながら、心の中で思った。
(……こうしてふたりでいられる時間、もっと続いてくれたらいいのに)
そんな願いをかけるように、そっとカップを口元へ運ぼうとした――その時だった。
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「サチさ〜ん!!」
遠くから、元気な声が響いてくる。
「……え?」
サチが振り返ると、花の間からひょっこり現れたのは――マイ。
「わ、マイ!?ど、どうしてここに……」
「お茶してるって聞いたから、私も来ちゃいましたっ♪」
にこにこと笑顔を浮かべて、マイは遠慮なくサチの隣にぴたっと座り込む。
ご主人様の目の前なのに、まったく気にする様子はない。
「うわぁ……このスコーン美味しそう……一個だけ……いただきまーす!」
「ちょ、マイ!?それ、ご主人様に……!」
「大丈夫ですよぉ!ご主人様の分もちゃんとありますからぁ!」
「そういう問題じゃなくて!」
アルベルトはそんなふたりを見ながら、くすくすと笑った。
「にぎやかなお茶会も、悪くないね」
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「サチさんってば、ご主人様にばっかり紅茶淹れて……私にも淹れてください〜」
「うぅ……わかったから、そんなにくっつかないで〜……」
「ねぇご主人様、サチさんって照れ屋さんですよね?」
「……ああ、そこが魅力なんだ」
「ちょっ!ご主人様まで何をぉ……!」
サチの顔は、紅茶よりもずっと熱そうに赤く染まっていた。
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その日のティータイムは、最初に思い描いていた“ふたりきり”の時間とは、ちょっと違ってしまったけれど。
――でも。
「……ふふっ」
マイがサチの腕にぴとっとくっつきながら笑うのを見て、
サチは小さくため息をつきながらも、自然と頬がゆるんでいた。
(まあ……こういうのも、悪くないかな)
サチはひとつ深呼吸をして、立ち上がった。
マイはまだスコーンを手にして、口の端にクリームをつけたままご機嫌な顔。
「マイ、もうお皿の片付け始めるよ。ほら、ティーポットも持って」
「は〜い!サチさん、今日の紅茶すごく美味しかったですっ♪」
「えっ……ほんと?よかった!」
「えへへ、でもサチさんが淹れたってわかってたから美味しかったんです♪」
サチはあきれたようにため息をついたけれど、顔はやっぱり、どこか緩んでいた。
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マイがはしゃぐ声とともに、庭園の片隅では夕日が差し込み始める。
ご主人様は最後まで座ったまま、紅茶の香りを楽しみながら、サチたちを見守っていた。
ふと、サチが彼の視線に気づき、そっと目を合わせる。
「……ご主人様?」
「うん。なんでもない」
そう言って、ご主人様は静かに笑った。
(まるで、全部わかっていたかのような……そんな目)
サチは頬をかすかに赤く染めながら、トレーを胸に抱えた。
「それじゃあ、戻りますね」
「……また、こういう時間を作ろう。君と、ふたりで」
サチは小さく頷いた。
「……はい。楽しみにしています」
アルベルトがカップを置き、立ち上がろうとしたその時だった。
――ふわり。
サチが、アルベルトの背中にそっと抱きついた。
ほんの一瞬の出来事。
気づけば、自分の腕が彼の肩にまわっていた。
「……え?」
アルベルトが、驚いたように動きを止める。
「どうしたんだい?急に」
「……っ!!」
はっとして、サチは勢いよく飛び退いた。
「ち、ちがっ……ちがいます!!そのっ、なんか、気持ちが、動いたっていうか……!」
言い訳にならない言い訳を繰り返しながら、サチは耳まで真っ赤にして俯いた。
アルベルトはそんなサチを見て、ふっとやさしく微笑む。
「……気持ちが、動いた。いい言葉だね」
「うぅ……忘れてください……ほんとに……!!」
サチは両手で顔を覆い、半泣きで小走りにその場を離れていく。
アルベルトは紅茶の残り香が漂う空気の中にひとり残り、
その背中を見送りながら、そっとつぶやいた。
「――君は、やっぱり特別だよ」
サチは両手で顔を覆い、耳まで真っ赤にしながら、半泣きで小走りにその場を離れていく。
「うぅぅ……なんでわたし、あんなこと……!もう、バカバカぁ……!」
植え込みの影に隠れるように走り去るその背中を――
「サチさ〜んっ!どこ行くんですか〜!」
ぴょん、と飛び出してきたのは、スコーンを手にしたマイだった。
「ちょ、ちょっと待ってください〜っ!」
「わあっ!?マイ!?ついてこなくていいのっ!」
「でもまだお片付けが残ってますよ〜っ!」
「それはもういいからぁぁ……!」
サチの絶叫と、マイの元気な足音が庭園に響き渡る。
その様子を遠くから見ていたアルベルトは、
静かにティーカップを片付けながら、穏やかに笑った。
「……本当に、にぎやかで、いい屋敷になってきたな」
そして、ふと空を見上げる。
「――さて。そろそろ、あの娘がこの屋敷に来る頃か」
その声は、誰にも聞こえないほど小さくて。
でも、その口元には、どこか懐かしさを帯びたやさしい笑みが浮かんでいた。
春の風が、そっと庭の花を揺らしていた。