夏休みは嫌い 第一話 来るひと
りーん。
しゃく、しゃくしゃく……。
ああ、そうだった。
ひと言つぶやいて、撫子さんが立ち上がる。
わたしは、こめかみに響くかき氷の冷たさを味わいながら、奥の台所に向かう撫子さんの背中を、縁側から見送った。
りーん、としゃくしゃく。
あるいは、頭上で揺れる風鈴の澄んだ音色と、ステンレスの匙がガラスの器に盛られた雪氷を混ぜる音。
そこに撫子さんの体の割に小さくない足音と、水屋や冷蔵庫の扉を開け閉めする忙しない音が混じり合う夕刻。
「ないわね――――どこにしまったのかしら」
珠暖簾の向こうで、撫子さんが嘆息した。
「なんです?」
わたしは聞き返す。そこで撫子さんの言葉と、表玄関の呼び鈴がぶつかり合った。
れん……ぽーん!
理解。
わたしが手の中のガラス容器を置いて立ち上がったとき、表玄関に来訪した客が、気配を察して庭へ回ってきた。
「あのう……ごめんください」
と同時に、台所から撫子さんも戻ってきた。
「ねえ金魚さん、練乳知らない? 春に莓プールやったとき、たくさん買いだめしたはずなんだけど」
わたしは、居間の茶箪笥の引き出しに手をかけたまま固まる。
珠暖簾の隙間から来客と見合っている撫子さんと、困り眉のついた固ゆで卵みたいな顔をした見知らぬ女性と、手を引かれている花火柄の浴衣姿をきた小学生くらいのおかっぱ頭の女の子の三竦み。
はさまれて考える。
優先順位はどっち。
コンマ数秒間の黙考のあと
「――――はい」
わたしは取り敢えず近くにいた撫子さんに、お望みの練乳チューブの未開封品をひとつ手渡すことにした。
「あら……ここだったの」
「莓プールのあと、一気食べしちゃうからって隠したじゃないですか」
「誰が?」
撫子さんがそれを受け取るのと同時、浴衣姿の女の子が泣き出した。
うえーーーん。
うえーーーん。
うえーーーん。うえーーーん。
「あらあら……あらあらあら」
見知らぬ女性は、困り眉をますます困らせて女の子と撫子さんと、どうやら優先順位を間違えたらしいわたしに目で訴えかける。
いやあ。
わたしが客人に負けない困り顔で頭をかく。子供は泣き、練乳チューブ片手に撫子さんは動じない。
客人はどうやらその一瞬で家の主を見定めたらしく、身体ばかり大きいわたしでなく小さいほうの撫子さんに向き直った。
「そこの公園の前で泣いてらしたんです。こちらの――――ハルネさんのお子さんだと伺って」
ああ。撫子さんの眉が片方、ぴくりと動く。
「わたしの子供ではないけれど」
うえーーーん。
「ちがうんですか!」客人はうろたえた。
「困ったわ……わたし仕事の帰りで、これから買い物をしてこどもを保育所に迎えに行かなくちゃならないんです。このお子さんよりずっと小さい子です」
うえーーーん。
うえーーーん。
「それはおつかれさまですね」
「はい――――ですので」
ここから先は、あんたんところでこの子をなんとかしてくれ。
そう女性の顔には書いてあった。連れてきたのはただの親切だからと、念の気圧しも忘れずに。
うえーーーん。
うえーーーん。
撫子さんは、やれやれと手を差し出す。
「わかりました。わたしの子ではないですけど、確かに『うちのもの』なので引き取りますよ」
「ま」
女性は子供の手をぱっと離して、それからちょっと理不尽そうな顔つきになったが、これ以上関わり合いたくないらしく子供に間違いないかと尋ねるのはやめにしたようだ。
それでは――――と踵を返す。
撫子さんはぺこりと頭を下げる。
「どうもお世話をおかけしました――――嘘泣きはおやめ!」
同時にびくりと、子供の肩と去って行く女性の背中が跳ねる。
「……ち。ばれたか」
子供はふいに歯を見せて笑った。
女性は一度だけそれを振り返った。全身が安堵に包まれ、誤魔化し笑いに揺れる。
「あらあら……おほほほほ」
りーん。
あらあらあら。
りーん、りーん。
おほほほほ……。
「まあ、おあがんなさいよ」
「言われなくてもそうする」
すっかりかき氷が溶けている。
風鈴は絶好調だ。
「――――で」
「……でって」
「……で、よ」
「……で、ね」
わたしは睨み合っている小さなふたりの横で、液体になったコルピス氷を飲み干す。
うまい。
さすがコルピス。氷に掛けても冷たい水に溶かしてもうまい。乳酸菌も活きている。
そうそう。撫子さんは、このコルピス氷に練乳をトッピングしようとしたのだが、放置されたそれは、はやただの氷水になりかけている。
撫子さんが咳払いをひとつ。
折れたのは子供の方だった。
「小芝居は悪かったわ。でも迷子は本当――――三年ぶりで迷ったの。病院も商店街も様変わりして。誰も外を歩いてないしマスクしてるし、一体、世界はどうしちゃったの」
「この三年、世間はたいへんだったから――――病院は移転、商店街のお店も半分は畳んで、もう半分は時間短縮で営業されてるわ。子供たちも夏休みがあったりなかったり」
「全然、知らなかった」
「……そうでしょうね」
浴衣姿の子供は、撫子さんそっくりにふうむと唸って腕を組む。
本当に似てる。
声も仕草も、いちいち揃う。
ふたりとも小柄で(片方は子供で、もう片方は年寄り)、おかっぱ頭は末広がりで、眉毛がぽやっとして(世間ではこういうのをマロ眉と呼ぶらしい)、手足が細短く、大きな目は黒目勝ちで、声も動作もきびきびしている。
これはもう――――。
血縁なのは間違いないだろう。撫子さんが『うちのもの』だなんて、持って回った言い方をした理由はさておき。
りーん。
さきに腕を解いたのは撫子さんだった。
「いつまでもこうしてても仕方ないね」
「ところで、あなたたち何してたの?」
「氷がとけちゃった。作り直さなきゃ」
「かき氷? わたしも欲しい。いい?」
もちろん。
立ち上がった二人の目線がちょうど合う。それから、撫子さんが練乳チューブを掲げると、子供の横顔がニカッと微笑んだ。
「そういえば、『このひと』誰なの?」
「そういや、まだ話してなかったわね」
二人同時に振り返ったところは、確かに撫子さんの子供というより年の離れたふたごといった感じ――――いや、待って。
今なんか理屈に合わないおかしなことを考えた気がするので、それは訂正。
金魚さん。
改めて呼ばれたわたしは、背筋を正した。
撫子さんが海外ドラマ風に紹介する。
「金魚さん、うらら――――うらら、こちら金魚さん」
よろしくお願いします。
深々とわたしが頭を下げているうちに、ふたりは珠暖簾を潜って台所に行ってしまった。
「あのひと、前はいなかったでしょ」
「三年前の夏に、水槽が壊れたのよ」
「ええ? じゃあ、あのときの金魚」
「ええ。そう、あのときの金魚なの」
ずいぶん、育ったのねえ。
そうなの、育っちゃって。
珠暖簾越しの視線にわたしは、またぺこりと頭を下げる。
こうやって見てると、ダブルキャストのお芝居か、どちらも人間の腹話術みたい。
……りーん。
風が凪いできた。
縁側で足をぷらぷらさせて涼みながら、遠くに鎮守の森から聞こえてくるヒグラシの音を聞いていると、撫子さんが背中から声を掛けてきた。
「金魚さんも、もう一杯かき氷いかが?」
いただきます!
そう振り返った背中にいたのは、撫子さんではなく浴衣姿の子供、うららちゃんだった。
ふひひひひ。
「撫子と間違えた?」
「てへ」
ぶひひひひ。
「はい、おかわりイチゴどうぞ。二杯目だから小盛りだよ」
「お気遣い痛み入ります」
練乳のかかったイチゴの氷を手渡され、わたしはまたしゃくしゃく。
その間に、うららちゃんは指でわたしのくりくりした赤毛をつつき、丸襟のフリル襟に隠したエラのあとに、ひとしきり感心した。
「やっぱ……おっきいねぇ」
「なにせ水槽に二十年もいましたから」
「でも、もうすっかりニンゲンじゃない」
「そう見えますか。恐縮です」
「そういや金魚ってさ、野生に戻ると鮒になるんでしょ」
「え――――わたしは鮒にはなりませんよ。野に放たれても金魚です」
「そうなんだ」
「海外では、外来種として赤いまま湖沼で巨大化したり、時には大繁殖することもあるってネットで見ました。弱いと思われがちですが、意外に環境に適応しやすいんです」
「じゃ、金魚さんがひとになったのは、水槽の中でうちの環境に適応したのかな」
「ああ、それはあるかも知れません」
「外に出られてよかったねえ」
「外に出られてよかったです」
「このまま野良にもなれるかもよ。やってみたら?」
野良――――?
「そういえば、野良と野生の違いって、間にひとが入るかどうかという説があります」
「どういうこと?」
「ひとによる改良種や家畜が自然に放たれると野良、自然に棲息するものは野生と呼ぶ説なんです」
「野良金魚かあ……いいね」
「いい――――でしょうか」
いいじゃない。
うららちゃんは頷く。
「わたしはずっと野良暮らしだもの。気ままなものよ」
気まま、ですか。
「ええ。あなたは水槽の中のことを覚えてる?」
「ぼんやりと……ですが」
「今とどっちが楽しい?」
「断然、今が楽しいです」
うららちゃんは感心しながら頷いてくれる。
「もっといろいろ聞いてください」
「もっといろいろって?」
「――――そうですねえ」
わたしは人間かオア金魚か。
金魚か金魚みたいな何かか。
あるいはなんで話せるのか(もちろん、このように読み書きもできますよ)。
なんで縁側に足を投げ出して座ってるのか。そもそもなんで足があるのか。
なんでかき氷を食べられるのか(好物は、撫子さんの作ってくれるごはんとイチゴパフェと三毛猫亭のオムライスです)。
自分では、いっぱし謎多き存在のつもりなんだけど、突然現れたうららちゃんにわたしはどう見えるのだろう。
聞きたくない?
聞きたくない?
ワクワクしながらうららちゃんを見つめると、くすくすと笑われた。
聞いて。
聞いて。
うららちゃんはくすぐったそうに、距離を詰めるわたしの脇腹をつつく。
そこに撫子さんが戻ってきた。
「ねえ氷屋さん、絶対、はかり間違って持ってきたんだよ――――見て、氷こんなに余っちゃった」
シンクで使うたらい山盛りに掻いた真っ白な氷に、赤いスコップまでぶっ刺して。
「もうかき氷はお腹いっぱい」
「なんなら雪合戦でもする?」
最初からそのつもりでしょ。
「やるか?」
「やるか!」
「やるかあ」
わたしたちは互いを見つめあい、一呼吸の後、同時に三方からたらいへ手を延ばす。
ひゃっこい氷を一掴みにして、ぎゅっぎゅとまとめ、狙いを定めて――――。
戦闘開始!
――――そして、あっさり終了。
結局、わたしたちは早々に雪合戦にも飽き、どこでそうなったか、途中から白玉団子作りに夢中になる。
「はーおなかいっぱい」
わたしとうららちゃんがヘモグロビン型にまとめた団子は、撫子さんがつるつるに茹であげ、黒蜜きな粉と共にみんなのお腹に収まった。
おかげでお夕飯に取って置いた巻き寿司に、誰も手を出さない。
「ああ、これからお祭りだってのに」
「まあ、屋台を回れば、お腹ぐらいすぐに空くよ」
そうそう、忘れてた。
夏祭り。
さっきふたりも話してたけど、今年は三年ぶりの開催なのだそうだ。
「浴衣、どれにする?――――」
片付けも早々に、和箪笥から出した浴衣を衣紋掛へ掛けていく。和裁も洋裁もお得意な撫子さんは、結構な衣装持ちだ。
「どれも素敵ですねえ」
「帯と下駄はこっちよ」
衣装ケースを引っ張って撫子さんが蓋をあける。
無臭防虫剤の山をかきわけると、さらなるお宝が顔を出した。
うららちゃんは、桃色菊花の浴衣に山吹の帯、撫子さんも藍に波千鳥の粋な浴衣に縞の帯を選んだ。
「髪はどうする?」
「わたしは、お団子につげの櫛にするわ」
「いいなあ。わたしはリボンくらいしか」
「そこはトシ相応だし仕方ないわよ」
「そうね。千鳥の櫛がうらやましい」
わいわいと、お互いの浴衣や飾りを当てっこする撫子さんとうららちゃんは、とても楽しそうだ。
ふたりが仲のいい家族なのは、もう疑う余地もない。
孫と祖母。
団子を作りながらそう教えて貰ったが、ただ、どちらがどちらという点で二人の話が行き違って、まいった。
『見た目が孫』と撫子さんが言えば、『中身が孫』とうららちゃんが返す。
『血筋の上で祖母』と撫子さんが言うと、『生物学的に祖母』とうららちゃんが返す。
という具合。
ボーン。
ボーン。
ボーン。
ボーン。
ボーン……。
そこで不意に居間の掛け時計が、五時を打った。
「あら、もうこんな時間! 提灯を神社まで持っていかなきゃ」
うららちゃんとはしゃいでいた撫子さんが、柱を仰ぎ見る。
「わたしが行ってきましょうか」
「あら、お願いできる?」
「お安いご用です」
わたしは玄関でサンダルに履き替えた。
「悪いわね、金魚さん」
町内会の集会所の場所を確かめ、手順を聞く。
角を二つ曲がったところでは、すでに役職の皆さんが集まっていた。ハルネを名乗って挨拶すると「ちょうどいいところに」と、プレハブの前に押し出される。
どうやら、わたしが一番若く背が高いらしい。
そういうことなら。
「上にある、あの大きな箱をふたつ取って貰えないかな」
「はいはーい」
「ついでに奥の台車も出して、そのまま乗っけてくれるかい」
「おまかせください」
ひとの役に立てるのは嬉しい。
わたしは物置から提灯のはいった大きな段ボール箱を出し、神社前まで台車を押して行った。
その間にも町内会長さんと副会長さんの楽しいおしゃべりが止まらない。
「金魚ちゃんも撫子さんと一緒に、あとでお祭りにくるかい?」
行きます、とわたしは頷いた。
「ぜひ自治会のブースにもおいでよ」
「うちの町内は、関西風たこ焼きの屋台を出すよ」
そうなんですね。
「味はお墨付きだから期待してて」
「今日の日のためにね、知り合いのお店で修行したんだ。おだしで伸ばした薄い生地を、こう……くるっくるって丸めてひっくり返すのが難しくてね」
「会長さんはこう見えて、器用なんだよ。もう手早い、手早い」
「こう見えては、余計だよお」
あはははは。
みんな活き活き、楽しそう。
現地に大きなダンボールを手渡すと、そこでいったんわたしは帰宅する。
「またあとでね」
「撫子さんによろしくね」
いつもと違う町の色。
暮れなずむ夕べが、にわかに浮き足立つ。シャッターのしまった商店街にも花灯籠が飾られ、重なり合う幟がはためく。
町内会の法被を着たひと。
鮮やかな飾りを挿した女性の、結い上げた後れ毛が、団扇の風に揺れている。
行き交う台車にはビール樽やくじ引きの景品。さらにラムネの瓶ケース。
わくわくと胸躍るお祭りの気配が、あちらからこちらから迫ってくる。
鼻歌交じりにうちに戻ると、ふたりともすっかり身支度が出来ていて、わたしは玄関先で手を引かれた。
「遅いよ、金魚ちゃん」
「早く早く、用意して」
「え、でも……」
言葉に詰まっていると、撫子さんは自分の倍くらいもある大きな浴衣を出して来た。
「ほら。見て!」
わたしは目をぱちくりとさせた。
「これは……」
「あんたのよ」
「浴衣、着てみたいでしょ?」
「着てみたいです!」
「じゃ帯はわたしが締めるから。着付けは任せて」
うららちゃんが、どんと胸を叩いた。
「うららちゃん上手なのよ」
「お太鼓にする? それとも蝶々にする?」
え、え?
「わ……わかんないです」
「かわいいほうよ。絶対かわいいほうにして。似合うから」
「先に、さっとシャワーしてらっしゃい。天花粉つけたげる」
「髪はそのままでいいからね」
「は……はい?」
えっと。
ええっと。
「さあさあ、いそいで」
そこからはふたりに急かされ、わたしもすっかりお祭り仕様に変身した。
水色地に金魚がらの浴衣は、私のために撫子さんが仕立ててくれたという。
ぷくぷくあぶくに水草と、赤黒の金魚柄のなんと幸せそうなこと。
濃い赤の帯は、きれいな蝶々にうららちゃんが結んでくれた。ポニーテールの飾りも赤、塗り下駄の鼻緒もお揃いだ。歩くとリンリン鈴の音がする。
「よく似合ってるわよ」
「……ありがとうございます」
「ダブル金魚だもんね」
「いやあ……うふふふ」
すっかりわたしは舞い上がり、玄関の先の姿見の前でくるりと振り返ったり、斜めになったりしてみた。
「花火は何時から?」
「八時かしら」
「屋台は?」
「さっき提灯を渡しに行ったとき、もうどこもあらかた準備ができてましたよ」
わああああ。
うららちゃんが玄関で下駄の足を踏み鳴らした。
「行かなくちゃ、行かなくちゃ」
「行ってらっしゃいよ」
「行ってきます!」
「あ、待って」
玄関の引き戸をがらりと開けたうららちゃんの手を引いた撫子さんは、ふところから赤いフェルト製のがま口を取り出し、千円札を二枚入れた。
「あと、これもね」
自分の黄色いがま口につけていた浜千鳥の根付けをはずして、一緒に手渡す。
「もうひとつ持ってるから」
「へへえ……ありがとう!」
うららちゃんが飛び出していく。
からころと下駄の歯と前金が庭石を蹴る音がして、すぐにうららちゃんの姿は表通りに消えて行った。
「せわしないこと」
撫子さんは微笑む。
「じゃ、わたし達も行きましょうか」
撫子さんが玄関に鍵をかける。
日は落ち、菫色の闇があたりを染め始めていた。
カチャリと錠のかかる音がするまで、思ったより長かったような気がする。
ふわりと何かが鼻先をかすめ、わたしは目を上げた。
宙に光の玉が飛んでいた。
こうしている今も、すぐそばの庭の植え込みから、ぽう……ぽうと金色の淡い光が立ち上り、丸く小さな玉になる。
「これは……?」
蛍のようなその光が、『ハルネ』の表札のかかったうちの庭からも、向かいの家からも、電信柱からも、ゆらゆらと立ち上り宵に煌めくのを、わたしは見上げていた。
「こんな夜に灯りは野暮ね」
片手にもった懐中電灯のスイッチをパチリと消して、撫子さんは微笑んだ。
そのすぐ傍らを、またひとつ、さらにふたつ。
ぽう……ぽう。
ぽう。
蛍の光より大きく、淡く、シャボン玉よりくっきりと。
「金魚や、あんたも見えるの?」
「――――ええ」
「なんとも賑やかなことよねえ」
「今夜は、お祭りだからですか」
そうねえ。
そう呟いたあと、ふと撫子さんは微笑んだ。
「なにしろ三年ぶりだしね。みんな嬉しいのよ」
「――――みんな?」
わたしは小さく息をついて、そのきらめく光の粒が、雲を染める黄昏の残照と溶け合っていくのを見送る。
「この光のひとつひとつ――――どれも誰かなのですか」
遠くで名残のヒグラシが鳴いていた。
氏神様の夏祭りのお囃子が始まるのは、まだあと少し。
そうね、と撫子さんが言う。
「誰かなのか、夢なのか、別の何かなのか」
わからないのだと、小さく首を振る。
「名前なんて所詮はひとが勝手につけるものだから、正しい意味はわたしも知らない。でもひとつひとつ――――どこの誰の、どんなものなんだかわからなくても……ただ『在る』んだと思う」
「ある? じゃあ、いずれなくなってしまうのでしょうか」
さあね。
「わたしも、もうその辺のことは気にしなくなって久しいから」
ほう。
わたしは小さく息を付く。
「……でも、綺麗なものですねえ」
そうね。と撫子さんは笑って、歩き出した。
「今日は、ありがとう」
「いえいえ。こちらこそ」
「あんたは、本当にいい金魚ね」
その言葉を聞いたとき、ぷくりとひとつ、わたしの口元からも金のあぶくがこぼれる。
いつか、毎日――――。
水の中で、この言葉を聞いていた気がした。
毎日、いつか。
わたしの吐いた金色のあぶくも光の玉と混じり合い、きらめきながら夜空に吸い込まれて行く。
みんな。
みんな――――。
わたしも、みんな。
天から目を戻すと、撫子さんが微笑んでいた。
「あの子のことは、道すがらに話そうか。あんたも無関係では、ないものね」
シリーズ小説『うらら・のら』 作 桃正宗・佳原安寿
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