第2話 使者は微笑まない
「もうすぐ、王都からの馬車が着くそうです!」
屋敷の門番の報告に、緊張が一気に走った。
朝食を終えたばかりの領主館は、普段とは違う空気に包まれていた。
食堂のカーテンを取り換えるメイド、玄関に飾る花の位置を整える使用人、庭の掃除を念入りにやり直す庭師。
皆が今日の“お客様”に備えて動き回っていた。
「クレアさん、テーブルクロスにシワがあります。アイロンを入れ直してください。エマさん、茶器は銀縁の方を使いましょう」
朝の支度を終えたサチは、落ち着いた声で次々と指示を出していく。
使用人たちはその声に従い、テキパキと持ち場を整えていった。
まるでこの屋敷の心臓のように、サチは中枢で働いている。
けれど、彼女の心はずっと、今朝の最後に見た“未来”の光景に引っかかったままだった。
(ご主人様の隣に立っていた、あの……女の人)
誰なのかも、何者なのかもわからない。
でも確かに、自分ではない“誰か”が、ご主人様と肩を並べていた。
その光景だけが、胸に小さな棘のように残っている。
「……集中しないと。今は目の前のことをしっかりやらなきゃ」
自分に言い聞かせるように、サチはもう一度、茶器の並びを確かめた。
⸻
正午前。
一台の馬車が砂利道を静かに走り抜け、館の前で止まった。
漆黒に銀の紋章――王都監察局の印が刻まれている。
「いらっしゃいませ。遠路お疲れ様でございます」
サチが先頭に立ち、深く礼をする。
馬車の扉が開き、まず降りてきたのは、40代ほどの無表情な男だった。
冷たい眼差しの奥に、何かを測るような知性を感じる。
「王都監察局・オルステッド。領主殿への視察の命を受けてまいりました」
その後ろから、もう一人、少女が姿を現した。
粗末なワンピースを着たその子は、年齢こそサチと近いが、立ち居振る舞いはどこか怯えたようだった。
「ようこそお越しくださいました。アルベルト・リュグナーです。拙い領地ではありますが、どうぞごゆっくりお過ごしください」
ご主人様は穏やかな笑顔で頭を下げる。
その横に立つサチの視線は、無意識に“その少女”に吸い寄せられていた。
(……この子)
その瞬間だった。
サチの視界に、ふわりと光の粒が舞った。
そして――未来が視えた。
屋敷の廊下。
使用人服を身にまとい、笑顔でバケツを運ぶその少女。
他のメイドと笑い合い、サチの背を追いかける姿。
(この子、ここで働く……?)
サチは唇をかすかに引き結ぶ。
未来は確定ではない。けれど、こうすれば、こうなるという“可能性の光”が確かに見えていた。
⸻
応接間には、香ばしい紅茶の香りが満ちていた。
サチが淹れたダージリンに、ミントを一枚浮かべてある。
焼き菓子の皿には、今朝早く焼き上げたレモンタルト。
「非常に整った屋敷ですね。そして……領内の納税率が極めて高いと記録にありました」
オルステッドが紅茶に口をつけながら、目だけでご主人様を見据える。
「ありがたいことに、領民の皆様が協力的でして」
「ですが、通常は“協力的”という理由では、ここまで高い数値は出ません。
特にこの二年での急激な改善……その裏には何か“新しい手法”があるのでは?」
ご主人様は一瞬だけ表情を止め、すぐに柔らかな笑顔で答えた。
「いくつか、小さな見直しをした程度です。たとえば、収穫高に応じた変動制への切り替えや、税務報告の簡略化など」
「……なるほど。定額制の撤廃、ですか。反発は?」
「最初はありましたが、制度を“見える化”したことで、納得してもらえるようになりました」
その言葉に、オルステッドは静かに眉を上げた。
サチは横で、お茶の温度を確かめながら、内心でご主人様を称賛していた。
(あんな言い方、してなかったですよ……。やっぱりご主人様って、すごい)
でも同時に、未来視で知っている。
この領地の経済を支える新しい流通ルート、税制の見直し、そして徴税人の選抜――
そのすべての土台には、サチの“視える力”があった。
けれど、それは誰にも知られてはならない。
ましてや、王都の使者には。
サチは静かに、ティーポットを傾けながら、使者の背後に立つ少女を見やった。
⸻
午後、来訪者の応対を終えたご主人様が、中庭のベンチに座っていた。
その隣に、サチが紅茶を載せたトレイを手に、そっと現れる。
「お疲れ様でした、ご主人様。……お茶、淹れてきました」
「ありがとう、サチ。……なんだか、今日はすごく長く感じたよ」
「……お上手ですね。まだ午後二時です」
ご主人様が苦笑し、サチはティーカップを手渡す。
「オルステッド殿は、どう見ても“探って”いましたね」
「うん。視察じゃなくて、査問に来たみたいだった」
「それでも、うまくかわしてました。さすがご主人様です」
「いや、それは……君のおかげだよ。サチがいてくれるから、僕は安心して話せる」
その一言に、サチの胸が、ぽっ……と温かくなる。
(私が……いて、よかったんだ)
ふと、ご主人様がカップを置き、遠くを見た。
「ねえ、サチ。……あの少女、マイって名前らしい」
「……はい」
「王都で孤児として育てられたけど、身分も職もなくて、今はオルステッドの随行にくっついているだけだとか。
でも彼女、“ここで働きたい”って言ってたよ」
サチは視えた未来を思い出す。
笑顔でメイド服を着る、あのまっすぐな目をした少女。
「……ご主人様の判断に、お任せします」
「違うよ。君に任せたい。君の見る未来は、誰よりも正しいから」
目を見開くサチに、ご主人様は真っすぐ視線を送る。
そのまなざしに、心がじんわりと温まっていく。
「……わかりました。もう少し、彼女のこと……見てみます」
「ありがとう」
ご主人様が優しく微笑む。
サチも、それに応えるように、小さく頷いた。
風が、ふたりの間をやさしく通り抜ける。
サチの胸の中で、“何か”が変わり始めていた。