1.
もしかしたら俺はとても薄情な人間なのかもしれない。そしてかなり惚れっぽい人間なのかもしれない。
というのも、花村さんに対する想いを自覚した途端、あんなに好きだと思っていた加納さんのことを一切考えなくなってしまった。というか、加納さんが好きだった時でさえこんなに加納さんのことを考えたことがないというほど、ふとした瞬間に花村さんのことを考えてしまうと言った方が正しいかもしれない。今何をしているのだろうか、と思いを馳せてしまうのはざらだし、些細な景色やちょっとした出来事でさえ花村さんと共有したいと思ってしまう。花村さんとメッセージのやり取りをするようになってから、一日にメッセージアプリを開く回数が格段に増えた。
今まで必要な連絡事項しか発信せずほとんど受け身だった俺が、こんなに他愛ない内容のメッセージをいそいそと自分から送っているなんて知ったら、親父も友人たちも驚くに違いない。いや、もちろんしつこいと思われないようにちゃんと加減はしているけど。……加減、できてるよな?
失恋からたった二日、それもたった一日デートしただけですごい変わり身だと自分でも思う。でももう正直、自分が加納さんに抱いていた気持ちさえ明確に思い出せなくなっていたし、加納さんの時とは比べものにならないほど俺は恋愛に臆病になっていた。その証拠に「また遊びに行こう」と約束したはずが、俺はまだ一度も花村さんをどこへもお誘いできていない。
「一緒に課題でもしない?」とか「今話題になってる映画行ってみない?」とか、これまでも何度か誘おうとはしたのだ。だけどその瞬間にどうしても思い出してしまうのは、水族館に行ったあの日、喫茶店で見た花村さんの、あのやり切れなさそうな表情と「今日一緒に水族館に行くのも、本当はわたしじゃなくて加納さんが良かったんじゃない?」という言葉だった。
(もしかしたら失恋してる、んだよな?)
俺なんかが誘ったら迷惑じゃないだろうか? 本当は水族館だって、俺じゃなくてその好きな相手と行きたかったんじゃないだろうか? そう考えるとどうしても送信ボタンが押せなくなってしまう。そんな自分が腹立たしくもあった。
「夏祭り?」
立川からそんなお誘いがあったのはお盆を目前とした登校日の朝のことだ。夏休みも半分以上が経過してしまい、このまま花村さんと何の進展もなく新学期を迎えてしまうのかと悶々としていた時だった。
「何でわざわざお前と? やだよ男二人でなんて」
「男二人じゃない。加納も一緒だ」
両手を合わせて「お願い」ポーズを決めたまま、立川が真面目な顔で答える。ますます意味がわからなくて、俺は思わず首を傾げた。
「どういうこと?」
「だから加納に誘われたんだって! オレ、あいつと小学校の頃から一緒でさー。正直苦手なんだよ。絶対に二人で行きたくないわけ! だからお前にもついてきてほしいわけ!」
花村さんと出かける前の俺だったら「何だその羨ましいお誘いは」と思ったことだろう。だけど既に花村さんを好きになってしまった俺は特に何とも思わない。ただただ何だか必死な様子の立川に、呆れた視線をくれてやる。
「それ、どう考えてもデートのお誘いだろ。何で俺がわざわざお前と加納さんの邪魔をしなくちゃいけないんだよ」
「デートでもないし邪魔じゃない! 全然そんなんじゃないから!!」
(いや、そうだろ)
「好きな人がいるの」と、終業式の日、加納さんは確かに言った。その加納さんがわざわざ立川を誘ったのだ。これはもう、どう考えても加納さんの好きな人というのはこいつに決まっている。教えてやりたいところだが、俺が余計なことを言って事態を引っかき回すのも加納さんに悪い。それに「女子から祭りに誘われる」というイベントが発生したにも関わらず、当の立川は浮かない顔だ。いつものこいつなら調子にのりまくってみんなに自慢して回りそうなものなのに。
「そんなに嫌なら断ればいいじゃん」
「お前、まさか俺に拒否権があると思うのか⁉ 相手は加納だぞ? あの加納なんだぞ!?」
「知るかよ。むしろお前は加納さんのどこが気に入らないんだ」
「おっかないとこに決まってるだろ!」
おっかない……? またもや飛び出した想定外の単語に、俺は再び首を傾げる。
「おっかない」という単語と加納さんが全く結びつかない。俺の知っている加納さんは人当たりも感じも良くて、誰にでも優しい素敵女子だ。
「騙されるな、小山! あれは特大の猫だ! 本来の加納は気は強いし、計算高いし、腹の中は真っ黒だし、そう、言うなればあれは女帝だ! 独裁タイプの!!」
立川が力説するが、やはりいまいちピンと来ない。ピンとは来ないが、どうやらこいつが加納さんに頭が上がらず、心底苦手としているらしいことだけはわかった。何とかしてやりたいと思わなくもないが、しかしひとつ問題がある。
「俺、夏休み前に加納さんに告白してフられてるんだけど」
このまま俺が立川の言う通りにのこのこついて行ったりしては、嫉妬から加納さんの邪魔をしていると思われてしまう。その誤解だけは何としても避けたい。俺が今好きなのは花村さんなのだ。
「うっわ、マジかー。それは何と言うか……」
立川は一瞬何とも言えないような顔をして言葉を濁し、しかし次の瞬間「あれ?」と片眉を上げる。
「でもお前、先月花村とデートしてたよな? どういうこと?」
「……別に」
存外鋭い指摘に内心ぎくりとしつつも、俺は平静を装って答える。
「花村さんも言ってただろ、デートじゃないって。たまたま加納さんに告白しているところを花村さんに見られて、それを盾に脅されただけだよ」
自分で言ってて何だか悲しくなってきた。花村さんに「デートじゃない」とはっきり言われたことを思い出し、地味に傷ついてしまう。
正直相手は立川なので、その流れで俺が花村さんを好きになったことまで話してしまっても良かったのだが、軽い奴だと思われたくなくて結局そこは黙っておくことにした。
「ふーん……?」
立川は納得したようなしていないような、よくわからない相槌を打った後「あ、そうだ!」と声を上げて手を打った。
「花村誘えよ、花村! 四人だったらお前も気まずくないだろ!?」
「はぁっ!?」
思いも寄らない爆弾を投下され、俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。
◆ ◇ ◆
(どうしてこうなった!?)
帰り道、俺は頭を悩ませていた。
あの後、立川は「じゃ、そういうことで。ちゃんと誘えよ!」と一方的に決めつけると、何も言えない俺を置いてとっとと自分の席に戻ってしまった。そしてタイミング良く入れ替わりのように俺の席の前を通りかかったのが、登校してきた花村さんだ。しかも目が合ってしまった。
俺が花村さんを好きになったせいか、それとも立川の「花村誘えよ」という言葉が脳裏を過ぎったせいか、その瞬間頭の中が真っ白になった。
「……おはよう」
俺は何とか言葉を絞り出した。
「おはよう」
花村さんは短くそのひと言だけを返すと、唇を真一文字にきゅっと結んで自分の席へ行ってしまった。俺は呆然としてその後ろ姿を見送った。
あの態度は終業式や水族館へ行く前と同じだ。折角少しは仲良くなれたと思ったのに。もしかして俺、何かしてしまったのだろうか? やっぱり毎日メッセージを送っていたのが良くなかったのか? まるであの楽しかった一日の思い出がなくなってしまったような気がして、不安はどんどん膨らんでいく。結局今日はその後ひと言も花村さんと話せなかった。こんな状態で一体どうやって花村さんを祭りへ誘えと?
「ただいまー……」
落胆した気持ちで玄関のドアを開ける。
「……ん?」
玄関に女性物の靴がある。親父はあの服装なだけあって確かにヒールなどをよく履くが、明らかにサイズが違う。お客さんでも来ているのだろうか。不思議に思いながら部屋へ向かおうとすると、
「あ、ちょっとタカシちゃん!」
キッチンからひょっこり顔を出した親父に呼び止められた。珍しく化粧をしていない。服装も至って普通の男物で、普段なら下ろしている髪を今日は後ろでひとつに束ねている。
「おかえりなさい。ちょっとこっちに来てくれる?」
何だ何だ? 俺はわけがわからないまま親父の部屋に引っ張り込まれる。
「アンタ、今日からしばらく一階で寝なさい」
「は? 何で?」
親父は目線だけでちらっと二階の方を示した。
「みのりちゃんが来てるのよ。今夜からうちに泊まらせるから、あんまり二階へ行っちゃだめよ」
「……何があったの?」
みのりさんというのは親父の店で雇っている従業員のひとりだ。俺より五歳くらい年上の、目元の涼しげなお姉さんで、俺が店に顔を出すといつも笑顔で迎えてくれる。確か店の近くのアパートでひとり暮らしをしていたはずだが、親父がうちへ泊めるということはトラブルでもあったのだろう。
「ロミオよロミオ! ロミオのぽんぽこりんのストーカー男よ!」
「ロミオ?」
意味のよくわからない単語を連発されたので、俺はオウム返しで尋ねてしまった。「ぽんぽこりん」はわかる。親父が使う場合は「バカ」とか「アホ」みたいなニュアンスの言葉だ。俺の子育てに関わる過程で母さんから言葉遣いについて注意されたことがあるらしく、そのせいか親父のボキャブラリーはちょっと独特だ。それにしても「ロミオ」ってどういう意味だ?
「自分から捨てた恋人に対して後からヨリを戻そうとみっともなく縋るぽんぽこりんのことよ! ふざけるのも大概にしろって話よね!」
「なるほど……?」
その手の男をどうしてロミオと呼ぶのかはわからないが、要はみのりさんの元カレがつきまといのストーカー化したということだろう。様子を見る限り親父は相当ご立腹らしい。一番嫌いなタイプだもんな。俺も大嫌いだけど。
みのりさんが二階に泊まるということは、おそらく母さんが使っていた部屋を貸すのだろう。
「荷物とってきていい?」
「そうね。着替えはもう下ろしてあるから、勉強道具だけとっていらっしゃい」
親父は頷くと、階段の方へ向かい上の階へ声をかける。
「みのりちゃーん! タカシちゃん一回荷物取りに行かせたいんだけど、今上がっても大丈夫?」
「はーい、大丈夫です!」
上からみのりさんの涼やかな声が返事した。
「お邪魔しまーす」
俺は二階のみのりさんにひと言声をかけ、自室へ向かった。自分の家の中で「お邪魔します」って言うのも変な話だけど。
◆ ◇ ◆
「ごめんね、部屋を追い出しちゃって」
勉強に使う教科書やノート一式を持って下へ降りようとしたところで、みのりさんに声を掛けられた。俺はその顔を見て一瞬絶句する。いつも笑顔を絶やさないみのりさんは、今日は本当に申し訳なさそうな表情をしていた。その瞼はぼったりと腫れ上がっている。きっとかなり泣いたのだろう。
「ううん。それよりみのりさん、大丈夫? 親父からちらっとだけ事情は聞いたんだけど」
「うん、何とか。店長が追い払ってくれたから。でもアパートにひとりでいるのは危ないから、しばらく泊まるようにって」
「俺もその方がいいと思うよ。うちなら待ち伏せとかされても親父がいるし。親父、ああ見えて結構喧嘩強いからさ」
「うん、ありがとうね」
まだ少し眉尻が下がっているけどようやくいつものにこやかさを取り戻したみのりさんに「気にしないで」と手を振って俺は階下へ戻る。
「みのりちゃん、どうだった?」
「何か目を冷やす物を持って行ってあげた方がいいと思う」
下で心配そうに待っていた親父は、俺の言葉を聞くなりすぐにキッチンへと駆けて行った。













