2.
歩いているうちに、いつの間にか深海生物エリアに入っていた。とはいえこのエリアは水槽が少なく、標本や写真が飾られるに留まっている生物も多い。まあ、それはそうだろうな。深海魚って何となく生きた状態で採取するの大変そうだし。
(こうして見ると、こいつもどことなく宇宙人ぽいんだよなぁ)
チョウチンアンコウの標本を目の前に眉を顰める。小さな突起に覆われた、ぶくりとした楕円形の体。分厚い唇から覗く鋭い牙。発光するらしい球体の部分からは触覚のようなものがいくつも枝分かれして伸びている。こんな不細工な魚は見たことがない。
もしかして、こういうたくさんある触覚や足が、宇宙人ぽく見える原因なのだろうか? それにしてはムカデや蜘蛛を宇宙人ぽいと思ったことはない。飽くまで俺が宇宙人ぽく見えるのは魚介類限定の現象だ。魚介類ってどうしてこんなに宇宙人ぽい見た目の奴が多いんだ?
「かわいい……」
少し先の方で花村さんが呟く声が聞こえた。小さな声でもはっきり聞こえるのは、やはり人気がなく静かな館内だからだろう。
ここのエリアでは花村さんも足を止める時間がさっきまでより短い。おそらく水槽が少なく、写真を撮る回数が減ったからだろう。それでも展示の内容や説明はきちんと全部読んでいるのがすごい。読書が趣味だから活字を読むスピードが俺とは段違いだ。
長ったらしいチョウチンアンコウの説明を読むのは省くことにして、俺も花村さんが覗き込んでいる水槽、いや水槽の形をしたモニターへ向かう。しかし、そこに映っている生物を見て思わず首を傾げた。
「タコ……?」
タコだよな、多分。足らしきものがちゃんと八本ある。だけど普通のタコだったらうねうねと伸びているはずのそれは、大部分が大きな膜に覆われてパラシュートのような形になっており、その裾の部分から先端がちょこんと見えているだけだ。
モニターの下に取り付けられているプレートを確認すると『メンダコ』と書かれていた。やはりタコなのだろう。
映像の中のメンダコはパラシュートの部分を閉じたり広げたりしながらふわふわと水中を漂っている。頭の上から左右にふたつ、耳のようについているおそらくヒレだと思われる部分が、動きに合わせて上下にぱたぱた揺れていた。これは確かに少しかわいいかもしれない。どことなく動物らしい愛嬌があって、あまり宇宙人ぽさがない。タコなのに。
映像はクリオネの時と違い、ひたすらメンダコが泳ぐ様子をエンドレスで流し続けている。その様子を食い入るように見つめている花村さん。非常にほのぼのとする光景だ。今だけは花村さんのあの無表情も消え去り、代わりににこにこと頬が緩んでいる。
(花村さん、やっぱり普通に笑えるんじゃん……)
なのにどうして俺にはあんなに頑なに無表情なんだろう。くそ、ちょっと悔しいな。何とかして自力で笑わせたい。さっきの不意打ちの笑顔とか、生き物の可愛さに絆された笑顔もかわいいんだけど、何というか達成感がない。
いや、こういうのに達成感を求めるのもどうかと思うんだけど、でも折角ならちゃんと俺と一緒にいて「楽しい」とか「嬉しい」とか思ってほしいじゃん。
俺は大きく息を吐き出した。花村さんの横顔をじっと見つめる。メンダコに夢中な花村さんは、俺の視線にちっとも気づかない。
「かわいいね」
思い切って言った。言ってみた。しかし花村さんは、俺の言葉にこくこくと頷いて「うん、かわいい」と呟くだけだ。うん、全く伝わっていない。わかっていたけど。予想していたことだったけど。
ここできちんと訂正できない俺も俺だ。だけど「かわいい」のひと言さえ、口にするのにものすごく勇気を絞り出したのだ。さすがに面と向かって「花村さんが」と伝えるのはムリだ。こういうところがダメなんだろうな俺。ていうか、こんなにヘタレだったっけ俺。
(加納さんにはちゃんと「かわいい」って言えてたのになぁ)
俺はもう一度こっそりとため息をついた。