つぼのいしぶみ@多賀城
先日、芭蕉の『おくのほそ道』(萩原恭男 校注、岩波文庫)を読んでいると、「つぼのいしぶみ」なる風変わりな石碑が出て来た。どうやら、多賀城にまつわるものらしい。その文面を芭蕉は採録しているのだが、私の注意を引いたのは、むしろ本文の下欄にある注の方。そもそも、本文より注が好きなのでは、との疑いのある私である。読まないという択は無いのだが。
そして、その中に私の関心を引き立てるものがあった。「靺鞨国」である。あな珍し。その部分を書き下してみる。原文は漢文である。[]内は私による補足。
『多賀城は
京[=平城京]を去ること、一千五百里。
蝦夷国の[境]界を去ること、一百廿十[=120]里。
常陸国[=ほぼ現在の茨城県]の[境]界を去ること、四百十二里。
下野国[=現在の栃木県]の[境]界を去ること、二百七十四里。
靺鞨国の[境]界を去ること、三千里』
おお。こんなところに『母をたずねて三千里』の源流が。いや、違うだろう。ただ、いい話だったな。懐かしいな。マルコ。あれは確かイタリアからアルゼンチンへ海を渡る話だったな。
そう。そして、そこは靺鞨国も同じ。日本海を渡った先にあった。今の沿海州あたりに住んでいた人びとであり、唐代の名である。
彼らは後に女真と記され、金国を建てる。更に後には満州人と自称し、清国を建てる。
ただ、勘がいい人ならば、ここで少し疑問を抱くはずである。あれっと。そもそも、常陸や下野も国と呼ぶとはいえ、蝦夷や靺鞨と同列に並べていいのと。
まあ、そちらの方角にふさわしき国がなければ、仕方なしか。それに、そもそも多賀城というのは、蝦夷に対する前線拠点として造られたのだから、蝦夷については、ここに記してしかるべきと納得できないこともない。
では、靺鞨は? ここで、多賀城がどこにあるかを知っている人なら、こうつぶやくはずである。出羽国はどうした? そう、多賀城というのは、太平洋側にある。なので、ここに靺鞨国が記されているのは、かなり意図的というか、クセが強いというか、少なくとも特別な目的があると見るべきであろう。
ここで靺鞨人がどういう存在なのか、改めて述べるとしよう。朝鮮半島の北に当たる沿海州から、満州本土(現中国東北部)にかけてのかなり広い地に住んだ。ただ、言葉は朝鮮語と異なる。後世の活躍については、先述した。それでは、このとき、際だった動きが無いかというと、あるのである。渤海国を建てたのである。
ただ、彼らを理解するにおいて、多少やっかいなところというか、複雑なところもある。彼らは同時に高句麗の遺民でもあった。これより、想定されるのは、次のような展開であろう。滅んだ高句麗勢の一部が中心となって渤海を建国したのである。
そして、この勢力は次の二つに分類できよう。
①朝鮮語を母語とする朝鮮人の勢力。
②高句麗に服属していた靺鞨人の勢力。ゆえに、彼らは高句麗化されたと考えられる。その度合いは、言語から習俗まで、様々であろう。
また、①と②の間では通婚もなされたであろう。そして①のみでなく、②も高句麗の遺民と称しうるし、また、称したのであろう。
そして、王族の大氏も含め、その中心をなした氏族が、各々①と②のいずれなのか、そして①と②の割合などはそれほど判明ではない。
ただ、渤海の始祖たる大祚栄の父の名を、新唐書は乞乞仲象と伝えるので、これを信じるなら、王族の大氏は②であるといえよう。
そして、この渤海が日本に朝貢したのである。
それなら、この多賀城の碑は、『靺鞨』ではなく、『渤海』とすべきだと、考えられる方もおられるようである。そして、このことを根拠の一つとして、この石碑が後世に偽造されたものとの主張もあるようである。
確かに、多賀城が日本海側にあれば、そうかも、とは想う。渤海船は航行能力が低く、それゆえ、潮流や風を頼りに、陸地沿いを進まねばならかったとのこと。とすれば、渤海船が近郊に至り、この石碑を見ることもありえたであろう。
ただ、これがあるのは先述の如く、太平洋側。それでは、これは誰に向けて書かれたのか? それを考える前に、この碑の後文を紹介しておこう。
『この城は神亀元年[724年。聖武天皇即位の年]、歳次は甲子、按察使 兼 鎮守将軍・従四位上勲四等である大野朝臣 東人の置く所[=築城]。
天平宝字六年[762年。淳仁天皇]、歳次は壬寅、参議・東海東山節度使・従四位上・仁部省卿 兼 按察使・鎮守将軍である藤原恵美朝臣 朝獦が修造[=修繕]した。
天平宝字六年十二月一日』
あまりに簡素というほかない。碑文といっても、高句麗の好太王碑や突厥のオルホン碑文のようなものを期待してはいけないのである。
ただ、それでもこれは日本の古代の三碑に挙げられるほど稀少なものでもあるらしい。これは私見であるが、そもそもはもっとたくさんあったが、城の石垣などに利用されて、残存しているものが減ってしまったのではないかと想う。
先の文面について、ここで補足しておく。歳次は干支のことである。字義通りに読めば、『歳[星](=木星)が甲子[の星座]に次る』となる。なぜ、こういう表現をするかというと、そもそも十二年を一巡りとする発想は、木星が十二年をかけて天空上の元の位置に戻ることに端を発するゆえである。中国の戦国時代にまでさかのぼりうるという。
(おまけ 天空上の星座の配置は、地球の公転のみによるもの(太陽も星座をなす星々も動いていない)。なので、一年かけて地球が元の位置に戻れば、星座も元の配置に戻る。ただ、木星(や他の惑星)は地球同様、動いている(公転している)ので、かような天文現象となる訳である)
按察使、節度使ともに唐の武官職である。使は武官を示す。
元号の「神亀」と「天平宝字」は日本独自のものであるが、元号使用が大陸由来であることは、言うまでもない。独自元号の使用は、日本が独立していることを間接的にであれ示すという点で重要である。後代のことであるが、朝貢して来た(――名目的にであれ帰服や臣従の意となる――)高麗が独自の元号を使用していることに対し、宋は文句を言っている。
いずれにしろ、ここで重要なことは、この短い文のほぼほぼ全てが大陸由来の教養で書かれていること。そして、そうなった根底にあるものは何かといえば、往時の政権の国家観がほぼほぼ大陸由来のものであったからである。
ともすると、これは不思議に思えるかも知れないが、現代の我々の国家観――特に制度の面――をかえりみてみれば良い。ほぼほぼ、外来の西洋思想に由来するものとなっているのではないか? そして、これは日本のみならず、現代において、多くの国々でみられることでもある。
先の問いに戻ろう。果たして、これは誰に向けてのものか? 京の大通りに建てられたものではない。それどころか、はるかに遠く、前線拠点に建てられたもの。京からの使者は来るかもしれぬ。ただ、皇族や貴族などの朝廷で権力を握る者たちが、わざわざ訪れることはほぼ無いであろう。ここで軍務に就く当人たちを除けばではあるが。
この石碑に名を残す藤原 朝獦。恐らく、この石碑を建てさせたのもこの者と考えられている。その父は、あの乱を起こした仲麻呂である。仲麻呂は一時まさに朝廷を牛耳った。乱には朝獦も加わるが、敗れ、父とともに斬られる。多賀城修造からわずか二年後のことである。
それでは、問いの答えとは? そんなに難しくない。そう。蝦夷相手である。蝦夷が漢文など読めるはずないではないかと想われるかもしれない。しかし、ゆえにこそ、石碑という人目につくものに刻んだのである。碑は高さ196cm、幅92cm、篤さ70cmと、この字数にしては大きなものが用いられている。
多賀城は最前線にあったとはいえ、常に交戦状態にあったはずもなく、蝦夷側の交易商人や有力者が訪れることは少なくなかったであろう。石碑を見た彼らが、あれは何だと尋ねたであろうことは、容易に想像がつく。城の者は、待ってましたとばかりに説明すれば良い。
そして、ここにおいて『靺鞨』との語が意味をなすのである。
先に述べた通り、渤海の使者の船は陸地沿いを進んだ。そして、交易を目的とした船も同様であろう。日本海側を北上していけば、これらは、やがて蝦夷の領土の沿岸に至る。つまり、蝦夷は靺鞨を知っていた可能性が高いのである。もちろん、多賀城近辺に住む者たちは直接、会ったことは無いであろう。しかし、伝聞や噂、更には交易品も流れて来よう。その靺鞨が朝貢――つまり帰服しているのだ。そなたたちも帰服せよという訳である。
また、ここでようやく渤海の名を用いられぬ理由を説明できる。渤海との国名は、唐の皇帝がその朝貢を臣従とみなし、与えた称号――渤海郡王――に基づく。これを日本への朝貢と合わせ考えれば、渤海の二心と言わざるを得ない。この石碑が蝦夷の帰服をうながすためならば、これほどふさわしくないものはないとなろう。
(ちなみに朝貢を受ける側は、名目的であれ、これを帰服、更には臣従とみなす。ただ、朝貢交易との言葉のある如く、朝貢する側は単に交易を求めているだけ、というのはしばしばあることである。恐らくこのときの渤海もそうであろう)
また、これは当然、蝦夷の預かり知らぬことであるが、遠方の国の朝貢ほど価値が高い。それだけ、その国なり支配者なりの徳が及んで、帰服をうながしているとみなされるからである。そして、これが、石碑に三千里も離れた靺鞨の名を記すもう一つの理由でもある。そう。往時、この朝獦が父仲麻呂と共に推戴する淳仁天皇の徳を誇るためである。