日陰者が日向になるのは難しい 2
【☆】
学校に通っていて同じクラスである以上、笹原は垣村と校内で顔を合わせることがそれなりにある。移動教室、トイレに行く時。朝の学校で紗綾たちと偶然下駄箱で鉢合わせになり、教室に向かう途中で垣村とすれ違ったこともあった。ほんの一瞬だけ、垣村は笹原を見ていたし、また笹原も彼のことを見た。けれど、それだけ。素知らぬ顔で通り過ぎてしまった。
たった一言「おはよう」と言うことすら叶わない。同じ学校、同じ教室、同じ生徒同士。きっと紗綾たちが隣にいなければ挨拶くらい簡単に交わせたのだろう。邪魔だとは思わないが、少なからず笹原は胸を締め付けられた。言いたいことも言えない関係。話したくても話せない関係。なんて、歯痒い。けれど……週に二回。たった二日だけ彼と話す機会がある。月曜日と木曜日、その日は早く学校が終わらないものかと思ったりもした。
そしていざ駅に向かえば、彼は既に椅子に座ってイヤホンから流れる音楽に身を任せている。そんな彼の隣に座ってイヤホンを外してやり、その驚いた顔に笑わせられながら挨拶するのだ。「おはよう」と。朝は言えないから。この場所で、この時間で、朝の挨拶をする。それが特別に思えて、ちょっとだけ優越感のようなものを感じられた。だが、最初からその挨拶をしようと思っていたわけではない。ただこの場所で顔を合わせた時、彼がイヤホンをつけたまま目を閉じていたからそう言ってしまっただけで。気がつけばそれが当たり前になっていたけれど。
次の週になっても笹原は駅のあの場所へと足を運ぶ。垣村も慣れてきたのか、どもることは少なくなり、会話も少しだけ増えた。それでも、互いに会話がなくなるときがある。携帯を見て、電車が来るまで時間を潰す。その無言が、沈黙が、苦痛だと感じなくなるのにさほど時間はかからなかった。むしろ、楽だとも感じる。
間が持たない。気まずい。何か話さなくては。友達と一緒にいると、そんな脅迫感に苛まれることがある。けど垣村は違う。隣にいても気まずくはない。好きなように時間を過ごし、何かあれば話しかける。SNSで見つけた笑える話だとか、ふと思い出した課題についてだとか。
また別の日。笹原は足取り軽く、駅の日陰の椅子へと向かって歩く。椅子に気怠げに座っている彼の姿を見て、どこか変だと笹原は思った。いつもつけられているイヤホンが、左耳だけつけられていない。不思議に思いつつ、彼の元へと笹原は近づいていく。コツンッ、コツンッと彼女が履いているローファーの硬い足音が聞こえたのか、彼は顔をほんの少し向けてくる。来ることがわかっていて、待っていてくれたようで……その対応に、心のどこかで嬉しがっている笹原がいた。その様子を隠すことなく、笑顔で彼に言う。「おはよう」と。
教室の中は夏休みの話題で持ち切りだった。休み時間に友達と集まって、どこへ行こうかなんて話をしている。来年は受験勉強で忙しくなるだろうし、今年は遊べるだけ遊んでおきたい。
休み時間に携帯をいじっていると、紗綾が笹原の席に近づいてきた。その後ろには彩香もいて、松本もいる。いつも一緒にいる他のサッカー部の男子二人は後ろの方で携帯を見せ合いながら笑いあっていた。
「ねぇねぇ、夏休みになったら皆で花火いかない?」
「皆でって、松本たちも?」
確認を取るように笹原が松本の方を見れば、彼は照れくさそうに笑って「ダメかな?」と聞き返してきた。いくら普段一緒にいるとはいえ、まさか花火を一緒に見に行くだなんて思わなかった。普通は男同士か女同士、カップルで行くだろう。
しかし笹原には今のところ予定はない。こちらを見てくる紗綾も今から楽しみだと言いたげなくらい笑っていた。松本のような格好いい上に運動もできる男の子と一緒に回れるのが嬉しいんだろう。別に私も吝かではない。クラスの人気者と一緒に花火を見る。友人と一緒に回る。それはそれで、思い出になるかもしれない。そう笹原は考え、頷いて「いいよ」と返した。
「おっ、マジで⁉」
女の子と一緒に回れるのが嬉しいのか、松本はえらい喜んでいた。後ろを振り向いて他の二人に、「笹原も行くってよー」と告げる。こんなに人気があるのに、どうして彼女がいないのか。できそうなもんなのになぁと思いながら花火の日程などを確認していく。場所は学校の最寄り駅からかなり下ったところらしい。下りといえば、電車がかなり少ないんだっけ。夜の八時とか電車が一本もないんだよって、垣村が言っていたような気がする。
(……垣村、か。夏休みとか暇してそうだなぁ。花火見るより、西園と一緒にゲームしてそう)
その光景がありありと思い浮かぶ。けれど、もし仮に垣村と花火を見に行ったとして。その光景は全然考えられない。隣を垣村が歩いて、きっと人混みではぐれないように考慮してくれたりしないし、屋台で何か買う時も率先してお金を出したりしないだろう。浴衣を着ていったらどんな反応をするのか。照れるのか、褒めてくれるのか、それとも前みたいにどもるのかな。
(本当に……考えられない)
松本たちはきっと普通の男子生徒のように振る舞うんだろうな。見栄を張って、お金を出して、容姿を褒めて。普通だ。簡単に想像できてしまう。
(……アイツは普段何を考えてるのかな)
他の男子と違うから。劣っている部分が多い。容姿、態度、話し方。でも、気楽だ。何も考える必要がない。見せつける必要がない。それがきっと、他の男子との違いなのかも。
「唯ちゃん、今度洋服買いに行かない?」
「ん、いいよ。花火用?」
「それもあるし、水着も買いたいなー。海とか行ったら楽しそうじゃない?」
紗綾はこれから来る夏休みや花火が待ち遠しいみたい。これからの予定を笑いながら話してくる。新しい洋服を買って、誰かにアピールしたいのかな。普段私服なんて見せることないし。
(……垣村は私服のセンスなさそうだなぁ)
気づけば笹原の思考の片隅には、彼の影がチラつくようになっていた。
明明後日からは夏休みだ。おかげで月曜日でもそこまで学校に来るのが辛くなかったような気がする。駅にまでやってくると、もうすぐ来る電車に乗るために生徒がごった返していた。それらを後目に、いつもの椅子へと向かう。日陰になっている椅子の右端には、第二ボタンを開けて暑そうにしている垣村がいる。相変わらず、片耳にはイヤホンがつけっぱなしだ。
「垣村、おはよう」
その挨拶を言うことに何も抵抗はない。気がついた垣村は座り方を少し直して、若干右寄りに体を寄せる。平気そうな顔して、やっぱり恥ずかしいのかも。済まし顔のくせに初心な反応をする彼を見ていると、どうにもいじり倒したくなって仕方がなかった。
学校での疲れを吹き飛ばすように、笹原は椅子に座ったまま体を伸ばす。月曜日の憂鬱さは感じないが、酷い暑さは感じている。そこまで汗っかきな体質ではないが、彼女の体内に残っている熱は未だに汗を流そうと頑張っていた。汗なんてかきたくないのに、と誰もが思うようなことを笹原も考えていると、不意に涼しい風が隣から吹き始める。見れば、垣村が下敷きで扇いでいた。涼しそうに表情を緩ませているのを見ると、羨ましくて仕方がない。
「垣村、それ貸して」
その言葉に、垣村は心底嫌そうな顔をしていた。けれど笹原とて暑いものは暑い。汗もかきたくない。意地悪な言葉かもしれないが、彼女は「……傘は無理やり貸すくせに」と彼を初めて認識した日のことを口走った。未だに引きずっているのか、垣村は一瞬顔を歪めたものの下敷きを笹原に渡してくれた。有難く思いつつ、笹原は下敷きで顔を扇いでいく。
(そういえば……今日で夏休み前、ここで会えるの最後なんだよね)
明明後日からは夏休み。その期間に入ってしまえば、笹原は垣村と会うことはなくなる。正直な話、なくなるのは惜しいと思っていた。何も考えず、無為とは言わずとも、ゆっくりとした時間を過ごす。いつからか、笹原はこの時間を気に入っていたのだ。
(……垣村はどうなんだろう)
いつも自分のことを話すのは少ない。そんな彼の心は全然読めない。だからこそ気になる。彼は惜しいと感じているのか。それとも、どうでもいいと思っているのか。
「ねぇ、垣村」
「……なに?」
「もうすぐ、夏休みだね」
遠回しに、少しずつ会話を詰めていく。彼は学校に行かなくて楽だ、と普通の男子生徒のような回答を返してきた。学生なんてそんなものだろう。
それから何度か会話を挟んで、聞きたいことを言い出そうとしても……中々言葉には出せない。脱線して、友達とは何か、だなんて話もしてしまう。女子同士の関わりは、色々と面倒だ。紗綾はあの性格だから拗れたりはしないと思う。けれど、彩香はどうかわからない。少しの間違いで捻れて歪んでしまう気がする。一歩間違えたら、昨日の友は今日の敵になってしまう。
(……電車が、近づいてきてる)
遠くから響いてくる電車の音。笹原と垣村を分かつ場所へと連れていく物。下敷きを返すと、彼はそそくさと荷物を纏め始めた。一応笹原も荷物を纏め始めるのだが……どうにもモヤモヤとした気持ちが心の中で渦巻いている。苛立ちともとれるものだ。それは彼に素直に聞くことができない自分自身へのものか、それとも無神経に荷物を纏める彼へのものか、その両方か。
「……電車、来ちゃったね」
来なければよかった。そう取れる言葉だったが、垣村はそれに気づいていない。惜しむような言葉を言ってしまったことに驚いたが、彼の鈍さのせいで苛立ちの方が大きくなってしまう。
(……すんなりと立てるんだ)
電車が来て、垣村はすっと立ち上がる。名残惜しむこともなく、何も感じている様子はなく。なんで、自分だけが特別に感じていたみたいじゃないか。馬鹿みたい。
(……本当に、馬鹿みたい)
垣村に心を苛立たせられる自分がいる。この時間を好んでいた自分がいる。名残惜しむ自分がいる。目の前の男は、それに何も気づいていない。
「笹原さん、乗らないの?」
そう無神経に尋ねる彼に対して、無愛想に言葉を返してしまうのも仕方がないこと。垣村が悪いんだ。全部、全部。
『自分がやりたいことをやれないのは嫌だなー』
頭に西園が言っていた言葉がよぎる。やりたいこと。聞きたいこと。素直じゃないから、何もできない。そんなこと分かってる。意地になっているのも、わかってるよ。
電車の椅子の端っこに座っている彼は、向かい側の窓の風景を眺めている。表情を固めたまま。だから、本当に何も感じていないんだろう。この時間がなくなるのが寂しいとか、嫌だとか。なんでこんな男に思わなきゃいけないんだろう。
言葉にしたくてもできない。態度で表すこともできない。夏休み前最後の時間は、互いに気まずさを抱えたまま終わってしまった。電車を降りていく垣村を、電車の中で眺めながら……明日も学校で顔を合わせるのに、今生の別れのような気がして、いい気分にはなれなかった。
座る場所を一つ隣にずらす。椅子には夏の暑さとは別の暖かさが残っていた。
【♪】
いつも垣村が学校へ行くのに利用する駅よりも上。あまり知り合いのいなさそうな場所に、長期休みになるとよく足を運ぶ。その日ばかりはイヤホンをつけず、季節の移り変わりだとか、流れていく人の様子だとか、そういった風景を眺めるように歩く。向かう先はこぢんまりとした喫茶店。ちょっとオシャレで、古めかしい。これが所謂、アンティークっぽいというものなのだろう。垣村は窓際のテーブル席を一人で座って、甘い珈琲を啜りながらそう思う。
周りを見回してみても、客入りは少ない。夜になれば少しは客が増えるだろう。ウェイターの女性も、厨房にいる人と会話をしながら時間を潰していた。一人きりで座る垣村のテーブルには様々なものが置かれている。置いてあるノートパソコンには素人目ではよくわからないウィンドウがいくつも開かれていた。複雑な波形を描くものなど、見ただけでは何をどうすればいいのかわからない。けれど、垣村の被っている黒色のヘッドホンや手元に開かれたメモ帳。それらを見比べてみれば、曲を作ろうとしているのだろうとなんとなくわかる。
「……っ、ふぅ」
ヘッドホンを外して、小さくため息をつく。しっくりとこない。何度も何度も繰り返している。曲を作るためには自分の経験が必要だ。技術的なことじゃない。見聞きしたこと、体験したこと。それらを得るために普段から気を配っている。けれど、曲にならない。苛立ちや不満が心の中で渦巻いて爆発してしまいそうだ。
SNSを開き、創作用のアカウントで不満を呟く。できない、作れない。何か掴めそうでも、それより先にいけない。歯がゆさだけが残る、と。数分もしないうちに知らない人から返事が飛んできた。未だに待っている人がいる。そう実感できると、少しだけ気分が楽になった。少し温くなった珈琲をまた口に含んでいく。苦味、酸味。そしてほんのちょっとの甘み。まるで人生みたいだ、とロクに生きていないのに達観したような考えを抱く。
「あ、あの……すいません……」
すぐ隣から女性の声が聞こえてくる。こんな場所で話しかけられるのは珍しい。しかもパソコンを開いて作業しているように見えているにも関わらず。一体誰なのだろうか。顔を半分ほど向けるようにして見てみれば、そこにいたのは黒縁メガネをかけた女の子だった。髪の毛は短く切りそろえられていて、笹原とは違って綺麗な黒髪をしている。なるほど、清楚系だ。西園が好みそうな温和な顔立ちだ。入ってきた時にはいなかった気がする。ヘッドホンをつけていたから新しい客が入ってきたのにも気づかなかったのだろう。そんなことを頭の片隅で考える傍ら、女の子は手に持っている薄い桃色の携帯をこちらに見せつけてきた。
「こ、これ……」
言葉を交わすよりも先に、その画面を見つめてみる。見覚えのあるどころか、つい今しがた見ていたものだ。垣村の創作用アカウント。気がついた途端、心臓を鷲掴みにされたような気分になる。恐る恐る、顔を上げて女の子を見た。緊張と興奮とで震えそうになっているのを必死に抑えようとしているのが目に見えてわかる。
「もしかして、柿Pさんですか⁉」
マズい、身バレした。背中に寒気が走り抜けていくのを感じ、どうにかしなくてはと思うものの……垣村にはこの状況を打破する算段が思いつかない。人違いですと言っても彼女は信じないだろう。ほぼ確信的だと信じている。柿P。所謂、ボカロPの一人。それが垣村のネット上の身分だった。公にしたくないことだというのに、もうどうしようもなくて……垣村は「はい、そうです……」としか言えなかった。
「やっぱりっ……こんな所で会えるなんて思ってなかったです!」
「あの、店の中なので……」
「あっ、ごめんなさい……」
言われて大人しくなったかと思えば、自分の席に戻って会計票を取ってくると垣村の反対側に座り込んだ。その行動に目を見開かずにはいられない。何だこの人、ちょっと怖い。とりあえずパソコン類を端に避けて、個人情報の漏洩だけは防ごうと垣村は心に決めた。
どうやら彼女は後ろ側の机にいたらしく、垣村のパソコンを覗き見ていたらしい。そしてSNSの投稿タイミングもあり、申し訳ないと感じながらも、まさかと思って話しかけたようだ。
人のパソコンを覗き見るのは些か行儀の悪い……例え喫茶店でヘッドホンして作業してるオタクっぽい輩がいたとしても、流石にやらないだろう。というか、勘弁してほしい。初対面の、それも女子に話しかけられるなんて一種の拷問だ。
けれど彼女はどこ吹く風といった様子で、興奮冷めやらぬまま話を続けてきた。
「私、前から柿Pさんのファンで……今でも曲を聴いているんです!」
「そ、それはどうも」
まさかファンがいるとは思ってもいなかった。所詮は一時だけの有名人だと思っていたのに。面を見て伝えられた言葉に、垣村も照れくさくなってしまう。視線を窓の外へと泳がせ、口元を隠すように珈琲を啜る。初めて高評価を貰った時のような嬉しさ、いやそれ以上。垣村の珈琲を持つ手がわずかに震えていた。
「現役中学生の作った曲って、本当だったんですね! 私と同い年の子が作曲して人気になるとか、凄いなーってずっと思ってたんですよ!」
「昔の話ですから……それに、今はあまり活動していませんし」
垣村がまだ中学生だった頃、他の人とは違う存在になりたいと願っていた。なんだっていい、自分だけのものが欲しい。存在価値が欲しい。時間の有り余っていた垣村は様々なものに手を出し始めた。小説、作曲、動画作成。その中で彼の作り上げた作品がヒットしたのが、作曲だ。
「……正直、あなたのような人が聞いているとは思っていませんでした」
目の前の女の子。容姿や服装からして、トップカースト付近の生徒だろう。ファッション雑誌に載っているような、水色の薄い上着を羽織り、半袖の白シャツにジーパンという格好。活発そうな印象を与え、それでいて立ち振る舞いに大人しさが滲み出ている。男子女子、両方から好かれそうな人だ。そんな人に、自分の曲が聞かれるわけがない。なにせ、あの曲は人の表と裏を皮肉るような内容だったから。
「えっと、私の昔はこんな感じじゃなくて……あっ、私は園村 詩織っていうんですけど」
今更な自己紹介をしつつ、彼女はまた携帯を見せてきた。人に見せることに抵抗はないのかと思いつつ、垣村はその画面を見る。中学校の入学式の写真のようだ。学校を背にして撮られている女の子は、髪の毛が長くてちょっとふくよかな体型をしている。差し出す写真を間違えたんじゃないのか、と垣村が顔を上げて園村のことを見た。
けれども園村は恥ずかしそうにそっぽを向く。その反応が、写真の人物が彼女本人であることを示していた。今の彼女と写真の中の彼女が同一人物だとは中々考えられない。
「私、中学の時はこんな感じだったんです。オタクっぽくて、根暗で、虐められてて……そんな時に、柿Pさんの曲に出会ったんです。『陰日向』が有名になり始めた頃だったかな」
柿Pが有名になった代表曲。それが陰日向。人の見ているところと見ていないところで言動が変わること、と辞書にはある。曲の内容もそのままだ。クラスの人気者たちの、表と裏の顔。人当たりのいい言動をするくせに、自分のような日陰者にはまるで汚れたものを触るように接してくる。それが嫌で、どうしようもなくて……書き殴った、垣村の叫びだった。
「高校に入る前、変わりたいって思って、必死に頑張って……。雑誌もたくさん読んで、メイクも頑張ったんです。体型は……その、虐められてる時に減っていったといいますか……」
あはは、と自嘲するように園村は笑う。その笑みが痛々しくて、垣村は直視できなかった。逃げるように飲み続けていた珈琲も、もう既に中身がない。なんとか場を切り替えたくて、ウェイターに注文を頼んだ。垣村の分と、園村の分の二つ。会計票を見る限り、カフェオレの方がいいだろうと判断して、垣村の会計票に二つとも加えてもらう。
奢ってもらう訳にはいかないと言われたが、垣村も彼女の境遇を聞かされたとはいえ、単純に嬉しかったのだ。辛さを乗り越えられる曲を提供できたこと。なにより、恥をかくかもしれないのに自分に話しかけてくれたこと。だから
自分なりのファンサービスだと、垣村は伝えた。
「園村さんがあの曲で何かしら力を貰えたというのなら、それはとっても嬉しいです。けれど……決して綺麗なものじゃないんです。誰かを楽しませたいだとか、共感してもらいたいとかじゃなくて、ただ自分の境遇を嘆くように、自分以外の何者かになりたかったから作ったんです。自己否定と他人への蔑みの塊なんですよ、柿Pは」
陰日向以降の作品はそれなりに聞いてくれる人が増えた。それでも陰日向に比べると再生数は落ちるし、コメントも減る。逃げるために作ったはずなのに、いつしか首を絞めているような感覚を垣村は覚え始めた。当時のことを話してくれた彼女に、自分の過去を少しずつ話す。それは紛れもなく、同族であったから。園村と垣村は、同じ立場にいたのだ。ただ、園村は日陰者から頑張って日向者になって、垣村は日陰者のままというだけ。
「でも、それでも柿Pさんの叫びが私を奮い立たせてくれたんです。イヤホンで閉じこもった自分の世界で、あなたの作った曲だけが私を救ってくれた。それからずっと追い続けています」
園村の真っ直ぐな瞳が垣村の瞳を射抜いた。逸らしたくても逸らせない。彼女の真摯な想い、態度。それらが垣村を逃がさない。互いに初対面で、でも共感できる部分がある。
やがて運ばれてくる二つのカップが来るまで、互いに沈黙を保ったまま睨み合うように過ごす。垣村が気まずさを感じるよりも先に、この人はなんて強いんだろうという考えが浮かび上がった。過去を乗り越えて、未来を変えようとしたその姿。それは垣村にはないものだ。カップからのぼりつめる湯気が垣村を曇らせていく。
「……園村さんは、凄いですね」
「い、いや……私よりも柿Pさんの方が凄いですって。誰にでもできることじゃないんですよ」
「誰にでもできるんです。こんなの、やる気と機材があれば、誰にだって」
小説を書くことも、曲を作ることも、動画を作ることも、絵を描くことも、全て、全て垣村の持っているノートパソコンでできる。知識がないなら本を読めばいい。それら全て、特別な才能だとか知識が必要なわけじゃない。手を伸ばせば、誰にだってできることだ。
「それでも、自分にはあの曲しかなかったから……また、曲を作ろうって思って。それでも思ったように伸びなくて、いつしか再生数に惑わされるようになった。それに捕われた途端……終わったんですよ。何も、作れなくなったんです」
鬱憤を晴らすように作った作品でも、作ってる時は楽しかった。それは事実で、その作品を見てくれた人が賞賛してくれたことが嬉しかった。己の暗い想いをぶちまけた牢獄のような作品が、垣村にとっての最高傑作だった。それ以降、彼に良い作品は作れない。作っていても、楽しくない。作らなきゃいけない。でないと褒めてくれた人がいなくなってしまう。そうなると、自分は何でもないただの人だ。作らなきゃいけないという強迫観念に怯え、数に惑わされ、休みを取り、いつしか他のものへ逃げた。
「過去に縋ることしかできない自分と……過去を乗り越えて今を生きる園村さんとじゃ、圧倒的に違うんです」
「……誰にでも、作れるわけないじゃないですか」
園村は端に置かれたパソコンを見ながら呟くように言う。けれど垣村は頑なにそれを否定した。誰にだってできる。自分でもできたのだから。昔の話ばかりしていると、その時の感情まで蘇ってくる。組み合わされた両手が細かく震えた。目尻に涙が溜まってきそうになり、奥歯を噛み締める。それでも垣村の心には虚しさや怒りなどの負の感情ばかりが立ち込めていった。
「……私にはわかりません。どんな音を出せばいいのか、どんな台詞を言えばいいのか。でも柿Pさんなら……例えば窓から見える景色だって、難なく文章にできるんじゃないですか」
「そんなこと、やろうと思えば誰にだって」
「やろうとすら思わないんですよ、そんなことを」
震える両手を、園村の手が強く包み込む。手の温かさ、窮屈さ、柔らかさ。それら全てを通して伝わってくるのは、彼女の必死さだった。
「でも、あなたはやったんです。それは、絶対に凄いことなんですよ」
「い、や……俺は……」
逃げたくても、逃げられない。対面にいる園村の顔が動いて、垣村のパソコンを見た。そしてまた、垣村の心を締め付けるような言葉を伝えてくる。
「まだ、曲を作っているんですよね」
「だって、俺には……それに縋るしか、ないから」
「まだ諦めてないってことですよね。あの曲に近づくために、頑張ってる。誰にでもできることじゃない。あなたは、柿Pさん以外の何者でもない。誰かがあなたの代わりになんてなれない。あなたが紛れもなくあなたであることを……私は、知ってます」
垣村のことを、一般人というカテゴリではなく一人の人物として認める。そう園村は言った。誰でもない、唯一の誰かになりたい。そんな願いが、希望が、ずっと垣村の心を苦しめていた。
だからこそ、その言葉にどれほど救われたのか。いつしか垣村の手の震えは止まり、そこには熱いほどの熱が籠る。その熱が彼女の心の熱だと思えば……なんて、心地良いものなのか。
「……ありがとう、ございます。ちょっとだけ、気が楽になりました」
とうとう我慢の限界も近づいて、涙が溢れてしまいそうになる。それでも彼は目を細めて、彼女に向けて微笑んだ。これで自分の気持ちが伝わってくれたらいいなぁ、と思いながら。
それに応えるように、園村も笑い返してきた。包まれていた手が離れていき、残留する熱が人肌の恋しさを感じさせる。それを紛らわせるために、垣村は両手でカップを持って珈琲を飲んだ。珈琲の熱さと、彼女の手の温かさは別物だ。その差異に気恥ずかしさがこみあげてくる。
「柿Pさん……もし、良かったらなんですけど……私と、友達になってくれませんか?」
恥ずかしそうに尋ねてくる彼女に対して、垣村は快く承諾した。垣村にとって、初めてのちゃんとした女の子の連絡先だ。それがまたどうにも嬉しくて、ニヤけてしまうのを必死に抑える。壁が取り払われた二人の間には、オタクならではの話だとか、中学時代の話で持ち切りになり、気づけば夕暮れになるまで話し込んでしまっていた。喫茶店を出て、互いに言い合う。「またね」と。その約束はきっと果たされることになるのだろうと、お互い思っていた。
朝からどこか落ち着かない垣村は、鏡の前で何度か服装を確認してから家を出た。普段は乗らないバスに乗って大きなショッピングモールへと向かう。入口のすぐ側には座れるような場所があり、そこが待ち合わせ場所だった。集合時間は二時。十分前には着くことができた。
携帯を開けば、笹原とのトーク画面が映っている。夜中に通知が来て何かと思えば……それがまさか笹原からの遊びの誘いだとは、垣村はまったく思ってもいなかった。『笹原 唯香さんがあなたを友達に追加しました』と表示されたときは、何かのバグかと思ったほどだ。最後に彼女と別れた時は、随分と不機嫌だったはずなのに。
(……まさか、笹原さんが誘ってくるなんて。けど、よりによってここか)
見渡す限りの人、家族連れ、カップル。それらが入っていく店は、垣村にはまったく馴染みのない服屋。半袖で涼しそうな服がショーウィンドウに飾られている。中に入るのを躊躇うくらい、垣村にはこの場所が合っていないと感じていた。お金のない高校生が来る場所じゃない。
とりあえずは日陰の椅子に座りながら、笹原が来るのを待つ。誘われたときはどうしたものかと思っていたが……女子から誘われるということ自体が初めてで、ほんの少し期待してしまったのも事実。その後ショッピングモールに行くと聞いて、体のいい荷物持ちに選ばれたのだと若干は落胆したが、それはそれだ。垣村が女子と遊ぶのは事実。庄司にも言われたことだ。過ぎたことは変わらない。決定したことは覆らない。だから少しは喜んだっていいだろう。
蝉の音が少々鬱陶しく感じる時期になり、暑さも増したが……それでも外に出ていいだろうと思う程度には楽しみにしている。夏休みに入って笹原との接点はゼロだ。夏期講習が終わって帰る時に、何故か庄司に捕まることは多々あるのだが。
(あの人、まさか待ち構えてるんじゃないよな)
居酒屋に連行されては、笹原との関係を根掘り葉掘り聞いてくる。最近は喫茶店で会った園村の話をして、そのついでに自分の趣味についても話してみた。もちろん、庄司は垣村を笑うなんてことはせず、その場で曲を聞くという公開処刑に近い仕打ちをされたが。「良い音楽じゃない。オジさんには内容は合わないけど」と言われたが、それでも十分に嬉しい感想だった。
(……笹原さん、遅いな)
もう既に二時は回っている。女性の支度は大変だという話も聞くし、多少遅れるなんてこともあるだろう。トップカーストなら、例えば松本ならば「いやぁーごめん、遅れたわー」と頭を掻きながらやって来るに違いない。もうしばらく待ってみようか。
(……暑い。それに、周りの目がキツイな……)
周りの人が垣村をどう見ているのかは知る由もないが、それでも周りの視線が気になって仕方がない。こんな根暗そうな男が一人でずっと同じ場所にいたら、変に思われることだろう。ボッチで来たのかな、とか。待ち合わせすっぽかされたのかな、とか。行き交う人たちがそんなことを思っている気がして、どうにも落ち着かなかった。イヤホンをさす気にもなれない。
連絡を入れてみようか、とも思ったが……指は止まってしまう。催促したら、楽しみにしているのだと思われてしまうかもしれない。ただの荷物持ちとして呼ばれているくせに、と。
日陰にいても、気温が垣村の体力を尽く奪い去っていく。もう少し待ってみよう。あとちょっと待って、来なかったら連絡してみよう。まだ、あともう少し……。時間を気にしながら最近また手をつけ始めた作曲のことを考えていると……とうとう一時間過ぎてしまっていた。
(……バカバカしいな。勝手に舞い上がって、期待して、落胆して。アイツらはそういう連中だって知ってたはずなのに。これは罰ゲームか何かで、多分その辺から見て笑っているんだろう)
垣村が中学の頃、罰ゲームで告白したり、イタズラしたりなんてのはよくあったことだ。当然、やっていたのはトップカースト。やられていたのは垣村のようなカースト下位の生徒だ。幸いにも垣村は標的にならなかったが、大柄な生徒がやられて、次の日にはクラスどころか学年で話題にのぼっていた。これもきっと、その類なのだろう。最近は自分の立ち位置を誤解してしまうような出来事が多かった。だからきっと、こうもあっさり騙されてしまうのだろう。
苛立ちを感じるよりも、落胆の方が大きかった。それだけ、垣村は楽しみにしていた。一応笹原に連絡を入れてみたものの、返事どころか見られてすらいない様子。更にそこから十数分待ってみたが、笹原が現れる様子はない。自分は騙されたのだ。いつまでも幻想を夢見るな、と叱責して立ち上がろうとしたところで……見慣れた人物が視界に入ってきた。白と灰色のストライプのシャツに、黒色のチノパン。けれどよく見てみると、ズボンは若干よれている。だらしなさを感じさせるその風体は、庄司であることを明確にさせていた。庄司も垣村に気づいたのか、へらへらと柔らかい笑みを浮かべながら近づいてくる。
「やぁーカキッピー! こんなところで会うなんて奇遇だねぇ。買い物かい? オジさんでも中々手を出そうとは思わないよー、ここ」
「いや……まぁ……」
煮え切らない返事をするときは、何か隠し事がある。庄司にはそれがわかっていた。垣村は対人経験が少な過ぎて、差が顕著に出る。垣村と過ごした時間はそれなりに多い。何か悩み事があるんだろうと察知し、庄司は彼の近くの椅子に腰を下ろした。
「ショッピングモールに男一人は中々キツイものがあるんじゃない? まぁ、オジさんくらいになると痛くも痒くもないんだけどねー」
「……庄司さんは、買い物ですか?」
「んー、ここのフードコートにあるラーメン屋が美味いんだなーこれが。それ目当て。あとついでに帽子も買ってみた」
カバンの中から袋を取り出すと、中に入っていた白と黒の縞模様のキャップを出して被った。シャツといい帽子といい、庄司はストライプが好きなのだろうか。自分には似合わないなと思いつつ彼を見てみるが……なんと言えばいいのか。絶望的に似合わないのに、しっくりくる。不思議だ。顔に合わないけど雰囲気に合うと言えばいいのか。伝えようにも伝えられない。垣村は「あぁ……まぁ、いいんじゃないですかね」と苦笑いを浮かべて返す。
「おっと、そう思う? いやー、店員さんもカキッピーと同じように笑いながらお似合いですよって言うもんだからさー。思わず買っちゃったよー」
似合わないなら別のヤツを勧めろよ、笑顔じゃなくて苦笑いじゃないか、と垣村は顔も知らない店員に向けて心の中で苦言を漏らす。この人本当に大丈夫だろうか、色々と。「まぁそんなことより……」と庄司は買ったばかりの帽子を手で弄りながら話を切り出してきた。
「カキッピーはどうしたの? まっさか一人でお買い物?」
「……待ち合わせ、していたんですけどね。連絡も来ないし、多分すっぽかされたんでしょう」
言葉にするには辛く、苦い。さすがに垣村も無表情を保つことはできなかった。「あらら……そりゃまた……」と庄司も苦々しく顔を歪める。
「こんな純情ボーイを悲しませるなんて、いけない子だねー。待ち合わせからどれくらい経ってるの?」
「一時間半は過ぎてます」
「うん、ごめん。オジさんでも会社にそんな遅刻しない」
遅刻はするのか。そう思うが、言葉にはならない。ツッコム気力もないようだ。この暑さの中待ちぼうけをくらってしまえばそうなってしまうのも無理はないことだろう。
庄司も顔を歪ませていたものの、しばらくすればいつものへらへらとした軽い表情へと戻った。そしておもむろに立ち上がると、近くの自販機まで歩いていき、缶珈琲を二つ手に持って帰ってくる。片方を垣村に渡して、自分の分を少し飲んでから話し始めた。
「にがーい経験しちゃったもんだねぇ。相手に何があったかは知らないけどさ」
「……トップカーストって、そんなもんでしょう」
「カースト以前に人間性の話な気がするけどねぇ……まぁ、おかげでわかったことがあるからいいじゃない」
「女子に誘われて舞い上がって勝手に落胆する阿呆がここにいることですか」
「いやいや、違うったら」
棘を感じさせる垣村の言葉に特に苛立ちも何も感じていない庄司は、ただいつものように笑いながら右手でぎこちなく垣村の頭を撫でつけた。
「カキッピーはちゃんと約束を守れて、時間を過ぎても待ち続ける、優しくてお人好しな男の子だってこと」
「……お人好しって、あまりよくないですよ」
「何事も捉え方は前向きに。それが生きるのに役立つスキルだよー。今回の失敗は、君の人間性を確かめさせるものだったのさ」
だからめげることはない。そう言ってくる庄司に対して、垣村は何も言えない。缶珈琲を開けて、喉の奥へと流し込んでいく。苦い。苦渋を舐めるとはこの事か。
ただ……それでも、隣にいる庄司の優しさが多少なりとも垣村の心をなだめたのは事実だ。垣村は強い男の子ではない。本質的に弱く、周りから怯えるような子だ。傷ついていたところに差し出された優しさは、垣村の心を揺さぶる。気がつけば、泣きそうになっていた。必死に堪えるその姿を、庄司はただじっと見つめている。何か元気づけられるものはないかと視線を逸らしたところで、歩き回る人混みの中を慌ただしく走り回る人物を見つけた。
「おやおや? もしかして、アレがそうじゃない?」
「……えっ?」
何をそんなバカなことを、と言いかける。庄司の指差す方を、仕方なく垣村は見てみた。そして目に入ってくるのは……この炎天下の中、必死に走っている女の子の姿だ。白を基調とした半袖のシャツに、七分丈のジーンズ。明るい黒髪が走っているせいで大きく揺れている。
「……笹原、さん」
いや、まさか。本当に遅れただけだというのか。どうしたものかと庄司さんに意見を貰おうとしたら、振り向いたそこに彼の姿はない。いつの間に、なんて思っていたらもうすぐそこにまで笹原は来ていた。垣村を見つけたらしく、どこかホッとしたような顔で近づいてくる。息を切らし、肩が上下に動く。垂れ流される汗は、彼女が本気で探していたのだと思わせた。
すぐ目の前まで走ってくると、膝に手をついて息を整えようとする。そしてまだ完全に整っていないのに、頑張って顔を上げて垣村を見上げてきた。
「ご、ごめん、垣村っ。遅れ、ちゃって……」
「あっ……いや、平気、だけど」
「松本たちに、会って……なんとか一人で来ようとして、バスも過ぎちゃってて……携帯も、充電が……」
「わかった。いいから、休もう」
カバンから黒いタオルを取り出して、彼女に渡した。拒むほどの余裕もないらしく、何度も苦しそうに呼吸をしながら、先程まで庄司が座っていた椅子に座り込んだ。そのまま体を力なく倒して、ぐでっとしたまま動かなくなる。首に巻いたタオルで何度も顔の汗を拭きながら「ごめん、ごめん……」と呟いていた。そんな態度を取られると、何も言えなくなってしまう。
それに、松本たちに会ったと言っていた。一人で来ようとしてとも言っていたし、からかわれるのが嫌だったのだろう。自分といたら炎上間違いなしなのは目に見えて明らかだ。それでも、なんとか必死に約束を守ろうとしたのだろう。
「一時間以上も、待たせちゃって……もう、帰っちゃったかと思ってた」
「……あとちょっと遅かったら、帰ってたと思う」
「ごめんっ……やっぱり、怒ってるよね……?」
顔を少し動かして、上目遣いで見つめてくる。汗で濡れ、瞳は潤み、赤く染った頬や額はどうしても垣村の情欲を掻き立てる。視線を逸らして、遠くを見つめながら彼は答えた。
「怒ってた……けど、なんかもう、どうでもよくなった。笹原さんが、必死だったから」
必死に走って、汗をかいて、それで謝って。そんなことをされてしまったら、怒るに怒れない。甘いヤツだと言われるかもしれないけれど、何も言えないんだ。嫌という程暑いこの中を、走って探しに来た。その事実は、変わらないことだから。そう思って、垣村はそっと微笑んだ。
「……ありがと、垣村」
視界の隅にいる彼女が笑っている。汗だくな彼女が可笑しくて、つい笑ってしまいそうになる。目を細めたら、涙がついに溢れてしまった。汗を拭う振りをして、涙を拭い去る。
先程まで酷く打ちのめされていたというのに、気がつけば汗だくの彼女によってまた気が持ち直されている。約束を守るのに必死になった彼女を、もう責めることはできなかった。むしろ自分のためにここまで必死になってくれたことを、嬉しいとすら感じる。
夏の暑さは厄介だ。けれど、この暑さを夏の魔法だと言う人がいるように……厄介だけれど、悪くはないのかもしれない。息を切らしていても、大量の汗をかいていても、疲れたように笑う彼女の姿が魅力的に見えたのだから。
【☆】
ベッドの上に転がり、携帯を手に取る。画面をつけてみれば、友人からの通知でいっぱいだった。それらを返していると、面倒くさく感じ始める。男子からくるメッセージなんて、会話を長引かせようとする魂胆が見え見えだった。
花火大会のグループでは他愛ない話とともに当日の行き方も話されていて、皆楽しみなんだなとわかる。楽しみといえば楽しみだけれど……なんとなく、別のことを考えてしまう。いつもの皆と一緒じゃなくて、一人でふらふらと歩いていたら偶然アレと出会ってしまうこととか。
(……何考えてんだろ)
いたらいたできっと面白そうだ。どんな服を着てくるんだろう。甚平……はなさそう。見せる相手もいないだろうし。私服、そういえば打ち上げの日の服装は普通だった。
(……垣村、か)
アプリの友達一覧には彼の名前はない。クラスのグループに一応彼は入っているが、何かしらメッセージを送ることもない。友人である西園以外にはわりと排他的なイメージがあった。それでも笹原は知っている。意外と気遣いができたり、西園と一緒にゴミを拾う優しさもあり、隣に笹原がいても自慢話をせず、会話を長引かせようとはしない。ちょうどいい距離感。夏休みに入ってしばらく経つが、遊びに外に行っても彼と出会うことはない。駅でいつもの場所に行ってもいないし、反対側を眺めていても彼の姿は見当たらない。
(夏期講習以外は暇だって言ってたっけ)
駅での会話を思い出しながら、指はクラスグループのメンバーをクリックし、その中から垣村 志音という名前のアカウントを探し出す。プロフィールの画像は、黒色のヘッドホンの絵だ。いつも音楽を聴いている彼らしいと笹原は思いながら、彼にメッセージを送るというボタンを押そうとして……指が止まる。
(急にメッセージ送ったら嫌がるかな。でも、そうしないとメッセージ送れないし……そもそも、もう十二時過ぎてるし。わりと真面目だから起きてるかもわからない)
他の人より垣村を知っているはずだと思っていても、存外彼のことを深く知れていなかったことに気づく。送ろうか、送らないか。五分くらい迷った挙句……思いきってメッセージ画面を開いた。これで垣村の方にも通知がいくはずである。後戻りも何も出来ない。クラスの仕事で男子に連絡する時は何も感じないのに、不思議と手が震えて仕方なかった。
『今日何か予定ある?』
メッセージを送って、気づく。もっと先に言うべきこととかあったんじゃないか。こんばんわとか、夜分遅くにごめんとか。いや、そこまで気遣う必要もないかな。なんか不自然だし。
たった一文メッセージを送っただけなのに、変に疲れてしまった。笹原は両手を広げて布団に力なく叩きつける。送ってからというもの、時計の針が動くチクタクという音がどうにも心を落ち着かせなかった。時間が経つほど、返事がないことに不安な気持ちがうまれてくる。
「……ッ!」
ピコンッと通知を知らせる音。思わずビクリと身体が震えてしまう。これで他の人からのメッセージだったら気落ちするものだが……画面には垣村 志音と表示されていて、少し気が高ぶった。緊張やら安心やらが襲いかかってきて、気がつけば瞼が重くなってくる。とりあえず約束だけでもとりつけないと、と思いながら文字を打っていって……そのまま眠ってしまった。
暑苦しいと感じながら目を覚ます。右手には携帯が握られたままで、どうやら寝落ちしてしまったらしい。約束はできたから時間までに準備しないと、と思いつつ時計を見た。時間は既に正午を過ぎている。
「やばっ……⁉」
まさかこんなに眠っているとは思わなかった。すぐに飛び起きて、適当にリビングにあったパンを食べながら急いで支度をしていく。半袖のシャツを着て、下はスカートでもいいかと思ったけれど、垣村が動揺しそうだから短めのジーンズを履いた。
身支度を整えて、すぐに家を出る。バスの時間を確認したら、このまま向かえば十分間に合う。けれど……携帯の画面には充電不足を知らせるマークが浮かんでいる。少し不安になりながらも、笹原は足早に駅にあるバス停へと向かった。バス停は駅を挟んで向かい側にある。ちょうど電車が来ていたらしく、駅はジャージや制服の学生が多かった。時折見てくる男子生徒の目線を無視しながら階段をのぼって、向かい側まで歩いていこうとした時だ。
「あれ、笹原?」
改札前で、ちょうど出てきた松本と数名の男子生徒に出くわした。青色のジャージには坂上高校と書いてあり、部活帰りのようだ。松本の後ろには普段一緒にいる二人の姿もある。
ちょっとだけ面倒なことになったかもしれない。笹原はなるべく表情に出さないよう、松本に挨拶を返した。彼は笑いながら近づいてきて笹原の隣にまでやってくる。他のサッカー部員は皆それぞれ別れて帰っていく中、笹原と松本だけがその場に残っていた。
「どっか遊びに行くの?」
「うん。ちょっと買い物行こうかなって」
「そうなん? なら手伝おうか。荷物持ちぐらいならするよ」
えっ、と言いかける。笑顔のまま手伝いをすると言ってきた彼に対して、言葉が出てこなかった。誰にも垣村と遊ぶことを伝えていない。いや、伝えられない。このままついてこられるのは無理だ。垣村と一緒にいるところを見られてしまえば、茶化されるどころの話ではない。どう断ろうかと悩んでいる笹原に、たたみかける様に松本が話しかけてくる。
「そういえばもう飯食ったの? まだなら何か食べようか。俺部活帰りで昼飯食ってないからさー。確か階段降りたところにレストランっぽいのがあったはずだし」
「いや、私もうご飯食べちゃったから。それに、買い物も一人でいくよ」
「一人だと何かとあれじゃない? 俺なら別に何持ったって平気だからさ」
「……中学の友達と待ち合わせしてるの。気まずいからやめておきなよ」
「別に笹原の友達だっていうなら平気だけどなー」
何度言っても食い下がってくる。普段一緒にいるとはいえ、休みの時にも一緒にいようとは思えない。「別にいいから」と断っても「その友達の中に男とかいる?」とか、何としてでも情報を探って一緒にいる口実を作ろうとしてくる。段々イライラしてきた。すまし顔の多い彼女だったが、明らかに苛立っているのがわかる表情になり、松本に向けて突き放すように言う。
「しつこいよ。昔の友達だけで集まるって言ってるじゃん」
鬼気迫るような物言いに驚いたのか、松本は少し身を引いて申し訳なさそうに「わ、わりぃ……」と謝ってきた。もう無理だとわかったのだろう。「じゃあ、またな」と言ってその場から離れていく。なんとか一人になることができた。そう安心したのもつかの間、バスが来るまで時間がなかったのを思い出す。笹原はすぐにその場から移動してバス停へと向かうのだが……。
(あっ……もしかして、あれ?)
階段を降りる途中で見えたのは、一台のバスが動き出す光景だった。そのバスが止まっていたバス停を見れば、今しがた出たものが乗ろうとしていたバスらしい。仕方なく次のバスの時刻を調べてみるが……一時台のバスはもうなく、二時台のバスも四十分頃。完全に遅刻だった。
(嘘っ……あぁもう、遅れちゃうし)
松本に対して恨み言を心の中で呟きながら携帯を取り出す。垣村に遅れることを伝えなくちゃ。しかしメッセージ画面を開いたところで、画面が黒色のものへと切り替わる。中心に浮かぶのは携帯の機種名。そしてとうとう何も映さなくなる。ボタンを押しても、何も反応しない。
(なんでこんな時に限って……)
バス待ち用の椅子に座りこんで、項垂れる。どうしよう。垣村に遅れると伝えたいけど、携帯は充電が切れた。予備充電器は学校用のリュックの中。電話をかけようにも、彼の電話番号は知らない。今から家に帰って、また戻ってくる? いや、それでまたバスに間に合わなかったら元も子もない。駅をひとつ下れば、そこにも確かショッピングモール行きのバスがあった気がする。けど、時間を調べることができない。
(あぁ、もう……)
深いため息をついて、地面を見つめる。こんな中彼を長い時間待たせてしまったら……。
なんだかんだ、彼は待ってくれるだろう。一時間くらいは待つかもしれない。でも、仮に自分がそれをやられたら、かなり嫌だ。時間になっても来ない。メッセージも読まない。そんな状態で、ただただじっと来るかもわからない人を待ち続ける。そんなの、耐えきれない。
(会ってすぐ、謝らなきゃ。いや、そもそも……会えるの?)
待っていて欲しい。そんなわがままなことを考える自分が嫌だった。自分にできるのかも怪しいのに、それを他の人に強要するなんて無理だ。
あぁ、会ってなんて謝ろう。頭を下げて、ごめんって言って。きっとそれでも足りない。
頭の中でぐるぐると、何度も何度も考える。心臓付近がずきりと鈍く痛んだ。脈がどくんっといく度に、ずきりっと。走ったわけでもないのに、心臓は嫌という程暴れ回る。早く。早く。急かしても時間は早くならない。
バスがやってくる頃には、もう考える余裕すら残されていなかった。乗り込んで、そのまま揺られていくこと数十分。ショッピングモールへと、ようやくたどり着いた。待ち合わせ場所はバス停を降りてすぐの広間。周りを見回しても、垣村らしき人物は見当たらない。
(やっぱり……帰っちゃったよね……)
もう、ほとほと疲れてしまっていた。動きたくない。彼にはもう嫌な奴だと思われていたのに、更に悪く思われてしまう。
笹原が座れる場所を求めて案内板の元まで行くと、広い地図が目に入ってきた。笹原の降りたバス停は北西側。ショッピングモールの多くは服屋や靴屋で埋め尽くされている。フードコートにでも行って休もうと思っていた時に、ふともうひとつのバス停が目に飛び込んできた。それは笹原の最寄り駅よりも下の駅から出ているバスが止まる場所。それは彼女が今いる場所とは正反対な、南東側にある。そして、そのバス停の目の前には広間もあった。普段来るときはこちら側しか利用しない笹原は、そのもうひとつのバス停をすっかり忘れてしまっていた。
(垣村の家は下の方だから、もしかしたら……)
行き方を覚えて、すぐにその場から走りだした。走っている彼女をいろいろな人が見てくるが、それでも脇目も振らずに走る。日頃運動しないせいで、体力はそれほどない。息もすぐに切れて、呼吸をするだけで喉の奥が痛い。汗も酷い。こんな汗をかいた女が隣にいたら、嫌だ。絶対に臭うし。でも、でも……と心の中で呟きながら笹原は走り続ける。そこにいるかもしれない、ただその可能性だけを信じて。
苦しい。足を止めてしまいたい。けれど動かし続ける。笹原も意地だった。走って、走って、そしてようやく見えてくる。広間を行き交う人たちの中にいるかもしれない彼の姿を、揺れる視界の中で必死に探した。そして……見つけた。日陰の椅子に座っている彼を。
(……いて、くれた。待ってて、くれたんだ)
嬉しさと申し訳なさ。それらが混ざりあって、更に息たえだえ。その表情を表すのなら、必死としか言えない。あと少しの距離だ。最後の力を振り絞って、彼の元へ。そのまま力なく彼の元へ倒れてしまいたいが、それは許されない。心配そうな彼の声が耳に届く。そしてタオルを貸してくれた。こんな暑い中待たせてしまったのに、どうしてこんなに優しくしてくれるのか。泣きそうになってしまうのをタオルで隠しながら、笹原は謝る。ごめん、ごめんっと。
椅子に座ってしまうと、とうとう動けなくなる。言い訳がましいことも言ってしまった。怒られたくなくて、嫌な奴だと思われたくなくて。けれど彼は怒っていなかった。首だけを上げて見てみると、その表情は可笑しそうに笑っていたから。
「なんかもう、どうでもよくなった。笹原さんが、必死だったから」
許してもらえた。それだけで、すっと心が楽になっていく。
それにしても、体中べとべとだ。汗が滲んで、服にシミができている。恥ずかしいどころの話ではなかった。こんな格好じゃ、垣村も嫌がるだろう。
「ごめんね、垣村。こんな汗まみれの格好で……隣にいたら、不快に思うでしょ?」
「……いや、別に。笹原さんが必死になった結果だって、わかってるから。気にならないよ」
「……ありがとう、垣村」
服がひっつくような感覚は嫌いだけれど、彼がそう言ってくれたおかげでちょっとは嫌な気分がなくなった。落ち着くまで座りながら話をして、最近起こったこととか面白かったことを話していく。そんな中で、ふと思い出したように垣村は尋ねてきた。
「なんで俺を誘ったの? 荷物持ちなら、俺よりも他の人の方が良かったんじゃない?」
「荷物持ちで誘うって……あんたさぁ……」
呆れてものも言えない。素直に誘われたことを喜べないのか。垣村はそういった経験がなさそうだから、勘違いしてしまうのも仕方のないことかもしれないけど。
(……そういえば、私が垣村の初めての相手? 女の子と遊んだこととか絶対なさそうだし)
そう考え始めた途端、暑かった体にまた熱がこもり始める。タオルで口元を隠して、にやけてしまうのを見られないようにした。それにしても、口元にタオルを持ってくると匂いがする。笹原はついさっきまで余裕がなかったので気づけなかったが、時間が経つにつれその匂いが垣村のものであることに恥ずかしさを感じ始めた。男子にしては、ちょっと甘い匂いがする。
「なら笹原さんは、どんな服を買いに来たの? 悪いけど、センスないから選ぶのは無理だよ」
「私の服だけじゃなくて、垣村のもだよ」
「えっ、俺のも?」
そんなこと考えてもいなかったと言いたげに驚いていた。垣村の私服のセンスは良くも悪くも普通だった。奇抜でもないし、オシャレでもない。ただ地味な感じはするけれど、それは垣村らしさに合っている。けれど、もっと格好よくなれるかもしれない。服を変えて、合わせて、それで髪型とかもいじってみれば。
「垣村はもっと格好よくなれるよ。髪型変えて、伊達メガネとかつけてみたら?」
「い、いや……俺にはちょっと……」
「服も組み合わせ変えてみたりとかさ。黒とかじゃ地味になっちゃうよ。明るい色とか、柄物とかさ。そうすれば見栄えも良くなるし」
こうした方がいい。そうすればもっと格好よくなる。そんなアトバイスを垣村に伝えていくが、途中から彼の表情が硬くなっていった。苦虫でも噛んだような、曖昧な表情。それに気づかずに笹原は話を続けていくのだが……割り込むように、垣村は言ってくる。
「笹原さんは、どうして俺をそんなに見栄え良くしたいの?」
「どうしてって……垣村は、なりたくないの?」
「いや、そりゃなりたいけど……強要されてなるのは、なんかちょっと違うかなって」
「ふーん、変なの」
誰だって格好よくなりたいし、かわいくなりたいはず。けれど垣村は違うらしい。相変わらず何を考えているのかはわからない。
「笹原さんは……俺に、格好よくなってほしいの?」
「ふ、ぷふ……か、垣村、そんなこと普通聞く?」
「いや、その……気になって」
「あははっ……でもさ、格好よくなれるならそれでいいじゃん」
あまりにも聞いてくる内容が可笑しくて、笹原は笑ってしまう。格好よくなってほしいの、と問われれば……多分なってほしいと笹原は思っていた。見栄え良く、それなりの服に身を包んだ垣村なら、隣にいても何もおかしくはない。茶化されることもないし、悪い気もしない。垣村が格好よくなるなら、それはそれでいい事のはずだ。けれども、垣村は困ったように眉をひそめるだけ。笹原には何が不満なのかわからなかった。
そのあとは、特に追求することもなく二人で歩き回る。服屋で祭り用の服を見て、垣村に合いそうな服を見繕ってみたりして。暑い中待たせてしまっても、彼はそれに対してグチグチと不満を漏らすこともなく、荷物を持ってくれたり、休む時に飲み物を取ってきてくれたり。それなりに気を遣ってくれた。その行動に下心があるようには思えず、ただ彼の人となり故の行為だったのだろうと思える。だから、彼の隣は居心地がよかった。そんなに気を遣うのに神経質になることもない。会話が途切れても気まずくならない。そして何よりも……彼が待っててくれる優しい人で、遅れてきた笹原を許してくれたこと。それが嬉しかった。
時間が過ぎて、夕暮れになる前に帰ることにした二人。「またね」と言い合って、それぞれのバス停へと別れていく。またね、と心の中で笹原は何度も繰り返した。また、知り合いが誰もいなさそうな場所で遊ぶことができたなら。きっと、楽しいはずだ。それに、タオルも返さなくてはならない。借りたものを返す。それは笹原と垣村を結びつけたもの。なんだか懐かしいような、そんな気分になって……バスの中で笹原は、タオルを両手に持って静かに微笑んだ。
【♪】
居酒屋。塾帰りに待ち伏せしていた庄司に連れられ、垣村はまたこの場にやってきた。相変わらず彼のスーツはよれているし、やる気のない顔つきもいつものことだ。ネクタイを緩めながら「つっかれたー」と言って体を伸ばす。いつからか垣村の携帯には彼の連絡先が入っていた。『今日暇ー?』なんて、まるで学生同士のやり取りのようなメッセージが時折届いてくる。
「さぁーて、また焼き鳥とビールを……そういえば、カキッピーはあれから進展あったの?」
「進展と言われても。二回くらい、出かけた程度でしょうか」
注文を頼みながら、垣村の身の上話を展開していく。あれから笹原と二度出かけ、タオルも返してもらった。そして園村とも数回出かけたことがある。カラオケに行ったり、本屋に行ったり。目の前で自分が作曲したものを歌われると、恥ずかしくて仕方がなかったのを思い出す。
笹原の方はどうなのかといえば、それなりに楽しんではいた。だが、時折彼女は周りの目を気にするようにキョロキョロとすることがある。垣村もわかってはいることだが、知り合いに会いたくないのだ。それ故に、気軽に遊ぶというのは中々に難しかった。
「ふーん、園村ちゃんねぇ……。カキッピーと同じオタッキーなんだっけ」
「オタッキーって……別に、そんな酷くはないですよ。園村さんは自分とは違って、ちゃんと前を向いて努力できる人です。いつまでも陰気臭い自分よりも、ずっと強い女の子ですから」
「おっとサブヒロイン登場にまさかの評価どんでん返し。サブヒロインがヒロインを追い越してしまうのか……⁉」
庄司は目の前で生きている青春動物が面白くて仕方がない。垣村は確かに人と接するのは得意ではないし、初対面相手に自分から話していけるような性格でもない。けれども、そんな彼のとる行動や周りの反応がとても愉快だった。予想の斜め上か斜め下。青春を過ごす彼らのやきもきした関係。それらを聞きながら、運ばれてきたビールを飲む。中々に至福の時間だった。
「そういえば、庄司さん。格好悪い……見栄えが良くないのは、やっぱりダメなんでしょうか」
夏休みに入って初めて笹原と遊んだとき。彼女は執拗に、この服を着れば格好よくなるだとか、眼鏡をかければ見栄えが変わるとか、髪型をもっと短めにしてワックスをつけてみる、とか。何かと垣村のことを変えようとしてきた。垣村自身、容姿に自信があるわけじゃない。彼女の言葉がただの善意からくるものであったのなら、それなりに聞き流せただろう。しかし、その露骨さに気がついてしまえば……どうにも正面からは受け取れない。
「笹原さんと自分が並んでいるのは、不相応だってわかってます。だからきっと、彼女は見栄えを良くしたがってる。誰かに見られても、恥ずかしくないように」
口に出してみると、心臓が痛んだ。苦々しく顔を歪める垣村を、庄司はじっと見つめている。
「自分は……外見より、心を見てもらいたい。それは、いけないことなんでしょうか」
見栄えの悪い外見よりも、垣村の人間性を見て欲しい。外見よりも中身が大事だと、誰かは言う。その言葉通りであったらいいと、垣村は何度も思ってきた。けれど……その言葉を言う人は決まっている。容姿に優れた人が、決まってそう言うのだ。
「そりゃあ、難しいねぇー。うん、ぶっちゃけ無理だよ」
「……ぶっちゃけますね」
いつものようにニヤニヤと笑いながら、歯に衣着せぬ彼の言葉に、やっぱりそうだよなと少しだけ落胆した。わかっていても、少しは肯定してくれるかなと期待していたから。
庄司は焼き鳥を頬張り、ビールを飲んで一息つく。そして垣村に焼き鳥の串を向けながら、いつにも増して真剣な顔で話し始めた。
「人は見た目が何割だのって、よく言われるね。けど実際そんなもんよ。目に見えるものと、見えないもの。どっちを信じるのかって言ったら、そりゃ見える方に決まってるよねー。だって事実だもの。人の心なんて簡単に変わるし、騙すことさえ簡単さ」
向けた串をゆらゆらと揺らしながら、垣村の心を抉るように言葉を吐いていく。垣村は自嘲するように笑った。彼の言葉は正しい。目に見えるものこそ信じるべきで、透明なものほど掴み難い。容姿に優れた人が有利に生きることができ、そうでない者は茨の道を歩くことになる。
「人は心よりも見た目。論より証拠と同じさ。いくら僕の心は素晴らしいんだーって叫んだところで……じゃあ証拠はって言われちゃおしまいよね。例え人に見えない場所で良いことをしても、自慢げに話した途端その価値は暴落する。どう足掻いても、容姿が優れた人が有利な世の中だしねー。容姿の優れた彼らは、見た目で判断されない。だから心や行動を見てもらえる。対して、優れない人。見た目でマイナスされたら、その後ずーっと引きずられるのさ」
目つきは更に細くなる。言葉は軽くとも、その質が重く感じた。言葉ひとつひとつが、確かに垣村の脳内を刺激していく。容姿がいいからプラスなのではなく、ダメだからマイナス。スタート地点で前に出ているのではなく、むしろ自分はスタート地点に立ってすらいないのだと。
容姿が良ければ人が寄ってくる。そうすれば性格も、心も見ることができる。人に寄られない、寄せつけようともしない垣村にはそれはできない事だった。
「でもねカキッピー。そんな容姿に優れない人でも、心を見せることはできる」
「……どのように、ですか」
「そりゃもちろん、関わるのさ。人という字が支え合ってできてるって金パッチが言ったように、人ってのは関わりあわなきゃいけない動物なのさ。そうすれば、誰かに見てもらえる。大切なのは、コミュニケーション能力ということだね」
「それは、無理難題ですね……」
垣村にとって、それは酷なことだった。けれども、そうしなきゃいけないんだろうなと納得はしている。関わることがなければ、庄司はただのだらしないオジさんだったことだろう。笹原は、嫌なトップカーストでしかなかっただろう。園村は容姿に優れた女の子だとしか思えなかっただろう。西園が実は周りの態度をかなり気にするタイプだとは気づかなかっただろう。
そう、結局は関わらなきゃいけない。とても難しいことだけれど。容姿に優れない段階で、自分に自信が持てなくなってしまう。だから、話しかけることすら難しい。煙たがられるのではないかと思えてしまう。だとしたら、そんな人はどうすればいいのか。
「どうしても、自信が持てなくて話せない人は……どうすればいいですか?」
「うーん、これは最近聞いた話なんだけどねぇ……」
先程までとは打って変わって、ニヤニヤと笑い始める。真剣モードは途切れたらしい。それでも、何か伝えてくれることがある。もしかしたらそれが、自分の在り方を変えてくれるかもしれない。微かな期待を込めながら、垣村は彼の言葉の続きを待つ。中々勿体ぶるように、庄司は残っていたビールを呷ってから答えた。
「モテない男は自家発電して死ね、だってさー。あははははー」
「笑い事じゃないんですけれど、それ……」
期待していた自分を殴りたくなる。彼の真剣な雰囲気が途切れた段階で、まともな答えを期待するべきじゃなかった。ため息をつき、垣村もコップに残ったコーラを飲み干す。酒でも飲んで酔っ払ってみたい。目の前で顔をほんのり赤くしている庄司を見て、そう思ってしまった。
「まぁまぁ、そんなに落ち込んじゃダメだよ。まだ時間はあるんだから。変わりたいと思った時に変わればいい。少なくともオジさんはカキッピーのこと知ってるし? 何かあったら叫んであげよう。カキッピーは女の子相手におどおどするけど根は優しい男の子なんですよーって」
「本気でやめてください」
「校庭の中心で愛を叫ぶ! 本命はギャル子、それともオタ子ちゃん? 来月、乞うご期待!」
「やりませんから、絶対に」
庄司は酔いが回ってきているらしい。やかましいと思うが、これほど自分について相談できる相手はそういない。両親でさえ、ロクに話をしないのだから。
欲しいものは買ってもらえるし、学校にだって行かせてくれる。けれど、両親は日々忙しなく働いていた。家族で出かける機会は本当に少ない。だからこそ、自分が働くことで少しでも楽にしてやりたい。そのために、自分は何になればいいのか。未だに将来のことは決まらない。
それでも……最近、また音楽を作ることに対して意欲が湧いてきていた。それはきっと園村と出会えたからだろう。彼女の真摯な言葉のおかげで、作曲することからの逃避はなくなった。前よりも良いものを。それは創作者として当然のこと。けれど、とても難しいことでもある。挫折して、作れなくなって。けれどもまた、諦めずに手を伸ばそうとしている自分がいた。
「……見た目で判断されない世の中に、ならないものでしょうか。大手を振って、ボカロPであることを宣言できるような、そんな世界に」
「まぁ難しいだろうねー。少数派は、疎まれる運命さ。日本人だからね」
多数派でいることを好む。多数派であることに安心する。日本人とはそういうものだ、と庄司は言う。その言葉には頷くしかない。垣村もそうだから。少数派であるから、高らかに宣言することもできない。誰かに伝えることもできない。ハンドルネームの柿Pでなくては、顔も年齢も名前も知らない誰かでなくては、発信することができないのだ。チヤホヤされたいわけではない。すげーって言われたいわけでもない。ただ、そうなのかと認めて欲しいだけ。
承認欲求。自己肯定。誰でもない、紛れもなく自分自身で、ただ一人の代わりがいない存在になりたい。自分の存在意味を、存在意義を持ちたい。だからこそ、また今日も家に帰ればパソコンを触る。音を奏で、言葉を綴り。世界に二つと無い、垣村にしか作れないものを作る。
(……音楽、か。それも、いいのかもなぁ)
趣味を仕事にするのは良くない、と言われる。けれど、楽しくないことなんて続かない。苦しいことなんて続けたくもない。だとしたら、今自分が続けようとしているコレは……一体どうなのだろうか。日がな一日、ただその事だけを考えて生きていたら。それはそれで、いいのかもしれない。少しだけ、薄暗い未来に光明が見えた気がした。
「そういやぁカキッピー。そろそろ館山の花火大会があるじゃない。笹原ッチと行くの?」
「いいえ、笹原さんとは行きませんよ。っていうか、女子と回るだなんて難易度が高い……」
そこまで言うと、突然垣村のポケットからメッセージの着信音が流れ始めた。西園か、それともスパムの類か。いざ取り出して確認してみると……最近メッセージを送り合うことが多くなった人物から、意外な内容が送られてきていた。瞬きの回数が増えた垣村を見て、庄司は「ははーん、女の子かー?」と彼の隣にまでわざわざ移動してきて携帯を覗き込んでくる。
イヤホンをつけた、デフォルメされた猫の画像。それは園村 詩織の連絡先。彼女から送られてきたのは、たった一言。
『館山の花火大会に一緒に行きませんか?』
タイムリーな話で、思わず声を上げそうになる。女子からのお誘い。しかも花火大会。垣村がぎこちなく庄司を見上げると、彼はいつもよりニヤニヤと笑いながら見ていた。
「ひゅー、いいねぇ。女の子と花火。夜空に咲く花、カップルだらけの現地。思わず恥ずかしくなって手と手を取り合う二人……」
「ぁっ……ぇ……」
「あらら、カキッピーったら予想外すぎて思考が追いついてないや」
肩を軽く叩いてから庄司は元の位置に戻って「まぁ楽しみたまえよー少年ー」と楽しそうに笑っていた。一方垣村は女子から花火大会に誘われたという事実に戸惑ったまま、手を動かすことができずにいる。女子と二人きりで花火はかなりレベルが高い。相手が園村ではあるが、それでも女子だ。会話に関してそこまで不安はないが、難易度が高いことには変わらない。
どう返事をするべきなのか、数分悩む。そんな彼の頭の中で繰り返されるのは、庄司の言っていた言葉。関わりあわなきゃいけない動物。変わりたいと思った時に変わればいい。現状不満を抱えて爆発しそうというわけではないが……それでも、何か変わることができるのなら。
垣村は、『いいですよ』と文字を打ち込んでいく。無様に指が震えていた。
こんな自分を誘ってくれた。そんな彼女のためにも、ちょっとだけ頑張ってみよう。返事をした垣村の顔は薄らと赤く、けれども瞳だけはまっすぐに彼女へのメッセージを見つめていた。
服装に気を使うのは年にそう何度もない。しかし最近、鏡の前で格好を確認するのが多くなった。垣村にも人と、それも身なりに意識が向くような友人と交遊する時間が増えたからだ。
園村は垣村よりも上の駅から下りてくる。前から二つ目くらいにいると連絡が来ていたので、垣村はホームの前付近で立っていた。
今は夕暮れ時だが、普段昼間だろうと全然人が乗り降りしないのに、こういう時だけは利用者が多かった。それもほとんどがカップルらしく、浴衣を着た煌びやかな女性が目に入ってくる。こんな状況の中でぽつんと立っていると、変な虚しさが湧いてきた。どうにも居心地が悪い。早く来ないものか、と待ち続ければ……ようやく電車の音が遠くから聞こえてきた。
目の前を通過していき、ちょうど二両目辺りの車両が目の前で停止して扉を開く。なだれ込む人に紛れながら中へと入り、周りを見回した。浴衣や甚平だらけの中で、後ろ側の扉付近で立っている園村を見つけることができたのは、本当に幸いだった。彼女が浴衣を着ていたら見つけることは困難だっただろう。近くにいくと、彼女も垣村に気づいて小さく手を振ってくる。
いつもの黒縁メガネ。一枚ガラスを隔てた向こう側にある瞳が安心したように揺れる。表情も和らいでいた。こんな大勢の人が乗る電車は、彼女にとって厳しいものだったのだろう。
「見つけられてよかった」
「これで会えなかったらどうしようかと思ってたよ。柿P、ちょっと腕貸してね」
揺れ動く電車の中で、園村は左腕の袖近くを掴む。右手はつり革を掴み、左腕は彼女のせいで動かせなくなる。左手は、宙でゆらゆらと揺れて彼女の服に何度か擦れるように当たった。体に触れたわけではないが、いけないことをしている気がして垣村は気が気でない。園村との距離の近さが気になり、変な匂いはしないか、とか。いらない心配ばかり考えついてしまう。
「ここから、どれくらいだっけ」
「一時間くらいかなぁ」
「……長いなぁ」
「長いね」
彼女の長いは、電車が辿り着くまで長いねと言ったのだろう。対して垣村は、この状況があと一時間も続くのが長過ぎると思っていた。少し腕を動かせば、それか電車が揺れた時に彼女の方に体を寄せれば、左手が彼女の体に触れることだろう。柔らかいのか、気になってしまうが……そんなことをして幻滅されたくはない。垣村はじっと堪え、つり革を掴む手に力を込める。揺れてなるものか、と。
「緊張してるの、柿P」
強ばった垣村の表情を見て、彼女は笑う。周りにはいろんな人がいた。その中には、化粧が濃かったり、薄いのに綺麗に見える人がいたり。そんな中でも、園村の笑顔が一番良いと思えたのは身内贔屓のようなものがあるせいだろうか。
「人混みは、ちょっとね」
「あはは、私もそう」
小声で話す内容はカップルのものではない。。方や創作者で、方やそれのファン。垣村は顔が割れていないちょっとした有名人ではあるが、それでもこれは稀有なことだろう。
前に遊んだ時、彼女はスカートではなくズボンだった。けれど今の彼女は、膝丈くらいの黒いスカートだ。スカートを穿くのはあまり好みじゃないと話していた記憶があったが、どうしたのだろうか。横目で見ていると、彼女も見上げるようにして垣村の肩を優しく叩いてくる。
「ねぇ柿P、言うこととかあるんじゃないかなー」
「なにか、あったっけ」
「柿Pってギャルゲーとかやらないの?」
言われて納得したように「あぁ」と小さく頷いて、顔を半分ほど彼女に向ける。真正面から見て伝えられるほど、垣村に根性はない。そんなことは彼女もわかっていることだろう。
「園村さん、その服似合ってますね」
「んー、言われてみたかったけど、いざ言われてみると……なんかちょっと恥ずかしいね」
「恥ずかしいのはこっちだよ……」
周りの視線が気になる。小声とはいえ、近くにいた人には聞かれていたことだろう。互いに少し顔を赤くして黙りこくる。そのうち園村が「良いこと思いついた」と言ってショルダーバッグから携帯とイヤホンを出す。左耳のイヤホンを垣村に。右耳のを彼女がつけると「なんでもいいよね」と聞いてきた。頷くよりも早く、イヤホンから音楽が流れ始める。ボカロやアニソン。まぁ、下手にラブソングを流されるよりも気分的に楽だ。
イヤホンを共有したまま、目的地へと向かっていく。何度か左腕を握り直してくる彼女の行動にむず痒さを感じながら、狭苦しい中でもゆったりとした時間を過ごしていった。
花火大会の開催される最寄り駅は、着いた時には既に人で溢れかえっていた。垣村はあまり来たことはないが、その時の記憶は人をあまり見かけない風景だ。海が近く、別荘が建てられていたりする場所だが、こと花火大会に限っては砂浜が人で埋め尽くされ、道路は辛うじて一人くらいなら割り込める程度の空きしかない。流石に足を前に出すのが億劫に感じてきていた。
「柿P、端っこの方は人少ないらしいよ!」
「なら、そこにしようか」
「あとは、何か適当に……じゃがバターとりんご飴と、カステラもいいなぁ」
「園村さんはよく食べるね」
「今はこうだけど、昔は……ね? 食べるの大好きな女の子だったからさ」
ふくよかな体型だった彼女は中学時代のイジメによって体重を激減させた。努力で得たものではないし、痩せていることを誇らしく思えるわけでもない。自分の幸福を掴み取るために努力した彼女は、食べる幸せも逃したくはないのだ。食べられる時に食べる。食べたいから食べる。一緒に歩きながら屋台を見ては「焼きそば……お好み焼き……どうしよう柿P、食べきれないよ!」と頭を悩ませていた。微笑ましくて垣村も笑ってしまう。
「食べきれなかったら家で食べればいいんじゃない?」
「その場で食べないと、屋台っぽさとかなくなるし。それに……値段と美味しさが噛み合ってない気がしない?」
「屋台の品物ってどれも高いからね。それでも買っちゃうけど」
「だよねー。場の雰囲気っていうのかな」
片っ端から見て周り、袋から溢れそうになるくらい食べ物を買っていく。片手で持つには重たそうだ。これは持ってあげるべきなのか。そう考えながら隣を歩き、意を決して尋ねてみる。
「袋、持った方がいい?」
「そこは、さっと自然に持っていくのが好感度上昇すると思わない? ほら、貸せよみたいに」
「目の前にいるのはギャルゲー主人公じゃなくて、根暗なボカロPだというのを忘れないで」
「いやギャルゲーとかじゃなくても……普通、そんなもんじゃないかなーって」
「俺はきっと普通じゃないし……それに、園村さんが持ってると周りからの視線が痛い」
「柿Pは気にし過ぎだね。わからなくもないけどさ」
園村が「はいっ」と袋を差し出してくる。受け取ってみるが、長い間持つには少々きつい。彼女から「ありがとう」と言われてしまえば、面倒だとは思えなくなってしまったけれど。
端に向かって歩いていると、向かい側からやってくる人のせいで分断されてしまいそうになる。慌てて園村が垣村の袖口を掴むことではぐれずに済んだ。掴まれた時はまたヒヤッとしたものだが、電車の中で腕を掴まれていた時に比べたら優しいものだった。それでも恥ずかしさは拭えないし、彼女もきっと恥ずかしがっていることだろう。これは離れないようにする処置であり、決してやましい意味などはない。そう心の中で決めつけ、前へ前へと進んでいく。
「ねぇ柿P、後で写真撮らない?」
「いいけど……SNSに載せる気?」
「柿Pなうって呟いたらバズりそう」
「顔出しNGなんだからやめてよ。それに、顔が写った写真を載せるのは好きじゃないんだ」
「柿Pってそこら辺しっかりしてるよね」
「ネットを使うのならルールを守る。ネットリテラシーがない人はちょっと危険だよ」
使うものに振り回されたら元も子もない。園村は「しょうがないかー」と言って、適当に携帯をいじり始める。「友達と花火なう」とでも呟いているのだろう。女子高生とはそういうものだ。近頃は男子高校生もやっているのを見かけるが。
男子高校生で、ふと思い出す。この花火大会は他県でやるわけじゃない。当然垣村の高校に通う生徒も足を運ぶ確率はかなり高いのだ。周りに知人がいたらどうしよう。彼女と一緒に歩いているというだけで話のネタにされてしまいかねない。
「園村さんは、自分なんかと一緒に花火大会来て良かったの? 学校の人に見られたりしたら迷惑じゃない?」
「柿Pと一緒にいることの何がダメなの?」
「いやだってほら……」
顔は良くない。髪の毛も整っていない。服は気を使ったが、街中で見かける格好いい服ではない。地味な印象を与えがちだ。そんな人と一緒にいれば、園村の評価も下がってしまうのではないか。そんな心配事が浮かんでくるが、それを聞いた彼女は笑わずに問い返してきた。
「それの何がダメなの?」
「園村さんは、ほら。学校でも人気がある方なはずだし。そんな人と俺が一緒ってのは……」
「あのね、柿P」
彼女は歩くスピードを落とさないまま、一瞬だけ黙りこくる。真正面から彼女を見ているわけではないので、どれほど真剣な顔をしているのかはわからない。でも、垣村の服の袖を掴む手には力が込められていた。
「どうでもいいよ、そんな人」
突き放すような言葉。けれども刺々しさはなく、芯のある言葉だった。垣村が庄司と話している時にも時折感じる、言葉の重さ。しっかりと考えた上で、自分の意思を伝えてくるからこそ感じられるものだ。思わず垣村は息を呑んでしまう。
「私は見た目が悪くて、イジメられてきた。だから私は、人を見た目とかで評価したくない。もし仮に、柿Pと一緒にいることで私の評価を下げる人がいるなら、そんな人どうでもいいよ」
彼女の言葉が垣村の心に突き刺さる。その言葉が嘘偽りでないことがわかってしまう。真剣っぽいからとか、場の雰囲気でとか、そんなものではない。ただただ重たいのだ。その言葉が。
彼女と同じように考える人を知っている。少し前まで垣村にとって唯一の友人だった男、西園だ。彼は自分のしたいようにできないのは嫌だと言っていた。だから垣村の隣にいるのだと。
「……強いね、園村さんは」
「そうでしょ? でも、強くなれるきっかけをくれたのは、柿Pだよ」
笑ってくる彼女に対して、照れくさそうに顔をそむける。垣村は周りの目を気にしてしまう男の子だ。それでいて自分に自信もない。今だってクラスの誰かに見られていないか不安に駆られてしまう。だから目の前の女の子が羨ましくて仕方がなかった。
周りの目を気にしない西園と園村。気にしてしまう垣村。ならば、笹原はどうなのだろうか。今までの行動からしてかなり気にするほうだろう。トップカーストでも園村と笹原には違いがある。庄司に言われたように、関わったからこそわかったことだ。知りもしないで、決めつけで悪だと断じてしまうのは、良くないことなのだろう。ここ数日でそれを学ぶことができた。
「人少なくなってきたね。あの辺とかどうかな?」
端の方までやってこれたらしい。園村の指さす場所は砂浜と道路とを隔てる胸壁。何人か座っているが、間隔を開けて座れるくらいにはスペースがある。それでいいだろうと、二人は並んで座り、買った食べ物を口に入れていく。焼きそばを食べながら、横目で彼女を見てみる。お好み焼きを切り分けて口に運んでいく彼女の顔は、幸せそうに笑っていた。口端についたソースを、舌で舐めとっていく。可愛らしいと思ってしまえば、そんな女の子と一緒にいる事実も相まって体温が上がってしまう。お茶を飲んで落ち着こうとしたが、どうにも効果はない。
「柿P、いつ花火上がるかな?」
「もうそろそろだと思うよ……あっ、ほら」
海の遠くで船が何隻か移動していた。そしてそこから、花火が上がっていく。白のような玉がゆらゆらと動きながら上昇していき、やがて身を震えさせる程の音を出しながら、花火を開花させる。次々と打ち上がる、花火たち。赤、青、緑、黄色。花の火で花火と呼ばれるように、まさしく空は花園のようだった。
「うわぁー、綺麗。このどーんって音いいよね!」
「わかる。煩いだけの音のはずなのに、不思議と嫌だとは思えない。この音は、心地いいよね」
「あははっ、曲でも作ってみる?」
「……なんだか、できそうな気がする」
「本当っ⁉ じゃあ約束ね。ちゃんと作って、聞かせてよ柿P!」
小指を差し出され、垣村もそれに合わせる。彼女が明るい声で「指切りげんまん」と言うが、その声も花火の音でかき消されていく。それでも交わされた小指は確かに約束を結んでいった。
耳を揺らし、心を揺さぶる花火の音。大の大人が太鼓を叩くよりも、気持ちがいい音だ。
夜空に咲いた花園を、二人一緒に見に耽ける。僕と君の鼓動を、音が一律に揃えていく。交わされた約束を果たすために、何度でもこの景色を思い出すんだ。
「……柿P、いいフレーズでも思いついたの? 笑ってるよ」
「ん……悪くはない、かな。照れくさいけど」
少しずつ前に進めている感覚はあった。不安なことはまだまだ沢山ある。もし仮に、あの雨の日に笹原に傘を渡していなかったら。きっとこうはならなかったんじゃないかとすら思えていた。自分が前に進めているのは、人との関わりがあったからだ。きっと、そうだ。人と関わるのは怖いし、苦手。それでも、少しずつ頑張らなきゃいけない。
成長できたといえば、隣にいる園村の功績も大きいのだろう。垣村にとってはもう既に気の許せる友人だ。けれど、二人でこうして花火を見ていると、なんだか特別な関係じゃないのかと錯覚してしまいそうになる。手が重なり合いそうな距離。花火が終わるまで不思議と会話はなく、終わったあと二人で顔を見合わせてはぎこちなく笑いあった。多分考えていたことは二人とも同じなのだろう。
「花火が終わるとさ、夏も終わりなんだなって思えちゃうよね」
「……あぁ、そうだね。夏休みも、あと少し。憂鬱な気分になりそうだよ」
「私も。もっと長く続いたらいいのにね」
帰りの駅は来た時よりも込み合っていて、自然と二人の距離が縮まってしまう。電車の中で座ることもできず、立ちっぱなしになってしまうが……園村は彼の腕を両手で掴んで揺れないようにしていた。昼間よりも接触面積が広い。また二人でイヤホンをつけ、曲を聴きながら帰る。流れてくる最近話題のラブソングのサビが、嫌なくらい垣村の耳に残り続けていた。
【☆】
男三人。女三人。比率的にはちょうどいいけど、祭りとなると六人で歩くのは少々難しい。前から来る人たちを避けようとする度に、横並びの彼女たちは離れそうになってしまう。
笹原は紗綾と彩香から離れないように固まって動く。男子も同じように固まっているが、隙あらば女子の隣に移動しようとする。横並びで歩くときは松本が笹原の隣にきた。
途中で買ったポテトやりんご飴などをそれぞれ食べながら海辺を歩く。砂浜の上にはシートがいくつも敷かれており、男女のカップルが周りの目も気にしないで体を密着させていた。
「そーいや、この前の練習試合で松本がさー」
「バッカお前、それ俺のせいじゃねぇんだって!」
「快晴がなにやらかしたの?」
「こいつゴール前で……」
「あぁあぁ言うなって!」
彩香が話を聞きにいくと、松本は慌てた様子で違うんだと否定する。格好悪い自分を知られたくないらしく、笹原の耳にも確かにその声は届いているが、反応は薄い。視線を動かしてキョロキョロと周りを見回しているその姿は、誰かを探しているのかもと思えてしまう。
「唯ちゃん、誰か探してるの?」
「えっ、いや誰も探してないよ」
「本当にー?」
若干挙動の怪しい笹原を見て紗綾は口元を緩めた。別に誰を探していたわけじゃないのに。それに、こんな場所にいるはずがない。アイツが西園と二人でここに来ることは、多分ないはず。それでも周りの人を見てしまうのは、期待だとかそんなものじゃなくて、そう……ほんのちょっとの、好奇心のようなものだ。見かけたら、あとでメッセージを送る口実にもなる。そんなあるはずのない妄想をしている笹原の顔を、紗綾は覗き込むように下から見上げてきた。
「西園君でも探してるの?」
「違うって。なんで西園のこと探さなきゃいけないの」
「えー、だって気になるんじゃないの?」
「そんなこと一言も言ってないって」
笹原は強く否定する。けれど否定すればするほど、彼女たちは一層はしゃいだ。恥ずかしいから否定していると思われてるのだろう。それに、近くに彼らがいるのにそんなことを話してしまえば、盛んな男子も食いつくに違いない。案の定松本たちが食い気味に話しかけてきた。
「笹原って西園のこと好きなの⁉」
「だから、違うってば」
「恥ずかしがらなくてもいいのに」
「恥ずかしがってないって! 紗綾は変なこと言わないでよ!」
紗綾に向けて怒るが、彼女はどこ吹く風と聞き流す。西園のことなんてまったく興味もないのに。なんでこんなに詰め寄って聞かれなきゃいけないの。
小さくため息をついて、否定を繰り返す。そうこうしているうちに、会場の端の方まで来てしまっていた。花火を見るには少し遠い気がするけど、その代わりに人が少ない。好機と言わんばかりに、笹原は「ここで見よう」と言い出した。他の人も否定する意見はなく、砂浜にシートを敷いて腰を下ろし始める。幸いにも先程の、笹原が西園のことが好きだという話はなくなって、いつも通りのくだらない話に戻っていく。笹原は胸をなでおろし、安堵の息をついた。
話に合わせながら言葉を返し、海を見つめる。暗い水が寄せては引き返され、少し上を向けば月が見えた。満月じゃない、微妙な月。それなりに楽しめているはずなのに、物足りない。
(……なんでかな)
どこか物憂げな表情の笹原と、対照的に笑っているその他。去年の自分なら、きっと笑っていたのかな。そう思って去年を思い返せば、紗綾と彩香の三人で回っていた記憶がある。馬鹿みたいに笑って、写真を撮って、美味しいものを食べて。それと今、何が違うのかな。
「……ごめん、ちょっと手洗いに行ってくる」
気持ちを一旦切り替えたくなり、立ち上がってトイレへと向かおうとする。それにつられるように、松本も立ち上がった。
「ナンパされたりすっかもしれないし、俺もついてくわ」
「うわっ、普通女子についていく?」
「うっせ、心配だろうが」
彩香に茶化されながら照れくさそうに顔を逸らす。ナンパされるとは考えてもいなかったけれど、男避けになってくれるというならありがたい。着いてこられるのに少し抵抗はあるものの、笹原は松本の提案を受け取り、二人で歩き出した。
道すがら話す内容は、先程までとそう変わりない。手を繋いでいるカップルが視界に入る度、今の自分と松本はそう見えているのだろうかと考えてしまう。二人きりで行動するというのも中々なく、時折口数が少なくなって沈黙してしまいそうになる。すると、慌てて彼は適当に話を切り出した。沈黙が気まずいのだろう。笹原も、隣を無言で歩かれるというのは少しだけ忌避感があった。無言ってこんなに辛いものだったっけ、と頭を悩ませる。
「じゃあ俺、外で待ってっから」
トイレの前まで来ると、松本は少し離れた場所に移動した。中に入ると公衆トイレのせいか、独特な匂いがした。薄汚れた鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。無愛想な顔つきだった。
小さくため息をつくと、蛇口から一粒水が落ちた。連想して、雨の景色が浮かんでくる。雨が降った時にも思い出してしまう、その光景。落ちていく雨を見ながら微笑む彼と、目線も合わせようとせず傘を渡そうとしてくる彼の姿。思い出したら、またいじりたくなってきた。次に会った時にでも、その時の光景について話してみよう。そしたら、どんな反応をするのかな。
そんなことを考えていたら、鏡に映る口元は緩んでいた。笹原はまた小さく息を吐くと、トイレから出ていく。松本はすぐに笹原を見つけ、探すよりも早く彼の方が近づいてきた。
「待たせてごめんね」
「別にいいよ。んじゃ、戻っか」
彼は笑いながらそう答え、二人して皆の元へと歩いていく。人混みを抜け、また端の方へと近づいてきた。人が少なくなってきて、もう少し歩けば皆のいる砂場につく。
「なぁ笹原」
「なに?」
「いや、そのさ……さっき西園のことが好きだとか話してたじゃん」
「私は一言も好きとか言ってないし。紗綾が勝手にありもしないこと言ってただけだよ」
あの話題から抜けられたと思ったのに、また掘り返されてしまった。強く否定すると、松本は「そっかー」と間の抜けた声を出した。どこか安心したような、そんな声のように思えて、笹原は怪訝そうに眉をひそめる。
「あのさ、笹原……」
松本が足を止める。あと少し歩けば、皆の場所だというのに。先程からの見え透いた態度、そわそわと落ち着きのない行動。自惚れているわけじゃないが、笹原は自分の容姿がそれなりにいい方だとは思っている。わかってしまうのだ。目の前の男が、何をしようとしているのか。
それがわかっていて、随分と冷めた気分でいる自分に気づいた。けれど彼は気づかない。笹原に向き直り、恥ずかしそうに笑ってから一呼吸置く。そして目を見ながら言葉を吐いた。
「好きです。俺と、付き合ってください」
しっかりと目をそらさずに伝えてくるあたり真剣なのだろうとは笹原もわかっている。けれど、あまりにも心が揺れなかった。自分でも不思議に思うくらい、冷めている。目の前の彼は絵に描いたようなモテ男だろう。それなりに人気があり、サッカー部の部長を務め、女子からは良いなぁという声も聞こえてくる。紗綾だって気があるのではないかと思わせる行動を見せた。それくらい、女子にとってはこの告白自体が貴重なもののはず。
付き合うのなら格好いい人の方がいい。そう思っていたはずなのに。こんなにも、嬉しいとも幸せだとも思えないなんて、私はどうかしている。
松本の真剣さと笹原の気持ちは噛み合わない。自然と笹原は目を逸らしてしまう。
(……あれ、は)
逃げた先に見えたもの。胸壁に座っている二人の後ろ姿。知らない女の子と、見た事のある男の子。くせっ毛で、背もそんなに高くない。猫背で、髪の毛はちょっと長め。そんな後ろ姿が、記憶の中にある彼と重なる。
(垣村、なの?)
手を動かして、何かを食べているようだ。一瞬だけ、彼の顔が女の子の方にほんの少し向けられる。見えた横顔は、間違いなく垣村だ。隣の女の子の顔は見えない。けれど、その後ろ姿は落ち着きがあるように見えて、多分自分とは正反対な子なんだろうと笹原は思った。
(……なんで)
時間がゆっくりと流れている気がしていた。胸あたりがきゅぅっと苦しくなる。締めつけられているような、棘を刺されているような。今自分は何の感情を抱いているのだろうか。垣村の隣に女の子がいることに対する嫌悪感。女子の中では自分だけが垣村という男の子のことを知っていたはずなのにという、独占欲のようなもの。一番近いのは、それなのかもしれない。
普段は地味な服のくせに、今日だけは彼なりに頑張ったんだろうと思える、少し明るめの服。本当は、彼は優しい男の子だということを知ってる。傘を貸してくれたり、自分よりも強そうな男の子に立ち向かったり、約束の時間を大幅に過ぎていても待っていてくれたり。その優しさが自分にだけ向けられていたのだと、きっと心の中で思っていた。
「笹原……?」
「っ……」
松本が心配そうな声で名前を呼ぶ。中々答えずに、しまいには目を背けたのだ。ダメなのかと思ってしまうものだろう。
どう答えるべきか。松本と一緒にいるのはそれなりに楽しいはず。見てくれもいい。気遣いはそれなりにできるはずだ。率先して、何かしようと提案してくれるだろう。学年の付き合ってみたいランキングを作れば、きっと上位にいるはずだ。そんな男の子に告白されて……どうして、答えられないのか。
格好いい人と付き合いたい。ずっとそう思っていた。その条件を、彼は満たしている。付き合ったとしたら、きっとそれなりに楽しい時間を過ごせるはずだ。手を繋ごうと提案されることだろう。家の前まで送っていってくれることだろう。遅くまでデートして、良い雰囲気に持っていかれ、なし崩し的にいろいろなことをしてしまうのだろう。楽しいはず。幸せな時間を過ごせるはず。そんな予想ができる。
けれども、きっとあの時間だけは手に入らない。無言のあの空間が。手を伸ばせば届く距離なのに、ただ一緒にいるだけで何もしない、あの瞬間が。それでもいい、この時間を長く過ごしていたいと思えてしまったあの状況を、きっと彼とは手に入れることはできない。
(……ここで振ったら、いつものメンバーも気まずくなる。付き合ったら、あの時間はなくなってしまう。単純に考えたら、メリットよりもデメリットが目立つのに。なのに、私は……)
この心の痛みを、無視することができなかった。
「ごめん……付き合えないよ」
また目を逸らす。視界の隅で、彼はまるで振られるとは思っていなかったという顔つきになっている。口がほんの少し開いたまま、笹原を見ていた。唖然と、呆然と。その抜け殻のような状態が動き出したのは、まるで分単位の時間が過ぎたのではないかと思えてしまう程後のことだった。彼の口から漏れ出たのは、いつもの軽快な声ではなく、覇気のない低音だ。
「……なぁ、俺の何が悪いの?」
「悪い、とかじゃなくて……」
「悪くないなら、なんで……っ」
松本が一気に詰め寄ってくる。両手で肩を掴まれ、笹原は目を見開いて彼の顔を見た。今にも泣いてしまいそうな表情だというのに、どこか怒りの感情が垣間見える。
怖い。それだけが笹原の心を染め上げた。肩を掴む手には力が込められていて、痛い。こんなに近くに詰め寄られたのは、二度目だ。一度目は、打ち上げの帰り。あの日、笹原は垣村に助けられた。その光景が思い返される。
(垣村っ……)
心の中で叫んでも、届くはずもない。彼は助けに来ない。仮にここで叫んだら、来てくれるだろうか。いいや、来てくれる。けれども……声すらあげられなかった。あの日の恐怖まで蘇り、体は言うことを聞かない。瞳が揺れ、潤う。目尻に涙がたまり、一筋右頬を垂れていった。
「あっ……」
涙が流れて、ようやく松本が我に返る。自分が何をしたのか。それを理解した途端手を離して一歩後ずさった。驚愕と後悔で歪んだ顔のまま、頭を下げる。
「ご、ごめんっ。そんなつもりじゃ……」
「もう、いいから……一人にして……」
「っ、いや……ごめん、笹原……」
松本はその場から遠ざかっていく。数回振り向いたが、そのまま皆の元へと向かっていった。濡れた頬を手の甲で拭い、その場から移動する。胸壁に座ったままの二人の後ろ側。道路を挟んだ向かい側の縁石に座り込んだ。周りが騒がしくて、この距離では彼らの会話は聞こえない。
いつか垣村に、なんでいつもイヤホンをつけているのかと尋ねたら、『聞きたくもない音を聞かないために、かな』という言葉が返ってきたのを思い出した。周りの喧騒が煩わしくて、聞きたい声が聞こえない。彼の場合は聞きたいものは音楽で、今の自分は……彼の声だ。
(……花火だ)
身を震わせるような振動と音。そして光。綺麗なはずの花火。いや、汚く見えているわけじゃない。ただ、その花火と二人の座っている場所の角度が、偶然いい感じに並んでしまっていて。まるで祝福するかのように花が咲いていた。
(なんで、こんなに苦しいの……)
垣村に恋をしていたのか。垣村を好きになってしまっていたのか。それともまだ別の理由があるのか。好きでもないのに、彼を取られたくなかったのか。
心の中はぐちゃぐちゃで、整理がつかない。この気持ちを何と呼べばいいのか、笹原にはわからず、知らぬ間に歯を食いしばっていた。立ち上がって、前へと歩いていく。道路を超え、歩道に立つ。目の前で二人とも空を見上げていた。すぐ後ろにいる笹原に気づく様子もない。
(何やってるの、私)
伸びそうになる手を我慢し、その場を離れる。少し歩けば、砂浜に座っている皆が見えた。松本は男女の間ではなく、端で居心地が悪そうに座っている。紗綾の隣に向かって歩いていくと、途中で気がついて笑いかけてきた。
「遅かったね。トイレ混んでたんだって?」
「あ、うん……人多くてさ」
笹原は無理やり笑う。松本がそう言ったのだろう。なら、無理に真実を伝える必要もない。きっともう、そんなに軽々しく近寄っては来れないだろう。
(……音、すごいなぁ)
花火が開花した時の音は、笹原を包み込んで全ての音を遮断してくれている気がした。
(……イヤホンをつける理由、私にもわかったかもしれない)
誰だって、一人の世界にこもりたくなるんだ。ただ、ぼーっと花火を眺めていると、上がる度に沸き起こる歓声も聞こえなくなる。どーんっという音だけの世界。何も考えず、音だけを聞く世界。彼の考えが、今更わかってしまった。
【♪】
夏休みの終わり頃になると、時間の流れがとても早く感じるものだった。気がつけば夏休みは終わり、また学校生活が始まる。夏休みが過ぎても暑苦しいのは変わりない。垣村も教室の隅でイヤホンをつけてうつ伏せになるという、以前と全く変わらない姿を生徒に見せた。心の在り方が多少変わっても、行動がそんなに早く変わるなんてことはない。
腕から目だけを上げるようにして周囲を見回す。話している生徒、課題を見せあっている生徒、携帯をいじりながら話している生徒。そして、女子生徒に囲まれて話をしている笹原。距離的にどんなことを話しているのかはわからないが、少なくとも楽しそうにはしている。
(……あっ)
久しぶりの目が合いそうになる感覚。逃げるように顔を動かし、腕に顔をうずめる。多分向こうも何か気づいたんじゃないのかと思う。寝るふりをして見ていたなんて気づかれたら、いろいろと変に思われそうだ。いや、変というかキモい。
窓の外から差し込む日射も相まって、垣村の体力をジリジリと奪っていく。更には笹原を見ていたことに対する羞恥心。背中にじんわりと汗が滲んでいくのがわかった。下敷きで仰ごうかと思い始めた頃、右耳から音楽が消えていく。代わりに聞こえてきたのは西園の声だった。
「志音ー、頼むから起きて英語の課題見せてくれー」
「起きてるよ……てか、それくらい前日にでも言ってくれれば見せたのに」
肩を揺らしてくる西園に対し、これ幸いと思いながら体を起こす。相変わらず、課題が終わってないのに焦った表情ひとつない。そんな彼に呆れたように笑いながら、英語の課題として渡された本を貸した。やることは本文を訳して問題に答えるというものだ。何故やらなかったのか、なんて問わなくてもわかる。西園が面倒くさがっただけだ。
最近は庄司を見る機会も多く、二人の表情の差や仕草なんてものも似てるんだなと思えてきた。西園はそれほどまでに庄司のように生きたいらしい。そのことを以前庄司に話してみたのだが、その時の彼の返答はこうだ。
『多分ねー、しょー君は怖いんだと思うよ。元々そんなに元気いっぱいって子でもなかったし。オジさんの真似をすれば、少なくともなんとか生きていけるって思ったんじゃないかなー。自分の生き方で生きていくって、なんとなーく怖いじゃん? 先駆者がいるのって心強いしね』
西園の元の性格というものを知らなかったので、それを聞いた時には垣村も驚いた。皆、それなりに努力しているのだ。未来に向けて、少しずつ。
「なぁ志音、知ってる?」
「主格が抜けてる」
「えっ嘘……って違う違う。笹原さんのことだよ」
本を見ながらどこを間違えたのかと一瞬だけ西園は探していた。それが面白くてつい笑ってしまったが、その後にでてきた笹原という言葉に、思わず表情が固まってしまう。
「松本に告られたんだってさ」
「……へぇー」
笹原が告白された。その事実に、どうしてか胸が苦しく感じる。あの二人ならお似合いのカップルだろう。自分なんかとは違って、彼はとても格好いいし人気もある。そうなると、教室であの二人のイチャつきを見ることになるのか。少しげんなりとしつつ、教室の前の方を見る。笹原は女子生徒たちと。松本は男子生徒たちと話していて、お互いの距離は教室の端と端だ。
「……付き合ってる割には随分と距離があるね」
「いや、振られたんだってさー」
「松本が?」
「そうそー、意外だよなー。言っちゃ悪いけどさー、笹原さんって面食いそうじゃん?」
「……確かにね」
尻すぼみになる彼の言葉に、肯定の意を返した。彼女は結構そういったことを気にするはずだ。だというのに松本を振ったというのは気になる。いつも一緒にいる友人を振るというのは多少リスクもある。だが、好きでもないのに付き合うというのもバカバカしい話ではあるが。
「他に好きな人でもいるのかな」
「雨の日に傘を渡されちゃった人とかー?」
「西園、課題返して」
「終わったらねー」
相変わらずニヤニヤへらへらと、軽い男だ。時間になるまで垣村は話し相手になり、西園は課題をそれなりのスピードで書き写していく。時折突き刺さるような視線を感じて、視線を前の方へと向ける。おそらく笹原のものだろう。イケメンを振った女の子に視線を向けられる垣村。字面だけなら、それなりに期待の高まるものだ。例えそれがありえないものであったとしても、夢を見るくらいはいいだろう。少しだけ優越感を感じていたのは事実であった。
学校初日で早帰りなのにも関わらず、垣村には塾がある。上りのホームにある階段下の椅子。いつもの定位置。ここに来るのも久しぶりに感じていた。反対側のホームや、周りにいる生徒は少ない。初日から部活があるのだから、やっている人は大変そうだ。だが本人にとっては楽しいのだろう。垣村が創作に打ち込むのと同様に、仲間と運動することに時間を割く。それなりに運動ができたのなら、自分にもそういった未来があったのかもしれない。
今のままではありもしないことを考えつつ、イヤホンから流れてくる音楽を変える。少しでも昔の自分から成長したい。ならば、過去の自分というものをよく知らなくてはいけない。鳴り響くのは機械音声。垣村が有名になった『陰日向』だ。世の中を皮肉るような歌詞。聴いているだけで恥ずかしくなる。昔の自分は、こんな世界を見ていたのだと感慨深くなった。考え方は変わらない。けれど、見えてる世界は少しだけ変わっている気がする。少しは人間として成長できた、ということなのだろう。
曲も中程まで差し掛かる。そんな時に、どこか懐かしい感覚に見舞われた。左耳に感じる開放感。そして聞こえてくる彼女の声。
「お、おはよう……垣村」
「おはよう、笹原さん。珍しいね、どもるなんて」
「うるさい。垣村のがうつったんだよ」
イヤホンを手に持ちながら、彼女は隣の椅子に座る。横目で見える彼女の表情は、不機嫌とかではなく気まずそうな様子だった。何かあったのだろうかと考えながら、垣村はイヤホンを外して音楽を止める。気になる話題というのもあり自分から話してみようと思った。無粋なことかもしれないが、それなりに気になることだ。垣村も思春期の男の子なのだから。
「笹原さん、松本のこと振ったんだって? なんか、広まってるらしいけど」
「えっ、あっいや……そうなんだけどさ。なんで広まってんのかな……多分松本が誰かに話して、そこから広まったんだろうけど」
「モテる男女は大変そうだね。話題になりやすいし」
それに比べ、自分は女子生徒から名前が挙がることすらない。挙がったとしたらそれはきっと、陰口だろう。腿の上に肘を置いて楽な姿勢をとる。随分とこの空間も気楽になった。最初の頃は何をするにも怯えていたというのに。今となっては少し懐かしい感じもする。
「……垣村はさ、花火大会行った?」
斜め後ろから聞こえてくる声。その言葉にどう返していいものなのか、垣村は悩んだ。園村と一緒に行ったことを言うべきか。話してしまった女子の間で話題になり、彼女の学校にまで広まるのではないか。なんとか言葉を濁した方がいいだろうと思って「花火大会?」と返す。
「偶然、なんだけどさ……。端っこの方で垣村に似てる人見かけたから」
「えっ?」
「女の子といなかった?」
「あっと……その……」
否定する言葉が出てこない。曖昧な言葉を返してしまったが最後、彼女は確信を持ってしまっただろう。社交スキルをお金で買えるのなら買いたい、と垣村は心の底から思っていた。
「垣村って、彼女いるの?」
「違うよ。ただ、まぁ……うん、友達だよ。彼女とか、そういった関係じゃない」
「……なんだ」
興味を失ったのか、低く小さめな声が聞こえてくる。仮に彼女だと答えたら追求する気満々だったことだろう。けれども、垣村にとって園村は友人だ。事実を捻じ曲げてはいけない。
「仲良さそうに見えたけど、そうじゃないんだ」
「仲は、まぁ……良い方なんじゃないかな、多分。出会い方が特殊だったっていうか……」
「傘を無理やり渡して、雨の中走り去っていくより?」
「……同じくらい」
日に二回も同じような事を言われてしまうとは。流石に恥ずかしくて垣村は両手で顔を覆い隠す。「はぁー」っと深いため息をつくと、笹原に「何恥ずかしがってんの」と笑われてしまった。顔が赤く染っていないか不安は残っていたが、体を起こして椅子に背中を預ける。
視界の隅に映るのは、未だにイヤホンを手に持ったままこちらを見ている笹原だった。
「ねぇ垣村、さっきまで聞いてた曲とか流してよ」
「えっ……」
「なんで嫌そうに顔歪めるの。まさか、音楽じゃなくて変なサイトでも見てた?」
「いや違っ……そんなの見てないって」
「ならいいじゃん。垣村が普段どんなの聴いてるのか気になるし。人受け良さそうなのに変えるとかナシだからね」
頬を指で突き刺すのではないかと思えるくらい、彼女は人差し指を向けてくる。聞いていたのは自分の作った曲。しかも歌わせているのはボーカロイドだ。幻滅されるなんてものじゃない。なんとか曲を変えようと思っても、笹原はじっと垣村の顔と携帯を見比べている。
「……笹原さん。そのイヤホンで聴く気なの?」
「別に気にしないけど」
「しかも、持ってるの左耳のやつ……」
「いいから、早く。なんなら私が開くよ。パスワード教えて」
「わかった。わかったから……」
彼女の手が垣村の携帯に伸びてきて、握っている手と重なる。流石に焦って、垣村は了承してしまった。彼女はなんの躊躇いもなく垣村のイヤホンを左耳につける。
「ほら、垣村もつけて」
「いや、聴くだけなら笹原さんが両方つければ……」
「は、や、く、つ、け、ろ」
言われて仕方なく垣村も右耳につける。コードの長さの関係上、笹原は垣村の顔のすぐ近くにまで頭を寄せなくてはならない。彼女の右耳と自分の左耳がくっついてしまうのではないか。いや、既に髪の毛が当たっている気がする。垣村の心拍数が跳ね上がって、携帯を持つ手が震えているような気がした。彼女の呼吸音すら聞こえてくる距離だ。
もうヤケクソになり、垣村は再生ボタンを押す。陰日向が流れ出してしまった。人の声ではないが、それなりに人が歌っているように調教してある。それでも恥ずかしくて仕方がない。
「……やっぱり垣村ってこういうの聴くんだね」
「……人の勝手でしょ。何聴いたってさ」
「そうだね。でもまぁ……悪くないんじゃない?」
心臓が跳ね上がる。笹原は知らない。隣にいる男がこの曲を作ったのだと。本人が本当にそう思っているのか、わからないが……例えそれが世辞であったとしても、嬉しくて仕方がなかった。彼女との距離の近さもあって、顔に熱が集まってしまう。こんな距離じゃ、この熱すらも伝わってしまうんじゃないか。
(恥ずかしくて死ねる……なんだこの公開処刑はッ……!)
時間が長い。こんなに長い曲を作った記憶はない。さっさと終わってくれと願い続けて、ようやく曲が終わる。そしてすぐ後、アナウンスで電車が来ることを告げてきた。もう次の電車に乗ってしまおう。そう決意して、垣村はイヤホンを外す。
「笹原さん、次の電車乗るからイヤホン返して」
「あともう一曲いけるんじゃない?」
「無理」
主に俺が。そう心の中で答えて、顔を背ける。差し出した手に彼女がイヤホンを乗せてきて、そのまま立ち上がると垣村よりも前に歩み出る。すると彼女は口元を抑えて笑い始めた。
「あははっ、顔真っ赤だし。初めて見たかも」
「暑っついんだよ」
「本当にー?」
体を前倒しにして手のひらで顔を覆う。上から聞こえてくる彼女の声は楽しそうだった。なんだろうか、この羞恥プレイは。学校始まって早々こんな感じで、大丈夫なのか。
心配になってくる垣村を助けるかのように、電車の音が聞こえてくる。次第に大きくなる音、そして目の前で止まって扉が開く。二人で乗り込んで、前と同じように端に垣村が座ると、笹原もすぐ隣に腰を下ろした。幸いにも同じ車両に人は少ない。知り合いの姿もなさそうだった。
「ねぇ垣村。今日は塾早いの?」
「いや、いつも通りだけど」
「ならちょっと遊んでいこうよ。カラオケとかどう?」
「正気? 暑さで頭やられてない?」
「馬鹿にするな。垣村の降りる駅にカラオケあるんだから、行くよ」
マジかよ、と心の中で呟く。彼女は考えを改める気はないらしい。カラオケなら、園村と何度か行ったことがある。お互い歌う曲はアニソンやボカロといった類であったし、女子という認識はそこまで強くはなかった。しかし笹原は違う。短めのスカート、半袖のシャツ。明るめの髪色に、左耳を出すようにかきあげられた髪型。女子であることを強く意識してしまう。
(……歌う曲、選んだ方がいいよなぁ)
頭の中で歌える曲をリストアップしていく。タイムリミットはすぐそこだった。
カラオケから出て、街中をぶらつく。思っていたよりも普通に楽しめたことが驚きだった。笹原は気分の上がるような軽快な曲を好み、垣村はゆったりとした曲を選ぶ。流石にラブソングはやめた方がいいかと思っていたが、笹原が遠慮なく歌い始めたので垣村も歌ってしまった。そのうち「さっき聴いた曲歌ってよ」と言われてしまい、自分の作った曲を自分で歌うというあまりにも惨い仕打ちを受けた。その他にもボカロ曲を強請られ、最終的には気にせずに歌ってしまう。笹原は終始笑顔のままカラオケを楽しんでいるようだった。
ただ、垣村が気になったのは……トイレに行く途中で、見たことがある後ろ姿を何度か見かけたこと。早帰りの学生が考えることは似通うらしい。
「垣村高い音苦手すぎじゃない?」
「そもそも歌うのそこまで得意じゃないんだって」
「無理やり歌おうとして掠れたの、流石に笑っちゃったよ」
塾の方面に向かいながら、笹原は先程までの垣村の様子を話し始める。歌うのが得意じゃないからボーカロイドで歌わせているというのに。垣村は静かにため息をついて、携帯で時間を確認する。塾の時間までまだしばらくあった。それに、少しお腹がすいてきている。コンビニで何か買おうかとも思ったところで、庄司に言われたことを思い出した。
「笹原さん、お腹すいてる?」
「少しはって感じ」
「なら、よく行く店があるんだ。そこの唐揚げが美味しいから、買いに行こう」
「いいよ。垣村の奢りなら」
嫌そうな顔をする垣村に、「冗談だよ」と笑いながら背中を軽く叩いてくる。道を逸れてしばらく歩くと、庄司とよく来る居酒屋に辿り着いた。昼間は唐揚げなどを、入口の隣にある窓で買うことができるようになっていた。中ではいつも居酒屋を営んでいる四十代くらいの女性が働いている。近づいてきた垣村に気がついたようで、女性は近寄って話しかけてきた。
「あら、随分と今日は早いね。いつも一緒の人じゃないんだ」
「またいつか夜に来ますよ。あと、唐揚げ二人分ください」
「はいよ。彼女ちゃんの分、ちょっと安くしちゃおうか」
「いや、彼女じゃ……」
否定しようにも、女性は笑って「いいのいいの」と唐揚げをパックに詰める作業を始めてしまう。詰め終わったパックを二つもらい、垣村がお金を渡す。払おうとしていた笹原は面食らった様子で垣村を見てきた。それを無視しつつ、少し離れた場所にある広場のベンチで座って食べることにした。広場には誰もおらず、子供すら遊んでいない。
「お金払うって言ったのに」
「あの方が早かったし、安くしてもらえたからいいよ」
「それに、なんで居酒屋の人と顔見知りなの。まさか酒飲んでる?」
「飲んでないって。よく知り合いの大人に連れていかれるだけだよ」
「ふーん……あっ、この唐揚げ凄い美味しい」
「でしょ?」
自分が作ったわけじゃないのに、垣村はどこか誇らしそうにそう答える。タレ、肉、硬さ。どれをとっても素晴らしい以外の言葉がない。美味しさのあまり、二人とも口元が緩んでいた。
「やっぱり、垣村と一緒にいると意外なことばっかりだよ」
「そうかな?」
「居酒屋なんて普通来ないし。男が誘うところなんて、レストランとかファミレスでしょ」
「確かに、そうかもね」
唐揚げを齧る彼女の姿を、視界の隅に捉える。齧りつく時の唇の動きだとか、周りについたタレを舐めとる舌の動きだとか。打ち上げの時にも、彼女の食べる仕草を見て、やたら扇情的だと。ド直球に言い換えればエロいと感じていた。思春期には中々来るものがある。今日何度目かわからない心臓の暴走に辟易しつつも、彼女の食べる姿を盗み見ることをやめられない。
「……垣村」
「っ、なに?」
「変態」
「な、何がっ⁉」
見ていないですと答えるのを我慢して、何もしていないんですけどと言い返す。笹原は狼狽える垣村を笑いながら、口の中に半分ほど食べた唐揚げを放り込む。そして垣村から見えないように、口元を隠してしまった。なんとかこの空気から脱したく、垣村は彼女に話しかける。
「そういえば、笹原さんってなんで松本のこと振ったの?」
「普通そういうの聞く?」
「い、いやその……気になって」
流れを変えたかったとは言えない。気まずそうに顔を逸らす垣村を見て、また笹原は笑う。「仕方ないなぁ」と彼女は座る位置を少し詰めてきて、垣村の耳元で囁くように告げる。
「実は、気になる人いるんだよね」
「……そうなんだ。松本を振るってことは、よっぽどイケメンなのか、優しいのか」
「さぁー、どうなのかな。イケメンかもしれないし、優しいかもしれないし」
耳元にかかる息がくすぐったい。笹原が離れてから垣村が彼女を見ると……悪戯が成功した子供のように、無邪気そうな顔で笑っている。
(……これで自分に気があるんじゃないかと思ったら、負けなんだよなぁ)
トップカーストはそれなりに人との距離を詰めたがる。椅子しかり、電車しかり。だからこの行動もきっと、彼女にとってはなんの意味もない普通のことなんだろう。自分に言い聞かせるように、数回心の中で呟く。驕るな、と。
彼女がどういう人間なのか、それなりに知っているはずだ。自分に可能性がないことくらいわかるものだろう。ただの友人、園村と同じようなものだ。そんな彼女と、沈黙が苦にならず、時折話す内容が実のないことであっても、塾の時間ギリギリまで話してしまったのは……それなりに関わって、互いを知ることができたという証なのだろう。