第3話 見習いメイドとひとしずくの涙
朝靄の立ちこめる庭園に、馬車の車輪が控えめな音を立てて停まった。
サチは掃除用具を手に、いつものように廊下を磨いていたが、その音にふと顔を上げた。窓の外に映ったのは、一台の黒い馬車。そこから降り立ったのは、サチの見たことのない、女の子だった。
腰まで届く茶色の三つ編みに、清潔なエプロンドレス。目を伏せて緊張気味に立っているその少女の背後に立つのは――王都監察局の男、オルステッド。
「……あれ?なんで、オルステッドさんが?」
数分後、応接室でアルベルトとオルステッドが短く言葉を交わすのを、サチは柱の陰からそっと見守っていた。やがてオルステッドが去り、その場に残されたのは、あの少女と――微笑みを浮かべたご主人様だった。
「サチ、この子は今日からここで見習いメイドとして働く。君の補佐をしてもらうことになるよ」
「……えっ?」
サチの手から、掃除用のタオルがぽとりと落ちた。
「見習い……って、ことは……わたしだけじゃ……足りないってことですか?」
アルベルトは静かに笑った。
「そんなことはない。これは君への“ご褒美”だ。君が一人でがんばりすぎているから――仲間をつけたまでのことだよ」
「……ご褒美……」
心の奥が、少しだけざわついた。サチは俯きながら、小さく頷いた。
その日から、マイの新しい生活が始まった。
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マイはどこか不思議な子だった。
無口で、大人しくて、でも妙に人の動きを先読みするようなところがある。サチが何も言わなくても、雑巾を取りに行ったり、茶器の準備をしたり――まるで、心の中を見透かしているような仕草をするのだった。
「……すごいね、マイ。なんで分かるの?」
「……えっと、たまに……見えるんです。こう、空気の流れというか……“感じ”が……」
マイはそう言って曖昧に微笑んだ。
けれどその“感じ”が、異様なほどに的確だった。
まるで物の“気配”を感じ取るかのように。
サチはどこか心の奥に、うっすらとした不安を抱きながらも、マイの働きぶりを認めざるを得なかった。
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しかし、ある夜のこと。
サチが厨房でひと息ついていると、声が聞こえた。
「よくやってくれているね、マイ。ありがとう」
それは、ご主人様の声だった。
そっと扉の陰から覗くと、アルベルトがマイの頭を優しく撫でているのが見えた。マイは驚いたように目を丸くし、それから小さく微笑んだ。
「……うれしいです。私……誰かに必要とされたの、初めてだから……」
その言葉を聞いた瞬間、サチの胸がちくりと痛んだ。
――なんで、そんな優しい顔をするの。
――私のときは、そんな風に撫でてくれなかったのに。
サチは慌ててその場を離れ、誰もいない廊下で膝を抱えた。
「……わたし、なに嫉妬してるんだろ……」
涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえて、サチは深く息を吐いた。
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翌日、マイの様子がどこかおかしかった。
掃除の手が止まり、所在なげに庭を見つめるその背中に、サチはそっと声をかけた。
「……なにかあった?」
マイは少しの沈黙のあと、ぽつりと呟いた。
「……夢を見たんです。……昔の、夢」
「昔?」
「小さい頃、孤児院で……寒い夜、布団もなくて。誰かに助けてほしくて泣いたけど、誰も来てくれなかった……」
サチはその言葉に、胸を締め付けられるような感覚を覚えた。ゆっくりと、マイの肩に手を置いた。
「……わかりますよ、マイ。……私も、似たようなことあったから」
マイが、はっと顔を上げる。
「わたしね、この世界に来る前は……ひとりぼっちだったの。信じてくれる人も、必要としてくれる人もいなかった。……でも、今は違う」
サチは微笑み、そっとマイの肩を抱き寄せた。
「今は、ここにいる。わたしも、マイも。もう、ひとりじゃないですよ」
マイの目に、涙が溜まり、ぽろりと一粒こぼれた。
「……ありがとうございます、サチさん」
サチは優しく頭を撫でた。まるで、姉のように。
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その夜。
アルベルトがサチに声をかけた。
「サチ、ありがとう。マイを受け入れてくれて」
「……いえ。わたし、ちょっと……ヤキモチ焼いちゃいましたけど」
「ふふ、それも大切な気持ちさ。……君がいてくれるから、マイもここで笑えるようになる。私にとって、君はこの屋敷の心そのものだ」
「……!」
サチの頬が、かあっと赤くなった。
「そ、そんなこと……急に言わないでください!」
「ふふ。おやすみ、サチ」
「……おやすみなさい、ご主人様」
アルベルトが立ち去った後も、サチの胸はぽかぽかと温かかった。
――私は、ここにいていいんだ。
そう思えた夜だった。