第305話 支配の断罪
時を追うごとに激しさを増す風圧は、もはや空気と呼べる範疇を越えていた。
大抵の者なら呼吸すらままならず、地面に張り付かされるだろう。
天刑の技巧――それは風と重力を束ねた範囲環境支配。
使える地形は限局されるのだろうが、その完成度は非常に高い。むしろ、この切り立った岩壁に囲まれた天狗谷であるからこそ、ここまで凶悪なものになっているとも言える。
一歩踏み出すごとに骨が軋む。
呼吸一つで肺が潰れそうになる。
そんな中、天刑の持つ鋼扇が、ゆるりと開かれる。
「この谷は、私の定めた掟の中にある」
発せられる言葉の音圧と共に、空気の重さがさらに増す。
「それに抗うというのならば――潰れろ」
周囲の地面には槌に叩かれたような凹みが走り、不可視の重力がこちらに迫る。
だが俺は、敢えて笑みを作った。
気持ちで負ける事は、絶対にしない。
「何度でも言ってやる。そんな掟……、俺がブチ壊してやんよ!」
全魔力を右手に集中させ高く掲げる。
これが俺の、新しい技巧――
「――【第一獄:黒縄地獄】」
その瞬間、世界が――静止した。
音が消え、
風が止み、
重力の唸りが凍りつく。
そして大地に刻まれる――黒い紋様。
梵字のような縄目が谷全体へと広がっていく。
空間が焼け焦げる匂いを放ち、見えなかった干渉線が、浮かび上がる。
幾千。
幾万。
谷を覆う支配の網がくっきり可視化されると……俺の背後に、巨大な門が現れた。
重々しくゆっくりと開いていくその隙間からは、黒い縄がまるで意思を持つ蛇のように這い出てくる。
熱でも冷気でもない。
それは正に、“断罪”の気配。
その縄を掴むと、俺の皮膚の表面に焼印のような紋様が走った。
空間が悲鳴を上げ、天刑の支配領域を構成していた干渉線が、一本、また一本と黒く染まっていく。
「馬鹿な……、私の空間支配を上書きする程の、技巧だと?」
初めて、天刑の声が揺らいだ。
「掟を作るのは構わねぇ。……でもな、自由を縛り選択を奪う事は、誰にも許される事じゃねぇんだよ!」
黒縄を引く。
すると、谷全体を覆う風に亀裂が走った。
空間がガラスのように砕け、見えないはずの重力が破片となって舞う。
バチバチと放電を散らしながら支配の線が弾けていき、透明な壁が内側から押し破られ、崩壊し始める。
地面が沈み、雲が裂け、衝撃波が谷を薙ぐ。
それらの現象と共に、天刑の持つ鋼扇に一本の黒縄が絡み付いた。
「なっ……!」
黒縄を嫌うように天刑が扇を振り払う。
だが遅い。
天刑が振り払おうとするほど絡み付いた縄が締まり、金属が悲鳴を上げる。
「砕けろ」
――次の瞬間、
慟哭にも似た音と共に、鋼扇の持ち手が砕け散った。
それは、天狗谷から支配が消えた瞬間だった。
役目を終えた門が軋む音を響かせながら、ゆっくり閉じる。
門から溢れ出す黒い光が消え、この地に残ったのは焼き付いた黒縄の紋様。
「私の技巧が、掟が……否定された、だと?」
谷は、風すらも眠ったように沈黙する。
そんな中、天刑はゆっくりと膝をつきながら口を開いた。
「……谷を守るには、掟が要る。だが一族を守るために、自由を縛ってはならぬのか……」
天刑の目が揺れる。
今まで己の力こそが掟であり、裁きであると信じて疑わなかったのだろう。
しかし、それを全て打ち砕かれたことで、天刑は価値観の根っこが揺らいでいる。
なら、ここから先に必要なのは暴力じゃない。
「俺は天狗族を滅ぼしに来たわけじゃねぇし、縛りに来たわけでもねぇ」
握っていた拳をゆっくりと脱力し、小さく息を整える。
「ただ腑に落ちない事に対して、“気に食わねぇ”って言っただけだ」
天狗族の悶着に思いっきり首を突っ込んで大暴れしたが、元々俺たちは武鋼を採りに来ただけ。
掟云々に関しては完全に部外者。当然だが、決めるのは当人たちであるべきだ。
「……自由には責任が伴う。それを若い衆に背負わせるのは……」
「アホ抜かしてんじゃねぇよ。その責任を、丸っと全部背負ってやんのが“ボスの役目”だろが」
その言葉を聞いた天刑はゆっくりと目を閉じる。
そして長い沈黙のあと、再び口を開いた。
「確かに……、その通りであるな。私は己で自身の思考をも縛り付けていたというわけか」
「やっと気づいたか。これからは自分の立場から逃げんじゃねぇぞ」
つまりは、長という立場を裁くための役割としか認識していなかった。
掟を作り、守らせ、違反者には罰を与える。その反復だったのだろう。ってか、そんなクソつまんねぇ事をよく何年も続けてきたもんだ。
まぁ、それが理解できた今なら、天刑もこの谷も今より良い方向に変わっていくだろう。
次話は4/3(金)投稿予定です♪




