日陰者が日向になるのは難しい 3
【☆】
笹原は夏休みに入る前よりも、かなり意識的に垣村を見るようになっていた。教室に入る時、お弁当を食べている時、帰る時。些細な暇があれば、違和感のないように視線だけを彼に向けている。そして学校が始まって初日から、垣村と一緒にいられる機会が巡ってきた。塾までの時間を一緒に過ごして、あの懐かしいゆったりとした時間を堪能する。
少しずつ、彼に意識してもらえるように。少しでも、彼が見てくれるように。不意に手を触ってみたり、顔を近づけてみたり。恥ずかしいけれども、それでも近寄っていかないといけない。花火の時に見た、あの女の子。普通花火を見るのに異性の友達と二人っきりで、そういった感情を持たないはずがない。彼女もきっと気づいている。垣村の良さとか、そういうものを。
取られたくない。垣村が他の女の子と一緒にいると考えるだけで胸が苦しくなる。だからこそもっと積極的にいかなくてはいけない。
翌日になり、帰りのホームルーム中に垣村のいる下りのホームにでも向かおうかと考えていた。教壇に立ったまま話をしている先生の言葉を聞き流し、ルーム長の号令で学校は終わる。放課後になった途端、生徒たちはすぐにざわめきたった。荷物をまとめる振りをして、後ろの方に視線を向ける。窓際の席では、垣村が西園に話しかけられていた。
「唯ちゃん」
「っ、な、なに紗綾?」
「この後さ、ちょっと時間ある?」
不意に近づいてきた紗綾に話しかけられて戸惑ったものの、笹原は「大丈夫だよ」と返事をする。彼女は今日部活が休みらしい。下りのホームに行くのは難しそうだな、と笹原が考える中で……紗綾は困ったように苦々しく笑っていた。
彼女の言うこの後、というのはそれなりに時間が経ってからのことだった。笹原と紗綾、彩香だけが教室の中に残されている。その時間になるまで他愛のない話で盛り上がっていたのだが、誰もいなくなったことを紗綾が確認すると、おもむろに話を切り出した。
「ねぇ唯ちゃん。昨日いろんなSNSで同じような投稿があったんだけどね……その、これ」
紗綾が見せてきたのは、広く普及している鳥のマークのSNSだ。投稿主は、おそらくサブアカウントだろう。画像も何も設定されておらず、名前もない。そのアカウントが投稿していたのは、写真だった。一枚ではなく、何枚も。それらに写っているのは全て同じ人物。
「これ、唯ちゃんと垣村君だよね?」
その光景は間違いなく、昨日垣村と一緒に遊んでいた笹原の写真だ。画像だけの投稿ではない。複数ある投稿の全てに恨み言のような言葉が綴られている。二年E組の笹原 唯香は陰キャと付き合っている。随分と不釣り合いだ。なんて言葉は序の口で、後の方になると事実無根な悪口に変わっていく。そこに送られてくるコメントも、とてもじゃないが良いものではない。
「えっ、なにこれ……」
「ウチの学校の人、けっこう拡散してるみたいだよ。てか盗撮とか、マジきもいんだけど」
「それで……その……唯ちゃんって、垣村君と付き合ってるの?」
まさかこんな事態になっているとは、笹原は思いもしなかった。確かに学校が早帰りで、生徒も多くいたことだろう。見られていてもおかしくはない。それに彩香の言っていた通り、男子からのやっかみとなると心当たりもある。松本がやらないとも限らないし、打ち上げの帰りに会ったあの男かもしれない。どちらにしても証拠はないし、どうにもできない。
(垣村と付き合っているわけじゃない……けど、どう言えばいいんだろう)
正直に全てを話すなんてことはできない。垣村と一緒に遊ぶような仲だと知られたら、彼女たちはなんて思うだろう。彩香ならば、キモいと言うかもしれない。紗綾も微妙な顔を浮べることだろう。それくらい、垣村は下に見られるような生徒だった。そんなことを、今更再認識してしまう。話してみれば、一緒に過ごしてみれば、そんなことはないとわかるはずなのに。
(見た目、だけで……)
見た目だけ。だが、自分もそうだったじゃないか。もし仮に、垣村のことを何も知らず、紗綾が一緒にいたとしたら。きっと、マジかぁ、垣村かよ。なんて笑ってしまうかもしれない。
(どう、言えば……)
この状況を、どうすればいいのか。苦しくなって口から漏れ出た言葉は……。
【♪】
学校が始まってしまうと、夏休みが恋しくなる。放課後までの長い時間を過ごし、ようやく終わりを迎える。今日はさっさと帰って作曲の続きでもしようかと思っていた垣村だったが、放課後になった直後に西園が右手に冊子を持ちながら近づいてきた。
「志音ー、一緒に日直のこれ返しに行こうぜー。なんか進路希望の紙出して説教くらったから、職員室行きづらいんだよねー」
「完全に自業自得じゃん」
そう言うと西園は「まぁまぁ、そう言わずにー」といつものように笑った。仕方ないな、と垣村も笑い返す。最近笑顔が増えてきたような気がした。きっと少しは変われているということなんだろう。そんなちょっとした実感を得つつ、荷物をまとめて職員室へと向かう。
夏休みが終わったからと言って、西園は何が変わったとかはなかった。いつも通り、へらへらとした顔のままだ。前までは呑気なやつだと思っていたが、今となってはそうは思えない。
垣村も西園も、将来に不安を持つもの同士であり、彼は模倣という手段で地盤を固めていこうとしているだけだ。怖いから新しいことに挑戦しない。既存のものを真似ていく。それもまた、ひとつの手ではあるのだろう。そこに進化があるのかはわからないが、それはきっと彼が自分で歩みだした時に掴んでいくものなはずだ。
「んじゃ、欠席とかのやつ書いといてー」
返事をするより早く、西園は職員室へと入っていった。垣村が近くにある黒板に欠席人数を書き終わるのと、西園が出てくるタイミングは、そうズレてはいなかった。「んじゃ、帰るかー」という彼に返事をして、昇降口に向かって歩いていく。その途中で窓の外を見た時、運動しているテニス部の姿が見えた。短いスカートのような練習服が目につく。ついつい目で追ってしまうのも、男の性だろう。西園も同じように外に目を向けていた。
「あっついのによくやるよねぇ。にしても、あれスカートなんかな。見えそうじゃない?」
「ひらひらしてるけど、ちゃんとズボンだと思うよ」
「んー、ロマンのありそうな服だよなぁアレ」
歩きながらテニス部を見ている変態二人。あまり長々としていると苦情を言われそうなので、そっと目を逸らす。けれども二人の会話内容は完全にそっち方面へと流れていってしまった。
「そーいやさー、剣道って下なにも履かないんだってー。なんかエロくない?」
「まぁ確かに」
「今度ちょっくら稽古の風景見てこよっかなー」
「男も混じってるんだけどね……てか、女子って確か少ないでしょ」
剣道部に女子生徒は少なかった記憶がある。それを聞いて西園は「そっかー、男の比率が高いかー」と特に残念な様子を見せずに答えた。本気で見に行こうとは思っていなかったらしい。これで見に行くと言い出したら、流石に垣村も呆れた目をするしかなかったが。
西園はまだ思春期の高校生らしい話をやめるつもりはないらしく「野球ガールもいいよなー」と言い始めた。あいにく、垣村にはスポーツ少女の良さが彼ほど理解できてはいない。頭の中で良いなぁと思い浮かぶ構図というのは、ヘッドホンを首にかけ、ちょっとキツめの目で睨みつけるように見てくる女の子だ。ポケットに手を突っ込んでいたら、なかなかグッとくるものがある。残念ながら西園には「んー、強気な女の子は苦手かなー」と共感は得られなかった。
「けど、志音の理想図がそんな女の子とは……おや、もしかして気になる子とかできちゃった感じ? まさかの傘関係が続いてる感じですかー?」
「傘関係って何さ……」
「まぁまぁ。確かに笹原さんってキツそうな見た目だもんなぁー。わりと志音の性癖どストライクだったりする?」
「だから、別に俺はなんとも……!」
「わかってる、皆まで言うな……。人気者の松本を振った笹原さん。その視線の先にいたのは全く交流のなかった同級生。ザッ、ラブコメディー」
「本当、庄司さんに似てるな……引っ叩きたくなってきた」
そのノリは時折人をイラつかせる。西園が笑っているものだから、ついつい許してしまいがちだが。それすらも計算に入れた態度だというのなら、それはもう流石だと言うしかない。普段の庄司や西園を知っている人なら、こんなへらへらした笑みをしているというだけで、いつものことかと許してしまいたくなる。ずるい。まして顔が整っている方なのだから、より一層。
「……あっ、ごめん忘れ物した。英語の課題が机の中だ」
「明日ないのに真面目だねー。ちゃちゃっと取り行っちゃうかー」
ふと思い出し、二人は自分たちの教室がある三階に向かう。上に向かえば向かうほど、吹奏楽部の演奏が華やかになってくる。演奏している曲はどこか聞いたことがあるものだ。映画か何かでやっていたものだろう。不思議と気分を後押しさせるような、高揚感のある曲だった。
そんな音と共に自分たちの教室へとたどり着いた。まだ時間も早いというのに、扉は閉め切っている。施錠されるには早い時間だ。西園に顔を向けると「開いてなかったらしゃーないなー」と、元から課題などやる気はありませんよとでも言いたげに返してきた。まったく仕方のないやつだと思いつつ、垣村は扉に手をかけようとして、動きが止まる。吹奏楽部の演奏に紛れて、中からは小さな話し声が聞こえてくるのだ。なんとなく声を潜めて、中の様子を伺った。
「誰か残ってるのかな?」
「んー、扉閉まってるし告白系かなー。ガラッと行くには勇気がいるねぇ」
「様子を聞いてみて、入っても大丈夫そうなら行こうか」
扉から離れて、教室の壁側に背中を預ける。意識して聞けばなんとか耳に届くような声量だ。その声質からして女子生徒、おそらくトップカーストのあの三人だろうとは予想がついた。中に笹原がいる。こんな立ち聞きを見られてしまったら、少しばかり軽蔑されそうだ。
他愛のない話のようだったが、途中から話の雲行きが怪しくなっていった。女子生徒の言うことには、昨日の垣村と笹原が一緒にいる写真が撮られていたらしい。SNSを確認すると、確かに見つけることができた。垣村を誹謗中傷する言葉の羅列に、思わず指が震える。隣で覗き込む西園も、いい顔は浮かべていない。
「唯ちゃんって、垣村君と付き合ってるの?」
その言葉が聞こえた途端、心臓が締め付けられる感覚に陥った。西園も携帯を覗くのをやめて、壁に頭を押しつけるようにして耳を澄ます。
(付き合ってるわけじゃない。嘘を言うわけじゃないし、別になんと言われようが……)
どうでもいいと思う反面、どこか期待するような感情もある。肯定的な言葉が出てこないかな、と。そんなこと、ありえるわけがないと知っているはずなのに。そう期待してしまうのは、きっと昨日関わり過ぎたせいだ。心を落ち着かせるように、誰にも聞こえないくらい小さく息を吐いていく。壁越しに心臓の音が響いているんじゃないか、と不安になった。
「私は、垣村と付き合ってないよ」
少しばかりの落胆。けれども当然の答えだ。この雰囲気では中に入るなんて無理だろう。西園に目線で帰ろうと伝えようとしたところで、続く言葉のやり取りが聞こえてきた。
「でも、二人っきりで写ってるし。普通一緒にいる? しかも垣村と」
(……傷つくってもんじゃないぞ、これ)
社交的でなく、排他的。顔も良くない。であれば、妥当な評価なのだろう。せめて陰口ならばよかったが、知ってしまえばもう妄想では終わらない。これからも日々、彼女たちが笑っているだけで自分を貶しているのだと思い込んでしまう。事実を覆すのは、無理なことだ。苦々しく顔を歪める垣村と、気まずそうに頭を掻く西園。彼女たちのやり取りは終わらない。
「別に偶然だって。たまたま同じ電車だったからちょっかいかけただけだし」
「ちょっかいかけたって、カラオケまで一緒なのに? 普通二人っきりでカラオケまで行く?」
「だから違うんだって。偶然、本当にちょっとした気の迷い」
これはもうとっとと帰った方がいいんじゃないか。そう思う垣村だが、足は床とくっついてしまったかのように動かない。心臓だけがひとりでに暴れ回る。握りしめた拳の代わりに壁を殴るかのように、脈拍が壁を伝っていく。
「あぁもう、違うって言ってんじゃん。垣村なんかと好んで遊ぶように見えるの?」
(……垣村なんか、か)
力強く握りしめていたはずの拳がゆっくりと半開きになる。そのまま地面に座り込みそうになるのを、笑っている膝で必死に我慢した。そんな満身創痍の垣村にトドメを刺すかのように、壁一枚向こう側から響く悪意ない陰口が襲いかかる。
「それもそっか。てゆーかこの写真どうすんの。垣村と一緒の写真かなり広まってるし」
「一応通報してあるよ。でも……簡単には消えないだろうね。絶対何か言ってくる人いるよ」
「今言ったみたいに説明すればいいだけでしょ。ただの偶然。私が垣村なんかと一緒に遊ぶわけがないって。話しかけたらすぐオドオドするし、目なんか合わないし」
「うわ、想像できるわそれ。そんなんやられたら絶対笑っちゃうし」
彼女に悪意はない。そうわかっている。いや、本当にそうなのか。今話しているのは、本音なのか。出任せなのか。それすらも判断できなくなるほどに、垣村の思考はぐちゃぐちゃにかき混ざる。まともな思考なんてものはできない。全てがマイナス方面へと向かいつつある。
震え始める体。そんな彼の腕を掴んで、引きずるようにその場から連れ出したのは西園だった。掴まれている部分が痛むほど、彼は力を込めている。その痛みの甲斐あってか、階段を降り始める頃には周りをしっかりと認識できるようになっていた。
「西園、ちょっと痛い」
「あっ……悪い。って、そうじゃなくてさ。アイツら一体何様のつもりだよ」
「……悪気は、きっとないんだよ」
「そりゃないに決まってるよ。その行為を悪いって思ってないんだから」
西園も怒っているのか、擬態が剥がれている。自分のために怒ってくれているのか。そう考えると、少しだけ心が落ち着くような気がした。
踊り場まで降りてきて、手すりに背中を預ける。ほんの数秒、二人の間には沈黙が流れた。それを断ち切るように口を開いたのは、垣村の方だ。
「仕方がないんだよ。だってほら、俺こんなんだから。笹原さんだって、口からの出任せだよ」
「あんなこと言ってたのに? 志音、お前少しは落ち着いて考えてみろよ」
「落ち着いてる。ちゃんと考えてるよ。それでも……出任せだって、思いたいんだ。だって知ってるから」
「何を」
「笹原さんが、どんな女の子なのか」
周りの目を気にするタイプ。周りから置いていかれないように、合わせようとするタイプ。確かに垣村のことを格好いいとは思っていないかもしれない。けれども、垣村は知っている。彼女が汗水垂らして、約束を守ろうとしてくれたこと。自分が作った曲を褒めてくれたこと。カラオケで歌っても、馬鹿にせず笑ってくれたこと。
それら全て、彼女と関わったからこそわかったことだ。関わらなければ、彼女の言葉が真であることを疑わなかっただろう。垣村は、彼女の言葉が偽であることを信じたかったのだ。
「……例え、お前がそう思っていたとしても」
隣にいる西園の顔は、笑っていない。彼は真剣だった。庄司が真面目に話を聞いてくれている時のように。だからこそ……その言葉が、重くのしかかってきた。
「アイツは、お前と一緒にいることを恥だと思っている奴なんだぞ」
「ッ………」
「だから言い訳なんかするんだろ。だから、否定するんだろ。お前と一緒にいるのを、誰かに見られるのが嫌だから。恥で、汚点だと思うからッ……」
「だって俺は、格好よくない……」
「お前の責任じゃないだろ! アイツに非はなくて、自分は傷ついてないからどうでもいいとでも言いたいのかよ!」
彼の静かに怒鳴る声が階段に響く。笹原たちに聞こえないよう配慮してくれているのだろう。吹奏楽部の演奏もあって、その声は近くにいなければ校内のざわめきの一つとしか思えない。
隣にいた西園は、気がつけば垣村と向かい合うように立っていた。彼の顔を直視することができない。俯き、目を逸らす。事実や現実から目を背けるように。
「別に、俺は……」
「なんとも思っていないなんて、嘘だ。本当にそう思ってるなら……泣きそうな顔、するなよ」
「……ごめん」
その言葉を口にしたらもう、何も言えなくなってしまった。奥歯を噛み締め、瞬きを堪える。そんな震える彼を、西園は何も言わずに見守っていた。
「なぁ、志音。思っているだけならまだしも、口に出してしまえばそれはもう事実なんだよ」
流れ続ける音楽に消えてしまいそうな、微かな声だった。
「俺は、アイツのこと嫌いになったよ」
「……悪い人じゃ、ないんだよ」
「だとしても、言葉ってそういうものだから」
正面に立っていた西園は、また垣村の隣に移動する。互いに顔を見合わず、身を包み込む音楽にかき消されそうな声で会話をする。顔を見なければ真意は伝えられないかもしれない。けれど、見ない方が本音を言えることもある。正面切って伝えるのが恥ずかしいものは、特に。
「俺は志音と一緒にいても、恥だともなんとも思わないよ」
「……ありがとう」
彼は「おう」と小さく返事をする。そして数歩、下りの階段に向けて歩みを進めてから振り向いた。そこには先程までの彼はいない。けれども、今までの彼もいない。優しく微笑む、彼の姿は初めて見るものだった。
「クレープでも買って帰ろうか」
「……そうするよ」
笑うことはできずとも、零れそうになる涙を拭って着いていくことはできる。もう生徒も見かけない廊下を、二人揃って歩いていく。外から聞こえてくる野球部の声。テニス部のボールを打つ音。吹奏楽部の演奏。生きているだけでいろいろな音が溢れている。それら全てがそれぞれ独立するように生きていて、そんな音を聞きながら歩く自分たちは、まるで世界から取り除かれたような、そんな気持ちになる。
「……最終的にどうするのか決めるのは、自分だよ。俺がどう思っていようが、志音が決めることだから。けどまぁ……相談くらいは乗るよ」
「……ありがとう」
「ん。友達って、きっとこういうものだろうしねー」
照れくさそうに笑う彼に、頑張って微笑み返す。少しだけ気が楽になった気がしていた。
けれども、垣村は心の中でずっと悩み続ける。西園が言ったように、言葉にしてしまえばそれはもう覆らない事実だ。本人がどう言おうが、受け取り手の解釈次第になってしまう。例え本人が嘘だと言っても、受け手が信じられなければそこまでだ。悪意のない行動なんてものは、探してみれば腐るほど見つかる。本人がそれを悪だと思っていないのなら、殊更凶悪なものと化す。謂れのない罪、偏見、決めつけ。トップカーストはそういったものを息を吐くように行う輩だと、垣村は思っていた。だから関わり合いたくなかったはずなのに、気づけばこうだ。これから先、笹原とどのように接すればいいのか。彼には何も決められはしなかった。
【☆】
憂鬱で、モヤモヤとして、心臓が痛い。学校が始まってすぐに、垣村と一緒にいる写真がネットで拡散された。尋ねてくる人全てに、垣村なんかと付き合っていないと答える。その答えを聞いて、確かにそうだよなと笑う人が多かった。その事実に、唖然となる。確かに差はあるだろうと思っていて、それでも縮まることがあるんじゃないかと希望的観測を持っていた。
だというのに、尋ねる人は誰もが垣村を見下していた。笹原と垣村との間にある壁は、彼女が思っているよりも高く、また周りの人は垣村のことを見向きもしない。
けれど、それでもいいのかもしれないと笹原は思ってしまった。自分だけが知っているような、そんな優越感を感じていたからだ。だから周りの人が、彼を見なくていい。そう思っていた笹原は……二日後には違和感を覚え始めていた。垣村と目が合いそうにならない。それどころか、見られてすらいないようだった。駅で彼に問いただそうとしても、彼はいつもの場所にはいない。メッセージを送ってみても、『少し忙しくなるから先の電車に乗る』と返された。
端の席に誰も座っていない、日陰の椅子。そこで、ぽつんと一人で座っている。嫌な虚しさだけが心を埋め尽くそうとしていた。イヤホンを取り出して、両耳につける。音楽だけが流れる世界。目を閉じて、思い出す。隣にいた彼のことを。
(……これで、良かったのかな。また写真撮られるかもしれないし)
あれほど拡散されていたのだ。垣村も知っているはず。だから彼は離れたのだ。これ以上面倒ごとにならないように、と。そもそも犯人が誰なのかすらわかっていない。そんな状態で、彼と一緒にいたら噂が信憑性を帯びるだけだ。だから、この状況は間違っていない。
笹原は何度も自分に言い聞かせる。けれども……彼女の心はそれを許容できなかった。日に日に増す、痛み。離れた場所から見ているだけで、話すことすらできない。挨拶すらまともに交わせない。歯痒いなんてものではなかった。
次の週になっても、垣村の視線は感じない。それどころか、露骨に視線を逸らそうとしているように見えた。何か、嫌われるようなことでもしたのではないか。それを聞きたくても、この距離ではどうしようもない。彼は接触を拒み、笹原は周りの目に縛られる。
話したいのに、本当につまらないことでもいいから、言葉を交わしたいのに。ただそれだけのことなのに。笹原と垣村が交流するという事象を、周りが認めてくれない。
(……どうすればいいの)
頭を悩ませ、放課後になる。授業の内容なんてロクに入ってこないくせに、休み時間の垣村と西園の会話は耳に届いてくる。彼の声が聞こえて、それだけで胸が苦しくなった。
(……西園なら、何か知ってるのかな)
いつも一緒にいる彼ならば。思いついてしまえば、もう行動に移す他なかった。帰宅部や部活のない生徒でごった返す駐輪場で、彼女は自分のクラスの自転車を片っ端から見ていき、西園の名前を探し出した。そして彼の自転車の近くで待つこと十分程。斜めがけのカバンを揺らしながら歩く、西園の姿らしきものが見え始める。遠くから見ている間は、彼の表情はどこか柔らかい笑みを浮かべているようにも見えた。しかし彼が近づいてきて、笹原のことを認識した瞬間にその顔は消え失せる。いつもの彼は、そこにはいなかった。
目の前までやってきても、まるで笹原を無視するかのように自分の自転車に手を伸ばす。籠にカバンを無理やり突っ込んで、鍵を開けようとする彼の背中に、笹原は声をなげかけた。
「西園、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「んー、笹原さんが俺に?」
振り向いた彼の表情は、いつものだった。へらへらとした軽い笑みを浮かべる彼の顔。けれども細められた目は一切笑っていない。鋭く睨みつける眼光は、まるで鬱陶しいと告げているかのようで、思わず息が詰まってしまう。
(……私が、何かしたんだ)
自分が何かしてしまい、垣村と西園の両方から距離を置かれている。そう確信できてしまった。けれども……いや、だからこそ。ここで彼に尋ねなくてはならない。
全身が強ばるような緊張感に襲われながらも、笹原は彼の目を見据えて続きの言葉を発した。
「SNSに載ってた写真のこと、知ってる?」
「あぁー、アレね。もちろん知ってるよー」
「実は、その……そのことで、垣村とも話したくて。西園の方から、なんとかならないかな」
「んー、どうしよっかなぁー」
「垣村に、伝えてくれるだけでいいから」
どうか、お願い。そう懇願する笹原の姿を、西園は冷えた目で見つめる。庄司ならば、きっとまだその態度を出さないだろう。限界まで話を聞いて、ふとした拍子に己の意志を表に出す。けれど西園は、精神的な強さまでは模倣できない。先程から漏れ出ている不快感は、彼がまだ子どもらしさを持っているという証。否、それこそが西園 翔多という男の子らしさなのだろう。
「……笹原さんは、傘を渡してきた時も俺と面識はなかったはずだよね」
「……えっ?」
「名前だけ知ってるクラスメイトって間柄だったはず。話したこともなかったよね」
自転車に体重をかけるように背中を預け、ハンドルを片手で支えながら姿勢を保つ。傍から見れば、だらしがなさそうな態度のように見える。けれども彼の目の前にいる笹原には、細められた目も相まって、見下されているのだと思えてしまった。
「そんな俺には話しかけるのに、志音には話しかけない。何が違うの。俺と、アイツにどんな差異があるの。顔、性格、態度? それとも、目に見えもしないくだらないカーストってやつ?」
「いや……それ、は……」
返事に困る。言葉がつっかえて出てこない。いや、そんな話をしに来たのではない。笹原は話を戻そうと思っても、目の前にいる彼の豹変ぶりに戸惑い、瞬きひとつできないでいた。
縛られて動けなくなったような彼女を見て、西園は落胆したように息を漏らす。結局はそういうことなんだろう、と。
「大変だっただろうねぇ。垣村〝なんか〟と一緒に写真に写っちゃって」
「ぁ……いや、違っ……まさか、聞いてたの……?」
「んー、どうだろうねぇ。どの道教える気もないし。志音の外見を貶して、その在り方を見下して、笑いながら言えちゃうような人なんてさー」
細めた目が、嘲笑するように歪む口が、その腑抜けたようにも見える態度が、まるで犯した罪を裁く閻魔のように見える。嘘をついた舌を抜き去るが如く、灼熱の地獄に叩き落とすように、彼女から言葉を奪い去り、心の内に芽生えた罪悪感を燃え滾らせた。
「どーでもいいんだよねー」
関心なし。興味の喪失。関係の根絶。明確に、西園は彼女を拒絶したのだ。
あぁ、なんてことをしてしまったのか。そんな後悔をしようが、時既に遅し。彼女はもう口にしてしまったのだ。知っていながら、彼を貶し、蔑み、共にいることを汚点だと恥じてしまった。それが例え、出任せであったとしても。周りを納得させるためだけの、上辺だけのものだったとしても。彼女は思ってしまっていたのだ。垣村と一緒に歩いているところを見られ、垣村なんかと一緒にいるという事実をからかわれるのが嫌だった。
「じゃあ俺は行くけどさー、志音待たせてるし」
「っ……ぁ……」
待って。そう言おうにも、言葉は声にならない。遠慮がちに伸ばした手だけが、何も掴むことなく下ろされる。
自転車の鍵を開けて、西園はその場から少し離れていく。動く気配のない笹原の様子に、彼は立ち止まった。本当に、どうでもいいと思っているのだ。けれども足を止めてしまったのは、違うとわかっているから。しかし何が違うのか。その比較対象は、彼にとってひとつしかない。背中を向けたまま、誰に言うでもなく呟くように告げた。
「誠意ってもんを見せなよ。志音のことちゃんと考えてるならさ」
「っ……」
「……自分のやりたいようにできないのは、嫌だよねー。そんな立場になって、そんな友達に囲まれちゃったら、おしまいだなー」
きっと庄司ならばこうするだろう。たったそれだけの理由だ。自分のやりたいことをやれるように、西園は垣村と一緒にいる。都合がいいとも言えるのかもしれない。それでも、他の男の友人らしきものとはまた違う。
他の人を指さして、アレは友人かと問われたら西園は、まぁそうだねーと曖昧に言葉を濁すだろう。
垣村を指さして、アレは友人かと問われたら、その言葉にいつものように笑いながら頷き、そうだよと返すだろう。そんな間柄だった。
「……誠意って」
遠ざかっていく自転車を見ながら、消えてしまいそうな声で呟く。駐輪場の日陰にいるはずなのに、汗が止まらない。心臓は激しく脈動し、胃の中身がせり上がってきそうになる。
(……今日は、木曜日で、垣村がホームにいる日で……)
誠意とは何か。それすらもまともに考えられない。ただ、彼に会わなくては。それだけを考えていた。その場から覚束無い足取りで笹原は歩き出す。日差しを浴びてよろめくように歩く彼女の姿は、まるで熱中症になってしまったかのよう。それでも足を止めずに、駅へと向かう。
けれども、いつもの場所にはやはり垣村はいなかった。
(どうしよう……どうしたらいいの……)
いつもの場所ではなく、垣村の座っていた椅子に座ってみる。イヤホンをつけ、また目を閉じる。そこには温もりなんてものは当然なく、無機質な椅子の冷たさだけがあった。
垣村。いつからか、頭から離れなくなってしまった人。そう、初めて認識しあった時から、酷い仕打ちをしてしまった。けれども、そんな笹原に向けて彼が言った言葉が頭をよぎる。
『許せない。けれどそのうち、気にならなくなることはあるかもしれない
打ち上げの帰りに、彼が言ったその言葉。結局は、謝るしかない。西園の言ったように、誠意を持って。けれども、足が踏み出せない。一言メッセージを送ることさえ、躊躇ってしまう。
言葉は透明な弾丸だ。放ったことさえ自覚せず、流れ弾に当たってしまえば傷つくだけでは済まされない。笹原が言葉で彼を傷つけたように、西園によって精神的に打ちのめされていた。
どうにかして会って、伝えなくてはいけないのに。結局笹原には、金曜日になっても話しかけることさえできず、向けた視線は西園の冷徹な目で諌められ、苦痛ばかりが募っていった。
そんな不安定な彼女の思考は、段々と脆く愚かになりつつあった。会いたいのならば、連絡を取ればいい。けれどそれが怖くてできない。無視されてしまったらと思えば、指は震えてしまう。だから……探したのだ。自分以外の何者かに縋るように。どうにかして欲しいと願って。
わざわざ土曜に彼の通う塾がある駅に向かい、人を眺めながら時間を潰す。けれども、見つけることはできなかった。諦めたらいいものを、家で何もせずに過ごしているだけで吐きそうになるのだ。逃げ場がなく、闇雲に探すことでしか、心を安定させることができなかった。
(……あれ、は)
もう空が暗くなりつつある。そんな時間帯に、公園を歩く二人の後ろ姿を見つけてしまった。それは間違いなく、垣村であり、その隣を歩いているのは花火大会の日に見たあの女の子だ。近寄り難い。足が棒のようになり、その場で立ち竦む。笹原の目尻に、涙が溜まり始めた。
(見つけ、られたのに……)
視線の先にいる二人。どうしようもなく、胸が痛む。謝りたくて、また話をしたくて。あぁ、それどころか……あの二人の仲を引き裂きたいとすら思えてくる。
もうボロボロだった。自分のしでかした罪を、償いたい。そしてまた、あのゆったりとした時間を取り戻したい。できることならば……ずっと。
目の前を歩く二人の後ろ姿を追うように、笹原は歩き出していた。涙を拭い二人を見つめるその瞳は、ただただ必死そうに鈍く輝いている。
「垣村っ!」
叫ぶ。そして、彼が振り向く。どうしてここに、とでも言いたげに驚いていた。そして、その隣にいた女の子も。
「……笹原」
名前を呼んでくれたのは、彼ではない。隣にいる眼鏡をかけた女の子だった。苛立たしそうに睨みつけてくる。怒気を孕んでいるその声に……どうしてか、聞き覚えがあった。
【♪】
他人から向けられる視線というのに、垣村はあまりいい印象を持っていなかった。なにしろ、彼にとって向けられる視線や感情というものはそれ程よいものではなく、基本的には見下されているように思えるものばかりだ。トップカーストによる陰口の件があって以降、自分に向けられている視線の数が増えたように感じていた。いや事実、増えていたのだ。なにしろ笹原はそれなりに人気もある女子生徒であり、そんな人と垣村が一緒にいる写真が拡散されたとなれば、学生にとっては週刊誌の一面を飾る芸能人のスクープのようなもの。いわば文集砲だ。
そんな状況で学校生活を今までのように送れるわけがなかった。どこに行くにも、アレが垣村かという視線を向けられる。校内の生徒たちの注目の的になっていた。流石に精神的にくるものがある。前よりも音量を上げて、イヤホンで世界を遮断するように校内を歩く。そして教室でもいつものように、垣村は腕を枕にして顔を隠した。周りの視線から逃れるためだけでなく……笹原の視線からも逃れたかったというのもある。
月曜日は笹原と一緒の時間を過ごさず、また連絡を取ることもない。度々目が合いそうになる学校生活を送っていたが、今となっては明確に見られているのだとわかるほど、彼女は垣村を見てくる。それに応えることは、彼にはできなかったが。
そんな精神的磨耗の続く日々を送って、結局木曜日も笹原と一緒の時間を過ごすことはなく塾へと向かう。気まずいのもあるし、笹原の言葉がそれなりに心に傷を負わせていた。何も知らない他人だったら、これほど傷つくことはなかったのだろう。
(……関わるって、いいことばかりじゃない。そんなの、知ってたはずなのに)
関わらなければ相手を知り得ない。だが逆に、知らない相手だからこそ無視できるものもある。垣村は、随分と彼女と一緒の時間を過ごしてしまっていた。
傘を無理やり渡したあの日。きもいと言われ、心に傷を負った。まさにその古傷が掘り返されているような気分だ。音楽を聴いていても落ち着けない。授業に集中している時はそうでもないのに、終わった途端に思考の隅で意識してしまい、動悸が早くなる。金曜日になっても、そんな状態が続いていた。心配してくれているのか、休み時間になる度に西園が話しかけてくれる。垣村の机の上に座り、他愛のない話をしてきた。その座る位置のおかげで、笹原が見えなくなる。彼が気づいてやっているのかはわからないが、少なくとも今はそれが嬉しかった。
「志音ー、今日はバッセンでも行ってみる? 俺ホームラン狙っちゃうかもよー」
「場違いだよ、俺には。それと多分打てない」
放課後になって、また西園と遊ぶ約束をする。気を遣ってくれているのだろう。少なくとも、彼と一緒に遊んでいる間は面倒なことを考えずに済む。家に帰れば……また、一人で思い悩んでしまう。どうにも、作曲にも手がつかない状態だった。
(……西園?)
話している最中、彼はふと目をそらすことがあった。自然と首を回すように動かす仕草は、彼のことを知っている垣村には不自然に思えるものだ。二人で話している時、彼は周りを気にするようなことはなかった。周りを見回すくらいなら、携帯を見ているような性格だったはず。
「……どうかしたの?」
「んー、いやなんでもないよー」
垣村に向き直った彼の瞳は、優しげに緩んでいる。けれども、振り向く一瞬、確かに細められた彼の目が見えた。心の奥底まで見てきそうな、庄司のような目付き。彼は一体、何を見ていたのか。きっと尋ねても答えてはくれないだろう。
西園の挙動に怪しさを感じていた垣村だったが、手に持つ携帯が震えたことで現実へと意識を戻すことになった。通知には、園村 詩織の名前が表示されている。彼女とのやり取りも、多少は慣れたものだったが……どうにも文面が普段と違う。連絡する時は明るく挨拶してきたり、顔文字を使ったりする彼女だったが、表示された文にそのようなものは見られない。『明日会えますか?』という一文だけだった。
それを覗き込んで見てきた西園は、怪訝そうに顔を顰めながら尋ねてくる。
「女の子のお友達? いつ知り合ったのさ」
「ちょっと前に、ね。色々あってさ」
「ふーん、まぁいいけどさー……最近女運ない生活送ってるじゃん? その子は良い子なの?」
「心配し過ぎだよ……園村さんは、そういう人じゃない。まぁ……良い人だよ」
どちらかというと、こちら側。言葉にはしなかったが、西園も本人がそこまで言うのならと納得した様子だった。「まぁ楽しみなよー」と笑いながら言う彼に、苦笑いを返す。あまりにも単刀直入な誘いに、どうにも違和感を覚えてしまった。
土曜の塾が終わるのは、空が暗くなり始める頃だ。そのあとで園村と会う約束をしていた。
これから帰るのだろう他校の生徒に紛れて、垣村も塾の外へと向かっていく。入口の窓ガラスの向こうに、既に立って待っている彼女を見つけた。携帯を弄りながら立っている彼女の顔は、どことなく暗く感じる。扉を開けて外に出ると、彼女はすぐに垣村に気づいて顔を上げた。
「園村さん、待たせてごめん」
「ううん、さっき来たところだし。それに、塾があったのにごめんね」
「それは大丈夫だけど……」
どうにも話しづらい。いつものように明るく、といった雰囲気ではなかった。彼女もそれをわかっているのだろう。垣村の隣にまで歩いてくると、服の袖を引っ張るように掴んできた。
「柿P、ちょっと話したいことがあるの。歩きながらでもいいから」
「……なら、近くに公園みたいな広場があったはず。そこに行く?」
彼女は静かに頷いて歩き出した。世間話をする、といった空気でもない。若干息苦しく感じつつも、垣村は彼女の隣を歩いていく。
「あのね、柿P」
さほど大きい声ではない。それに、どこか震えているような気もする。自分は彼女に何かしてしまったのか。そんな不安さえも感じ始めた。
「SNSにさ、写真……載ってたよね」
「あっ……うん。やっぱり、けっこう広まってるのかな」
「そうみたいだよ。結構、嫌なこと書かれてて……あんまり、いい気分にはなれなかったかな」
「見た時は、俺もそうだった」
もう消されてしまっているが、あの誹謗中傷の羅列はさすがに看過できないものがある。普段からどんな目で見られているのかもわかったし、周りの人がどんな人間なのか、というのも目に見えてしまった。知りたくはなかったけれど、それでもひとつだけ良いことがあったとするならば……西園が、本当に垣村のことを考えてくれているのだとわかったことだろう。
何事も捉え方は前向きに。庄司に言われた言葉だった。嫌な部分だけじゃない。見つけられたものには、良い部分もある。そう考えることもできるようになっていた。少なくとも、致命傷にならずに済んだのは良かったのだろう。
「アレを見た時、正直驚いてた。もしかしてさ……あの子が、柿Pが傘を貸したって女の子?」
「そう、なるね……」
やはりこの話題は恥ずかしい。垣村はそっと視線を背けて、進む足を早める。塾から公園まではそう遠くなかった。公園とは言うものの、ベンチは苔だらけで座る気にも慣れず、それなりに背の高い雑草が生えている場所だ。あるのも錆びたブランコとシーソーだけ。お粗末な場所だった。おかげで子供一人遊んでいない。けれど、それはむしろ話をするには好都合だった。
「あのさ、柿P。私が中学でイジメられてたって話、覚えてるよね」
「あぁ、うん」
「相手は女子のグループで、随分といろいろやられたよ。まぁ多分、私だけじゃない。それに……あんまり評判良くないんだ、私の中学。最近、自殺したって女の子の話も聞いたし」
「自殺って……イジメで?」
「そう。学校側は隠したけど……回ってくるものなんだよ、こういうのって」
寂れた公園の真ん中辺りで、二人揃って立ち並ぶ。彼女の声に抑揚はあまりなく、物悲しいというよりも怒りを感じさせるものだった。彼女が言うには、自殺した女の子は強姦まがいの仕打ちを受けたらしい。女子グループにトイレに連れ込まれ、仲間の男に体を触られ。強姦まがい、というのも……遺書にそう書かれていたからだった。指だの、ボールペンだの。正直聞いていて、垣村もいい気分はしない。垣村の中学では、イジメこそあったものの、そこまでのものではなかった。恵まれていたのではなく、園村の学校が腐っていたというだけの話だ。
「私は、そこまで酷くはなかったけどさ……やっぱり、イジメって本当に屑のやることだよ。そう思わない、柿P?」
「そりゃ……そうだと思うけど」
「笑いながら叩いて、罵って、何がしたいんだろうね。それをやって、何か満たされるのかな」
「……わからない。人それぞれなんだと、思うけど……俺は、そんな人になりたくないってずっと思ってたから。きっと、理解はできないと思う」
垣村がそう答えると、掴まれたままだった服の袖がより強く握りしめられた。彼女を見やれば、表情は凍りついているかのように固まっている。口元を薄らと歪ませながら……。
「柿Pは、そういう人だよね。うん……知ってたけど、ちょっとだけ安心した」
「園村さん……?」
「……酷いこと言うかもしれないから、先に謝っておくね。ごめんね、柿P」
園村が垣村のことを正面から見るように、体を向ける。彼女の瞳が揺れ動いているのがわかった。彼女が今から口にする言葉は、それほど彼女にとって大事なことなのだろう。
早まる心臓を感じながら、彼女の言葉の続きを待つ。「私は……」と言ったところで……二人の時間を壊すかのように、声が響いてきた。
「垣村っ!」
慌てて、声のするほうを向く。そこにいたのは、必死な顔で近寄ってくる笹原だった。最近彼女との仲はうまくいっていない。いろいろと、タイミングが悪いと困っていたところで、隣から聞こえる声に心臓を掴まれたような錯覚を覚えた。
「……笹原」
いつもの彼女からは考えられない、底冷えするような声。思わず同一人物なのかと疑ってしまうほどだ。
「園村さん……知ってたの?」
「そうだね……でも、ちょうど良かったかも」
何が、ちょうど良いのか。今起きている事態に、垣村はついていけなかった。
笹原は二人のすぐ目の前まで近寄ってくる。何か言われるかと身構えた垣村だったが……思いがけないことに、彼女は園村に向けて軽く頭を下げ、懇願してきた。
「お願いっ、垣村と少しだけ話をさせて。本当に、少しだけでいいから……」
必死に頼み込んでくる彼女の姿に、垣村は目を見開いていた。先週色々とあったが……自分と話すためにここまでやってくるのかと、思わずにはいられない。会う約束もしてないのに、塾の時間だって教えていないのに。彼女はきっと、ずっと探していたんじゃないか。
園村に、彼女の話を聞いて欲しいとお願いしようとした垣村だったが……園村は、垣村の袖を握ったまま薄らと笑う。
「柿P、いいこと教えてあげる」
今ここで、言うことなのか。そう言いたかったが、垣村の口は動かない。園村の笑う姿に気圧されていたのだ。今までこんな彼女は見た事がなかった。思わず生唾を飲む。
「私のこと、中学でイジメてたのはね」
その言葉が聞こえた途端、思わず手を強く握りしめた。いや、嘘だろう……そう思っていても、続く言葉は現実を見せつけてくる。
「目の前にいる、笹原 唯香だよ」
「……えっ?」
声を上げたのは笹原だった。垣村に至っては、声を上げることすらできない。冷たく笑う彼女が伝えてきた言葉が、真実なのか。頭を上げて驚いている笹原に目線を送る。けれども彼女は、頷きも否定もしない。困惑した様子で園村のことを見つめていた。
「私のこと、覚えてるよね。園村 詩織、あなたの元クラスメイト」
「園村って……嘘……」
「変わってて、気づかなかった? 不登校の間、あまり食べ物食べれなかったから」
不登校ではあったが、彼女はちゃんと勉強はしていたらしい。高校だって、頑張って受かったと言っていた。けれども……そうしなくてはならない原因に、笹原が関わっているなんて。
彼女は垣村と視線を合わせようとして、すぐに逸らした。まるで、親に知られたくないことを知られてしまった子供のように。
「……柿P。これが、あなたと一緒にいた笹原だよ。私をイジメて楽しんでいた内の一人。あなたが毛嫌いする、トップカーストのイジメっ子」
「……本当なの、笹原さん?」
「あ……い、や……その、私は……」
彼女は半歩下がって、白黒とする瞳のまま体を縮こまらせる。いつもの元気さの欠けらもない。知られたくなかった。隠し通したかった。そもそも教える気すらなかった。どれなのかはわからないけれど……垣村は、この場で何も言うことはできなかった。
「夏休み前に、仲良くなったんだよね。不思議じゃない? 私みたいな、それこそ柿Pだって……彼女たちのイジメの対象に選ばれるんだよ。ずっと、騙されていたんじゃない? SNSだってさ、柿Pの悪口は多かったけど……笹原の悪口って、そんなに多かった?」
「……数えてないよ、そんなの」
「本当は、あなたを陥れて笑うためだったんじゃないかな。心当たりくらい、あるんじゃない?」
「ち、違う! 私は、垣村にそんなこと……」
否定するも、その声はだんだんと小さくなる。心当たりと言われると……思い出すのはあの陰口。けれど、本当にそうだろうか。夏休み、彼女は汗を流して必死に探しに来たじゃないか。
「柿Pの考えてること、私にはわかるよ。けどね……」
そんな垣村の考えを、打ち壊すように彼女は言う。
「過去は消えないよ。彼女は、私だけじゃなく、もっとたくさんの人をイジメてたんだよ。思い出で美化するの、やめよう? どうやっても……彼女の過去は、事実なんだから」
事実なんだろう。だから何も言えない。垣村は中学時代の笹原を知らないから、思い出で美化できる。けれども彼女はそうではない。被害者であり、思い出も何もない。そして高校の彼女も知らない。いや、もしかしたら笹原はまだ、高校で何かやっている可能性だってある。
今までいろいろとあって、不思議な縁で繋がった二人。その縁が、園村の言葉によって朽ち果てていくのがわかった。
「っ……あの時は、本当に……ごめんなさい……」
「……それで、謝罪したところで何か変わるの? そんなの、あの時聞き飽きたよ」
涙声だった。また頭を下げて謝った笹原から、地面に向かってぽつりっ、ぽつりっと涙が落ちていく。砂の地面に斑点が増えていくのを……垣村は、見ていることしかできなかった。
「柿P、謝罪ってさ……誰に対してするのか、知ってる?」
「……迷惑をかけた、相手に」
「違うよ。謝罪はね……自分に対してする、免罪符なんだよ」
彼女の言っていることを、いまいち理解できない。けれども彼女の瞳は強く、ブレない。どれだけ彼女が本気でそう思っているのか、嫌でもわかってしまう。
「あの時だってそう。不登校になって、イジメが発覚して。先生に集められてさ……本人同士で謝れって、先生は言ってたけど……馬鹿だよね。何もわかってない。口だけの謝罪しかしない人たちなのにさ……そんなの、許すと思う? 私の時間を奪ったのにさ」
「……思え、ない」
「だよね。許さなかったよ。でもそしたら……なんて言ったと思う?」
未だに頭を下げ続けている笹原を見下しながら、園村は垣村の服の袖をまた強く握りしめた。
「〝謝ったのに、なんで許してくれないの〟……だって」
「っ……」
「結局はさ、謝罪したから、別にもういいじゃんって思ってるんだよ。自分の罪を帳消しする、そのための謝罪だよ。相手に許してもらいたいだなんて思ってない。しまいには、先生まで来てさ……〝許してやれ〟だって。私が許すって言うまで、部屋から出す気もない」
彼女の経験した過去が、次々と垣村の心を抉っていく。何が正しくて、何が間違っていて。そんなものは、きっとここでは何も意味はないんだろう。彼女の言い分は真っ当で、笹原のやったことは怒りを感じるもので。垣村だって横暴な仕打ちをされた。自分にも非はあったが……西園の言う通り、彼女は自分が恥をかきたくないからあんなことを言っていたのだ。笹原を擁護する必要はないだろう。むしろ、責めるべきなのだ。そのはずなのに……垣村は何も言えなかった。頭を下げ続け、泣き続け、謝り続ける彼女をずっと見ていることしかできなかった。
「ごめんなさい……」
「何度謝っても、無意味だよ。私が受けた傷が消えるわけじゃない。私の時間と幸せを奪った挙句……自分が幸せになろうだなんて、烏滸がましいと思わないの?」
「私は……皆から、嫌われたくなくて……」
「この期に及んで、言い訳までするの? 柿P、あなたと一緒にいた笹原は、こんな女の子なんだよ。それでも、まだ一緒にいたいって思うの? 何されるのか、わからないのに?」
垣村の目を見ながら、彼女はそう尋ねてくる。それに、肯定も否定もできなかった。気まずそうに目を逸らし、早まる心臓を抑えるべく、浅くゆっくりと呼吸を繰り返す。
「……俺、には……何も」
「ちゃんと伝えることも、優しさだと思うよ。いっそ否定してあげた方が、楽になれるかもしれない」
「……園村さんは、彼女に不幸になって欲しいだけだよ。だから俺には……何も言えない。君の怒りは、至極真っ当なものなんだろうけど」
その場凌ぎの言葉を伝えるしかなかった。それでも、園村は逃がす気はないらしい。垣村の右手を両手で握ると、また目を合わせてくる。包まれた手には、やっぱり彼女の温かさがあり、今まで見てきた優しく強い彼女は嘘ではなく、また目の前にいる冷徹な女の子も彼女自身であることには変わりない。それらを全部まとめて、園村だということだった。
「あのね、柿P」
冷たい笑みはなく、いつもの明るい表情へと戻る。包まれた手が、更に強く握りしめられた。
「私は……志音のこと、好きだよ」
「……えっ?」
驚いて、頓狂な声を上げてしまう。けれども彼女の瞳はそれが嘘ではないことを物語っていて、握られていた手は伝えることを伝えて、安心したかのように緩められた。
「私は志音のこと、ちゃんとわかってあげられる。趣味だって共有できる。作曲でも、小説でも、なんだろうと私は応援してあげられるよ」
「園村さん……君は……」
「本気だよ。本当に、私は志音のことが好き。だから……私と、付き合ってください」
笹原を傷つけたいだけなんじゃないか。そんな想いは軽々と砕かれた。見つめてくる彼女の瞳は、本気だ。一切ぶれることなく、瞳の奥まで見据えるように見つめてくる。
視界の隅で動くもうひとつの影。笹原は泣いたまま、二人を見ていた。驚いているようにも見えるし、悔しそうに俯いているようにも、後悔しているようにも見える。
「……こんな時に告白されても、困っちゃうよね。でも本気で好きなんだ。それなのに、ね」
顔を上げている笹原を、彼女は見ながら言ってくる。
「私の時間どころか、好きな人まで奪われるとか、絶対に嫌だから」
「っ……垣村……」
涙声で名前を呼ぶ笹原。芯のある声で告白してきた園村。この状況を、どうしたらいいのか。決められない。優柔不断な自分が嫌になる。笹原は思っていたよりも強い女の子ではなく、園村は……想像以上に強かな女の子だった。
「嫌なところ、沢山見せちゃったよね。けれど、それが私だよ。完璧な人間なんて、いないし。そんな私だけど……ダメ、かな」
その問いかけに、願いに、答えることはできなかった。俯いて唇を噛み締める垣村を、園村は微笑みながら見つめている。
「簡単には、決められないよね。多分、逆だったら私もそうなると思う。本当はここで決めて欲しいけど……また、今度にしよっか。ゆっくりでいいから、ちゃんと答えを聞かせて欲しい」
「園村さん……」
「……帰ろう、柿P」
垣村の手を引いて、その場から離れようとする。笹原が動く気配はない。啜り泣く声が、暗い世界に響いてくる。それを聞いて、園村は立ち止まって背中を向けたまま、彼女に告げた。
「私はあなたが幸せになるのを許容できない。志音と不釣り合いなのは、あなたの方だよ。優しい志音を、これ以上傷つけないで」
砂場に崩れ落ちる音が聞こえた。顔だけ振り向くと、彼女は地面に座り込んで涙を流している。思わず手を差し伸べてしまいそうになるのを、園村が手を強く握ることで止めてきた。彼女はそのまま手を引いて、帰り道を歩いていく。
公園に残された啜り泣く声。いつか聞いた、あの弱々しい泣き声。男に襲われて座り込んでいた彼女には手を差し伸べることはできたけれど、今はそんなことはできない。手を差し伸べたくなるのは、まだ笹原のことを幻滅していないからなのだろうか。
「……柿Pは、優しいね」
途中途中で振り向く垣村を、彼女は柔らかい声で慰めてくれた。握っていた手は、気づけば恋人繋ぎに変わっていて、いつもとはまた違う感触と温かさが伝わってくる。
「でもね、自業自得だよ。犯した罪は、消えない。あの子がやった事は、なくならない。天罰だよ」
「……笹原さんと、向き合わなかったら……きっと、園村さんとも出会えなかった気がする」
「だとしたら、それだけは感謝しなきゃね。柿Pに会わせてくれて、ありがとうって」
人通りが増えても、彼女は手を離すことはしなかった。恥ずかしそうにもしていない。繋いでいることは当然の権利で、見られようが構わない。そう思っているようだった。
駅に着いて、改札を抜ける。電光掲示板の下で二人は立ち止まった。
「……ちゃんと答え、聞かせてね」
「……すぐには、無理だと思う」
「だろうね。でも……待ってるんだからね。ずっと、ドキドキしながらさ」
園村は名残惜しそうに手を離していく。先程までのことが何もなかったかのように、彼女はいつものように軽快に笑った。そしてまた、彼の名前を恥ずかしそうに、はにかみながら呼ぶ。
「バイバイ、志音」
「……またね」
階段に消えていく彼女の背を見送ってから、垣村も下りのホームへと下りていく。上りホームには、既に電車が来ているようだった。数分後には、電車は彼女を乗せて行ってしまう。
手には未だに彼女の温もりが残っている。残響する電車の音を聞きながら、椅子に座った。
空はもう暗く、曇っているのか星一つ見えない。こんな夜空の下で、彼女はまだ泣いているのだろうか。離れているはずなのに、耳に届いてくる気がする。彼女の、啜り泣く声が。
手に残り続ける暖かさ、後ろ髪引かれるこの想い。感じた胸の高鳴り。彼女たちの過去。
決めなくてはいけない。でも、どうやって。どうしたらいい。なんで将来のことを決めるよりも、悩ましい問題があるんだ。
現実逃避したくなって、垣村はいつものようにイヤホンをつける。けれども……どんな音楽も、流す気にはなれなかった。
【☆】
誠意、謝罪、イジメ、過去。どうしてこうなったのかなんて、わかりきっていることだった。何もかも、自分が悪いんだって、わかってる。それでも、愚痴を零したくて。誰かに慰めて欲しくて。悪くないよって言って欲しくて。
……そう思ってしまう限り、過去からは逃げられないんだ。彼女の言っていた通り、過去が消えることはない。罪が許されることはない。だとしたら、どうすればいい。
分からない。何も、決められない。彼の顔を見ることすらできない。知られたくなかった。嫌な女だって、これ以上思われたくなかった。不釣り合いなのは……私の方だったんだ。
教室で、垣村の話す声が聞こえる。もう、話すことすらできないのかな。許されることじゃない。許して欲しいだなんて、傲慢だ。罪を重ね過ぎた。
園村と、垣村なら……ちゃんと上手くやっていけるはず。あんな子だったなんて、知らなかった。勝ち目なんて、ないじゃないか。いいや、そもそも……選ばれたとして、その幸せを享受できるのかな。一緒にいていいのかな。
『許せない。けれどそのうち、気にならなくなることはあるかもしれない』
『誠意ってもんを見せなよ。志音のことちゃんと考えてるならさ』
『優しい志音を、これ以上傷つけないで』
頭に過ぎる、これまでの言葉。そのうちって、いつ。誠意って、どうすればいい。傷つけないために、どうしたらいい。
会わない方がいい。話さない方がいい。顔も見ない方がいい。
でも会いたい。話したい。ちゃんと顔を見て、笑いたい。
『……本当なの、笹原さん?』
思い出すだけで、泣きたくなる。嫌われるって、本気で思った。猜疑心に満ちたその瞳が、何もかもを砕いていく。謝らなきゃって、その決意も。何も残らなかった。暗い公園で啜り泣く私に手を差し伸べる人はいない。隣にいてくれるだけの人もいない。
……いつから、だったんだろう。最初から。いや違う。助けてくれたあの夜。わからない。
何もわからない、けれど……嫌われたくないって、思ったことは事実だった。泣いてしまったのも、胸が痛むのも、吐きそうなほど会いたくなるのも……そういう、ことなんだ。
望みなんてない。きっと、欠片もない。けれど、それでも……私の心は本物なんだって、知って欲しい。それこそが、私にできる……誠意の表し方のはずだから。
【♪】
答えというのは、そう簡単に出てくるものではなかった。園村から催促されることもないが、今も尚待ち続けている彼女のことを思えば、早く返事をしなくてはならないのは自明の理だ。
月曜日になって学校に向かうと、西園がいつもの様子で話しかけてきた。それに適当に返しながら、教室の前の方を見る。彼女の席には誰も座っていなかった。
「唯ちゃん、今日休みなんだってー」
前の方の女子生徒から、そんな声が聞こえてくる。笹原は休みらしい。あんなことがあったのに来れるとしたら、なかなかのメンタルだとは思うが。
(……何を迷っているんだろう)
答えを出せない垣村には、そもそもなぜ悩んでいるのかすらわからなくなっていた。園村と付き合いたいのか、付き合いたくないのか。それだけで判断すべきではない。そんな感じがして、ずっと考え続けていた。でも、だとしたら他になんの要素があるのか。どんな欠片があれば、その答えを出せるのだろうか。悩んで、考え続け。ふと思ったのは、視線の先にある彼女の机。そこに彼女がいれば、何か答えが出せるのか。
(……そんなはず、ない。決めたくなくて、先延ばしにしてるだけの、クズ野郎だ)
自問自答を繰り返し、自責の念に苛まれる。結局、笹原は火曜日になっても学校にくることはなかった。空いている席に、いもしない彼女が座って笑っているのを幻視しそうになる。
笹原が学校に来たのは、木曜日になってからだ。イヤホンをつけて時間を潰していると、前の扉から入ってくる彼女を偶然見つけてしまう。笹原の視線は一瞬だけ垣村に向けられたが、すぐに逸らされてしまった。彼女の表情は明るいとは言えず、無理をしているようにも見えた。
突然垣村の右耳から圧迫感がなくなり、生徒たちの喧騒に紛れて西園の声が聞こえてくる。彼は女子生徒に囲まれている笹原を見ながら、怪訝そうに顔を歪めていた。
「志音って、笹原さんと何かあった?」
「……いや、なにも」
そう答えると、興味なさげに「ふーん」と鼻を鳴らすように返してきた。西園は携帯を取り出して、最近のゲームのことだとか、SNSで見つけた面白い記事なんてものを見せてくる。確かに面白いものもあり、笑えるような内容だったはずなのに……どうにも、笑えなかった。
金曜日。垣村には週末に何をするという予定もない。いや、現在進行形で予定があると言った方がいいのか。今でもずっと考えている。園村への答えと、燻り続けている感情の意味を。
「帰りのホームルーム始めるぞー。席につけー」
疲れた様子の担任が生徒たちを座らせる。あの先生も、同じような悩みを抱いたりしたのだろうか。将来について悩んで、その時の状況に板挟みになり、なぜ教師になろうと思ったのか。
少し前までの垣村なら、どうせなし崩し的にそうなったか、公務員ならば羽振りが良さそうだからと考えただろう。けれども、今は少し違う。どんな人にも、その人なりの人生があって、悩んでいたに違いない。そしてその悩みを解決してくれる何かがあったのだろう。
(……この悩みを、いったい誰が、どうやって解決してくれるんだ。いや、自分で決めなくちゃいけないはずだ。自分の感情の問題だろう、これは)
将来についての悩みが薄れたかと思えば、これだ。園村によって歩むべき道に光が差したかと思えば、彼女と笹原によって今この瞬間こそが暗闇に包まれてしまった。時間は有限。彼女を長く待たせることはできない。自分はどうしたらいい。どうするべきだ。悩んでばかりで話は頭に入ってこず、気づけば教師が学校の終わりを告げ、放課後を迎えることになった。
(……終わらなければ、いいのに。明日なんて、来なければいいのに)
まさか学校が終わって欲しくないと思う時が来るとは思わなかった。授業中は、それ以外何も考えずに済むからだ。けれど、その束縛から解かれてしまえば……嫌でも考えざるを得ない。
そんな悩みを抱いているのは、きっと少ないだろう。放課後になった途端、解放されたように生徒たちはざわめきたつ。教室は先程までとは異なって喧騒に包まれた。どうでもいい会話内容。部活の連絡。遊びの約束。そんな音は、耳障りだ。垣村は、まるで自分だけが世界で深い悩みを抱き、苦しめられているのだと錯覚してしまう。何も聞きたくない。そう思っても、どうにもならなかった。
せめてイヤホンをつけて、音を少しでも遮断しようか。そう考えた矢先、不意に聞こえてきた声を耳ざとく拾ってしまった。
「唯ちゃん、どこ行くの?」
女子が笹原を呼ぶ声に、思わず反応してしまった。その件の笹原は、不思議なことに垣村の方へと近寄ってきている。握られている両手は僅かに震え、ぎゅっと結ばれた口は恐怖を噛みしめているようにも思え、その足取りの重たさは一歩前に出ようとするのに必死そうだった。
他の生徒たちは自分の用事を済ませており、彼女のことを見ている人は少ない。それでも視界の隅に捉えてしまえば、彼女らしくないその奇行を見続けてしまうだろう。
たった数人が息を飲んで見守る中、彼女の足が止まったのは……垣村のすぐ目の前だ。座っている垣村には、彼女の顔が良く見えた。目元には薄らと隈ができていて、疲れが溜まっているように思える。先程まで固く閉ざされていた口は、わずかな隙間を空けて震えていた。
「……あの、さ……垣村」
体だけでなく、声までもが震えていた。それでも話を続けようとするその姿は……ただただ、必死そうだという一言に尽きる。垣村も、そのただならぬ様子に息をすることを忘れていた。
震える声に、体。しかし彼女の瞳だけは、揺れ動くことなく垣村を見つめていた。
「私はっ……垣村の、ことが───」
たどたどしくも、震える声には力が込められていた。震える体を、声を、抑えつけるのに必死なのだろう。強く見えていた彼女は、知れば知るほどそうではないのだと思えた。目尻に、薄らと涙が浮かんでいるのが見える。
「───好きです」
園村からも伝えられた、垣村のことを好いているという告白。それをまさか、言われるだなんて思ってもいなかった。唖然として固まってしまった垣村に、彼女は想いを吐露してくる。
「いつからか、わからない。けど……一緒の時間を、取られたくないって、思ったの。何もしなくても、一緒にいるだけのあの時間が、大事だった」
電車を待つ時間。週に二日間だけ話せるその時間。何もしなくても、いいと思えたあの時間。それがどれほど貴重で、素晴らしいものだったのか。垣村も、わかっていた。
「嫌われてるって、わかってる。でも……それでもっ……」
彼女の声が、静まり返った教室に響く。
全員が、見ていた。
「私と、付き合ってください」
頭を下げて、彼女はそう告白してきた。美談になることだろう。皆の前で告白するという勇気を、讃えるべきなのだろう。賞賛の拍手をすべきだろう。けれども、垣村にとっては……。
(……告白、されたのか)
目を白黒させて、彼女を見つめる。視界に映るのは、彼女だけではない。放課後になったばかりの教室には、大半の生徒が残っている。そんな状況で、笹原というトップカーストの生徒が告白すれば、どうなるのか。考えなくてもわかることだ。
教室に残る全生徒が、見ていた。
(答え……なくちゃ。答えを、言わないと、いけないのに)
全員が見ている。頭を下げた笹原ではなく、その告白に対して垣村がどう答えるのかを。
その視線が物語っている。声にしなくても聞こえてくる。
早く答えろ。いつまで頭を下げさせてる。なんでお前なんかが笹原に。こんなことがあるのか、嘘みたいだ。
(答え……答え、を……)
早く。早く。早く。さぁ早く答えろ。
それはまさしく脅迫のようだった。見られている。答えなくてはならない。猶予がない。
だんだんと浅くなっていく呼吸。背中にじんわりと汗が滲んで、手が震え始める。答えようとして半開きになる口は、何も告げることはない。
今の垣村にとって、この状況というのは……最悪に他ならなかった。
「志音ッ‼」
誰もが言葉を発さずに見守る中で、垣村の腕を掴む男がいた。何をしているのか、場違いな奴だと思われたことだろう。それでも彼は、西園は垣村の腕を掴んで椅子から無理やり立たせ、置いてあった彼のカバンをひったくるように持つと、その場から数歩離れていく。
「お前のそれは、誠意なんかじゃない」
笹原が振り向いて、西園を見る。いつも笑っているだけの彼の顔は、あの時見た見下すような顔でも、凍てつくような目をしているわけでもなかった。
眉をひそめ、垣村の前に立つ彼の表情は……怒り以外の何でもなかった。
「わざわざ金曜に告白したのも、何が起きたとしても土日の冷却期間を得られるからだろ。そうすれば、少しは他の奴らが落ち着くからな」
「違うっ、私はただ、垣村にっ……」
「いい加減にしろよ。お前がやったのは……ただ志音から逃げ道を奪っただけだ‼」
誰も声を出せなかった。いつもへらへらと笑っているだけの彼が、ここまで怒りをあらわにするのを見て動くことができなかった。まるで自分が怒られているように錯覚するほど、西園の割り込みは衝撃的だったのだ。
彼は垣村の腕を掴んだまま、教室の扉の方を向いて優しく話しかけてくる。
「行こう、志音」
その言葉に何も返せなかった。けれども小さく頷いた垣村は、一緒に教室の外へと出ていく。
「──────」
教室からは、声とも呼べない嘆きが聞こえてくる。彼女の泣き声を聞くのは、何度目だろう。胸が痛む。けれど……無理だった。あの場で答えることはできない。
廊下にいた生徒たちが見てくるのを無視して、二人はまた階段付近までやってくる。他の教室の生徒たちが発する喧騒のおかげか、もう彼女の声は聞こえない。届かない場所にまでやったきたのだと思った瞬間、体から力が抜けていってしまった。
「志音……平気か?」
「……平気、じゃない」
支えてくれた西園から離れて、壁に背中を預ける。そのまま床にズルズルと崩れ落ちた。行き交う生徒が見てくるが、そんなものはあの教室の視線に比べればなんてことはない。いや、それを気にするほどの気力すら、彼には残されていなかった。
「……西園、俺は」
喉の奥が震える。声を出す度に、目から涙が溢れそうになる。見上げるだけの力もなく、床を見つめながら鼻を啜る。そんな垣村を、西園は静かに見下ろしていた。
「どうすれば、いいんだよ……」
その言葉に返せる答えはなく、せめて周りの視線を少しでも減らせるようにと壁になってやることしか、彼にはできなかった。
「ふーん、なるほどねぇ……。それで、オジさんに話を聞きに来たってわけかー」
いつもの居酒屋で、庄司は軽薄そうな笑みを浮かべながらビールを飲んでいる。それとは対照的に、垣村の口数は少なく、表情も明るくはない。軽く俯いて縮こまっていた。
「まぁ確かに、しょー君には荷が重い話だねぇ。その空気の中連れ出したっていうのは、ちょっと驚いたけど。いやー、男の子の成長を見守れるのは大人の特権だねぇ」
「……もし翔多が連れ出してくれなかったら、どうなってたか……想像、したくもないです」
皆の視線が集まる中、どういった答えにせよ口にしてしまえば、追求を逃れることはできなかっただろう。断れば笹原は逃げ出したかもしれないし、そうなればクラスの皆から詰め寄られたことだろう。逆に頷いてしまえば、今度は笹原が何か言われていたかもしれない。
……ちゃんと答えを出せなかった自分も悪いのかもしれないけれど。でもあの場面で、どうしたら良かったんだ。
「カキッピーは何も答えられず、半ば逃げる形で答えを言わなかった、と」
「……意気地無し、でしょうか」
「いやぁー、そうとも言えないよ? オジさんはむしろ、その場しのぎや、雰囲気にのまれて答えを言っちゃうより……ちゃんとその場で答えなかったカキッピーを尊敬するけどねぇ」
あの瞬間、教室には悪い雰囲気が立ち込めていた。息の詰まるなんてものではない。この場で答えなかったらどうなるのかわかってるだろうな、と脅されているような感覚さえあった。
悩み続けている中、そんな脅迫に手を引っ張られることなくその場で踏ん張り、答えを言わなかったのはある意味正解だと庄司は言ってくれる。西園が助けてくれなかったら、もしかしたら答えていたんじゃないのかと不安もあるが。
「……迷ってて、訳わかんなくて。答えなんて見つけられなくて。本当に、どうしたらいいのか……わからないんです」
「カキッピーは、何を悩んでるの?」
「何をって……それ、は……」
庄司の質問に答えようにも、どうにも言葉が出ない。何を悩んでいるのか。園村の境遇について。笹原の過去について。二人の気持ちについて。けれど、考えるほど沼にハマってしまう。思考に靄がかかるように、心のどこかで考えることを諦めようとしている自分を感じていた。
「ようするに、カキッピーは壊したくないんだ」
間延びしない声に、垣村は視線をあげる。庄司の目つきは鋭く、その口元は笑みすら浮かべていない。今まで見た事ないくらい真剣だった。ちゃんと考えてくれている。答えを探してくれている。それにどれほど……救われたことか。今までだってそうだった。何度も何度も、彼の言葉には助けられてきた。何気ない言葉であっても、行動であっても、垣村にとっては嬉しく思えるものばかり。人と関わる、というのはこういうことなのだ。
「園村ちゃんの過去も、笹原ちゃんの罪も。そして二人の今を、君は知っている。お互い、成長しただろうねぇ。それでも、過去の遺恨はなくならない。罪は償っても消え去りはしない。それでも……二人を傷つけたくはない。その方法を探しているんじゃない?」
「……そうなのかも、しれません」
「だとしたらハッキリ言うよ。そんなことは無理だ」
キッパリと、彼は答えた。垣村だってわかっている。そんな方法が見つかったらいいなと、希望的観測に縋っていただけだ。自分の将来に、光をくれた人。自分のために、泥を被った人。そのどちらも、垣村にとっては大切なものだった。だから傷つけたくはない。
(……そんなもの、ないのに。逃げてばかりだ)
机の下で両手を握り締める。また俯いてしまった垣村を、庄司は真面目な顔のまま見つめ続けた。そしてビールを飲んで喉を潤したあと、また言葉を紡ぎ始める。
「君には選択肢がある。園村ちゃんの気持ちに答えるのか。笹原ちゃんの気持ちに答えるのか。そのどっちにも答えずに、逃げたっていい」
「……逃げる、ですか」
「そう。答えたくないんだったら、皆傷ついちゃえばいい話だよ。それが嫌なら、園村ちゃんか笹原ちゃんを説得してみる?」
「それは、無理……です」
「だよねぇ。オジさんも無理。だったらもうさ、どれ選んだっていいじゃない?」
食べ終わった焼き鳥の串を、皿に刺してカツンッと音を立てる。串の先端が徐々に上がっていき、垣村の視線を釘付けにした。その奥側に見える庄司の口は、浅く歪んで笑っている。
「どれを選んでも、君は後悔するよ」
後悔しない選択なんてものはない。彼女たちの気持ちに答えても、答えなくても、例えその一瞬が幸せな感情に包まれたとしても、後悔する。誰も傷つけない選択肢はない。
「だったら、俺は……」
「どうすべきなのか、って? そんなの、オジさんに聞くべきものじゃないと思うけどねぇ」
やれやれとばかりにため息をついて、庄司は左手で頬杖をつく。流し目で見つめるジョッキの中は、少量の泡と氷だけが残されていた。積まれた氷が、カランと音を立てて崩れる。
「人間、生きてるうちに選択を迫られる機会なんてごまんとある」
中にはもう氷以外何も入っていない。ジョッキを傾けて、氷を口に含んで噛み砕いていく。頭が痛くなったのか、一瞬庄司は顔を顰めたが、食べ終わるとまた垣村を見て話し出した。
「時に、どうしたってその場で答えなくちゃならない事もある。その場しのぎで何とかしようとしても、失敗だとか、後悔だとか、そういったものが残ってしまうものだよ」
「……庄司さんにも、あったんですか」
「あぁ、そりゃもうしょっちゅうね。そんな時、オジさんは決まって……噛み砕いて、自分の栄養にしてきたよ。けど、何でもかんでも噛み砕けるかと言ったら大間違いだ。自分なりにやって、その果てに残ってしまったもの。それだからこそ噛み砕けるものなんだよ。オジさん、これでもやる時は一生懸命だからね」
彼の目は優しく開かれ、口元も緩やかにカーブを描く。楽はしたいけど、怠けたくはない。そう言った彼は、やる時はやる男だった。今もこうして、正面切って話してくれるのだから。
「選択を迫られた時の判断材料は、自分の過去や経験。それらが判断するに足りないと言うんだったら……神さまの言うとおりでもするか、自分の心に従うしかないと思うんだよねぇ」
優しげな顔のまま伝えてくる庄司に対して、垣村も顔をそむけずに向かい合う。その態度を見て、庄司は更に笑みを深くして言ってきた。
「君の判断材料は、ちゃーんとあるよ。君の過去をよく思い返して決めればいい。最悪頭でもなんでも下げればいいんだから。大事なのは……君がどうしたいかだよ」
自分の過去。自分がどうしたいのか。確かに、園村の恨みはもっともだ。笹原を糾弾しても悪く言うことはできない。それに、自分がファンであると伝えてくれて、花火にも一緒に行って、誰に見られても恥ずかしくないと言ってくれた人だ。
対して笹原は、出会いは最悪で、一緒にいるところを見られたくないと思って、嘘をついた。暑い中で必死に汗を流し、いるかもしれないという一筋の希望に縋りながら走ってきた。塾の時間すら知らせていないのに、彼女は垣村を探し出した。そして……恥晒しになろうとも、皆の前で告白してくれた。一緒のイヤホンで音楽を聴いて、顔が熱くなって。笑う彼女を見てかわいいと思って。塾のある日が少しだけ楽しみになった。
全て事実で、過去のこと。思い出す度に胸が締めつけられるような、自分にはもったいないくらいの日々だ。
「……答えは決まったかい?」
庄司の言葉にすぐには答えられなかったが……垣村はゆっくりと頷いて、知らぬ間に込み上げていた涙を流しながら笑った。
日曜日の昼下がり。雑草ばかりの公園には垣村を除いて誰もいない。時折道を通り過ぎる人たちが立っている垣村を見てくるが、そんな人たちの視線を気にする余裕は彼にはなかった。
(……正しい答えなんて、多分ないと思う)
過去はなくならない。自分にできるのは、今を頑張ることだけだ。その頑張るための勇気や自信なんてものは、最初から持ってるわけじゃない。全部過去が後押しして生まれるものだ。
灰色の日々だと思っていた。自分には澄み渡る青空の下で咲く桜のように、綺麗な恋はできないだろうと諦めていた。芽吹いた雑草のように、青いまま踏み潰されて枯れてしまうものなのだと。だというのに、まさかこうして気持ちを伝えるために人を呼び出すだなんて、あの日々からは考えられない。
どこか懐かしい感覚に襲われながらも、垣村は公園で待ち続ける。奇しくも、立っている場所は、以前彼女が地面に斑点を作り続けていた場所だった。今更ながら、誰にも襲われなくてよかったと安堵の息を吐く。
そうして数分経った頃。後ろの方から土を踏み歩く音が近づいてくるのがわかった。振り向いてみれば……そこにいたのは、眼鏡をかけた女の子。園村 詩織だった。彼女の表情は嬉しさだとか、そういったものが多いように感じられる。もちろん、緊張しているだろうし、彼女自身気づいているのかわからないが、両手は握られたままだ。
「こんにちは、柿P」
「こんにちは、園村さん。来てくれてありがとう」
「いいよ。それに……待ってるのも、それはそれで心臓に悪いしね」
両手を胸で交差するように置いて、今もまだドキドキしてると教えてくれる。垣村も、未だかつてないほどに心臓は暴れていた。緊張しない方が無理というものだろう。落ち着くために浅く息を吹いていく垣村を、園村はじっと見つめていた。早く答えを教えて欲しい、と思っているだろう。けれども、まだ答えることはできない。
きっと、彼女は……あの女の子は、この場に近づくことすらできないだろう。そう思って垣村が周りを見回すと……園村が来た方とは別の入口で、乱雑に生えた木に隠れて様子を窺う人を見つけた。多分立場が逆だったら、自分もそうなっていただろうと、垣村は苦々しく笑う。
「笹原さん。お願いだから、こっちに来て欲しい」
隠れている彼女にも聞こえるよう、声をなげかけた。一瞬体が固まった彼女だが、恐る恐るといった様子で歩み寄ってくる。そんな彼女を見て、園村は深いため息をついた。
「……呼んだの?」
「そう、だね。必要なことだったから」
垣村は近寄ってくる笹原を見続けた。話はできる程度には距離は近くなったけれども、彼女はそれ以上近づこうとはしない。園村に見られ、顔を背けて居心地が悪そうに表情を暗くした。
「笹原さんも、来てくれてありがとう」
「っ……うん」
彼女は小さく頷いて返事をしてくれた。ここから先は、自分が事を進めていかないといけない。正直ひとりひとり個別に答えたかったけれど、そうもいかない。これは二人にちゃんと伝えないといけないことだ。笹原が逃げなかったように、垣村も逃げずに答えようと気持ちを固めてきたのだから。
「あのさ、園村さん」
「なに、柿P?」
「その、さ。二人と一緒にいる時間が増えて、いろいろと変われたんだなって思う。園村さんに出会えて、また音楽を作れるようになった。将来に悩んでいたけど……今は、そういった方面に進もうかなとも思ってる。こんな自分でも、誰かにとって大切な曲を作れるんじゃないかって。それに、笹原さんと一緒にいたのだって、とても大切な時間だった。じゃないと俺はきっと……何も変われていなかったと思う」
事の発端は、あの雨の日。何か変われるかもしれない。そんなことを無意識にでも思っていたのだろう。傘を渡したあの日から、周りの見え方が少しずつ変わってきたのだ。
笹原と一緒にいて、西園と遊んで、庄司に連れていかれて、園村と出会って。その全てが今の自分を形作るものであると、垣村はわかっていた。
「……柿Pは、どうしたいの? 誰のこと、想ってくれているの?」
園村も先程より表情は明るくない。不安や心配で胸が張り裂けそうなんだろう、と見ているだけでわかった。それでも眼鏡の奥から覗いてくる瞳は、やはり力強いままだ。
対して、笹原はずっとどこか泣きそうなまま。いつか見たような、強気の彼女はどこにも見られなかった。それが彼女の本当なのか、それも含めて彼女なのか。おそらくは後者なんだろう。彼女は本質的には弱く、強く見せようとしていた女の子だった。
「俺は……」
園村への、そして笹原への答え。二人ともその言葉の続きを待ち続けている。園村の射抜くような視線も、笹原の不安げな視線も、それらを受けて逃げる気はなかった。
脈打つ度に、心音が聞こえているのではと思えてしまう。まだ口にしてすらいないのに、胸は締め付けられるように苦しい。それでも、この先後悔するとしても……答えるしかないんだ。
「……笹原さんのことが、好きです」
「……えっ?」
名前を呼ばれるとは思っていなかったんだろう。笹原は涙で潤う目のまま、ぽかんとした表情で見てくる。
「……そっか」
園村の声は少しだけ震えているように思えた。見上げていた顔は俯いており、見える顔も歪んでいる。見ているだけで、罪悪感が湧いてきた。わかっていても、辛いものは辛い。どれを選んでも、後悔するのだから……もう止まるなんてことはできないし、許されない。
「確かに、園村さんが言った部分も彼女は持ってる。けど、それでも彼女と一緒に過ごした時間は全部事実で、俺にとってはとても大切なものだった。一緒にいるだけで、嬉しいと思えるくらい、何もないあの時間が好きになってた」
「……時間、か。ズルいよ、そんなの。いつもいつも、アイツらばっかり得してるじゃん……」
園村の言うアイツらとは、彼女をイジメていたトップカーストのこと。いやそれだけでなく、どこにでもいるそういった人たちのことを言っているんだろう。
悔しそうに泣きながら、彼女は顔を上げて垣村を見てくる。
「人をイジメる人なんだよ。そういったことを、するような人なんだよ……?」
「……確かに、そうだね。それは彼女の事実で、園村さんにとっては許せないものなんだと思う。彼女は、悪い人だよ。でも……」
垣村までもが泣きそうになってくる。彼女の訴えに対して、答えなくてはならない。自分の気持ちを、心を。それがどれほど彼女にとって酷であろうとも。垣村はもう、偽ることも逃げることもできないから。
「悪いだけの人じゃないんだよ」
約束を守るために必死になれる人。自分が恥さらしになろうとも、気持ちを伝えてくれる人。彼女はいつだって、怖がりだけれど、必死な人だった。
「それに、好きだって気持ちはそう簡単には変わらない。その過去の事実も含めて、笹原さんに向き合わなきゃいけないと思う。そうしようって思えるくらい、俺は……笹原さんのことを、好きになったから」
「……それで、いいの? 周りの人からいろいろ言われて、見捨てられるかもしれないよ」
「しないよ、きっと。俺が知ってる今の彼女は……そんなこと、しないと思う」
彼女の目を見て、伝える。もう何を言っても変わらないとわかったのだろう。両目から流れ落ちる涙を拭きながら、彼女は背中を向けて数歩離れていく。
一緒にいるだけでも辛いはずだ。彼女の気持ちだって痛いほどわかる。それでも、伝えきらないと意味がない。離れていく彼女に向けて、垣村は叫ぶような声で言葉を紡いだ。
「俺のこと、嫌いになってもいい。でも……どうか、俺が作った曲のことは嫌いにならないで欲しい。あの曲に罪はないから。だからっ……」
「……そんな簡単に、好きだって気持ちは変わらない、でしょ?」
さっき言った言葉を返すように、彼女は言う。離れた場所で振り向いた彼女は、もう涙が流れているのかわからない。それでも、無理をして笑っているのはわかる。彼女は優しくて、強い女の子だった。
「好きだよ。志音も、柿Pも、曲も。だから……ちゃんと、約束守ってよ」
「……絶対、作るよ」
彼女と交した約束。花火大会の日に、曲を作るという約束をした。彼女はそれを待ち続けてくれるのだろう。そしてできたらすぐに、聞いてくれるはず。
好きという気持ちは簡単には変わらない。彼女は自分のことを好きで、そしてそれに自分は応えてあげられない。仕方がないで済ませられないけれど、でも事実として……彼女も大切な人だった。好きな人が笹原であっただけで、心の中に彼女は確かにいた。大切なことを教えてもらって、前に進む勇気をくれた。そんな彼女との約束を……破るなんて、できるはずがない。
そして、この距離が縮まることもない。彼女は遠く離れたまま、袖で荒く涙を拭きながら笑おうとする。そして拭い終わったあとで……彼女は苦痛の笑顔を浮かべながら、言ってくれた。
「バイバイ、柿P。あなたは私にとって……生きる力をくれた、日向になってくれた人だよ‼」
大きく手を振ってから、背中を向けて去っていく彼女に何も言うことができなかった。それでも……彼女の日向になれたのは、とても嬉しいことで。彼女はまた、前に進むための勇気をくれた。日陰者の自分が、誰かにとっての日向になるだなんて、とても難しいことだ。だから……やっぱり、彼女は垣村にとって、大切な人だった。
込み上げてくる涙を、ぐっと堪える。まだ伝えなくてはいけないことがあるから。
園村の姿が完全に見えなくなった頃。笹原はゆっくりと垣村に近づいてくる。お互い向かい合わせになって、顔を見合わせた。ずっと泣き続けていた彼女の瞳は赤くなっていて、そんな泣き顔の彼女を見て、かわいいだとか、好きだとか、そんな感情すらも覚えるようになっていた。気持ちを吐露してしまえば、もう偽ることなんてできないらしい。
「……私で、いいの? 悪いこと、たくさんしたのに。垣村のことも、傷つけちゃったのに」
「それでも、笹原さんが好きだから」
「っ……私、謝れなかった……ちゃんともう一度、謝るべきだったのに……言えなかった……」
「そうやって後悔できるようになったなら、それはそれでいいんじゃないかって思うよ。また今度、会えたときに謝ればいい」
「だって……私はっ……」
笹原がその場に崩れ落ちる。両目から溢れる涙が止まらない。何度も何度も手で拭っては、拭いきれなかったものが地面に落ちていく。垣村も彼女と同じ高さになるように腰を下ろして、泣きじゃくる彼女を見ながら話し続けた。
「過去は消えない。けど、今を形作っているのは、やっぱり過去なんだよ。背負っていかないといけないし、背負ったからこそ今を変えられると思う。そして、これから先もずっと、過去が支え続けてくれる。罪だって、忘れない限り……もう二度と同じことはしないはずだよ」
「私っ、わからないよ……嬉しいはずなのに、このまま、一緒にいていいのかって……」
「過去も、罪も、後悔も。噛み砕いて、飲み干すしかないって、教わったんだ。だから、さ」
涙で濡れている彼女の右手を、垣村は両手で優しく包み込む。今できるのは、これが精一杯だけれども、これで十分であるとも言えるかもしれない。
彼女の涙は罪の証。それを一緒に背負っていくことは、できるかわからない。けれど……。
「一緒にいよう、笹原さん」
いつかそれを、噛み砕いてしまえるまで。一緒にいることはできると思うから。
「っ……うん……」
泣きながらゆっくり頷いた彼女に、垣村もまた涙を流しながら笑いかけた。包んでいた両手に、更に彼女の左手が重ねられる。濡れていても、彼女の暖かさはわかるものだった。ぎゅっと強く包まれている二人の両手。それを引き離そうと考える人は、この場にはいない。誰も邪魔をすることなく、そのまま時間を過ごしていく。
(……今度はちゃんと、泣いている彼女の隣にいてあげることができた)
後悔してる。でも、嬉しい。この気持ちが消えてなくなったりしないように、と目の前の光景を目に焼きつける。
「垣村……」
泣き続けて、涙が涸れたらしい彼女は、傍から見れば綺麗な笑顔ではないけれど……垣村にとっては、十分過ぎるほど魅力的に笑いながら、伝えてくれた。
「ありがとう……私も、好き……だよ」
「ん……知ってる」
自分らしくはないなと思いつつも、そう返した。笹原もらしくないと思ったのか、思わず喉の奥から笑い声が溢れる。
夕暮れになっても握り続けた二人の手は、その日離れてしまったとしても……ずっと熱を帯びたままだった。
人間は対比する生き物だ。自分と他者を、他者と他者を比較して、その差を考えてしまう。明るく生きる者は、それなりに人に溶け込み。またそうでない人は排他されてしまう可能性を持つ。そんなあやふやで、けれど見てわかるようなカーストというものが学校にはあった。
彼はトップカーストを嫌う生徒の一人。毎日両耳をイヤホンで塞ぎ、特定の人物としか話さず、髪の毛も整っていない男の子。けれど本人も気にしてはいるし、周りの目も気になる。誰でもない、唯一の誰かになりたいという、誰もが持ち得る願望を抱え、やがて誰かにとっての日向になりたいと願った人。
日陰にいる人にとっての、柔らかな木漏れ日。眩しくなくてもいい。ただ人の温もり程度の暖かさを与えられたのなら。そう考えながら、彼は日々歌詞を紡いでいく。
夜空に咲いた花園。隣にいた大切な人。心に浸透する振動と、片耳ずつ着けたイヤホンから流れる音楽。最近流行りのラブソング。けれども花は形を保てず、輝いて消えてしまった。その光は、誰かにとっての日向になりて。
(……眠い、なぁ)
教室の隅で、窓の外を眺めながら垣村は目を擦る。今まで納得のいく物が作れなかったのが、まるで嘘のようだった。園村に会ったあの日から、少しずつ進めていた次の曲。作業が大きく進んだのは二度。あの花火を見た日、そして今でも思い出せる……昨日の出来事。
作っては消して、また作ってを繰り返していた垣村だったが、詰まっていた何かが取れたように作品は完成へと向かっていった。寝不足になろうとも、手は止まることを知らず、あの日の情景と昨日の衝動だけに突き動かされて完成させた。
「志音、おはよー。なんか凄いことになってない?」
机に近づいてきた西園が、携帯を見せながら話しかけてくる。画面には垣村の創作用のアカウントが映っていて、夜中に呟いたコメントにメッセージと賞賛するマークが増えていく。
完成させて早速、新作を投稿したのだ。それがまさか、こんなにも早く広がっていくとはまったく思ってもいなかった。ただ、心に思い描く一人に届けばいいと願っていたのに、この曲はもっと多くの人の心に届いたらしい。それは素直に喜ばしいことで、西園に言われて照れくさそうに垣村は笑う。
「閲覧数すっごいねぇ」
「久しぶりの投稿で、ここまで伸びるなんて思ってなかったよ」
「それだけ待っててくれる人がいたってことじゃない?」
「……そうだと嬉しいね」
事実、垣村ひとりで作れたものではなかった。応援してくれた西園や庄司、そして園村と笹原の二人。彼ら彼女らがいなければ、この曲は完成しなかっただろう。
それに、嬉しいと思えたのはそれだけではない。新曲を投稿した時に、誰よりも真っ先に反応してくれた人がいた。イヤホンをつけた猫の画像。何千、何万といる人たちの中で、いち早く反応をしてくれた彼女に……感謝の気持ちは溢れて止まなかった。
『ありがとう』
個人宛でそう伝えてくれた彼女に、垣村は朝方に枕を濡らした。彼女の想いに答えることはできなかったけれど、ちゃんと約束は守れた。そしてこれからも……彼女の日向であり続けられるように、曲を作り続けていこうと垣村は決心する。
「おはよー、唯ちゃん」
ふと声が聞こえて、垣村は教室の前の方を向く。彼女が登校してきたようだ。いつも月曜日は気怠げな彼女だったが、今日は違う。
「おはよう、紗綾」
軽く挨拶を交し、彼女は荷物を自分の席に置いてからまた歩き出す。先週の金曜日、何があったかを生徒が忘れたわけがない。教室に入ってきた笹原を見て、中には話しかけに行こうとする生徒もいた。しかし彼女はそれを意に介さず、ゆっくりと教室の隅に向かって歩いていく。
左耳だけを見せるようにかき上げられた髪の毛。茶髪に見えなくもない黒髪は、元気そうな印象を覚えさせる。小さな桃色の口は緊張しているのか、きゅっと固く結ばれていた。
一歩、一歩。踏みしめるように歩いて、やがて垣村の前で止まる。金曜日に見た表情とはまるで違う。決意を固めたようでも、泣きそうでもない。頬を薄らと染めて恥ずかしそうに目を逸らす彼女のことを見て、垣村もまた同じように視線を逸らす。
「お……おはよう、垣村」
小さな声だったが、教室に響いたように思える。上擦った彼女の声に、不覚にも笑いそうになるのを、垣村はじっと堪えた。
何もない時間が好きで、一緒にいるだけでよくて。周りの目が怖くて、イジメられるのが嫌で。きっとどちらも、他人を怖がっていただけだった。
学校で話すこともない。すれ違っても目を逸らすことしかできない。そんな自分たちだったけれども……。
「おはよう、笹原さん」
ようやく、ちゃんと挨拶を交わせるようになれたんだ。
長々と読んでいただき、ありがとうございました。
公募は電撃小説大賞に応募したのですが、残念ながら一次突破はかないませんでした。
悔しいですが、まだ小説を書き続けますし、また公募に挑戦しようかと思います。
なろうやハーメルンにのっけてたのはまずかったのか、わかりませんが……次は公開せずに送ろうか、悩んでいます。
その辺わかる人がおられましたら、教えていただけると嬉しいです。
なにぶん読んでもさっぱりでして……。
ともかく、応援してくださった皆様、ありがとうございました。