1.
「……ごめんね。気持ちは嬉しいんだけど」
加納さんは戸惑ったように、そこで一度言葉を切った。
部活動に励んでいるのだろう、遠くから聞こえる他の生徒たちの喧噪。鋭く指示を飛ばすホイッスル。しゅわしゅわと耳障りなほどに騒がしい蝉時雨。文化部の部室棟からは女子の甲高いきゃあきゃあという笑い声が響いてくる。
雑音がそこかしこに溢れているというのに、加納さんの声はやけに鮮明で、それがやけにすとんと俺の胸の底に落ちた。何となくそんな気はしていた。
「私、他に好きな人がいるの」
本当に申し訳なさそうな顔でそんな風に言われてしまうと、こちらは何も言えなくなってしまう。別に困らせたいわけじゃなかった。こうなることは何となくわかっていたことで、彼女に何かを望んでいたわけでもない。
ただ、偶然とはいえこうして二人きりになったと意識した瞬間、どうしても自分の気持ちを伝えずにはいられなくなってしまったのだ。ただそれだけ。
「そうなんだ……。じゃあ、仕方ないね」
自分がフられたからといって特に大きく傷つくこともなかった。彼女に想われている相手が恨めしいとも思わなかった。
強いて言うなら「ああ、俺の初恋終わったんだなあ」という実感が芽生えただけだ。もしかしたら始まってもいなかったけど。
でも加納さんとの間に沈黙が落ちるのがどうしてか怖くて、だけど何と返したらいいかわからなくて、必死に絞り出した返事がそれだった。
つい先ほど「つき合ってもらえないか」と言った口で「気にしないで」と言うのも違う気がしたし、相手の名前を聞き出すのも違う気がした。この告白は衝動的で全く計画性のないものだったし、なんだったら本当は、伝えるはずのものでさえなかったから。
急に変なことを言い出され、加納さんもさぞかし驚いただろう。そんなことを考えながらふた言み言、適当な会話を交わす。
「突然ごめん」とか「ただ伝えたかっただけだから」とか、そんな感じの当たり障りない言葉だ。
「じゃあね。いい夏休みを」
「うん、ありがとう。加納さんもね」
気がつけば加納さんは俺に背を向けてこの場を去って行くところだった。見送る間もなく彼女の姿はすぐさま校舎の影に消え、俺はひとり取り残された。不思議と惨めな気分にはならなかった。
加納さんも誰かに片思いなのか、とはぼんやりと思った。憶測でしかないが「つき合ってる人」とか「彼氏」とかいう言葉ではなく「好きな人」という表現を選んだくらいなのだから、きっとそういうことなのだろう。
彼女の恋は叶うといいな、と素直に願える自分に少しほっとする。初めての失恋だが、好きな人の不幸を望むような落ちぶれた人間にはなりたくない。
「はあ……」
無意識に詰めていた呼吸をため息とともに吐き出した瞬間、ガシャンという重々しい落下音と「あっ……」という小さな声が思いの外近くで聞こえてきて、俺の血の気はすっと引いた。
ここはグラウンドの隅にある運動部の部室棟の目の前で、軽い機材なら運べる程度の通路になっている。そして自販機の裏手でもあった。
今の音はどう聞いても自販機の飲料が落下する時に立てる音だった。
(あー、しまった。油断した)
今日は終業式で、この時間まで残っているのはどこかの部に所属している生徒だけだ。文化部の部室棟は遠いし、他の運動部の生徒はまだ活動している。俺の所属している部は、今日は顧問の都合で早めの解散となったこともあり、他の部員は先に帰ってしまった。最後まで部室に残っていたのは俺だけだった。そして俺の記憶が正しければ、この場所で偶然加納さんとはち合わせてから今の今まで、この辺りを通った生徒や教師はいないはずだ。
つまり俺たちより先に自販機に来ていた誰かに、ついさっきまでのやり取りを聞かれていたということになる。ばつが悪いやら恥ずかしいやらで思わず硬直した。
俺が加納さんに告白してフられたなんて話が学校中に広まるのはさすがに嫌だなあ、向こうにも迷惑がかかるし。まあこんなところで考えなしに告白した俺が全面的に悪いんだけどさ。
どうしよう、この裏にいるだろう誰かにこのことは口止めするべきだろうか。でも人の口に戸は立てられないって言うしなあ。ここは気づかなかったフリをして相手と顔を合わせないうちに逃げてしまうべきだろうか。
馬鹿なことに一瞬、そんなことをつらつらと考えてしまった。そしてその一瞬の間に、自販機の前にいた誰かは足音を響かせてこちらに近づいており、俺は見事に逃げるタイミングを失った。しかし――
「花村さん……」
目の前に現れた人物にそっと胸を撫で下ろす そこにいたのはクラスの女生徒だった。ほとんど話したことはないが、名前は知っている程度の仲だ。だけど控えめで大人しい人柄で、率先して人の噂話をするようなタイプの人ではない。
(良かった。花村さんだったら頼めば今の聞かなかったことにしてくれるかも)
そうであってほしい。そのためにも彼女に口止めしなければ。でも、いざ彼女に声をかけようと口を開くも、何も言葉が出てこない。こういう時って何て切り出すのが正解なんだ? 結局どうしようもなくてへらっと笑いかけることしかできない。
しかし彼女はこちらにつかつかと近寄ると、何を思ったのか唐突に手に持っていたペットボトルを差し出した。何の偶然か、俺がいつも好んで飲む炭酸飲料だった。
「はい」
「……え?」
「ミルクティーと間違えて押しちゃった。丁度良かった。小山くんもらってよ」
「えっ?」
ペットボトルを差し出された理由がわからなくてきょとんとしていた俺だったが、次に思っていたよりも強い口調で話しかけてきた花村さんに唖然とした。
あれ? 花村さんってこんなに無表情で、つっけんどんな話し方をする人だったっけ? 何だろう、イメージと違う。
記憶の中を思い返してみるも、いつも教室の隅で本を読んでいる姿しか出てこない。自覚していた以上に、俺は彼女とろくに会話をしたことがないらしい。
「もしかして嫌いだった?」
何の反応もない俺に勘違いしたのだろう、花村さんが差し出していたペットボトルを引っ込めようとした。俺は慌てて首を振る。
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ、はい」
「……本当にいいの? 自分で飲んだ方がいいんじゃない?」
「わたし炭酸飲めないから」
「だったら金払うよ。ただでもらうのも申し訳ないし」
そのまま受け取るのも気が引けてポケットから財布を出そうとすると、花村さんは「いらない」と首を振った。
「わたしは嫌いなもの人に押しつけてるだけだし。それにどうせこれ、磯村先生のおごりだから」
「……あっそう。じゃあ、遠慮なく」
やはりちょっとイメージと違う。もっとこう、気弱そうな、言葉遣いもやわらかい人かと思っていた。とはいえ、花村さんの言葉で完全に気兼ねしていた気持ちが消えたので、ありがたく頂戴することにする。もしかしてこちらに気を遣ってわざとそういう強い言葉を選んでいるんだろうか、とちらりと思いもしたが、そもそも彼女に気を遣われる理由も接点もないので気のせいだろうと打ち消した。
ペットボトルを受け取った瞬間、花村さんの口角が一瞬上がった気もしたが、瞬きの後にそんな気配は全くなくなったので、それもきっと気のせいだったのだろう。だからと言って好きな飲み物をもらっておいてこちらも無愛想に振る舞うわけにはいかない。
「丁度のど乾いてたんだ、サンキュ」
努めて笑顔を作って返せば、花村さんはこくんと首を縦に振った。
……おかしい。どうして眉間に皺を寄せられてしまったのだろう。俺、ちゃんとお礼言ったよな? 何も間違った対応してないよな?
「花村さんも部活?」
気詰まりだったので適当な話題を振ってみた。花村さんは、今度は横に首を振る。
「違う。手伝い」
「手伝い?」
「数学教材室の片づけ。教室で当番日誌書いてたら頼まれたの」
「ああ、そういや今日の日直って花村さんだったっけ……。それで磯村先生のおごりか」
「そう」
花村さんのことだから、きっと真面目に日直の仕事をこなし、最後までひとりで教室に残って日誌を書いていたんだろう。そこを運悪く人手を探していた磯村先生に捕まってしまったのだろう。
磯村先生は気さくで気前が良く、そして生徒の扱いが上手い。手伝いをした生徒には時々、ジュースをおごってくれたりお菓子を差し入れしてくれるのだと、以前手伝わされたらしい先輩から聞いたことがある。
(うん? だとするとこのジュース、本当に俺がもらっていいのか?)
要は先生の手伝いをしたご褒美ってことだろう。いくら間違えて買ったからって俺が図々しくもらっていいものなのか? やっぱりちゃんとジュース代は払った方がいいんじゃないか?
「じゃあわたし、そろそろ教材室戻るから」
ぐるぐると考えている間に、花村さんはさっさと俺の横を通り過ぎて行こうとする。俺は咄嗟に声をかける。
「手伝おうか?」
「いいよ。あと少しで終わるから」
「……そう」
とりつく島もなかった。花村さんの耳の下でゆらゆらと揺れながら遠ざかるツインテールをぼんやりと見送る。そして俺ものろのろと自転車置き場に帰ろうとして、ようやくはたと我に返った。
(口止め!!)
何してんだ俺! 花村さんのギャップが強すぎて忘れかけてたけど、俺、さっきの告白聞かれてたんだった。何も言われなかったけど、やっぱ聞かれてたよな? あれ、てことはやっぱ気を遣われてたのか?
(うわ……恥ずかし……)
とりあえず花村さんを追いかけよう。そして今日のことは秘密にしてもらおう。情けないのは重々承知だが、夏休み明けに噂の的になっているのは嫌だ。いや、花村さんは多分そんな人じゃないと思うけど、念を入れるに越したことはない。
「わ!?」
数学教材室に向かうため慌てて踵を返し、その先でなぜかこちらを向いて佇んでいる花村さんを見つけ、俺の心臓は思わず跳ねた。
(びっ……くりした……)
まさかまだいるとは思わなかった。しかし今の俺にはありがたい限りだ。
「は、花村さ――」
「小山くん」
呼びかけた俺の声を遮って、花村さんが口を開いた。少し早めの歩調で再びつかつかとこちらに寄ってくる。ちょっぴり怖い。
「小山くん、明後日空いてる?」
「へ?」
予期していなかった言葉に、我ながら間抜けな声が漏れた。
「な、何で……?」
「水族館に行きたくて。一人じゃつまらないから、特に予定がないんだったらついてきてよ」
「いや……何で、俺?」
本当に何でだ?
わけがわからず目を白黒させる俺に、しかし花村さんはとんでもないことを言う。
「強いて言うなら、弱みが握れたから……?」
「は? 弱み?」
「加納さんとのこと、誰にも言わないでおいてあげる。だから明後日、水族館につき合って」
(マジでか)
そう来られるとは思っていなかった。思わず天を仰ぎ見ると、憎らしいほど雲ひとつない青が目に刺さる。
この借りは思ったより随分でかくなりそうだった。