第303話 片翼の記憶
~真鴉視点~
これはまだ、背に両翼があった頃の話だ。
あの日の風の冷たさを、俺は今も忘れていない。
天狗谷の裁定場。
谷底へ吹き下ろす気流が、まるで意志を持つかのように肌を刺す。
その中心で俺は地に伏していた。
“侵入者を殺さず、追い返した”。……ただ、それだけの理由でだ。
俺は殺すよりも恐怖を持ち帰らせた方が、抑止力に繋がると判断した。
谷を守るには、刃だけでは足りぬと考えたからだ。
「被害は出ていない! それに、この谷が危険であると認知させるには、侵入者を殺すより帰した方が広まりやすいはずだ!」
俺は必死で声を張り上げた。
これは己がための弁明ではない。
天狗谷の掟が、いつか思考を持つ同族全ての自由を奪う未来が見えたからだ。
「掟は、この地を守るためにあるはず!
考えることを禁じるものじゃない!」
俺の言葉に、周囲の天狗たちが息を呑む。
長に異を唱えるなど、許されるはずがなかった。
岩棚の上。
天狗族の長である大天狗の天刑は、感情の一切を排した目で俺を見下ろしていた。
「――異を、唱えたな」
その一言だけで、場の空気が凍る。
「掟に疑問を持つこと……それ自体が罪だ」
「そんなはずっ――」
叫びは風に掻き消され、次の瞬間には俺の身体は地面から引き剥がされていた。
風が、天刑の命令に従う獣のように俺を縛り上げる。
「この……っ!」
必死に翼を広げようとした。
だが、重圧がこの身にのしかかる。
それは風に、空に……、拒絶されたような感覚だった。
「空飛ぶ資格は、掟に従う者にのみ与えられる」
天刑の持つ鋼扇が開かれる。
その音は、やけに静かだった。
誰も動くことができない。そんな数秒の後、ゆっくりと振り下ろされる右腕。
直後、背中に走った衝撃と激痛。
その痛みと共に頭へ刻まれたのは――確信だった。
このまま従え続ければ、何も変えられぬという、冷たい理解だ。
身体が地面に叩きつけられ、転がる。
風の音が、急に遠くなった。
それと同時に、自分の片翼が“もう空と繋がっていない”ことを悟った。
「……あ、ぁ……」
手を伸ばしても、翼は応えない。
羽ばたこうとしても、空気を掴めない。
視界の端で、天刑が告げる。
「掟に背いた罰だ。異端に、翼は不要」
誰も動かなかった。
助ける者はいない。
それも“掟”だった。
殺されなかったのは、慈悲ではない。
見せしめだ。
“考える者”の末路として、空を奪い、地を這わせる。
それが、裁き。
あの日、俺は空を失った。
同時に、確信した。
(この裁きは、いつか必ず天狗族そのものを壊してしまう)
ならば――打開する力を、俺が持たねばならない。
守るとは何か。
裁くとは何か。
それを、いつか俺自身が“選び直す”。
その時まで、俺は地を這い続けるだろう。
それでも構わない。
己の心を縛り付けられるくらいなら……。
◇ ◇ ◇ ◇
――そして、今。
吹き荒れる風を物ともせず谷に立つ侵入者、阿吽。
その姿を見た瞬間、俺の感情に一滴の熱が落ちた。
(……懐かしい匂いがする)
“自由”を体現するかのような佇まい。
荒々しく、どこまでも真っ直ぐな言葉。
あの日、俺が掴めなかった空気を、当たり前のように纏っている。
だが……同時に、苛立ちも覚えた。
あの男は、俺が辿り着けなかった場所に立っている。
共感ではない。
羨望でもない。
ただ――追い越したい。そう思った。
谷の入口で対峙した時、阿吽は確かに強かった。
だが、今とは明確に違う。
拳を握っただけで、周囲の風が歪む。
殺気でも威圧でもない。
ただ、その存在そのものの重さを、はっきりと感じさせる。
(あの時は、実力を測っていただけか……)
今、奴が見ているのは天刑のみ。
だが、その一人が掟そのものだ。
周囲の天狗たちが動こうとするが、獣人の女と幼獣がその行く手を阻む。
先程まで治療をされていた若者を見ると、既に傷は癒されていた。
「邪魔、しないで」
静かな声。
だが蒼い炎が空気を縫い止める。
一方では幼獣が鋭い牙を剥く。
「一歩でも踏み出せば噛み殺す」、そう言わんばかりの圧だった。
しかし、俺には分かる。
これは本気の殺意ではない。
舞台を整えているのだ。
(役割を、完全に分けている……)
この場は――
阿吽と、天刑。
選択と、掟。
ぶつかるべき者だけを残した舞台。
阿吽はただ拳を握り、ゆったりと構えを取った。
その瞬間、俺は悟る。
(……俺では、どのみち止められなかったか)
風が低く鳴いた。
次に始まるのは、俺がかつて夢見た“選べる未来”か。
それとも、“完全なる不自由”か。
その答えを――阿吽と天刑が、叩きつけ合う。
次話は3/20(金)投稿予定です♪




