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日陰者が日向になるのは難しい 1

 いつか、自分たちは大人にならなければならない。いくら嫌だと言っても、時間の流れは止まってくれない。ならば、自分はどんな大人に……いや、どんな未来を歩むというのだろう。

 今まで見てきた大人の中で、こうなりたいと思う人はいなかった。むしろ、その逆だ。中学時代、どんな先生だろうと影で皆に笑われていた。そんな先生を見ていると、とてもつまらなそうな人生を送っているように見えてしまう。

 こんな大人になりたくない。けれど、こうなってしまう気がして仕方がなかった。



 前の席の人から配られてきたプリントを見て、彼は顔を歪めた。プリントには進路希望調査と書かれている。彼が一年生の頃から教師に口酸っぱく言われていたことだが、いざこうして目の前にこられると、どう書いたものかわからない。

 彼のいる高校は坂上(さかがみ)高校という県立の学校。千葉県にある高校の、中程度の偏差値を誇る進学校だ。何人かは難関大学に受かるが、それ以外はそれなりの大学か公務員になるような、そんな学校。その中で、彼──垣村(かきむら) 志音(しおん)はそれなりに上位の成績を収めていた。

 それでも難関大学に受かるかと言われれば、今のままでは受からないだろう。それに、まだ高校二年だ。時間に余裕はあるけれど、垣村は内心焦って仕方がなかった。

 教師の話が終わり、クラスのルーム長が「起立」と言う。そして礼が終わった途端、教室の中は一気に騒がしくなった。皆それぞれ友人のもとへ行き、どうするのかを尋ねるのだろう。

 正直、周りの雑音が聴くに耐えない。カバンの中から黒色の耳掛け式イヤホンを取り出したところで、一人の男子生徒が近寄ってきた。学校で話しかけてくる奴なんて一人しかいない。

 顔を上げてみれば、そこには柔らかい雰囲気で笑みを浮かべている彼がいた。垣村にとって唯一友人と呼べる西園(にしぞの) (しょう)()である。西園もさっき配られた進路希望調査の紙を持ちながら、その見た目からも想像できるくらいふわふわとした言葉で話しかけてきた。

「志音ー、どうするよこれー」

「どうするも何も、自分の将来のことだろ」

「いや、でもさー。正直書くのに困るっていうかさー」

 西園は「どうしよっかなー」なんて言いながら、空いている隣の席に座って携帯をいじり始めた。聞きに来たんじゃなかったのか。呆れつつも、西園がそういう男なのだとわかっていた。

 彼は雰囲気が朗らかなだけで、そこまで他人と話せるような性質(タチ)ではない。口数が少ないのだ。だからこうして、二人はよく一緒にいることが多い。互いに沈黙が苦にならないからだ。

隣に座る西園を後目に、垣村は手元にあるプリントを見て、どうしたものかとため息をついた。周りを見回してみれば、普段からふざけている男子生徒や、くだらない話をしている女子生徒なんかも笑いながら「ねぇねぇ、どうしよー」なんて話している。人生に悩みなんてなさそうな連中だというのに、と垣村は心の中で毒づいた。

「……あんな奴らに限って、なんか人生上手くいきそうな気がするよ」

「そうだねぇ。顔も良ければ人生も良し。むしろ顔が人生を物語っているに違いない」

 小声で呟いた言葉に西園は答えてくれた。学校には誰が作り始めたのか、スクールカーストなんてものがある。垣村はカースト下位に位置する陰キャと呼ばれる生徒だ。癖のある髪の毛なうえに、休み時間はどこに行くにも両耳にイヤホンをつけていて、他人と会話をすることが少ないのだからカースト下位にいるのも必然だろう。

 そんな垣村と一緒にいるせいで、西園もカースト下位にいるのだが、本人は全く気にしていない。彼は本来もっと上位カーストにいるような生徒なのだ。運動部に所属していたが、「なんか面倒だから辞める」という事態になっていなければ、男の友人も多かったことだろう。

 生まれ持った性格なのか、面倒事を嫌うし、「なんかもうどうでもいいやー」なんてよく口にする。話し方もふわふわで、何を考えてるのかわかりづらい。そのせいで会話の内容がそのまま消えてしまうこともあった。そんな彼も、やはり自分の将来の事となると悩むらしい。

「なぁなぁ、志音は進路どうすんの? 進学?」

「どうだろうね……」

「やっぱ悩みますよなー。なんつうか、高校生の悩みっぽいよなー」

「俺たちは高校生だろうに」

「ばっかお前。高校生つったら、彼女とイチャイチャしてー、電車乗って遠くまで遊びに行ってー、海とか男女混合で行ったりするのが高校生ってもんだろ」

 西園は右手をぐっと握りしめて、高校生らしさというものを語り始めた。彼のいう通りであったのなら、垣村たちはどう考えても高校生ではない。けど、高校でも大学でも、きっと自分は何も変わらないのだろうと垣村は確信していた。陰キャに華々しい生活なんて想像できない。

 なんというか、灰色だ。人生に色がない。そんな道を歩んでしまったら、自分の将来の色を決めるのに苦労する。事実しているのだから。

 けれど、つまらない将来を歩みたくはない。垣村は、それだけはずっと思い続けていた。周りからは「教師になってみたいなー」なんて話す女子の声が聞こえてくる。本当にそう思っているのかと問いただしたくなってきた。普段は先生のことを嘲笑ってるくせして、自分がそうなりたいとどうして思えるのか、垣村には不思議で仕方がなかった。

 つまらない公務員になんてなりたくない。けれど大学に行ったところでどうするんだろう。その先は。必死に考えても、垣村の頭には何も思い浮かばなかった。

「おや、雨が降ってきそうだねぇ」

 西園が教室の窓から空を見上げていた。曇天な空模様。おかげで夏でも少し涼しく思える。携帯の天気予報は雨だと告げていた。垣村は折り畳みの傘がカバンに入っているから問題ない。

 けれど電車通学の垣村とは違い、西園は自転車通学だった。「雨降ってくる前に、お先ー」なんて言って教室から出て行ってしまう。

買いたい物があったんだけど……どうしようか。悩みながら、ふと外の景色を見た。窓の外で好き勝手に流れていく灰色の雲を見て、不条理な感情が満たされていくのを感じる。

 灰色なお前は空を風に吹かれるまま飛んでいるのに、自分は世間の風に吹かれるのは許されない。晒されないように日陰にいるのに、お前は日向を独り占めするのか。なんとも羨ましい。

両耳にイヤホンをつけて、垣村もまた教室から一人で出ていった。



 学校のすぐ近くにある黄色い看板が目印のスーパー。帰り道にあるからと立ち寄って、垣村は黒のボールペンとスケッチブックを購入した。放課後なせいか、やけに生徒が多い。雨が降ったせいで外の部活も休みになったのだろう。別に一人で回ることに恥も何も感じないが、集団で行動している連中を見ると、一人でいるのがやけに惨めに思えた。本当に嫌になる。

なるべく視界に入れないよう適当に物を見て回っていると、大きな音が聞こえてきた。イヤホンを外してみると、外から雷鳴が響いているようだ。雨は雨でも雷雨になったらしい。

 周りからは「きゃっ」なんて女の子の悲鳴が聞こえてくる。馬鹿馬鹿しい、と垣村は息を吐く。かわいい女の子アピールか何かか。自分のかわいさの為に普段から気を張っていなきゃいけないというのが女子なら、たいそう疲れる事だろう。皮肉げに歪んだ口元を抑えて戻しながら、垣村は店の中を歩き回る。陰キャは誰に見栄を張るわけでもないから楽でいい。カースト上位の連中にだけ気を張っていればいいのだ。なんてことを考えていたら……

(……いるなぁ、アイツら)

 棚の向こう側に男女数人のグループがいた。クラスのトップカーストとも言える人物たち。サッカー部のイケメンとその友人の男二人に加えて、彼らと普段一緒にいる女子生徒が二人。

 男子の方はワイシャツをズボンから出して、第二ボタンまで開けて着崩している。女子の方はというと、短いスカートに、胸元に隠すようつけられたネックレス。髪で隠している耳にはピアスがついているらしい。校則違反しまくりだ。

 別に自分のことじゃないし、短いスカートを好んで履くというのなら、それはそれでいい。横目で見るだけでも目の保養になる。問題は、そういう連中に限って後ろ指さして嘲ってくることだ。ただヒソヒソと話しているだけでも、まるで自分のことを貶すような内容を話しているんじゃないかと不安になる。だから垣村はトップカースト集団が苦手だった。

「この雨の中、(ゆい)ちゃん一人で平気かなー。雷まで鳴ってるよ?」

笹原(ささはら)なら平気そうじゃん? 気が強そうだし」

 女の子が「わかるー」なんて他人事のように話している。普段は六人グループだけど、今日は五人しかいない。別にどうでもいいことだが、見つかって何か小言をボヤかれるのも面倒だ。早めに退散しよう。イヤホンをつけ直して、その場から視界に入らないように離れていった。



 スーパーの南にある出入口から出れば、駅は目と鼻の先にある。垣村が出入口にまでやってくると、イヤホンをしていてもわかるくらいの雨音が響いていた。スーパーに来る前までは降っていなかったが、たったの十数分で一気に雨が降ってきたらしい。地面を叩きつける雨が止まることなく音を奏でている。

(……雨音の中に交じる、車の音。水たまりを歩く足音。教室の喧騒に比べたら、こっちの方がいい音色だ)

 庇と雨の降る道の境界線で立ち竦む。垣村は、気づけばイヤホンを外していた。人工の音楽が消えた世界からは、自然発生した音楽が聞こえてくる。雨音はどうしてか心を落ち着かせてくれる気がした。それらに交じる足音も、水の跳ねる音も、雑音ではなく一種の音楽だ。

 そんな音に溢れた世界で、きっとあのトップカースト集団は五月蝿い雑音としか思わないんだろう。ただ単に垣村と彼らの価値観の違いとも言えるのだが。それでもなんだか、この雨音が音楽のように感じられることを、垣村は少し誇らしげに微笑んだ。

(……視線?)

 聞こえる音の余韻に浸っていると、誰かに見られているような気がした。こんな陰キャを見つめる奴なんて、物好きな奴がいたもんだと心の中で苦笑しながら、不自然な動きにならないように辺りをチラッと見回してみる。

(げっ……)

 一瞬だけ、時が止まったような感覚に陥った。視線と視線が確実に交差している。垣村の感じた視線は正しく、確かに見ている人がいた。問題は、その目の合った人物がトップカーストの人間、それも女子生徒だったこと。

 短い髪の毛で右耳は隠しているけれど、左耳だけは髪がかきあげられて見えるようになっている。髪の色は茶色に見えなくもない黒色。驚いているのか、その一瞬だけは目をパッチリと開いていた。小さな桃色の唇は潤っているように感じ、下に目線を下げていくと短いスカートの丈から伸びる太ももが目に入ってくる。彼女は少し離れた場所で膝を曲げて座り込んでいた。

(笹原かよ……)

 目が合ったのは本当にその一瞬だけだった。向こうは視線を逸らし、垣村もまたすぐに目線を切る。余韻が台無しだった。

 さっき見たトップカーストのグループが話していた内容を、垣村は思い出した。笹原は一人で先に帰ったのだと。目の前にいるのが、その笹原 (ゆい)()だ。ここにいるということは、傘がなくて帰れないのか。それとも親が迎えにでも来てくれるのか。

 確か、笹原は上りの電車に乗るはずだ。垣村は下りの電車だが、向かい側のホームにいるのを何度か見た事がある。家が近くということはないだろう。

「……あ、あのっ」

 その時は、垣村は自分がなぜ話しかけたのかわからなかった。けれども、上ずった声で話しかけてしまった以上、何も言わないわけにはいかない。女子生徒と話すことなんてそうそうないものだから、垣村の心臓は外にも聞こえているのではないかと思うほどに脈動していた。

 笹原は座った状態のまま、鬱陶しそうに見上げてくる。射抜くような冷たい目線が垣村を貫く。彼女はかなりサバサバした人間だということを思い出したが、垣村はもう止まれなかった。手に持っていた紺色の折り畳み傘を突き出すように差し出して、たどたどしく言葉を続ける。

「か、傘……使いますか」

「いや、別にいい。アンタのなくなるでしょ」

 突き放すような荒々しい言葉だったが、もう引き下がるに引き下がれなかった。垣村は傘を彼女のすぐ側に置いてその場から数歩離れていく。笹原の驚いた顔が、垣村には見えていた。

「俺、大丈夫だから。それじゃ……」

 言ってすぐに雨の中へと飛び込んでいく。笹原が傘を拾ったのかなんて確かめる余裕もなく、走りながらイヤホンが濡れないようにポケットにしまいこむ。その時、背後から雨の音に混じって、確かに聞こえてきた。

「きもっ」

 さっきまで暴れていた心が一気に冷めていくのがわかった。一方的にとはいえ、傘を貸したのにそれはないだろう。まして赤の他人ではなく一応クラスメイトだ。確かに、自分でもらしくないと思っている。下心なんてものがなかったとも言えない。灰色な人生に、ほんの少しでも色がつくかなって、そう思っただけで。

(きもいは、ねぇだろ)

 駅についた垣村は、服が濡れていることも気にせずにイヤホンを取り出して耳につけた。流れてくる音楽が、垣村と世界とを遮断してくれる。聞かなきゃよかったんだ。あんな雑音は。

駅のホームにある椅子に座って、タオルで身体を拭いていく。頭から流れてくる雨が口に入った途端、しょっぱく感じたのはきっと気のせいだ。陰キャは陰キャらしくしているべきだった。トップカーストなんて、嫌いだ。



 雨の中を傘もなしに走り抜け、案の定風邪をひいてしまい、土日両方を布団の中で眠って過ごした。幸いにも月曜日にはなんとか動けるようになり、火曜日は学校に行く事ができた。

 自分の席に着いてカバンの中から進路希望調査の紙を取り出す。男子にしては丁寧な字で、それなりの理系大学の名前が書かれていた。もっとも、垣村はこの大学に行きたいとは毛ほども思ってはいない。ただ、書いて出さないと先生に怒られてしまう。

 己を偽るのも、一つの処世術だ。どうせ表面しか見ない世界なのだから、いくら取り繕ったって構わないだろう。顔面は正義。数日前にハッキリと思い知らされたことだった。

「うーっす、病み上がり平気かー?」

 背後から近寄られて、西園に声をかけられた。首のすぐ横から顔を覗かせ、持っている紙を見てくる。特になんとも思うことがないのか、ふーんっと鼻を鳴らすような声を出された。

「西園は、何書いた?」

「ん、俺? まだ決まらないってデカデカと書いて提出してやったぜ」

 彼は何も悪びれていないようで、「おかげで呼び出しくらっちまったー」とヘラヘラしていた。そういうところが、羨ましい。考えてみれば、西園は日陰ではなく、日向にいるべき人物だ。そこら辺にいる人達と同じ、楽観視する性質が彼にもあるんだろう。口にするのは失礼だけど。

「第一、まだ俺たちには早いよ。まだ何にも将来のこととか決まってないのにさー」

 西園の言う通りだと思うけど、そうじゃダメなんだと思っている自分もいた。もっと前を見ておかなければ、恐ろしくて仕方がない。つまらない大人になんて、絶対になりたくないから。

「まぁ、そのうち焦り始めたら嫌でも考えることになるし。俺はまだまだいいかなー」

「……そんなこと言ったら、先生に怒られるだろ」

「おう、怒られたぜ」

 言ったのか。能天気を通り越して阿呆なのか。楽観視が過ぎるというか、なんというか。垣村は呆れて何も言えず、苦笑いを浮かべることしかできなかった。

「そうだ、昨日文化祭でやること決まったぞ。女装喫茶だって」

「……冗談だろ?」

「安心しろ。俺とお前は外回り、やるのはイケメン君たちだから」

 それなら良かった、と垣村は安堵し息を吐いた。理系クラスには女子生徒が少ない。だから男子主軸で文化祭の出し物を決めたようだ。羞恥心もかなぐり捨てる年頃の男子生徒の発案に少なからず反対意見も出たが、トップカーストの意向には逆らえない。女子生徒は特に反対することも無く、垣村のクラスは女子から借りた制服で男子が接客をするとのこと。

「文化祭かー。他の高校だと、見に来た他校の生徒が男女で一緒に写真撮ったりするらしいよ」

「コミュ力の化け物か」

「人見知りには辛いよねー。したいとも思わないけど」

 初めて会う人と馴れ馴れしく話して、それで一緒に写真を撮って。そんなことが可能なのだろうか。そう思ったが、やはりそれも顔面特権だ。格好いい男とかわいい女だけが許される。SNSで偉い人もそう呟いていた。どの道、そんなものに縁もゆかりも無いけれど。

 先日きもいと言われたばかり。傷心もあるが、もとより垣村はポジティブな思考は得意でない。過去の失敗をずっと考え込んでしまう性格だ。なんで神様はこんな中途半端な男を作り出してしまったんだろう。信じてもいない神に向かって、垣村は心の中で毒づいた。

「文化祭が終わったら、クラスで打ち上げもあんだろ? ほとんど強制参加みたいなもんだよなー。俺たちいなくても変わりない気がするのに」

「二つに分けよう。陰キャとパリピで」

「話せる奴だけで、ゆっくりとやりたいよなー」

 まったくだ、と垣村もうなずく。その後も西園と他愛もない話をして、チャイムがなったら席に戻る。そして長ったらしい先生の話が終わったら、イヤホンをつけてうつ伏せになる。

 打ち上げ、参加しなくてはならないのだろうか。別に西園と一緒にいればいい話だけど、面倒だとも思う。パリピの話は聞いてる分には面白いが、そこに混ざりたいかどうかはまた別だ。

 会話に混ざりたいと思ったことは、最初の頃だけ数度あった。けれど、結局は誰かを貶める話が増えていく。それとは違い、陰キャはいい。話の内容なんてもの、ゲームくらいしかないのだから。陰口で笑い合うよりも、ゲームについて話していた方がよっぽどいい。それに自分が誰かを蔑むというのなら、それ以上に自分のことを蔑んでいるのだから。自己肯定感が低い。それが自分たちのような存在なんだ。腕を枕にしている垣村の口元は嘲るように歪んでいた。



 文化祭当日。垣村のクラスは朝から騒がしかった。女子の制服を着た数人の男子生徒が、理系クラスの数少ない女子生徒から黄色い声を浴びている。女装した生徒以外は、皆ラフな格好だ。行事の時だけは、クラスTシャツの着用が許可される。垣村のクラスTシャツは黒の布地に2Eという文字と、全員の名前が書かれていた。しかし書いてある名前といえば、まさやん、やまこー、リンリン、などの渾名ばかり。垣村と西園は名前を平仮名で入れてあるだけだ。

(毛まで剃るのか……)

 女装した彼らの足元を見て、毛ひとつない綺麗な足が目に入ってきた。なんだろう。凄いというより、呆れが先に来る。垣村は渡されたプラカードを持ち、クラスの隅で壁に背を持たれかけていた。カードには女装喫茶と大きく書かれており、なんだか持っているのが恥ずかしい。

「おーい、志音。外回ってこようぜー」

「ん、わかった。今行く」

 文化祭だからか。近寄ってきた西園のテンションも少し高い気がした。頷いて、プラカード片手に教室よりもなおのこと騒がしい廊下へと出ていく。普段の学校生活とは違い、校内は色とりどりであった。装飾もそうだが、クラスTシャツの色が派手に見える。

 同性同士。もしくはカップル。そんな生徒たちが次から次へと現れてはどこかへ去っていく。プラカードを持っていない西園は、パンフレットを見て暇を潰せそうなところを探していた。

 しばらくしたら女装した男子生徒がプラカードを持つことになっている。影響力のない自分が持っていたところで意味はないのに、と垣村はボーッとした頭で考えていた。

文化祭は二日にかけて行われ、この二日目は一般の人にも開放されている。チラホラと一般の人の姿が増えてきた。それに加えて他校の学生らしき人たちもいる。子連れの親子も見えるし、小学生らしき子供だけで歩いているのもいた。そんな雑多な人々の中で一際目立つ人物がいる。スーツ姿の男性という場違いな人が周りをキョロキョロと見回していれば嫌でも目に入ってきた。西園はそれを見てどことなく顔を明るくさせ、その場から早足で近づいていく。

「おーい、庄司(しょうじ)さーん!」

 西園は近づきながらスーツ姿の男性を呼んだ。どこか挙動不審に周りを見回していた男性は西園に気がつくと、へらへらとした笑みを浮かべる。垣村はなんだか不思議な既視感を覚えた。

「おっ、しょー君じゃない」

「庄司さん、仕事は?」

「んー、しょー君の文化祭が今日だって聞いたからねー。それを今朝思い出して、そのまま来ちゃったよ」

 短髪で真っ黒な髪の毛。しかしスーツはよれてるし、仕事に行かずそのまま来たと言っていた。なんだか軽薄な男だという印象を受ける。顔立ちも柔らかいというより、薄っぺらいというべきか。

 そこまで考えて、垣村は既視感の正体がわかった。西園と、この庄司と呼ばれる男が似ているのだ。庄司は西園の隣にいる垣村に気がついたのか、笑いながら自己紹介をし始める。

「どうも、この子の叔父です。しょー君と仲良くしてやってねー」

「ど、どうも」

 軽くどもってしまったが、自己紹介を終えた。庄司は周りを見ながら「いやいや、若いっていいねー」と言葉を漏らす。その言葉を言うにはまだまだ若いと思った。おそらく三十はいっていないんじゃないか。

「うーん、困ったな。オジさんひとりで回るってのも中々レベル高いなぁ」

「なら、俺たちと回る?」

「それもありか……おっと、失礼」

 バイブ音が鳴り、庄司はポケットから黒色の携帯を取り出した。そして映っている文字を見て、面倒くさそうに眉間に皺を寄せてため息を吐く。

「いやー参ったね。会社からのお電話だ」

「えっ、休むとか言ってないの⁉」

「うーん、電話したようなしてないような……。まぁいっか、急病ってことで休んじゃえ」

 それはいいのだろうか。社会人ってそんなに生易しいものではないと垣村は認識しているが、目の前の男からはそれが全く感じられない。行動も仕草も言動も、何もかもが軽すぎる。一息吹けば飛んでいくのではないか。

 庄司はその場から離れていき、しばらくすると帰ってきた。先程までのへらへらとした笑みもなくなり、苦笑いだけが浮かんでいる。

「いやー、ごめんね。なんか今日会議があるから休むなって。あの会社オジさんのこと殺す気なのかなー」

「ピンピンしてるのに、行ったらズル休みしようとしたのバレるんじゃない?」

「んー、まっ大丈夫でしょ。遅れる許可は貰ったし、のんびりと会社に向かおうかなー。ラーメン食べてくってのもいいなー」

 どこかフラフラとした足取りで、彼はその場から去っていった。西園は庄司の姿が見えなくなると、垣村に庄司のことを尋ねてきた。どんなふうに感じたのか、と問われたが……垣村には軽そうな男だとしか思えず、濁した答えを返すだけだった。

「庄司さんってさ、根はしっかりしてるんだけど基本フラフラしてるっていうか……見た目が軽そうじゃん? あんな感じなの、憧れててさ。あんなんでも一応会社では上手くやってるし」

「なんか、お前と似てる気はしたよ」

「マジ? 少しは庄司さんに近づけたかな」

 見た目や立ち振る舞いが完全にダメ男なのだが、西園はそれでいいんだろうか。まだ彼とは初見だし、能ある鷹は爪を隠すとも言う。馬鹿の振りをする天才ほど面倒なものはないと、垣村は何かで聞いたことがあった。でも、どう見たってアレは天才と呼ばれる人間じゃないと思う。西園がそれでいいと思うのなら、何も言うことはないけど。

 隣で庄司のことについて、つらつらと語っていく西園に相槌を返しながら歩いていると、ようやく垣村たちの交代の時間になった。クラスに戻るとすぐに、女装をした男子生徒が笑いながらプラカードを受け取り、声を上げて客寄せに行く。正直持っているだけで恥ずかしい代物だ。手元からそれがなくなったことに安堵し、これでようやく目立たずに回ることができると二人で密かに笑っていた。

「ここら辺は見て回ったし、一年の教室でも見に行こうぜ」

 西園の提案に頷き、二人で階段を上る。坂上高校は階が上がる毎に学年が下がっていくので四階が一年の階だ。彼らが四階に着くと、そこでは生徒がより活気的に活動していた。

 おそらく文化祭のやる気は二年生が一番ないのだろう。一年生は初めての文化祭。三年生は最後の文化祭だ。垣村は例年やる気がないが、二年生はあまり積極的にならない。その熱の入りようの差は見るだけで明らかだった。

「やっぱ、一年って何もかもが初めてだから楽しそうだよなー」

 そうだな、と軽く返事を返す。廊下の奥の方では嬌声を上げて写真を撮ろうとしているグループがいた。よく見てみれば、それは垣村のクラスにいるトップカーストグループ。一年生の女子二人が、そのグループの男子生徒に写真を頼んだのだろう。

 女装した男子生徒が三人。そして制服を貸したせいでジャージ姿の女子生徒も三人。垣村はいつかの雨の日を思い出してしまい、どうにも恥ずかしくて額を抑えた。あの時のことは忘れてしまいたい。しかし強烈な過去ほど忘れられないものだ。

(……まぁ、いるよな)

 当然その中には、垣村にきもいと言った笹原 唯香もいる。写真を強請られる男子生徒に対してどこかニヤニヤとした笑みを浮かべていた。

(あんな顔もするのか)

 垣村にはそれが不思議に思えた。いつも無表情に近く、笑う時もそこまで大袈裟には笑わない。すまし顔ばかりの女子だと思っていたのだ。

「んー、誰か気になる人でもいたの?」

「いいや、なんでもない」

 ボーっとしている垣村を不思議に思ったのだろう。西園も垣村に倣って廊下を見渡すと、「あら、松本(まつもと)たちじゃん」とトップカーストに気がついた。松本 快晴(かいせい)。それこそがあのトップカーストグループの中心人物。顔よし運動よし器量よしと揃った人物だ。次期サッカー部の部長だという噂も、垣村の耳に入ってきていた。

「お仕事放棄で女子生徒と写真かよー。いやでも、女子の制服着てもキモイとか言われない辺り、顔が良い奴って羨ましいよなー」

「……そうだね」

 本当に。一瞬だけ苦々しく顔を歪めた垣村は、遠目で彼らがどうするのかを見ていた。一年生らしき女子生徒が松本に近づいていき、ツーショットを撮る。数分後にはSNSに載っているだろう。今時の女子高生というのは、人の顔が写っていても平気で写真をアップしてしまう。

(……あっ)

 その光景を見ていたら、不意に笹原が垣村の方へと振り向いた。過去の出来事もあり、垣村は怪しまれないように視線を逸らす。

 なんでこうも目が合いそうになるんだろう。前は視界にすら入ってこなかったというのに。

「なぁ、笹原の奴こっち見てるんだけど。お前何かしたの?」

「別に、何も。クラスの人がいたから見てるだけじゃない?」

 何か言及されるかもと焦った垣村だったが、西園は「ふーん」と鼻を鳴らすように返事を返すだけだった。彼の口元はいつものように柔らかくニヤニヤと笑っているだけで、本当は何を考えているのか、垣村にはわからない。「そういえばさ」っと西園が続けてくる。

「庄司さんから聞いた話なんだけど。カラーバス効果って知ってる?」

「なにそれ」

「一度意識してしまうと、その事に関しての情報が集まってくることなんだって。今までどうでも良くてスルーしてたのが、スルーできなくなるらしい」

「……なんで今それを?」

「気づいてないの?」

 いつもとは違う彼の不敵な笑みに、心臓がナイフを突きつけられたかのようにドキリとする。

「最近、お前の視線の先に笹原がいることが多いぞ」

「……馬鹿言わないでくれ。なんで俺が」

「いいやー、なんとなく?」

 西園が笑いながら聞いてくるのに呆れてしまい、垣村はポケットからイヤホンを取り出そうとした。「悪かった、自分の世界に引きこもらないでー」とポケットに突っ込んだ手を西園に抑えられ、やれやれと言いたげにため息をつく。

「まぁ、庄司さんはそれを使って、皆に意識されないようにして仕事サボってるらしいけど」

 なんとも呆れる理由だった。けれど、彼の話を聞いて何かがつっかえるような感覚を覚える。

 カラーバス効果。意識してしまうと情報が集まってしまう。確かに、自分の状態と似ている気がしていた。しかし垣村は、自分では笹原を視線で追っている自覚はなかった。最近目が合いそうになることが多いとは感じていたが、気のせいだと誤魔化していた。

(……それは恋心とかじゃなくて、ただ自分の失態を忘れられないだけだよ)

 自分に言い聞かせるように、心の中で反芻させる。そもそもありえない事なんだ。彼女と自分の間には、何も起こらないはずなんだ、と。


   【☆】


 初めて見た時、根暗な奴だと思った。両耳にイヤホンをつけて生活して、友人と話すとき以外ではうつ伏せになって眠っている。そんなアイツをしっかりと認識したのは、酷い雷雨の日だ。今時天気予報なんて見ない。昼間は晴れていたから、傘なんて持っていなかった。

 皆とスーパーまでやってきたのはいいけど、()()たちと別れた手前、戻って傘を買いに行くのもなんだか変にはばかられた。雨が降っているんだから、そんなこと気にする必要ないのに。

 どうしようかと座りながら打ち付ける雨をぼんやりと見ていると、アイツはスーパーから出てきた。相変わらずイヤホンをつけていたけれど、急に外したかと思えば、雨を見ながら誰に向けるわけでもなく微笑んだ。なんだか珍しいものを見ている気がして、不思議と視線を逸らせなかった。そのままじっと眺めていたら……気がつかれたのか、一瞬目が合ってしまった。

 その後は、挙動不審なアイツが傘を無理やり渡して逃げるように去っていったのを、ポカンとした顔で見ていたと思う。おどおどして、視線も合ってなくて。そんなオタクみたいな男の背中に、いつものように軽口できもいと言ってしまったのも……別に普通のことだと思う。


 あの雷雨の日の翌週。月曜日になって、笹原は学校につくなり教室の中を見回した。先週の金曜日に一方的に渡された折りたたみ傘を返さなくてはいけないから。

 教室の中では生徒がごった返すように蠢いている。その後ろの隅の方を見てみるけれど、そこに彼の姿はなかった。カバンの中にしまってある傘を見て、どうやって返そうかと悩んでいると……いつもように、笹原の友人たちが近づいてくる。

 セミロングの女の子。紗綾は笹原が学校に着くと、いの一番に挨拶しにくる。明るく「おっはよー、唯ちゃーん」なんて言ってくるものだから、月曜日特有の気だるさがほんの少し、どこかへ飛んで行った気がした。

「おはよ、紗綾」

「ねぇねぇ、進路調査のやつなんだけどさー」

 紗綾は紙を取り出して、どういう進路にするのか話し始めた。それに頷きながら、自分の将来について考え始める。けれど、明確な未来の自分の姿というのはまったく思いつかなかった。

 そのうち他の人も集まってきて、男子たちは「そんなもんあったっけ」なんて紙の存在すら忘れていた。なんとも彼ららしいと小馬鹿にするように笑っていると、時間は刻々と過ぎていき、登校完了時刻になる。先生が教室に入ってきて、笹原は話が始まる前に何気ない感じで後ろの方を見た。けれど彼の席であろう場所には、誰も座っていなかった。

 そして結局、彼は学校には来なくて、傘は返せずじまい。カバンの中には女の子らしい薄い赤色のペンケースやポーチ。それらと対称的な、紺色の折りたたみ傘がある。

(……風邪引いたのかな。馬鹿みたい)

 放課後になって皆が帰る支度を始める中、笹原はあの雷雨の日に見た彼の姿を思い浮かべては、何度も「バーカ」と罵った。あの日の情景が、忘れようとしても忘れられない。あんな馬鹿みたいなことをした彼の姿が、インパクトがデカすぎて消えないみたいだ。

(そういえば……昼の時、いつも一緒に食べてる人がいたような)

 カバンの中にある傘を見ながら、必死に記憶を掘り起こす。普段は視界の中に入っていても意識すらしていないせいで、彼が誰と食べていたのかなんてのは思い出せない。諦めて帰ろうかと廊下を見たら、ちょうどこれから帰るらしい男子生徒が目に入ってきた。

 それを見て笹原はピンと来た。目の前を歩いている軽そうな面持ちの男子生徒、西園が普段は彼と一緒に食べていたはず。カバンから傘を取り出して、笹原は西園の背中を追いかけた。

「西園、ちょっと待って」

「ん? あれ、笹原さん?」

 話しかけられたことが意外だったのか、西園は驚いた顔で笹原のことを見てきた。そんな彼に向けて、笹原は手に持っていた傘を突き出すように差し出す。

「西園って、アイツ……垣村と仲いいでしょ。これ、返しといて」

「傘……なに、笹原さんって志音と仲よかったっけ」

「違う。アイツが私に一方的に貸してくれただけ」

 別に仲なんてよくないし、それどころか話したことすらない。けれど一方的とはいえ貸してくれたものを返さないわけにもいかない。西園が返してくれるというのなら、それはそれで都合がよかった。西園は垣村と一緒にいることが多いけど、垣村よりは皆から敬遠されていなかったから。話すのも別になんてことはない。

 けれど西園は傘を受け取らず、へらへらとした顔で笹原に言ってくる。

「それでも貸してもらったんなら自分で返しなよー。せめてお礼くらいは言ってあげるとかさ」

「お礼って……」

「笹原さんってさー、志音と話すの嫌なの?」

 そのへらへらとした顔を崩さないまま、彼は問い詰めるように話す。笹原は苦々しそうに顔を歪め、目を細めて西園を睨みつけた。笹原はよく強かな女子だと言われるが、そんな彼女に睨まれても西園は意に介さず、また怖気づくこともなかった。

「別にそういうわけじゃない。でも、そういうの、なんとなくわかるでしょ」

「空気を読めってやつ? 文字も何も書いてないのに、読めるわけないじゃんかー」

 彼の物言いに、なんだか凄いムカついてきた。目の前の男に向かって一発殴りたくなるのを、ぐっと堪える。空気を読むなんて当たり前のことだ。今時じゃ小学生でもしなくてはならない。

 それに彼、垣村は自分とは違う。立場や、派閥。笹原が彼に話しかけるというのは、一種の異常事態のようなものだ。そんなことになればクラスの人たちが浮き足立つのが想像できた。

「ていうかそもそも。西園ってなんで垣村みたいなのと一緒にいるの? アンタ、オタク趣味とかあったっけ」

「……いやいや、俺は別にオタクだから志音と一緒にいるわけじゃないし。そもそも皆、考え方がおかしい気がするよ」

 西園の笑みがなくなる。普段細められている目は開かれ、鋭い眼光が笹原のことを射抜いた。

「一緒にいて楽しいと思うから一緒にいるんじゃん。理由なんてそんなもんじゃないの?」

 彼の変化に、笹原はしれずと生唾を飲み込んでいた。真面目な表情をしていたのはその瞬間だけで、すぐにいつものへらへらとした軽薄な顔つきに戻る。

「自分で返しなよー。志音って悪いやつじゃないしさ」

 そう言って彼は踵を返し、その場から去っていく。追いかける気にもなれなくて、笹原はその場で立ち尽くしていた。手に握られている傘の持ち主は、自分とはいる場所が違う。

 オタクというだけで、下に見られてしまうのが学校だ。何をするわけでもなくカースト下位に位置されてしまう。けれど笹原がいるのはカースト上位のグループ。互いに話すことなんてなく、接点すらもないはずだった。だからこそ気になってしまう。

(なんでアイツは、私に傘を貸してくれたんだろう)

 ふと考えてみた。けれど思いつくことはなくて、もしかしたら私のことが好きなのかもしれないなんて考えまで出てくる。自惚れも甚だしいけど、もしそうならスッパリ振ってあげよう。

 カースト下位の垣村とカースト上位の笹原。そんな二人が一緒にいることなんてないはずだ。まるで昔の身分差の恋みたいに。そんなことが起こり得るはずもない。

(机の中に、お礼を書いた紙と一緒に入れておけば文句ないよね)

 どうしても、立場というものが邪魔をする。笹原は垣村に話しかけたくなかった。絶対に面倒なことになる。今は紗綾たちがいないから西園にも話しかけたが、普段はそうはいかない。

 放課後に呼び出すのも気が引ける。いいや、そんなことをしたら確実に嗅ぎつけられる。女子高生はそういったものに目敏い。今のうちに誰にもバレないよう、机の中に入れてしまおう。

教室に戻ってきた笹原は、メモ用紙に一言だけお礼を書いて彼の机の元に向かおうとした。

(……そっか。まだ人いるんだ)

 放課後になっても、残る人は残っている。いつもは早く帰ってしまうから、残っている人がこれだけいるとは思わなかった。笹原の席の位置は知られている。そんな彼女が傘を誰とも知らない机の中に入れていたら気がつくだろう。

 手に持つ傘と、彼の机を見比べて……諦めたようにため息をついた笹原は、カバンを持って教室から出ていった。同じ学校に通って、同じクラスにいるから、そのうち返せるはずだと。



 けれども、次の日になって垣村が学校に来ようとも。笹原は傘を返すことができなかった。これほどまでに周りの人が鬱陶しいと感じたことは無い。ただ一瞬、ほんの一瞬だけなのに。彼のもとへと行って、傘を返すだけなのに。たったそれだけのことができなかった。

 紗綾たちと話しながら、どこかいいタイミングはないかと考えていると、どうしても視線が垣村の方へと向いてしまっていた。それだけじゃない。友達と話してる最中に、ふと周りを見回してみると……何故か垣村が視界に入ってくる。向こうは気がついているのか、いないのか。時折視線が合いそうになってしまった。

(……なんだ、意外と笑うんだ)

 お昼になって、お弁当を食べながら視線の先にいる彼を見て思った。西園が彼に話しかけている。その会話の内容はわからないけど、彼は口元を抑えて笑っていた。優しく細められた目が、あの雷雨の日と重なる。

「唯ちゃん、ボーっとしてどうしたの?」

「っ……なんでもない」

 見てるのがバレたのかと、心臓がドキリとする。幸いにも紗綾は追及してこなかった。

(……なんでこんなに視界の中に入ってくるわけ)

 今までは数える程しかなかったのに。今では日に何回も視界の中に入ってきている。正直鬱陶しいとすら思えるけど、まだカバンの中に入っている傘を思い出すと、自然と息が漏れた。

 私のせいじゃない。全部あの、垣村のせいだ。そう考える。

 なんであの時、私に傘を貸したの。接点も何もないのに。ねぇ、どうして。

 視界の隅に映っている彼に向かって、心の中で尋ねた。もちろん、答えなんて返ってこない。

 西園に言われた通り、この傘は自分の手で返さなくちゃいけない。それが礼儀というものだとわかっていた。けれど、それだけのことが難しい。これが他の男子とかならともかく、なんでよりにもよって垣村なんだろう。松本が相手なら、何も気にすることなく傘を返せるのに。

(あぁ、雨なんて大っ嫌い)

 頭の中にあの日を思い出しながら、笹原は奥歯をかみ締めた。

 化粧は崩れるし、足は濡れるし、スカートだと寒いし。それに……傘を無理やり渡してくる馬鹿がいるし。だから、雨なんて大っ嫌いだ。

 刻々と時間だけがいたずらに過ぎていく。今日は返せなかった。明日になっても返せなかった。ズルズルと日にちだけが伸びていく。

 カバンの中にある似合わない色をした紺色の傘は、いつからか馴染むように鎮座していた。


   【♪】


 学校から少し離れた場所にある、お好み焼きやもんじゃ焼きが食べられるお店が文化祭の打ち上げ会場として選ばれた。文化祭は一応成功として幕を下ろし、それなりにクラスの人たちは楽しめていたように思える。打ち上げの会場にいる生徒は制服ではなく、皆私服だった。垣村も黒地のシャツに灰色の薄いパーカーを羽織り、ジーパンを穿くというラフな格好だ。

 宴会用の長い机に垣村たちは座り始める。男女の境目となる場所には、やはり松本のようなトップカーストが。端の方には日頃目立つことのない男子生徒たちが座っている。もちろん垣村はそのテーブルの端も端。一番奥で座って、対面にいる西園と焼いたもんじゃを食べながら話をしていた。熱々のもんじゃを口に運びながら、西園は不思議そうに尋ねてくる。

「うーん……なぁ、もんじゃとお好み焼きの違いってなんだ?」

「混ぜながら食べるか、生地が固まるまで焼いて食べるか。それくらいじゃない?」

「食い方の違いで名称が変わるのなら、変な話だよなー」

 いい感じに焼けたもんじゃを口の中に運ぶと想像していたよりも熱くて、コップになみなみ注がれたお冷で熱を冷ましていく。対面を見れば、西園が面白いものを見たように笑っていた。

「今すっげぇアホ面だった」

「そっか……お前のがうつったかな」

 ケラケラと笑いながら「あらら、ご愁傷様」と言う西園に、垣村もくすくすと笑い返す。端の方ではこうした大人しいやり取りが繰り広げられているが、女子寄りの場所では教室にいる時よりもはるかに酷い喧騒になっていた。教室が同じとはいえ、男子が女子との接点を持つのは難しい。だからこそこういった機会に女子に近づいていき、自分は優しい男なんですよとアピールする。横目でそんな光景を見ていた垣村は、あまりにも馬鹿馬鹿しくて鼻で笑った。

 媚びへつらうのは好きじゃない。もし仮に自分があの場に行っても、何もすることはなく西園と話しているんだろうと予想がついた。ヘタレなだけかもしれないが、あんなふうにいつもと違う自分を見せつけにいくのは、どうも違うだろう。

 ぼんやりと彼らを眺めていると、視界に笹原が映り込んでくる。女子との会話を楽しんでいる中で、急に横から男子の手が入り込んだ。一瞬面倒そうな顔を浮かべては直ぐに元に戻す。向こうではお好み焼きを焼いているようで、いい感じに焼けた部分をよそってあげたらしい。

(……一瞬すっげぇ嫌な顔してた。あれじゃ、アピールも形無しだな)

 ざまぁないね、と嘲っていると笹原はよそられたお好み焼きを小さく切り分けて、それを口の中に運んでいく。柔らかそうな唇が揺れ動き、不思議と咀嚼音まで聞こえてくる気がした。口元を手で抑えるが、垣村の位置からは見えている。唇の間から出てきた舌が、チロリと唇についたソースを舐めとっていく。なんだか、扇情的だった。

(何考えてんだよ、俺)

 なんだか変な気分になりかけた垣村はそっと目を逸らす。逸らした先にいるのは西園だ。彼はもんじゃを焼く小さなヘラを口に咥えながら、じっと垣村のことを見ていた。自分が何をしていたのかを思い返した垣村はハッとなり、視線から逃れるべくお冷を呷るように飲み込んだ。

「へいへい志音。俺がいるのに余所見してるのか? そんなにあの集団気になってるの?」

「別に気になってはない。ただ……いや、なんでもない」

 言葉を濁した垣村に対して、西園は「ふーん」と鼻を鳴らす。コップの中身を少し飲んで、小さく息を吐き出した。

「傘まだ返してもらってないの?」

「えっ……?」

 口元を浅く歪め、ニヤニヤと笑うように西園は尋ねてきた。そんなこと言われるとも思っていなくて、しかも西園が知っているなんて考えてもみなくて。驚いて言葉を詰まらせた垣村は、少しの間を開けて聞き返した。

「なんで知ってるの?」

「笹原さんがお前に渡しといてくれって言ってきてさ。自分で返すのが礼儀だろーって突っぱね返しちゃった」

 あははと笑う西園を、垣村は訝しげに睨みつけた。おそらく自分が休んでいる間に起きたことだろうし、その日に自分がいなかったから西園に頼もうとしたのだとも安易に予想がつく。

 そこで受け取ってくれればよかったものを、どうして突っぱねたんだ。あんなことがあった手前、こっちは廊下ですれ違うだけでも心臓に悪いっていうのに。

「いやいや、睨まないでよー。俺としてはさ、正しいことしたと思ってるんだから」

「受け取ってくれたらよかったのに」

「だって態度がなんか嫌だったし。何かしてもらったらお礼を言うのが当たり前。どっちかが嫌な思いした訳でもないし、別にいいじゃんよ」

 こっちは嫌な思いをしてるんだよ、と言いかけた。あの時のことは忘れようにも忘れられない。陰口なんてものは普段は聞かないようにイヤホンで閉じているけれど、あの時は違った。背中に投げかけられたあの言葉は、確かに自分の心に傷をつけたのだから。

「なんかさー、世の中って生きづらいよな」

 一人心の中で苦悶していると、西園はどこか遠くを見るような目で話しかけてきた。人差し指を宙に浮かして、何かを書き始める。

「なぁ志音。これ見えるか?」

「……いいや」

「だよなー。見えないもんを読めって、そりゃ無理難題だよなー」

 彼が何を言いたいのか、いまいち垣村にはわからなかった。彼が宙に書いたのはなんだったのだろう。いや、文字ではなかったのかもしれない。ぼんやりとした目で虚空を見つめる西園を見ていると、なんだか心配になってきた。

「あるものだけを見て生きるのって、ダメなのかな」

「ダメじゃないかな。冤罪ってのが起こるのは、そういうことがあるからでしょ」

「そういうことじゃなくてさ……俺たちが生きてるのって現在(いま)じゃん? これから起きることを予想したりとかさ、なんだか面倒じゃない? なんかこう、縛られてるみたいでさ」

 何が言いたいのかは今ひとつ理解ができなかったけれど、少しはわかる気がした。確かに今の自分が未来のことを考えるのは億劫だ。けれども、考えなくてはいけない。だってつまらない将来になりたくないから。

「空気を読んで自分のしたいこと、すべきことをできなかったら……それは、つまんないよな?」

 そう尋ねてくる西園に、頷いて返した。やりたいことをやる。やるべきことをやる。それが他者に迷惑をかけず、公共の福祉に反しないのであれば。誰に咎められる必要もないだろう。

「読めないねぇ。空気も、展開も、将来も」

「……そういうもんだよ」

「ハハッ、そういうもんかー」

 今までの空気を払拭するように、西園は無理やり笑った。互いに焼きすぎたもんじゃを口に運んで、焦げ目が美味いと同時に意見を漏らす。

 誰にも縛られたくはないけれど、誰かに引っ張っていって欲しいと思うのは変だろうか。道無き道を歩いていくのは中々に怖い。成功した人が、それか信じれる人が、この手を引っ張っていってくれるのなら、なんて楽で安全な道だろう。

 再び口の中にもんじゃを運んで、そっと視線をトップカーストたちに向ける。笑いながら食べている彼らを見ていると、道がなくても笑いながら進んでいくんだろうなと思えてしまう。なんにも怖くなさそうだった。

 何も考えずに、のうのうと生きることができたなら……どれだけ、幸せなんだろう。垣村はもんじゃの焦げを口の中に入れると、苦々しく顔を歪めた。


 打ち上げも終わり、各々現地で解散となる。何人かは集まって駄弁ったりする中、垣村と西園は帰ることにした。西園は自転車で来ていて、そのまま乗っかって家へと帰っていく。

 対して垣村は電車だ。駅まで歩かねばならず、下りの電車は一時間に一本。時間を確認すれば、ちょうど電車が出てしまう頃合だった。急ぐ必要もなくなり、近くにあったコンビニで適当にお菓子を買ってから駅へとゆったり歩いていく。

 人通りも少なく、また車通りもない。そんな寂れた公園の近くにまでやってきた垣村は、ポケットからイヤホンを取り出して左耳だけにつける。移動中は基本片耳だけだ。そして携帯で普段聞いているゆったりとした音調の音楽を流し始めるのだが……。

「おい、待てって!」

 誰かの怒鳴り声が公園から聞こえてきた。痴情のもつれだろうか。垣村の右側には仮設トイレがあり、位置的に何も見えない。馬鹿馬鹿しいし、何も聞かなかったことにして帰ろうと、垣村は右耳にもイヤホンをかけようとする。

 そうしたら、公園を囲むように植えられていた小さな木を飛び越えるようにして、目の前に誰かが飛び出してきた。あと数歩前を歩いていたら衝突していたことだろう。飛び出してきたのは女の子だった。息を切らし、茶色の肩下げカバンを大事そうに抱えている。左耳だけを見せるようにかきあげたその髪型に、垣村は見覚えがあった。打ち上げにもいた、笹原だ。

 向こう側も垣村に気がついたようで、呼吸を整えるために開かれた口を閉じることなく、またいるとも思っていなかった相手がいることに目を見開いていた。

「待てよ、笹原!」

 再び聞こえる怒鳴り声。その声にハッとなって笹原はその場から後ずさっていく。そして笹原と同じく、公園から飛び出してきたのは背丈の高い男だ。黒色のパーカーを羽織っているその男は垣村に気がついていないようで、逃げようとしている笹原だけを見ていた。

「こ、こっち来んな! 誰が、アンタみたいなのとっ……」

 男が一歩前に出れば、笹原は一歩後ずさる。男を挟んで向こう側にいる笹原の縋るような目が垣村を射抜いてきた。彼女が何も言わずとも、助けてと懇願しているのが嫌でもわかる。

 なんで俺が助けなくちゃいけないんだ。そう心の中で思ってしまったのは、あの雨の日のせいだ。気まぐれで起きたことでも、あの時言われたあの言葉は確実に傷を残していった。きもいと言ったあの笹原を、自分が助ける必要はあるのだろうか。それにどうせ、彼女のことだ。彼女自身にも非があるに違いない。自業自得だ、きっと。

(でも、いいのか。見捨ててしまって)

 男が必死に笹原を怒鳴りつけている。追い詰めようとする男から少しずつ離れていく笹原。逃げたら追いかけられるのだとわかっているんだろう。そして追いかけられたら最後、男の足には適わないのだと。

 いつも自分のような存在を見下し、嘲っているトップカースト。そんな彼女が今、震える体を抑えるようにしながら懇願するかのように視線を向けてきている。

 本当に、助けなくていいのだろうか。いや、厚意を無下にし、あまつさえきもいと言ってきた彼女を、本当に助けてやる必要があるのか。

(……助けなかったら、ただのクズだ。それこそ、トップカーストよりもなおタチが悪い。そうじゃないのか)

 唇をかみしめ、持っていた携帯でカメラのアプリを開く。そして録画開始のボタンを押す。ピコンッと電子音が鳴って、録画が開始された。

「っ……!」

 男が振り向く。静かな夜だ、嫌でもこの音に気がつくだろう。右手に持った携帯を見せつけるように男に向けて、垣村は心臓が暴れ出しているのを堪えながら口を開く。

「現実じゃお前に勝てないけど」

 声を出す度に、震えてしまいそうになる。その言葉が早口になってしまわないように気をつけながら、ガチガチと震えそうな奥歯を強く噛み締めて、また言葉を放つ。

「ネットなら、オタクの方が強い」

 男の顔が引き攣る。録画されているという事実に気がついたようだ。笹原と接点があるのならば、学校の生徒だろう。そして見たことがない時点で、理系ではなく文系クラス。だとしても、ネットの拡散力は怖い。垣村がその動画をアップすれば、瞬く間に学校内に広まるだろう。

「お前がこの動画を消すために殴りかかってくるなら、その間に笹原は逃げ切れる。このまま笹原に迫れば、月曜にはクラスの話題で持ちきりだ」

 垣村に向かって迫ろうとしていた男の動きが止まる。正直逃げたかった。体格差を考えたら、自分は呆気なくやられてしまう。でも、もう口は動いてしまった。後はもうなるようになるしかない。垣村は覚悟を決めて、最後の警告を告げた。

「今何もせずに消えれば、動画をアップするのはやめてやる。だから……」

「っ、クソッ!」

 男はその場から公園の中へと戻り、走り去っていく。その背中が見えなくなるまで待ち、そして大きく息を吐いた。緊張が一気に解け、脈打つ心音がより一層存在感を増してくる。携帯のアプリを閉じて、ポケットの中にしまった。

 とんだ騒音騒ぎだ。自分がこんなことに巻き込まれるなんて思ってもいなかった。左耳につけたままのイヤホンから流れてくる音楽が今の心境に合わなくて、外してその場から歩き出す。

 危害を加える男がいなくなって安心したのか、笹原はその場で膝を抱えて座り込んでいた。なんだか変な既視感を覚える。

(またきもいとか言われたら嫌だし……もう、あの男も何もしてこないだろ)

 あぁ、笹原には何もしないだろうけれど。もしかしたら今度は自分が狙われるんじゃ。そう考え始めたら怖くなってきたので、垣村は軽く身震いしてその場から離れる。

 笹原の隣にまでやってきて……何もせずに、そのまま通り過ぎていく。

 本来関わるべきじゃない。日陰者が、こんな日頃から輝くような日向みたいな人物と。

「ま、待ってよ……」

 弱く掠れるような声が背後から聞こえてくる。今ほど両耳にイヤホンをつけていなくて後悔したことはない。つけていればこんな雑音は聞き取らなかった。けれど、垣村は既に足を止めてしまっている。もう逃げようにも逃げられなかった。

 垣村は仕方なく振り返る。いつも気丈に振る舞い、笑っている彼女が今では捨てられた子犬のように大人しい。いつもと違う彼女の様子が、欠片ほど残された垣村の良心をジクジクと痛めつける。らしくない、そう思っていても近寄らないわけにはいかなかった。座っている彼女の隣にまでやってきて、話しかけるでもなく、ただその場で呆然と立ち尽くす。涙目の彼女は垣村を見上げてから、そっと右手で垣村の服の裾を掴んだ。

「……ありがと」

 小さな声でも、しっかりと垣村の耳に届いてくる。まさか素直にお礼を言われるだなんて思っていなかった。返す言葉が出てこなくて、彼女の隣に立ったまま反対の方に視線を向ける。

「……あぁ」

 そんな短い言葉だけが辛うじて喉の奥から漏れ出た。鼻を啜る音と、煩いほどに脈動する心音だけが垣村の耳に届いてくる。笹原が落ち着くまで動くこともできず、ただじっと……静寂な世界に取り残された音を拾って、適当に音楽を紡いでいた。


 どれほどの時間が経過したのか、よくわからない。間に流れる沈黙は重く、口を開こうにも開けない。笹原は公園のベンチに座って俯いており、おかげでその表情がわからない。

 こんな状況になってしまっては、イヤホンをつけて自分の世界に閉じこもることすらできなかった。未だに垣村の裾は彼女に掴まれたままで、離す気配はない。遠くから聞こえる車の音と、草の影から響く虫の音だけが聞こえている。なんとも、息が詰まりそうだ。まるで学ランのホックを締めたときのようで、私服だというのに首元を弄りだした。

「……垣村」

 唐突に呟かれた彼女の言葉は、もう震えていなかった。しかし、弱々しいのには変わりない。呼ばれて何かと見てみれば、彼女はカバンの中を探り始め、紺色の筒状の物を取り出した。

 垣村はそれに見覚えがあった。あの忌々しい日に貸したままだった折りたたみ傘だ。

「あの時、貸してくれてありがと。返すの遅れて……ごめん」

「あっ……うん」

 返す言葉がすんなりと出てこない。喉の奥につっかえて、別の音へと変わってしまっているみたいだ。差し出された折りたたみ傘を受け取り、垣村は自分のカバンの中にしまい込む。

 待てと言った理由がこれだけなら、もう帰ってもいいだろう。いや、正直垣村は帰りたくて仕方がなかった。既に垣村の中では、彼女は危険人物だ。彼女の一言で、学校生活が変わりかねない。あの雨の日の出来事を話すだけで、垣村は皆から笑いものにされてしまう。

 滅多にない女子と話す機会だというのに、緊張とはまた別の理由で体が強ばっていた。早く帰りたい。垣村のどんよりとした瞳がそれを雄弁に物語っている。

「……何も、聞かないの?」

 細々とした声で尋ねてくる彼女の顔を、垣村は横目で盗み見た。教室に居る時のように明るくない。しかし今は先程よりも面持ちに余裕ができている。どちらかといえば、無表情よりもムスッとした感じだろう。垣村には彼女の目つきがどうにも不機嫌そうに見えていた。

「別に、聞くことでもないと思って……。大体、予想できるっていうか……」

 その言葉に「そう……」と短く返された。相手が何を考えているのか全くわからない。聞こえないように息を吐ききり、脈打つ心臓を抑えようとする。隣に女子がいることといい、先程のことといい、どうにも心臓に悪い。

「あの時さ、なんで私に傘を貸してくれたの」

 傘を貸したといえば、記憶に深く根づいているあの日のことだろう。思い出したくもない話題、そしてそれを話す相手が笹原だということが、余計に垣村の心を抉っていく。

 けれども聞かれたからには答えなくてはならない。あの日傘を貸した理由。灰色な日々に、色がつくかもと思っていた。しかしそれとはまた別な理由も、垣村は感じていた。

「多分、怖かったからだと思う」

「……はぁ? それ、どういう意味?」

 彼女は垣村に向き直り、少し距離を詰めてくる。たじろぎ、言葉を詰まらせた垣村はやってしまったと心の中で悔やんだ。頭が正常に働いていない。もっと言葉を選ぶべきだったのに。

 やばい。どうしよう。焦りの感情が募っていくが、笹原は眉をひそめて垣村を睨みつけていて、弁解させる余地はなさそうだ。彼女の目が、早く続きを言えと語りかけてくる。

「いや……その、目が合った時に、何かしなくちゃいけないんだって思ったっていうか……。相手が何もしていなくても、そういった視線だけで脅迫されたように思うのってない……かな」

「なにそれ、意味わからない。つまり私が怖いってこと?」

「笹原さんが怖いとかじゃなくて、こう……仲良くない人とか、赤の他人とか。そういった人の視線が突き刺さるっていうか」

 上手く言葉が纏まらない。自分の思ったことを伝えることすらままならない。確かに自分の感性を率直に伝えるのは難しいことだ。けれども、普通ならもっとわかりやすく言えるはずだ。

 女子と話すのはこんなにも緊張するのか。相手が相手というのもあるんだろうけれども。にしても、目つきが怖い。彼女自身が怖いというのも、確かにあるのかもしれない。笑ってる時はかわいらしいと思う。けれど、こんな風にムスッとしている彼女は、少し怖い。

 垣村の言葉が伝わったのか、伝わっていないのか。彼にはわからなかったが、少なくとも笹原は垣村を睨みつけるのをやめていた。

「……オドオドし過ぎ」

「女子と話すの、慣れてないから」

「目線も合ってない」

「人の目を見て話すの、苦手だから」

 横から視線を感じるものの、垣村は彼女の方を見ずに正面を向き、決して彼女を真っ直ぐに見ようとはしなかった。女子と話すのは苦手で、男子でも女子でも目を見て話すのはかなりキツイ。けれど、西園が相手ならば垣村は多少なりとも視線を合わせられるし、会話も弾む。人見知りには、仲の良くない人との会話は辛いのだ。それが例え、クラスの一員であろうとも。

 垣村から何か話すということはない。笹原は無言な空気が苦手なのか、無理やりにでも会話を続けようとしてくる。

「何かないの」

「……助けに入ったのが、松本とかじゃなくてごめん」

「はぁ⁉ 何か言ったかと思えば、それこそ意味わかんないんだけど!」

 何か言ったら言ったで、物凄い剣幕で迫られる。じゃあどうしろと言うんだ。垣村は軽く項垂れ、右手で頭をガシガシと掻き毟るようにしてから、彼女に言った。

「助けられるのなら俺なんかより、いつも一緒にいる松本とかの方が良かったんじゃない?」

「だからって、普通今謝る⁉ アンタの頭ん中どうなってるわけ⁉」

「酷い言い草だ」

「なんかもうちょっと別の話とかあるでしょ!」

「いや……人に話すようなネタはない、かな」

 もっとも、君に話すようなネタだけど。口に出さずに心の中でそう呟いた。別に好きでもなんでもない、むしろ嫌いや苦手といった部類の人と話すネタなんてものは持ち合わせていない。それに彼女は沈黙が苦手らしい。西園は沈黙を苦としないから一緒にいやすいが、彼女の隣で話をするというのは中々垣村にとっては厳しいことだ。

 煮え切らない態度をとり続ける垣村に呆れたのか、笹原は長いため息をついた。人の目の前でそんなため息をつくとは、なんてふてぶてしい奴だ。視界の隅にいる彼女を軽く睨みつけた。

「それ、何買ったの」

 笹原は手元にあるコンビニの袋を指さして、そう尋ねてきた。中に入っているのはお菓子が一袋だけだ。長方形の袋の中に、三日月のような茶色の菓子とピーナッツが混ざって入っている。柿ピーと呼ばれるものだ。それを袋から取り出して、彼女に見せる。

「好きなの?」

「まぁ、かなり」

「ふーん」

「……食べる?」

「ならちょっと……って、何嫌そうな顔してんの⁉ まさか、脅迫されたように思ったわけ⁉」

 半ば当たりだ、と垣村は小さく頷く。好物は家でゆっくりと一人で食べたかった。それがここで気も休まらないまま食べるというのはちょっと……いや、かなり嫌だ。自分がとても子供っぽいことを考えているのに気がついた垣村は、本当に仕方なく袋を開けようとしたが……「いや、そんなに好きならいいから」と笹原に押しとどめられる。正直なところ嬉しかった。

「何考えてるのかわかんないけど、子供っぽいところあるんだ。お菓子取られたくないとか」

「誰だって好きなものは取られたくないと思うけど」

「その反論も子供っぽい」

 普段の生活からすれば、君たちの方が子供だろうとは言わなかった。どうせ言うだけ無駄だ。

「垣村って、なんで普段イヤホンつけてるの?」

「聞きたくもない音を聞かないために、かな」

「なにそれ、変なの」

 調子が戻ってきたのか、彼女の表情もだいぶ柔らかくなってきている。口元には柔らかそうな笑みも浮かんできていて、傍目から見れば確かにかわいいんだろう。そりゃあ、あんな風に男に襲われそうにもなるはずだ。もっとも、垣村は現実で起こるとは欠片も思ってはいなかったが。しかし、現実を考え出すと少し憂鬱な気分が垣村の中に湧き上がってくる。

「……月曜から学校平気かな」

「なんで?」

「邪魔しやがってって、逆恨みされるかもしれない」

「あぁー、でも動画撮ってたでしょ? なら、大丈夫じゃん」

「撮ってないよ」

「……はぁ⁉」

 本日何度目だろう。耳元で大きな声で驚かれると、垣村も連られて驚いてしまう。

「だって、さっき……」

「ハッタリだよ。本当に最後の方しか録画してないから、決定的な場面、撮れてない」

「なのにあんな、堂々と言ったの? バレるかもしれないのに?」

「バレたって良かった。笹原さんに襲いかかったら、それを録画して警察呼んで、間に入る。俺に殴りかかったなら、笹原さんは逃げられる。どっちに転んだって、多分事は運んでたから」

「殴られても良かったって言うの?」

「良くない。けど、笹原さんが襲われるよりマシだ」

 どうせ、自己満足だ。じゃなきゃ彼女を助ける理由がない。自分で思っているよりも、優しい人物じゃないなんてわかりきっている。むしろ、自分が優しい人だと思い込んでいる時点で優しくないようなものだ。

 あくまで合理的に、自分にできることをしただけ。ただそれだけのことだ、と自分で自分を納得させるように垣村は心に言いつける。そんな垣村の返事に、笹原は不満があったようだ。

「自分のこと、蔑ろにしすぎじゃない」

「そんなことないけど……。痛いの嫌だし、俺だって自分のことがかわいくて仕方がない」

「なにそれ、垣村の言ってることおかしいよ」

 笹原は何がおかしいのか、クスクスと笑っていた。別に変なことを言ったつもりはない。考えてることがわからないのは、そっちの方じゃないのかと思った。

「……ありがとう、垣村。助かったよ」

 ひとしきり笑った後で、笹原は目線を合わせようとしない垣村の横顔に向けて、笑顔のままお礼を言う。そんな顔で言われるとも思っていなくて、不意のことに心臓が跳ね上がった。

 ……本当に、わからない。そんな吹っ切れたような笑顔で感謝されても、あの時傷つけられた傷が癒えるわけじゃない。

「別に……」

 彼女から視線を逸らし、別の方を向く。例え嫌な相手からだとしても、感謝されるというのはむず痒かった。それに、なんだか蒸し暑い。

「ねぇ、下の名前なんていうの」

「志音、だけど」

「そうだ、そんな名前だった。ちなみに私は唯香ね」

「一応忘れないようにしとく」

 下の名前で呼ぶことなんてないだろうけれど、伝えられた以上忘れてはいけないだろう。笹原は次の日には忘れているかもしれないが。

 そんな感じで話し込んでいると、だいぶ長い時間をここで過ごしていることに気がついた。携帯で時間を確認したら、次の電車の時間が迫ってきている。そろそろ帰らなければならない。

「そろそろ、電車が来そうだ」

「じゃあ、駅まで歩こうか」

「……一緒に?」

「なんで嫌な顔するわけ⁉ あんなことあったのに、私一人で帰らせる気なの⁉」

 そんなこと垣村でもわかっている。念のために聞いただけだ。自分と帰りたがるような人じゃないと心のどこかで思っていた。これで勘違いしていたら、今度こそ色々と終わりだろう。

 笹原は立ち上がって、垣村の服を引っ張るようにして立たせる。そして駅の方に向かって引っ張りながら歩いていくので、垣村も仕方なく彼女の隣にまでやってきて歩くしかなかった。

 これで変な噂がたったらどうする気なんだろう。変な矛先が向けられるのは勘弁して欲しい。ただでさえ、さっき追い払った男子生徒に逆恨みされそうで内心ビクビクしているというのに。

「垣村って、電車どっち」

「下り」

「じゃあ、電車は別なんだ」

「……まさか上って家まで送れって?」

 そうなってくると話は別だ。電車の時間を考えると、流石に笹原を家まで送るのは厳しい。いやそもそも、そこまでやってやる必要はあるのか。笹原の評価に対してどこまでやってやれるのか、垣村にはわからなくなってきていた。

「流石にそこまで言わない。これ以上迷惑かけたくないし」

「そう。下りって一時間に一本しかないから、送ってけって言われたらどうしようかと思った」

「少なっ。え、本当に一本しかないの?」

「ないよ」

 信じられないといった目で笹原に見られている。反対側、しかも下りの電車なんて彼女は見ないのだろう。一時間に一本しかないのは、今向かっている駅から下だけなのが本当に面倒だ。都会の方なら、電車は時間なんて気にしないで乗れるとか言うけれど、本当なのだろうか。

「垣村って、オタクだと思ってたけど……案外、そうでもない感じ?」

「第一、俺はオタクじゃない」

「違うの?」

「笹原さんの言うオタクは、アニメオタクとかそんな感じでしょ。俺は、アニメは見ない」

 正直アニメに関してはあまり興味がわかない。だというのに、根暗なだけでオタク扱いされてしまうのだから困ったものだ。誰も日陰なんて見やしない。見られなければ、勝手に想像されるだけ。アイツはあぁいう奴なんだって。実際垣村はそう思われているのだから。

「正直、垣村のこと誤解してたのかも」

 服を引っ張ったまま歩き続ける笹原は、微笑むように笑いながら垣村のことを見てくる。それに対して、垣村は努めて無表情を保つようにして言い返す。

「俺は、笹原さんは印象通りの人だった」

「そう。どんな?」

「人に向かってきもいって平気で言う人」

「……アレ、聞こえてたの?」

「聞こえてた」

 笑顔から一変して、どこか焦ったような顔つきになる。慣れてしまったのか、垣村の心は少しずつ穏やかになってきていた。軽口が言える程度には、調子が戻ってきているらしい。

「あれは……その場しのぎみたいな感じでっていうか……ほら、エモいとか、そんな感じで」

「俺にはJK語はわからないけど……軽々しくきもいと言うのなら、自殺者が増えるな」

「ご、ごめん……」

 顔を俯かせて、しかし歩みは止めずに進み続ける。彼女に謝られようとも、心につけられた傷はそう簡単に治るわけじゃない。生々しい傷跡を残して、未だに心臓を抉り続ける。

「……なのに、私のこと助けてくれたの?」

「正直、助けたくなかった。でも、あんな場面で助けないなんて選択、できないから」

「……調子がいいこと言うかもだけど、許してもらえない?」

「いいや、許せない」

 そう伝えた途端、掴まれている部分が更に強く握られる。笹原は顔を合わせることもできないようで、垣村もまた顔を合わせる気もなかった。

「けれど」

 そう、垣村は続ける。

「そのうち、気にならなくなることはあるかもしれない」

 いつかそれが笑い話にできるのなら。そういった道を歩めたのなら、それはそれでいいんだろう。許さない、けど気にしない。相手に贖罪させる機会を与えることくらいは、してやってもいい。先程までの会話で、垣村はそう思えるようにはなっていた。

「……ありがとう、垣村」

 一度垣村を見て、また顔を正面に戻す。彼女が先程の言葉をどう捉えたのか。わからないが、感謝されて悪い気はしない。

「なんだか、垣村のその言い回し……詩人みたい」

「……そんな大層なこと言った覚えはないけど」

 詩人と言われて、少し擽ったく感じる。その後は、互いにしばらく無言の時間が流れていた。座って話していた時は窮屈で仕方がなかった無言が、今ではあまりそうは感じない。笹原も同じように思っているのか、無理にでも会話を繋げようとはしてこなかった。

 歩き続けて数分。ようやく駅が見えてきた。スーツ姿の人が数人見えるが、幸いにも生徒の姿はなさそうだ。垣村が足を止めると、笹原も同じく足を止めて垣村のことを見てきた。

「ここまで来れば、大丈夫でしょ」

「駅まで行かないの?」

「一緒に行って、ウチの生徒がいたら変な噂がたつよ」

「……それも、そうだね」

 否定して欲しかったわけじゃないが、なんだろう。なんとなく残念だ。

 笹原は握っていた服を手放して、数歩前に歩み出てから垣村に向かって振り返る。

「本当にありがとね、垣村。また月曜日に」

「……あぁ、気をつけて」

 華やかに笑った横顔を見せながら、彼女は軽く手を振ってその場を去っていく。彼女が階段を上りきったあたりで、垣村も階段を上り始めた。

(……本当に、顔はいいんだよな)

 先程見た笑顔を思い出して、ふとそう思う。なんだかまた体が蒸し暑くなってきている気がして、垣村は手で顔を扇いだ。

 まぁ別に……嫌な奴ではないんだろう。トップカーストには変わりないんだろうけれど。

垣村の中で、少しだけ笹原に対する印象は変わっていた。



 月曜日になって垣村が学校に行っても、日常風景は何一つ変わることはなかった。前の方で話をするトップカースト、暇そうに携帯をいじっている西園。放課後辺りに例の男子生徒から呼び出しでもくらうかと恐怖していたものの、何事もなく終わりを告げるチャイムが鳴った。

 結局何も変わらない。垣村は駅のホームにある椅子に座ってそんなことを考えていた。

(結局月曜になっても何も無かったな……。いや、何も無い方がいいんだけど)

 笹原に対してあれほど視線が向かっていたというのに、今では落ち着きを取り戻している。傘を返してもらったから懸念すべきことがなくなり、注目する必要もなくなったということなのだろうか。悩むも、答えは出ない。変わらなかったのではなく、元に戻ったとも言える。

(たったひとつ小さな出来事があったとしても、世界は何も変わらない。別に変えたいとも思わないけど、でも……変えたくないとも思わないんだ)

 椅子に座ったまま両耳にイヤホンをつけ、周りから音を遮断する。そして脳内で流していく言葉の羅列。けれどもしっくりとこない。この程度の変化では、自分の中では何も変わらなかったのか。小さなため息と共に、垣村は携帯で音楽を流し始めた。好きな曲を適当に流していくと、自分の力との差を明確に理解してしまう。歌詞を作るというのは、難しいものだった。

(昔はすんなりできたはずなのに。成長するにつれて、むしろ作詞は止まってしまったみたいだ)

 垣村の好む曲はゆったりとしたものが多い。奇しくも、垣村の気に入る曲というのはラブソングが多かった。高校生たるもの、少しは甘い未来を想像したいものだ。垣村もそれに漏れず、音楽を聴きながら妄想に耽けることもある。

 そうやって流れゆく時間をいつものように無為に過ごそうとしている時だ。唐突に垣村の右耳に開放感を感じ、そこから周りの煩わしい音が響いてくるようになる。

「垣村っ!」

「ぉっ⁉」

 次いで聞こえてきたのは女子生徒が自分の名前を呼ぶ声であった。驚いてすぐに声の方を向けば、そこには立ったまま垣村を見下ろしている笹原がいる。手には垣村がつけていたイヤホンがあり、表情は眉をひそめて怒っているように思えた。驚かされて早まる鼓動といい、目の前の女子といい、まるで今から怒られるのではないかと感じてしまう。

「これだけ呼んでるのに聞こえてないとか、どんな音量で聞いてるわけ?」

「い、いや……話しかけられると思ってなくて。それよりも、なんでここに?」

「それはこっちのセリフ。ここ上りだよ」

 どこか不貞腐れつつ、笹原はイヤホンを返してくる。受け取って一応左耳のイヤホンも外した垣村は、自分がなぜ上りのホームにいるのかを説明し始めた。

「今から塾なんだよ」

「ふーん……週何回?」

「確か……月、木、土の三回かな」

 勉強は大事だ。子供の頃にもっと勉強しておけばよかった。いや、俺の頃は勉強したくてもできなかった。多くの大人はそう言って勉強を無理強いする。けれども、宛もなく砂漠をさまよう様に、勉強というのは終着点がない。

 百点を取れば終わりか。いや、終わらない。次も次も、と続いていく。では良い大学に入れば終わりか。いや、むしろそこからまた新たな勉強を始めなくてはならない。じゃあ大学院。そこまでいけば、確かに『勉強』という行為に終止符が打たれるようにも思える。

 じゃあ、良い大学ってなんだ。大学院で何を学べばいい。頭が良くなければ良い大学には行けないというけれど、行ってどうしろというのか。未だになりたい自分という曖昧な存在に、垣村は出会えていなかった。塾のある日を聞いた笹原は、興味があるのかないのか。ただもう一度、「ふーん」と軽く鼻を鳴らすように返事をするだけだった。

「一つ前の電車に乗ったりしないの?」

「その電車は人が多いから。塾が始まるまで時間があるし、それに……人混みは好きじゃない」

「こんな日陰で人が少なくなるまで待ってるってわけ?」

 笹原の言う通り、垣村の座っている椅子はホームに降りる階段の裏手にある。普通なら降りてそのまま目の前にある椅子に座るだろうが、垣村は利用人数の少ないこの場所を好んでいた。

「良いもんだよ、一人で過ごす時間って」

「つまらなそうだけど……まぁ、いいや。とりあえず、これ」

 笹原はカバンの中からコンビニの袋を取り出すと、それを垣村に押し付けてきた。何かと思い中を見てみれば、柿ピーが二種類入っている。普通のものと、わさび味のものだ。何故今これを渡してきたのか。不思議に思って垣村が彼女を見上げると、視線を逸らされてしまった。

「その、好きだって言ったじゃん、それ。一応この前のお礼のつもり」

 どこか照れくさそうに髪の毛を弄り始める。そんな彼女と袋の中身を見比べ、別にお礼を期待していたわけじゃなかったけれど、と内心思いつつ、垣村はお礼を言った。

「ありがとう。家で食べさせてもらうよ」

「お礼を言うのはこっちだし。垣村が助けてくれなかったら、今頃学校に来てないだろうしね。あっ、そういえばあの男子に何かされた?」

「いや、何も。相変わらず、平和だったよ」

「そう……ならよかった」

 そう言って笹原が近づいてきたかと思えば、何を考えているのか垣村の隣の席に腰を下ろした。距離が近い。普段感じることのない距離感と、すぐ横に座っているのが女子生徒だという事実に垣村の心臓は速まっていた。

 別に隣に座る必要もないだろうに。いや、成り行きか。確かにこの状況で間をひとつ開けて座るというのもなんだかはばかられる。仮に自分が彼女の立場だったのなら、同じように……いや、やっぱり隣には座れない。彼女は男の、しかも自分のような奴の隣に座るのに忌避感はないのだろうか。なんだか一気に情報量が増えて、垣村はパニックになりかけていた。

 しかしそんな状況にした本人は何処吹く風といったようで、どこか遠くを見つめている。何か話した方がいいのではないか。そんな焦燥に駆られ始め、垣村は彼女に問いかけた。

「……さ、笹原さんはいつもこの時間なの?」

「ん、今日は……たまたまだよ。てか、慣れたのかと思えばいきなりどもるんだね」

「自分から女子に話しかけるのが苦手なだけだよ」

 女子にというか、人全般にだが。知らない女性なんて、最悪の組み合わせだ。

「垣村ってさ、普段イヤホンつけてるじゃん。何聴いてるの?」

「何って……そりゃ、色々だよ。有名なヤツもあるし、インディーズもある」

 多少答えを濁らせた。人には人の趣味というものがある。読書、料理、お菓子作り。そういった一般的なものだったら良かったかもしれない。垣村はその他大勢という名の一般的なものから外れている。なにしろ、彼の聞く音楽の中には機械音声と呼ばれるものを使って歌を歌わせているものがあった。VOCALOID、ボカロと言われるものだ。

 世間的にオタクと言われる類に属するのだろう。だが、垣村本人は否定している。オタクではない。興味があるのはそこではなく、創作という部分だけなのだと。

「ふーん……どんな感じのが好きなの?」

「どうって……どう、なんだろう」

 個人的には静かな歌の方が好みではあった。しかし、だからといって激しい曲が嫌いかといえばそうでもない。歌詞だ。紡がれる言の葉、作者の叫びだ。それこそが垣村を引きつけるのだろう。だからこそ、どうとも言えない。曲にラブソングが多いのは、そういった叫びが顕著に現れている気がするからだ。ラブソングだけじゃない。悲恋も、斜に構えたような曲も。それが響くように聞こえたのなら、垣村にとっては素晴らしい曲だった。だからこそ……。

「心に響くような曲……かな」

 そう答えた。それに対して、笹原は一瞬キョトンとする。思いがけない答えだったからだろう。想像していなかった回答に、数秒経ってから彼女は噴き出すのを堪えるように笑い始めた。

「に、似合わない……ふふっ」

「酷いな」

 自分でも似合わないとは……いいや、ならむしろ誰が似合うというのだろう。そんな問の結論はすぐに導き出せた。顔だ。顔、顔、顔。まったくうんざりだ。例えオタクでも、格好よかったら何も思わないんだろ。そんなこと昔っから知ってるんだ。

 垣村の中学時代。容姿で馬鹿にされていた男の子がいたのを覚えている。クラスの人気者たちにからかわれては、物を隠されたりと、地味な嫌がらせを受けていた。

 自分でなくて良かったと、安堵していたのを垣村は覚えている。けれども……そこからだ。その男の子はギターを習っていたらしい。それが発覚して、皆に「似合わない」と笑われ、練習していた音楽が深夜アニメのエンディングだとバレた時も、笑われていた。

 ……けれども、笑われ続けても男の子はギターを手放さなかった。彼はそれからも練習を続けていたらしい。それを格好いいと思ったのはきっと自分だけだったのだろう。外面ばかりの他の奴らになんて、何もわかりはしないんだ。苦労も、努力も、好きなことに必死になることすらも。彼らにとっては笑い話になってしまう。

 だから、嫌いだ。トップカーストは嫌い。そのグループの一人が……今、自分の隣にいる。

「……黙りこくるのはなし。暇だから何か話してよ」

「携帯でも適当に見ていなよ。暇つぶしにはなる」

「隣に話し相手がいるのに?」

「あぁ。何も気にしない」

 なんで彼女は隣にいるのだろうか。いや、今回はお礼を渡すために話しかける必要があった。だとすれば、きっとこれが最後なんだろう。自分と一緒にいる理由なんて、もうないはずだ。

 お互い話すことがなくなり、携帯を弄り始める。やがて、上りの電車が目の前までやってきた。いつも通り、電車の中はガラガラで、生徒らしき人は遠くの方に数人いる程度だ。

「本当だ。この時間人少ないね」

「気遣う必要がないから、楽でいいよ」

 そう言って垣村は椅子の一番端に腰を下ろす。横にもう一人座れる場所があるが、手摺りがあって、並んで座ると少し狭く感じる。だから彼女は一つ空けて座ると思っていたのだが……。

「よいしょっと」

 躊躇うこともなく垣村の隣に腰を下ろした。これには流石に垣村も動揺する。隣に座る必要はないだろう。いや、まさかトップカーストはこれが普通なのだろうか。

「隣座ってると、変な噂たてられるかもよ」

「平気じゃない? 人いないし」

 いいや、これは意識されていないのだろう。なるほど、なら納得がいく。小さくため息をついた垣村は、これが最後だろうと思いながら膝の上にあるカバンを寄せて腕の中に抱いた。

 彼女はトップカースト。自分が忌避すべき存在。だというのに、なんでこんなことになったんだろうか。原因は自分にあるような気もするけれど……それも、終わりだ。

 彼女が自分と一緒に帰る理由も、これでなくなるのだから。


   【☆】


 月曜日が好きな人は、多分少ないだろう。しかし笹原の心の内では、月曜日に対する憎さ半分、好奇心半分であった。その好奇心の正体は、先日助けてくれた垣村に対してのものだ。

 流石に言葉だけのお礼では足りない程のことをしてくれた。だから、彼が好きだと言った柿ピーを買って渡そうというのも、別に不思議なことじゃないはず。話しかける口実にもなる。そう思って、学校に行く途中でコンビニに寄り二種類の柿ピーを買っていく。どっちが好きなのかわからなかったし、もしかしたら両方好きかもしれない。両方好きなら、嬉しさ二倍。なんて、バカみたいなことを考えてみる。ほんの少し、放課後が楽しみだった。

「唯ちゃん、おっはよー」

 教室に着けば、毎度のように明るい声で紗綾が挨拶してくる。「おはよ、紗綾」と笹原も返事を返し、自分の席に座った。

「ねぇねぇ、昨日テレビでやってたドラマ見た?」

「あー、見た見た。やっぱり主演の俳優さん、演技もいいし、顔もよかったよね」 

 紗綾の話に答えつつ、カバンの中から荷物を出す。そんな単調な作業の間に、笹原の視線は自然と彼の机付近を盗み見るようになっていた。意識はしていない。本当に、ごく自然と見てしまっていた。あの雨の日から、随分と彼のことを無意識に目で追ってしまっている。

(話せるのは……放課後かぁ)

 そんなことを、一日に何度も考えていた。授業中に時計を見て、いつもなら早く終わらないかなと退屈で仕方なかったけれど……今日に限っては、退屈というよりかは焦りに近かったのかもしれない。早く、早く、と急くような気分になって、どうにも落ち着かない。

 トイレから帰ってきて教室に入る際には、見渡すような感じで窓際の後方を見る。相変わらず両耳にイヤホンをしたまま。何を聞いているんだろう、と少し不思議に思ってみたりした。

 そして……そういう日に限って、時間の流れは遅く感じてしまう。昼休みまでが本当に長くて、六限目が終わる頃には笹原の心臓が焦りすぎて疲弊しているかのようだった。けれども、ようやく。ちょっとした期待のようなものに胸を踊らせながら、放課後はやってきた。

(さて、垣村の奴は……)

 チラッと盗み見たら、垣村は西園と話している最中だった。西園が携帯を見せながら何かを自慢しているらしい。それを垣村は、ただ優しく笑いながら相槌を返している。

 そういえば、自分の前では笑っているところを見たことがない。あの夜は、彼は一度たりとも笑うどころか微笑みすらしなかった。なんだろう、西園に負けている気がして少し癪に障る。

「唯ちゃん、なにぼーっとしてるの?」

「あっ、紗綾。なんでもないよ。やっと学校終わったなーって思ってさ」

「学校が終わっても、ウチらは部活あるんだよねー」

 目の前で「帰宅部はいいなぁ」なんて紗綾は言う。けれど、前に紗綾が部活をしているところを見たときは……随分と楽しそうに部活をしていたと思う。部活をしているからこそ、帰宅部に対する羨望みたいなものがあるのかな。

「そういえば、この前の練習試合で(あや)()がすっごい格好いい人見つけてさ。これこれ、見てよ」

 紗綾が携帯の画面を見せてくる。そこには、多分サッカー部の男の子が映っていた。髪の毛はワックスで固められていて、それほど筋肉質って訳でもない。ちょいワル系みたいな感じ。

 件の彩香は松本と話しているけれど……よくまぁ見つけてすぐに写真なんて撮れるね。私にはちょっとできる気がしない。垣村は写真なんて撮らせてくれないだろうし。

(……いやいや、なんで垣村が出てくるし)

 あっ、そういえば垣村は。完全に意識の外になっていて忘れてしまっていた。首をちょっと動かして、視界の隅に入れる形で垣村の机を見る。

(……いなくなってるし)

 いつの間にいなくなったのか、机にはもう誰もいなかった。これではお礼を渡すどころか話すことさえできない。せっかく放課後まで待ったのに、また明日待つというのは中々に堪える。

「じゃあ、私たち部活行くね。バイバイ、唯ちゃん」

「あっ……うん。バイバイ」

 笑いながら、紗綾は彩香を引き連れて部活へと向かっていく。あの楽しそうな笑いが、笹原にほんの少し怒りの気持ちを湧かせた。せっかく待ったのに、こんな仕打ちになるなんて。

 でも……仕方がない、か。また明日も学校に来れば会えるんだから。話す機会は……なんて、前も考えていた気がする。傘は結局、自分から話しかけて返せなかったじゃないか。

(あぁ……垣村が、もっと格好よかったらな。もしくは、もっと積極的だったら)

 そしたら、カースト下位になんていないし、話しかけやすい。けれども、それは垣村なのだろうか。あの垣村だからこそ、話してみたいと思っているんじゃないか。

 けど、好き好んでカースト下位になんていたくもないはず。髪型を変えるとか、あのイヤホンもやめれば、多少クラスカーストは上がるんじゃないかな。あとは、挙動不審をなくすとか。

(……気がつけば垣村のことばかりだ)

 好き? いや、ない。断じて。これはちょっとした物珍しさとか、そんなものだ。第一、付き合うなら格好いい人がいい。

 そんなことを考えながら荷物を纏めて、笹原は教室から出ていく。その足取りは少し重く、緩やかであった。坂を下って、今朝も通ったコンビニの横を素通りし、駅にまでやってくる。

(そういえば、アイツ下りなんだっけ)

 以前垣村が言っていたことを思い出した。電車は一時間に一本しかないと。もしかしたら、まだ残っているのかな……なんて思いつつ、笹原はいつも使う上りのホームに降りていく。普段よりもゆっくりと歩いてきたせいか、生徒はあまり見かけない。

(向こう側の……どっかにいるのかな)

 向かい側のホームを見ながら、隅から隅まで移動するつもりだった。けれども、階段の下にある椅子まで歩いてきたら……イヤホンをつけた、ある意味最近見慣れたその姿が目に入ってきた。垣村が、何故か上りのホームにいる。不思議だったけれど、これはこれで運が良かった。

 周りに知ってる人はいなさそうだ。それを確認し終えると、笹原は彼の近くまで近寄っていく。そして少し小さな声で、彼の名前を呼んだ。

「垣村」

 けれども彼は気がつかない。仕方がない、今度はもう少し大きな声で。

「垣村っ」

 二度目にも反応がない。彼は真っ暗な携帯の画面を見つめたままで、笹原に気がつく素振りすら見せない。そんな態度に笹原は、ほんのちょっとだけムカッときて、すぐ隣まで歩いていくと彼の右耳から強引にイヤホンを奪い去った。

「垣村っ!」

「ぉっ⁉」

 驚き目を見開いた彼の声に、思わず笑ってしまいそうになる。なんだ、今の声。おかしな発音だった。けれど、笑ってしまったら変に思われるだろう。それにちょっと怒っているんだから……と、笹原は眉をひそめて彼のことを見下ろした。

 彼は話しかけられると思っていなかったらしい。今日は塾に通うために上りのホームにいたみたいだ。高校受験以来、塾に通っていない。大学受験が近くなったら、きっと行くことになるんだろう。彼は月曜日と木曜日、そして土曜日の週三回、この次の時間の電車で上っていくらしい。なるほど、少なくとも週二回はこの時間に来ればここで話すことができそうだ。

 そうそう、忘れてはいけない。お礼の柿ピーを渡さなくちゃ。

カバンの中から取り出して彼に渡す。そしたら垣村は……本当にキョトンとした顔で見上げてきた。そんな反応をされると少し言い出しづらい。

「その、好きだって言ったじゃん、それ。一応この前のお礼のつもり」

 なんで、こっちが恥ずかしがっているんだろう。思わず視線を逸らしてしまった。その逸らした先には、カップルらしき学生がいて、思わずハッとなる。前に襲いかかってきた男子生徒に、垣村は何もされなかっただろうか。

 聞いてみたら、何もなかったらしい。その事実にホッと胸をなでおろした。これで嫌がらせとかされていたら、どうすればよかったのか。初手の印象も悪かったし、これ以上変に嫌われるようなことをしたくはない。

 まぁなんにしても、何もないのならよかった。電車が来るまで時間もあるし、椅子に座って話でもしてみようか。そう思ったけれど……これ、隣に座るべきかな。一個あけて座るのは、ちょっと距離を感じるというか、嫌がってるって思われそう。ここは、隣に座ってみよう。

 ほんのちょっと意を決して、彼の隣に座る。チラッと彼の顔を見てみるけれど、済ました顔で向かい側のホームを見ていた。これじゃ、自分だけが変に意識しているみたいじゃないか。

少し恥ずかしくて、笹原はカバンを抱えたまま同じように向かい側のホームを見つめ始める。

「……さ、笹原さんはいつもこの時間なの?」

 初めてまともに話した時のように、垣村は若干どもりながら話しかけてきた。そんな彼の反応に思わず笑いそうになる。今日はいつもより遅く駅に来たけれど、その理由は垣村のことを待っていたからだ。気がついたら先に帰られていたけれど。でも、そんなこと言えるわけもなく、たまたまだよと返事を返した。

 その後の会話も、垣村はちょっと距離を測りかねているというか、ビビっているというか。そんな小心者の彼を見ていると、思わず虐めたくなってしまうのは変だろうか。

 いつもイヤホンをつけている彼。一体何を聞いているのか、尋ねてみた。それと、どんな感じの曲が好きなのかも。案外ロックとか聞くのかな、なんて思っていたら……。

「心に響くような曲……かな」

 一瞬何を言ったのか理解できなかったけど、すぐにその意味を理解して、流石に笑うのを堪えきれなかった。予想外も予想外。普通の男子からは聞けるはずもない台詞が飛び出してきた。言った本人は恥ずかしそうにそっぽを向いているし。

 あぁ、なるほど。だから面白いんだ。普通の男子と話していても、普通の答えしか返ってこないから。けれど垣村は違う。普通とはちょっと違っているから、その答えも笹原の想像の斜め下か、上を行く。だから、話してみたいって感じたのかもしれない。

 ほらまた、隣に女子がいるのに携帯を弄り始める。普通はありえない、女の子を放っておくなんて。けれども、なんだろう。不思議とそれを悪いとは感じなかった。隣にいても何もしないという、微妙な距離感にどこか安らぎすら感じている。気を張る必要がないから、なのかな。

 そのうち電車がやってきて、笹原と垣村は同じ車両に乗り込む。垣村が言うように、この時間は生徒がほとんどいない。電車の中はガラガラだった。彼は「気遣う必要がないから、楽でいいよ」だなんて言って、一番端の椅子に座るけれど……私には気遣ってくれてもいいんじゃないか、と笹原は内心ムッとする。端の椅子には、誰だって座りたいだろう。だからささやかな仕返しの意味も込めて、笹原は彼の隣に腰を下ろした。ちょっとだけ体を近づけてみたりしたけれど、やっぱり彼は動じない。

「隣座ってると、変な噂たてられるかもよ」

 人に気遣わないくせに、こういうところは気が回るのか。まぁ、人もいないし平気だろう。笹原はそう答えて、電車の揺れに身を任せ始めた。隣に座る彼は、何をするでもなくカバンを抱えたまま、どこかを見つめている。結局、この日も彼は笹原に向けて笑うことはなかった。


   【♪】


 塾の講師からは空いている時間に英単語を覚えろ、とよく言われる。けれど、塾が終わってそうそうにそんなことができる訳もない。夕方に塾が始まり、外が暗くなり始める頃に終わる。塾内の静かな雰囲気とは異なって、一歩でも外に出てみれば賑やかとも五月蝿いともとれる喧騒が耳を《劈つんざ》くように刺激した。それは少し好みじゃない。垣村は両耳にイヤホンをつけ、左手だけをズボンのポケットに入れながら歩きだした。

 駅に向かって歩くと、すれ違うのは大学生らしき人たちやスーツ姿の社会人。疲れた顔や、笑ってる顔。自分はどちらになるのだろう。年中疲れた顔をしている気がしてならない。最近は将来のことで不安になることが多かった。残念ながら、両親とはあまり話をすることがない。垣村はその心の内を誰かに話して解消するという機会がなかった。

 途中、イヤホンをしているのに大きな音が聞こえてくるようになった。バイクの音だ。意味もなくエンジンをふかし、自己主張するようにハイスピードで駆け回る。周りの鬱陶しそうな目に、彼は気がつくことはないんだろう。いや、むしろ気づいてやっているのか。どちらでもいいが、煩わしい音だ。なんて醜い雑音だ。その音で耳を壊すのをやめてくれ。

遠ざかっていくバイク乗りの背中に向けて、眉をひそめて睨みつける。どこかに行けという念が伝わったのか、目の前の信号を右折して街のどこかへと消え去って行った。

 次第に音は小さくなっていき、イヤホンには最近話題になっている歌手の失恋ソングが再び息を吹き返す。穏やかで、しかし激しい。サビに入る時のアップテンポになる瞬間が、とても心地よい。思わず鳥肌がたってしまうほどに。

 あぁ、いい曲だ。そんなことを考えながら道を歩いていると、駅の方から流れてくる人の中にどこかで見たような男の人をみつけた。よれた黒いスーツがどうにも仕事のできなさそうな印象を与えるが、けれども不思議と似合っている。仕事用の鞄を肩に背負うように持ち歩くその姿を一言で表すのならば、だらしないとでも言うのだろう。見間違えでなければ、それは垣村の友人である西園の叔父だった。垣村が見ているのがわかったのか、彼の方はへらへらとした緩みきった顔で近づいてくる。仕方なく、彼は耳からイヤホンを取り外して歩み寄った。

「やー、どうも。確かしょー君と一緒にいた……カキッピーだったっけ?」

「垣村 志音です。そんなお菓子みたいな名前じゃありません」

「まぁまぁそんな堅いこと言わずに。塾帰り? 学生は学生で大変だねー」

 軽い。そのノリも、態度も、何もかもが軽い。しかも会うのはまだ二度目だというのに、カキッピーなんて呼んでくる始末。精神年齢が幼いまま体だけ育ってしまったのではないか。

垣村は彼に気づかれないように小さくため息をついた。学校のトップカーストとまではいかないが、それなりに相手をするのに疲れるタイプかもしれない。

 そんな垣村の内心なんて知らない庄司は、柔らかい笑みを崩さないまま話を続けてくる。

「オジさんはさ、会社の飲み会が面倒くさくてねぇ。用事があるって言って帰ってきたのよ。でも、なんだかんだ言ってお酒は飲みたい。そんな気分なんだよねー」

 答えにづらくて「はぁ……」とのっぴきらない返事を返す垣村だが、庄司はどうやら逃がす気がないらしい。左腕の袖を少しまくって腕時計で時間を確認すると、垣村に「今時間ある?」と尋ねてきた。まさかこんな未成年を飲みに誘う気なのだろうか。内心断りたい気持ちでいっぱいであったが、垣村には親しくない人と話すためのスキルがない。その提案を断るというのが難しかった。嫌という一言が言えなかったのだ。「えぇ、まぁ……」なんて曖昧な返事を返してしまったが最後。庄司は満面の笑みを浮かべて、垣村の肩を叩いて歩き出してしまった。

「よーし、じゃあオジさんのオススメの場所に連れて行ってしんぜよう! お酒は飲ませられないけど、おつまみ代は出すよー」

 なんて言うものだから、奢りならいいかと少しだけ気分を持ち直し、庄司の隣を歩く形で彼のオススメだというお店まで向かっていくのだった。



「いやー、この仕事終わったあとのビールって中毒性があるよねぇ。良いつまみもあるしさー」

 大通りから少し逸れた場所にある小さな居酒屋。そこのテーブル席で腰掛けて、頼んだビールを庄司は呷るようにして飲んでいった。もちろん垣村はお酒を飲むつもりはない。頼んだコーラをチビチビと飲みながら、タレがふんだんにかかった焼き鳥を口の中に運んでいく。

「この店、焼き鳥と唐揚げが美味いんだよね。なにしろ、このタレがいいのなんの。昼間も居酒屋じゃなくて焼き鳥と唐揚げ売ってるから、友達と買いに来なよ。オジさんが若い頃は、よく友達と買いに来たもんさ」

 確かに彼の言うとおり。焼き鳥は程よく柔らかくて、甘めのタレがとても美味しい。なんともお米が欲しくなるが、奢られる身である。贅沢なことを言える立場じゃない。けれども塾帰りでお腹も減っていて、そんな状態で味の濃い美味いものを食べれば、自然と頬が緩んでいくというもの。緊張はどこへやら、垣村は目の前にある焼き鳥に夢中になっていた。

「……そういえば、どうして自分なんかとこんな場所に来たんですか?」

 暗に、まだ会うのは二度目ですよねということも示唆する。庄司はその言葉に対して一口ビールを口に含んだ後で、ニヤニヤと笑いながら答えてきた。

「ビールにはつまみが欲しくなる。しょっぱいものでも、甘いものでもいい。まぁ要するに、カキッピーの青春時代を酒の肴にしようってことさ」

「そんな大層な話なんてもの、ありませんよ」

「いやいや、高校生といえば激動の時代さ。思春期拗らせちゃった男女の、甘い恋。苦い失恋。いいねぇ、酒が進むよ」

 そんなことを言いながら庄司は「枝豆ひとつお願いしまーす」と、更におつまみを増やすようだった。高校の話なんてものは西園から聞けばいいだろうに、と垣村は思う。なにせ、期待に添えるような話はない。彼女いない歴イコール年齢。甘い話も、浮ついた話もない。まぁ、苦い経験なら最近したことはあるが、それは今後何も影響することはないだろう。

「んで、実際どうなのカキッピー。彼女とかいるの?」

「いないですよ。浮ついた話なら西園……翔多の方があると思いますけど」

「んー、しょー君に聞くのもいいけどねぇ。まぁ近くにいたし、運が悪かったってことでさぁ。じゃあ、チャチャッと言ってみよー」

 普段の様子と何ら変わりない酔っ払い。急かすように言われるが、垣村には特に話せることもない。友人と遊ぶことも少ないし、他人に話せるような趣味というものを持ち合わせていない。西園相手であればくだらない話でもするのだろうが、相手は社会人。どうしろというのか。

 なかなか話し出さない垣村の様子に、庄司は苦笑いを浮かべて「あぁ、そういうことかぁ」と一人で納得し始めた。

「カキッピーはあれか。あんまりイケイケ系じゃない感じ?」

「……翔多と違って、自分は完全に陰キャなので。女子と話すことすら億劫なコミュ障ですよ」

「いやぁ、女子と話すのが苦手か。わかるわかる。最近SNSとか物騒だしねぇ。何かやったら悪口書き込まれたり、写真載っけられたりするんでしょ? オジさんだったらすぐ載せられちゃいそうだなぁ」

 彼の言う通りで、確かに垣村も女子……というか、女子高生が割と怖い。水面下ではバチバチと火花を散らすような小競り合いを繰り広げているらしいが、いざ結託すると垣村のような男子生徒はボコボコにされてしまうだろう。身体的にも、社会的にも、精神的にも。

「まぁ……内容が悪かったかなぁ。じゃあ何か相談事とかない? オジさん、これでも社会人だからさー。何か話しをしてあげられるかもしれないよ? ロクな道歩いてないけどね」

 あははーっととぼけるように笑う庄司に対して、垣村はどうするべきなのかを悩んでいた。相談事。親に話す機会はないが、この人に話していいものなのか。そもそも、この人に話して何か変わるのか。薄っぺらくて、いつもへらへらニヤニヤと笑っているような男なのに。

「……将来のこととか、庄司さんはどんな風に考えていましたか?」

 考え抜いた結論は、ダメ元でいいから話してみるだった。満足のいく答えが返ってくるとは思っていない。けれど、その言葉のひとつが自分の道を少しでも増やせるかもしれない。そんな淡い期待を微かに込めながら、彼は相談してみた。

「なぁるほど。それもまた、思春期特有だねぇ」

「─────ッ」

 垣村はその一瞬で息を飲んだ。声音も変わっていない。態度も変わっていない。だが、庄司の目は先程よりも鋭く細められていた。ニヤニヤと笑っている時のような、柔らかい目つきではない。話し方は何も変わっていないはずなのに、まるで人が変わってしまったように思えた。

「オジさんは、特に将来とか何も考えてなかったなぁ。普通に大学いって、就職してって感じ。ただまぁ……昔っから変わらないのは、今を楽に生きるために精一杯頑張るってことかな」

「……楽に生きるために、頑張る?」

「そうそう。何もしないのは楽だけど、それってなんだか嫌じゃない? 楽はしたいけど、怠けたいわけじゃないんだな、これが。だからこそ、精一杯楽をする。いつだってそう。これからもそう。定時退社するために、オジさん毎日頑張ってるのよ」

 うんうん、と小さく頷きながら手元にあるビールを一口飲み込んだ。その目は鋭さを失い、また柔らかい雰囲気が戻ってきている。あの一瞬の、嫌に真剣な雰囲気はなんだったのだろうか。あの時だけ、息が詰まるような緊迫感があった。今も少しだけ、腕がピリピリとしている。

「息が詰まる生活は、したくないよねぇ。らくーに生きて、苦しまずに死にたい訳よ」

「随分と、軽いんですね」

「身軽なのはいいもんだよ。そのうち、空でも飛べる気がしてくるんだ。ほら、風船とかでさ」

 冗談を言いつつ、枝豆を口の中に放り込んでいく。そしてまたビールを飲む。それが至福を感じる行動なのだとハッキリわかるくらい、彼の顔は緩んでいた。人生を楽しんでいるのだというのが、目に見えてわかる。結局は、垣村のように悩む者より、普段ダラダラとしているトップカーストの人たちの方が世渡り的にも上手くやっていけるという事なのだろうか。

「庄司さんは、学校のトップカーストとかどう思いますか?」

「んー、オジさんの頃はカースト制度とか、なかったような気がしなくもないんだけどねぇ」

 いや、多分あなたが気づいていないだけ。そう言いたくなるのを垣村はぐっと堪えた。普段からこんな態度なら、カースト中位から上位の間辺りを知らぬ間にのらりくらりとしていたことだろう。敵を作らないようなタイプの人だ。

「トップカーストは、何をしても許されるし、上手くいく。そう思えて仕方がないんです」

「ハハッ、そりゃ君の自信がないのが原因だね。周りが好き勝手に動く中で、自分だけが枷によって行動が制限される。そうなると窮屈になって、自信はどんどん失われていく。すると、周りが羨ましくなるのさ。間に物凄い差が開いているような気がして、ね」

 焼き鳥を食べ終えたあとの串を垣村に向けながら、普段の物言いとは考えられないほど真面目な回答が返ってくる。やはり答える時には、彼の目つきは少しだけ鋭くなっていた。なるほど、どうやら彼は相談事には真面目に取り組むタイプらしい。普段の態度はともかく、その辺は垣村にとって有難いことではあった。その後、庄司には酒が回っていき、どんどん饒舌になっていく。それにつられる様に、垣村の口数もだんだんと増えていった。

「……雨が降ってる時に、トップカーストの女子に傘を貸したんです。いや、貸したというよりは、なんというかアレな感じだったんですけど……」

「ほーん。んで、その傘が返って来るのが割と後の方だったと」

「はい……。ちょっとしたアクシデントみたいなのがあって、その時に」

 つまらない話になるだろうが、と垣村はあの忌々しき日のことを話してみた。女子という単語が出た瞬間、庄司の目がキラキラと輝いて、華々しい展開を期待するかのように話を急かし始める。グイグイとくる庄司に対してどうすることもできず、話さなくてもいいようなことまで曖昧にぼかしつつ話してしまった。それらが一通り話し終わった時には、庄司は今日一番の笑い声を上げて垣村をからかう様に言ったのだ。

「アッハッハッハ! いやいや、カキッピーったらちゃんと青春してるじゃない!」

 青春、なのだろうか。あの苦々しい日を青春の一ページだというのならば、垣村には甘い春は来ないだろう。実った果実はずっと苦々しい青のままで。どうせこの後何が起こることもないだろう、と垣村は予想していた。果実が熟れることはなく、種が芽吹く春も来ず。落ちて枯れてしまうのだろう。それが垣村 志音の今までの人生だったのだから。



 教室の片隅。いつものように両耳にイヤホンをつけて外界からの音を遮断する。周りの生徒たちが今日の日課や、近づいてきた小テストについての話をしている中で、ただ一人携帯の画面を睨みつける。そこには時間ごとのグラフが示されていて、100や200といった数字も刻まれていた。それらを見つめて、垣村は誰にもわからないように小さくため息をつく。

 それは多くの一般人が利用している小説投稿サイト。垣村もその利用者の一員であった。ランキングに載るような小説を書いているわけではないが、彼は一作家だ。無論、誰かに評価されたいなどの欲もある。しかし、現実はそうではない。ランキングに載っているものと自分の作品を比べては、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるのだ。評価を見てみればわかる。自分の作品は劣っているのだと。けれども……一体どこが劣っているのだろう。書き方、語彙、キャラクター。どれも劣ってはいないと自負していた。けれども、彼の作品は読まれない。

 流行というものはいつだって存在する。近頃の女子高生は机を囲んで雑誌を読んだりはせず、訳の分からない踊りをSNSに投稿するのが流行りらしい。もちろんその小説投稿サイトにも流行というものはあった。それはタイトル。人間で言うところの、外見だ。そのタイトルを見れば中身もわかる。そんな長いタイトルが流行りで、しかし垣村はそれに逆らっていた。周りと同じ。それは、個性がないのでは。そう思ってしまったから。誰だってそうだ。自分だけは何かしらの特別でありたいという、自分の存在証明。それを得たかったのだ。

(……中身を読まず、外見で判断する。まるで人間みたいだ)

 外見よりも中身で評価されたい。垣村はそう思う側だった。けれども、彼はカースト下位の生徒であり、彼をよく知らない生徒は外見で判断するだろう。根暗オタク、と。馬鹿馬鹿しい話ではあるが、何も行動を起こさない垣村にも非はある。だからといって、行動を起こせるわけではないのだが。明日も明後日も、垣村は両耳にイヤホンをつけて生活するのだろう。

「志音、おはよー」

 右耳から圧迫感がなくなり、代わりに聞こえてきたのは西園の声だ。横を見れば、朝早くで鬱屈する時間帯だというのに、彼はへらへらと柔らかい笑みを浮かべている。それを見ていると、垣村は羨ましく思えて仕方なかった。西園は劣等感を感じたりしなさそうであったから。

「おはよう」

「進捗どうですかー?」

「編集者みたいなこと言うのやめて」

 からからと笑いながら西園は垣村の机に腰かけた。彼は垣村が小説を書いているのを知っているし、他にもいろいろな事をやっているのも知っている。最初は明かす気はなかったものの、西園はそういったものを悪く言ったりはしないだろうとわかってから、特に隠すことなく話してしまった。時折こうして携帯を覗き込んでは「伸びないねー」なんて軽口を叩いてくる。垣村もそんなことはわかっているのだが、他の人から事実を突きつけられると、やはり少しはしょんぼりとしてしまうものだ。「ほっとけ」と西園の脇腹を軽く小突く。相変わらず、西園はへらへらとした笑みを崩さない。それを見ていると、つい昨日庄司と会ったことを思い出す。

「そういえば、昨日庄司さんに会ったよ」

「マジで?」

「半ば無理やり、居酒屋に連れて行かれたかな」

 悪い思い出ではない。焼き鳥は美味しかったし、庄司はなんだかんだ言って面倒見が良さそうだった。性格上、子どもと波長が合わせやすいのだろう。話を聞いた西園は「いいなー、羨ましい」と笑っていた。彼は本当に庄司のことを慕っているらしい。

「なぁなぁ、庄司さんどうだった?」

 いつか聞いた質問だった。以前垣村はその質問に対して、曖昧な言葉を返すばかりであったが……今はちゃんと答えを伝えられる。

「……まぁ、良い人だね」

「だろ?」

 まるで自分が褒められているみたいに西園は笑った。庄司は相談事に真剣に乗ってくれて、他愛のない話で少しは盛上がることができた。人見知りの垣村が話しやすいように向こうから話題を振ってくれたり、くだらないギャグを挟んできたり。悪い人ではない。そう、簡潔に答えるとするなら、良い人だという一言に尽きる。

「志音も庄司さん目指して生きてみようぜ」

「それはない」

 それとこれとは別である。あの様な軽々しい雰囲気は自分には似合わない。あれは庄司だからこそ適しているのだ。けれども、憧れがないわけでもない。西園が庄司のようになりたいと言うのも、垣村はちょっとだけ理解できるような気がした。しっかりした大人ではないけれど、良い人だから。見た目の軽薄さとは裏腹に、中身はちゃんとしている。

(……あぁ、そっか)

 結局は、関わらない限り他人について知りようもないのだ。だからこそ想像するしかない。外見で判断してしまうのも、仕方のないことなのかもしれない。少しだけ現実を痛感しつつも、垣村は西園と一緒に時間になるまで庄司についての話で盛り上がった。珍しくお互い、笑いが絶えない話題だったのだ。



 帰りのホームルームが終わって、教室内の生徒たちは自分のカバンを持ち、友人たちと語らいながら教室から出ていく。部活、委員会。それらの活動から縁のない垣村と西園は、基本的に一緒に下校している。とはいっても、駅まで一緒に帰るだけだが。さすがにニケツで帰れば怒られてしまうので、学校の前にある長い坂を自転車を押す西園と共に下っていく。陽はまだまだ高い。斜めから刺すようにして放射される日光のせいで溶けてしまいそうだ。ワイシャツの背中側は汗のせいで少し引っ付いているような感覚がある。「夏って嫌だねー」という西園の言葉に対して、「耳にタコができるほど聞いたよ」と呆れるように返事を返した。

「たまーにさ、この坂をノンストップで駆け下りたくならない?」

「こけるだろうけど、やってみたくはある」

「だよねー。自転車でやったら事故りそうだからやらないけど」

 こうして友人と呼べる人と一緒に坂を下って下校している自分を、ちょっと俯瞰するように考えてみる。それは何の変哲もないことだけど、なんとなく特別感があった。まるで自分が青春を謳歌する普通の学生のように思える。いや、自分は学生だけれども、普通ではない。普通というのはきっと、今頃部活に励むトップカーストのような人たちだろう。けれども、今この瞬間だけはまるで主人公にでもなったみたいな、そんな感覚があった。西園も垣村と同じように考えているのか、眩しい空を細目で見ながら話を続けてくる。

「こーやって何気なーく帰るのって、なんか高校生っぽいよなー。駅前でクレープでも食う?」

「それはどちらかと言えば、JKっぽいよね」

「JKって言い方は普通な気がするけど、男子高校生のことをDKって言わないよねー」

「ゴリラかよ」

 なんとなくいつもよりも気分高目で彼らは帰路を歩いていく。坂を下りきって少し歩くと、小さな公園が見えてきた。公園と言っても、ブランコやシーソーくらいしかない本当に小さなものだ。端の方では小学生たちが元気に走り回って遊んでいる。半袖短パンで動き回る彼らを見ていると、自分にもあんな時期があったなと感慨深い思いに駆られた。初対面との会話が苦手になったのは、中学生からだったか。小学生の頃は、あんなふうに遊んでいたはずなのに。

時の流れは残酷だな、と垣村は小さくため息をついた。そして、ふと横を見て見たら……隣を歩いているはずの西園の姿がない。振り返ればすぐそこで西園は自転車と共に立ち止まっていた。公園の中を見つめたまま、動かない。

「西園、どうかしたの?」

「んー、いや……アレ」

 西園の指さす方向には倒れているゴミ箱があった。蓋もない、鉄で作られた簡素なものだが……それが風で倒されたという訳ではないだろう。中に入っていたはずのゴミは無残にも近くに転がったままだ。遠くまで飛んでいたり、動いたりしたような形跡はない。最近倒れたのだろう、と垣村は予想していた。それを西園は、いつもの笑みを浮かべることなく見つめている。

「……はぁ」

 今度は西園にも聞こえるようなため息をついて、彼は西園の隣にまで歩み寄っていく。

「……かたすか?」

 面倒だけれども、仕方がない。そんな意を込めた言葉だったが、西園は一瞬だけハッと表情を固めたあと、いつものように笑いながら「やるかー」と言って自転車を停めた。そして垣村と一緒に散乱するゴミの元へ向かう。プラスチックの弁当箱、カップ麺、お菓子のゴミ。あまり手で触りたくはないが、手袋のようなものを持っているわけでもない。幸いにも、すぐ近くには公園に設置された水道がある。手を洗うには困らないだろう。それでも触りたくはないが。

「まったく、誰がやったんだか」

「だよねー。こんな重いゴミ箱、風じゃ倒れないし」

「おおかた、そこいらで遊んでる子供じゃない? 倒れてから時間経ってないよ、コレ」

「おっ、名推理ですか?」

「見りゃわかるよ。それより、手を動かして欲しいな。俺だけにかたさせるつもり?」

「いやいや、ちゃんとやるってー」

 それなりに多くのゴミが散らばっていたのだが、二人してパッパと集めてしまえば事の他早く終わるものだった。日照りがキツく、暑い中ゴミ拾いをしていた二人の額には汗が滲み出ている。垣村の頬をツーッと垂れていった汗が地面に斑点を作っていく。

ゴミを拾いきった垣村はすぐに水道で手を洗い始めた。ついでとばかりに、頭から水を被る。冷たい水が熱を奪いさり、不思議と幸福だという感情が湧き上がってきた。この感情は、ゴミ拾いを経験しなければ感じることもなかったのだろうと思うと、少し得をした気分になる。

「あっぢぃよー。志音、俺も水浴びさしてー」

「はいはい」

 十分堪能した垣村は水浴びをやめて、タオルで風呂上がりのように頭をガシガシと荒く拭いていく。西園も垣村と同じように頭から水を被って「あぁー」っと気の抜けた声を出していた。

気持ちはわかる。心地良さそうな友人の姿を後ろから眺めながら、ひっそりと笑っていた。

 やがて西園も水浴びをやめて、タオルで頭を拭きとっていく。気温は高いが、時折吹く風が半乾きの頭を優しく撫でつけていくのが涼しくて気分がいい。特に帰る気にもなれなかったので、休憩がてらに垣村は近くにあったベンチに座り込んだ。頭上にはいい感じに木が生えていて、日陰になっている。日向と日陰では、随分と温度差が違う。やはり日陰は心地よい。

「志音、コーラとサイダーどっちがいい?」

 西園の声が聞こえて、見てみれば彼は両手に二つのペットボトルの飲料を持っていた。「金ならいいよー」と言うので、お礼を言ってからサイダーを手に取る。そして二人でベンチに座って、呷るように炭酸飲料を喉の奥へと流し込んでいった。シュワシュワとした感覚が喉元を通り過ぎ、爽快感が体を駆け抜ける。同じタイミングで口を離して、「ぷはっ」と言葉を漏らした。

「いやー、こういう時の炭酸っていいよなー」

「わかる。めっちゃ美味い」

 互いにひとしきり笑いあった後で、少しの間沈黙が二人の間に生まれる。疲れていた垣村はベンチに背中を預けて、青空に浮かぶ雲の数を数え始めていた。そんな時だ。

「ありがとね、志音」

 隣からお礼の言葉が聞こえてきた。それも、いつもよりかなり真剣な声で。間延びしない彼の声を聞いたのはいつぶりだろう。いや、初めてか。あまりにも珍しかったものだから、垣村は少しの間固まってしまっていた。それを見た西園はいつもの笑いに戻って、話を続けてくる。

「いやさ……例えば松本とか。あぁいったメンバーと一緒にいたら、俺はきっと見て見ぬふりをしたと思うんだよねー。多分ゴミ箱を指さしても、倒れてるねーで終わっちゃうんだよ」

「……そう?」

「そうだよ。でもさ、志音ってこういったこと面倒だけど一緒にやってくれるじゃん? 俺のやろうとすること、笑わないでいてくれるってのはありがたいんだよねー」

「……まぁ、俺が小説書いてても西園は笑わなかったからね」

「だってすげーって思ってるし。誰にでもできることじゃないじゃん?」

「そんなことはないよ」

 今のご時世、誰だって携帯で簡単に小説は書ける。わざわざ紙にペンを走らせる必要がない。その気になれば誰にでもできるお手軽なことなんだ。だから別に、何もすごいことじゃない。そう垣村は伝えたが、西園は「そうじゃないんだよー」と否定した。

「誰にだって書けるかもしれない。でも、志音のレベルまで到達するのに時間はかかるじゃん。最初からあんな文を書けたわけじゃないって前に言ってたし。そこまで継続するのは、誰にでもってレベルじゃないと思うんだよねー」

「……そうかな?」

「そうなんだよ。誰にでもできることをやるのは、むしろ良いことなんだよね。誰にでもできることをするから、誰にもできないことができるようになる。志音みたいにねー」

 そこまで褒められると、少々照れくさくなってしまう。頬を指で掻きながら、垣村はそっと視線を逸らした。夏の日差しから守るように、木陰がひっそりと二人を包み込んでいる。

「自分がやりたいことをやれないのは嫌だなー。けど、志音が一緒にいれば、やりたいことをやれる。こんな泥臭いことでもねー」

「俺は、都合のいい女か何か?」

「都合がいいってのはちょっと言い方がなー。こういうのを、友人っていうんじゃないかなー」

「女を否定する場面じゃない?」

 垣村の言葉を、あははーっと笑って誤魔化した。西園ならば自分と一緒じゃなくてもやるんじゃないのか、と垣村は思ったが……西園は「一人でやるのは恥ずかしい。俺はそこまで強くないよー」と卑下していた。自分と一緒なら。その言葉が耳の奥で何度も反芻する。そして、友人という単語も。なんだか嬉しくて、垣村は口端が上がりそうになるのを必死に堪えていた。

 視界には日向と日陰の境界線が見えている。自分たちは日陰にいる。涼しくて、心地よい。憎たらしいほど晴れ渡る空を見上げながら、垣村は言葉を零した。

「日陰も、悪くない」

「だねー」

 二人の小さな笑い声は、遊んでいる子供たちの声でかき消されていった。


   【☆】


 笹原が教室に入ると、朝でもそれなりに騒がしかった。机に何人かで集まりながら話をしていたり、カバンの中からタオルを取り出して汗を拭き取っている生徒がいたり。そして、教室の後ろの方。窓際の席で両耳にイヤホンをつけたまま携帯を見ている男子生徒がいたり。

(……いつも通りだ)

 特に笹原と垣村の関係が劇的に変わったわけではない。日常的に接することなんてないし、挨拶を交わすような間柄でもない。それにきっと変わらない。どこか確信的な感覚がある。

 今の時代の人たちは変化することを拒む。例に漏れず笹原もそうだった。今の環境に不満は特にないし、友人と遊ぶことも多い。男子との仲も悪くはない。ただ……そう。ほんの少しだけ。誰にもわからない変化は欲しいのかもしれない。例えば、決まった曜日に、決まった場所で会えたりとか。別に、ただ帰り道が同じなだけだというのに、そうやって考えてみると少しだけ特別感のようなものが湧いてくる。

「唯ちゃん、おっはよー」

 いつも通り。朝一でも元気な紗綾は明るい挨拶とともに近づいてくる。笹原もやんわりと笑みを浮かべて返事を返した。

「あっついよねー。もう来る時に汗かいちゃってさ。背中とかくっついたりしてない?」

「んー、平気だよ。私もついたりしてない?」

「唯ちゃんもついてないから大丈夫だよ」

 お互い背中を見せあって汗で制服がくっついていないかを確認した。汗で湿ってしまうと、中に着ているものが透けて見えてしまう。それはさすがに嫌だ。夏を嫌う女子高生は多いはず。腕をまくったり、体操服のまま授業を受けたりすると男子からの視線は結構気になったりする。

 紗綾は隣の椅子に腰掛けて、汗で湿ってしまっている腕や首周りを制汗シートで拭いていく。笹原も同じようにシートで汗を拭いていった。スーッと心地よい爽快感が拭いた場所から感じられ、教室の中が暑くてもほんの少しだけ涼しく思える。

 首周りを拭き取りながら、何気なく首を動かして周りを見回す。そして視線は気がつけば教室の窓際後方を見ていた。携帯を睨みつけていた垣村は、イヤホンを外して西園と話し込んでいる。何を話しているのかはわからないけれど、二人とも稀に見る笑顔だった。

(……あんなふうに笑うんだ)

 垣村の笑っているところは何度か見た事はある。西園と話している時にだけど、今の笑顔はいつもよりも爽やかだ。普段は小さく笑うか、あの雨の日みたいに微笑むように笑っているくらいだったのに。そんなに面白い話をしているのかな。私と話す時は笑わないくせに。

笹原の心の中で小さな嫉妬が生まれ始めていた。男子生徒に嫉妬するなんて馬鹿らしい。そう考えても、胸の中の一部を埋めているこの感情はどうにも制御できなかった。垣村とあんなふうに笑って話せたら、それなりに楽しそうだと思うけれど。

『許せない。けれど、そのうち気にならなくなることはあるかもしれない』

 少し前に聞いた、あの詩人のような言葉を思い出す。そのうち。そう、そのうち。いつかはわからないけれど、いつかは。私も西園のように、垣村と笑って話せるようになるのかな。

「唯ちゃん、どこ見てるの?」

「えっ? いや、どこも見てないよ」

「嘘だー」

 長々と見過ぎたみたいだ。笹原を冷やかすように紗綾は二の腕をツンツンと突いてくる。汗は引いたはずなのに、今度は冷や汗が背中を伝っていった。

「……西園君?」

「違うってば。そもそも、見てないし」

 垣村と話す仲だというのはあまり知られたくない。知られたら最後、ずっとからかわれるはず。西園だと誤解してくるのなら、それはそれでいい。それほど大きな波風は立たないはず。

 西園は垣村と一緒に居るから皆が話しかけないだけで、一人でいる時には話す人はそれなりにいる。カースト下位なのは、隣に垣村がいる影響というだけだった。本人はそれを好んでいるらしく、基本的に二人で行動している。西園はともかく、垣村は一人でいても誰かが話しかけることはない。むしろ本人がイヤホンまでつけて話しかけるなという雰囲気を醸し出している。一見両極端な二人なのに仲がいいのが、笹原には疑問だった。

(……目、合わないな)

 数日前まで、学校にいれば何度か目が合いそうになっていたのに。今はそんな兆しはない。

 それをどこか残念だと思っている自分がいるのに気づいた笹原は、垣村に視線が向いてしまうのをなんとかして抑えようと決意した。だって、なんか負けた気がする。意地を張り続けたとしても……そのうち、目は勝手に追ってしまうのかもしれないけれど。


 午後の授業も終わり、放課後が訪れた。いつものように紗綾たちは部活に勤しみ、笹原は帰る支度をし始める。二年生は部活動に熱が入りやすい。先輩がいなくなり、後輩を引っ張っていかなければならない立場になる。

 そういえば、松本は皆からキャプテンってからかうように言われていたっけ。何人か候補はいたみたいだけど、見事にキャプテンに選ばれたらしい。張り切っている彼を見ていると、体育会系男子は元気が有り余っているのがわかる。

(それに比べて、アイツは元気のげの字もない)

 人が少なくなった教室は視線が通りやすい。何気ない感じで後ろを見てみたら、もう既に垣村はいなかった。昨日もそうだけど、帰るのが早い。さっきまで西園と話していたと思ったらもうこれだ。別に今日は急がなくてはならない用事もないし、垣村も塾ではない。いつものように一人でゆったりと帰ろう。

荷物を持って、学校の外へ出る。駅に向かうために、また坂を通らなければならない。まぁ、上るよりはマシだ。日照りがキツく、額に既に数滴ほど汗を滲ませながら坂を下っていく。

 下った先を少し歩けば、騒がしい声が笹原の耳に届いてくる。途中にある公園では小学生が集まって遊んでいた。何人かはボールを蹴って遊んでいて、女の子たちはベンチに座って何かをしている。あぶれたようにベンチに座ってゲームをしている男の子もいた。垣村の子供時代もこんな感じだったのかな、なんて考えてみる。そして視線を少し逸らしてみたら……。

(……垣村と、西園?)

 腰を屈めて必死に何かを拾い集めている垣村と西園がいた。近づいてみたら、どうやらゴミを拾っているらしい。そして笹原は、気づけば乱雑に生えている木の後ろ側に、隠れるように立っていた。別に何もやましいことはしていない。そんな感じを装うためにポケットから携帯を取り出して、適当に操作しているフリをする。

 耳に届いてくる声のほとんどが子供たちの声だ。けれど耳をすませば、確かに二人の会話が聞こえてくる。互いに笑いながら、ゴミを集めては設置されたゴミ箱に捨てていく。

(……何やってるんだろう、私)

 こんなコソコソと隠れるような真似をして。挙句盗み聞きだなんて。最近の私はどうかしている。でも、この場から動こうとは思わなかった。

 笹原の額は暑くてかいた汗の他に、立ち聞きしているという罪悪感のようなものから発生した冷や汗のようなもので湿っていた。バレないようにパタパタと手で扇ぎながら、横目で彼らを見つめる。ゴミ拾いは終わったらしく、二人は水道で手を洗い始めた。先に洗っていた垣村は頭から水を被る。間の抜けた声が聞こえてきて、笹原まで笑いそうになってしまった。

 西園と交代して、タオルで頭を荒く拭いていく。位置的に顔はよく見えないが、横顔だけなら少しだけ見える。若干濡れたままの彼は、時折吹く風を受けて幸せそうに頬を緩めていた。

(あっ……こっちに来る)

 咄嗟に顔を隠して彼らの視界に入らないようにした。すぐ後ろにはベンチがある。軋む音が聞こえたから、座っているみたいだ。離れていた西園が飲み物を買ってきて、二人して飲んでいる。どんな話をしているのか、携帯を弄るフリをしながら耳をすました。

(……変に思われてないかな)

 ベンチに座る男子生徒と木を挟んで向かい側で立ちすくむ女子生徒。自意識過剰になってしまっているだけかもしれない。けど、こんな場面を同級生が見たらどう思うんだろう。お願いだから、誰もこないでほしい。笹原の心臓の脈が、まるで体育で走った後のように早くなる。脳が周りを気にしていても、耳だけは彼らの会話を逃すまいと拾い続けていた。

「自分がやりたいことをやれないのは嫌だなー」

 西園が言っただろうその言葉が、嫌に耳に残っている。垣村と西園が楽しそうに会話をする傍ら、笹原はその言葉を何度も頭の中で繰り返していた。

 自分がやりたいこと。やらなきゃいけないこと。結局、周りの目を気にして何もできない自分がいた。私は垣村に話しかけられない。きっと、彼と話したいと思っているはずなのに。傘を返すのだってそう。やらなきゃいけないことで、早く返してあげなきゃいけないものだった。なのに、周りから何か言われるのが嫌で。私はなにもできないでいた。傘を借りたことといい、助けてもらったことといい、彼には返すべき恩があるはずなのに。

(……私は彼の、何なんだろう)

 友達ではない。気軽に話せる間柄でもない。だとしたら、私と彼の間にあるものはなんだろう。考えても、笹原には答えが出てこなかった。

 やがて公園から出ていく二人の後ろ姿をその場で見ながら、笹原は遅れて駅へと向かっていった。当然、駅のホームには垣村の姿はない。昨日座った場所と同じ場所に座って、一番端の席を開けておく。目を閉じてみれば、昨日の光景がありありと浮かんできた。素っ気ないようで、けどおどおどとしていて。気配りができないかと思えば思わぬ所で気遣って。そんな彼と話せない。嫌なモヤモヤが心の中に残留して、じくじくと痛めつけていくのがわかる。

 次に話せるのは多分木曜日。それまで長いな……と、思っている自分に気が付いてしまった。

   【♪】

 暑苦しい日々が続く。学校から出てしまえば制服の着こなしなんてどうでもいいだろう。垣村は駅の改札を抜けた辺りでワイシャツの第二ボタンを外し、胸元をバタバタとはためかせた。。

 階段を降りて日陰の椅子を目指して歩いていき、彼の定位置と化した右端の椅子に座った。もうすぐ電車が来る。垣村はその後の電車だが、早く帰りたい生徒にとってはこの時間の電車が一番タイミングがいい。立ちながら話している男子生徒たちを視界に収めながら、ポケットから携帯とイヤホンを取り出す。今の気分は激しめだ。最近ドラマで使われたあの曲がいい。イヤホンをつけてしまえば、辺りの喧騒は無音になる。そして代わりに聞こえてくるのは、体が振動しているのだと錯覚してしまいそうな重低音な曲。耳が震えている。携帯を持っている右手の人差し指が勝手にリズムに乗ってカバーの端を叩き始めた。

 文化祭が終わって、この次に来るものといえば夏休みだ。学校というしがらみから解放され、周りの目を気にする必要もなくなる。学生は部活に勤しみ、垣村のような生徒は塾に通いながら趣味に興ずる。なんて素晴らしい。これで気温が高くなければ両手を上げて喜ぶというのに。

(ざわめきたつ人たちを、鉄の箱が攫っていく。行く宛もない僕は、周りに流されるまま……)

 頭の中で歌詞を紡いでいく。けれども、やはりしっくりとこない。小さなため息ばかりが増えていく。やがて垣村の耳を音楽ではなく電車の音が埋めつくしていき、その音は次第に遠ざかっていった。周りに生徒は残っていない。ぐっと背を伸ばして、足も伸ばしきる。誰にも迷惑をかけることはない。だったらここで自分が何をしてもいいだろう。狭い世界の中で、小さな自由を謳歌する。のんびりとした時間は好きな方だ。垣村は次の電車が来る二十数分後まで、目を閉じて自分だけの世界にこもろうとした。

 真っ暗な世界では音楽だけが垣村の隣にいる。そう思っていたのだが……不意に体が軋み始めた。いや、体じゃない。多分誰かが椅子に座ったんだろう。

 そう考えたのも束の間。左耳に感じる開放感。そして聞こえてくる、音楽以外の音。

「垣村」

「っ……!」

 堪えた。変な声を上げてしまわないように。前回と同じ轍を踏まないように。しかし声は上げなかったものの、体は驚きでビクリと震え、開かれた瞳はそのまま隣にいる人物を見つめた。

 少し色の抜けた黒髪。左耳を見せるようにかきあげた髪型。笑っているのか、唇は三日月のように弧を描いている。あろうことか、笹原がまた隣の席に座って垣村を見ていたのだ。

「おはよう」

「お、おはようございます……」

「またビクってなってたね」

 平日の、それも学校があった日の放課後。だというのに、おはようと挨拶するのは変じゃないか。しかも安息のひとときを邪魔されたようなものだ。垣村の眉は自然とひそめられ、仕方ないといった様子で右耳のイヤホンも外し、少しばかりの怒気を孕ませた声で返事を返す。

「目を閉じてる時にやられたら、誰だってそうなるよ」

「寝過ごして電車に乗り遅れたら大変だなって思ったから起こしてあげたんだけど」

「……それはどうも」

 感謝はしたものの、笹原が思っていることが嘘だというのは垣村にはわかっていた。楽しそうに笑っているのがその証拠だ。善意ではなく、本人の悪戯心のようなものが刺激されて起こしただけなのだろう。そのイタズラがイジメに変わるのは、何度か見てきたことだ。本人にとっては楽しいことも、やられた側からすれば苦しみを感じるだけ。相手の気持ちを汲み取れない。いや、カースト下位の気持ちなんて知ったことではない。トップカーストにはわからないのだ。いじりと評してイジメられる日陰者のことなんて。

「それで、俺に何か……?」

「次の電車まで暇だから、話し相手になってもらおうかなって」

「……何度か話していてわかると思うけど。話し上手じゃないし、ネタもないよ」

「なら私が話すから」

 強引な人だ。いかにもトップカーストらしい。横目で彼女の顔を見た垣村は、どうにも気分が良さそうだということに気がついた。前に話した時よりもかなり楽しげで、普段はキツそうな目つきが柔らかくなっている。学校で何かいいことでもあったのか。それの自慢でもしに来たのだろう。なるほど道理で、自分のところにわざわざ来る訳だ。

「一昨日さ、西園と一緒にゴミ拾いしてたよね」

「えっ……?」

 見られていたのか。予想外な話題に垣村は咄嗟に顔を動かしてしまった。向けた先はもちろん笹原の方で、彼女はえくぼができるくらい笑い始めた。

「あはは、そんなに驚くことでもないじゃん。帰り道同じなんだから」

「……それは、確かにそうだけど」

 誰かに見られているとは思わなかった。いや、見られたからどうという訳でもない話だけれど。なんだか恥ずかしくなった垣村は、ただでさえ暑いというのに体温が上昇していくのを感じていた。額に汗が浮かんでいくのがわかり、ポケットの中にあったハンカチで拭っていく。

「一昨日もこんなに暑かったのに、よくやるよね」

「別に、西園と一緒だったからすぐに終わったし……」

「そっか。でもさ、どうしてゴミを拾ってたの? 普通、あんなことしないと思うけど」

「どうしてって、そりゃ……」

 西園が一緒にいたから。その言葉を言おうとして、飲み込む。彼女の言った言葉がどうにも気に入らなかった。普通はあんなことしない。普通って、それは君たちの普通だろう。

なんだか説教臭くなりそうな気分だ。笹原を視界の隅にも入れないように、目線を逸らした。

「……普通って、なんだろうね」

「えっ?」

「普通の行動って、なんなのかなって。全員の行動を平均化したもの? 大衆の行動基準?」

 普通とは。一言で表すには難しい。でもここに他の誰かがいて、話を聞いていたとするなら。笹原は普通で、垣村は普通じゃないと答えるんだろう。そういうものだと垣村は理解している。世の中明るくて、好き勝手するような子供がきっと普通なんだ。自分はその対極にいるだろう。

「笹原さんの普通は、俺にとっては普通じゃないよ。多分ね」

「……垣村の普通って?」

「少なくとも、今この状況は普通じゃないと思う」

「確かに、そうかもね」

 彼女の返事を最後に、会話はそこで途切れた。近くを走る車の音や、今しがた駅に着いたのであろう学生たちの声が聞こえてくる。夏の訪れを感じさせるセミは、まだ鳴いていない。代わりに鳴るのは垣村の心の警報だ。アラート。トップカーストとの会話でギクシャクしました。SNSに悪口が書き込まれることくらいは覚悟しておこう、と垣村は小さな後悔を覚えていた。

「普通じゃなくて、特別だったら悪い気はしないよね」

 周りから聞こえる雑音に紛れたその声は、しかし垣村の耳にしっかりと届いてくる。彼女の明るい声だけが周りから切り離されたようで、それを聞くことができたのは自分だけで。

 顔を少しだけ動かして、彼女の顔を見てみる。恥ずかしいのか。それとも気温のせいか。頬がほんのりと薄赤く染っていて、心臓がキュッとしまったような気がした。

「私ができないことを普通にやるのは、特別って感じがしない?」

「……どうだろう。そういうのは異端って言うんじゃないのかな」

「でも聞こえはいいよ。ちゃんとゴミを拾った垣村は、私からしたら特別なことをした。どう?」

「どうって……」

「気分上がったりしない?」

「まぁ、少しは」

 彼女は照れくさそうに「ならよかった」と笑って、かきあげられていない左の髪の毛を触る。垣村も顔を正面に戻して頬を指で数回掻いた。先程とは違う空気が二人の間を流れていく。なんだか落ち着かない。息を深く吸って、吐き出していく。それでもまだ落ち着かなかった。

「ちょっと、なにため息ついてるの」

「ため息じゃないよ。それを言うなら笹原さんだって、この前隣でため息ついたでしょ」

「っ……あ、あの時とは色々違うじゃん」

「何も違わない気がするけど」

「細かいよ! それ以上何か言ったら目の前で柿ピー食べるよ⁉」

「なにその地味な嫌がらせは」

 思わず西園と話す時と同じような感覚で言葉を返してしまった。失敗したな、と思いつつ笹原のことを見るが、彼女は今のやり取りのどこが面白かったのか。口元をおさえて笑っていた。

「垣村って、そんなに柿ピー好きなんだ」

「俺が何を好きだろうと勝手じゃないか」

「そうだけどさ、なんか笑える」

 意味不明だ。額をおさえた垣村は、体の中に残っている僅かな空気を一気に流していく。耳にはまだ、彼女の笑い声が響いている。やはり今日の彼女のテンションはおかしい。

「笹原さん、何かいいことでもあったの?」

「ん、いや別に。何もないけど」

「テンション高いよ」

「そう? じゃあ、案外ここで会話するの楽しみにしてたのかもね」

 なんてことはないと言いたげな顔で言われる。テンション上がりすぎだ。普通こんなこと言わないだろ。あまりにも予想外な言葉に垣村の脳内が軽くパニックを起こしていた。楽しみだと言われても、垣村には楽しませる気はサラサラないし、まして会話なんて多くないのに。

「まぁ、それもあと三週間で終わるよ。夏休みだし」

「あーそっか。夏休みかぁ」

 夏休みになってしまえば彼女との接点もなくなる。さすがに休み明けもここに来るなんてことはないだろう。過ぎてみれば、自分のことなんて忘れているはずだ。それどころか、来週ここに来るかもわからない。彼女には友人との付き合いがある。その付き合いに自分は邪魔だ。そもそもなんで、こんなに近づいてくるのだろう。垣村は彼女の心の内を測りそこねていた。

「垣村は夏休み何するの?」

「家でゴロゴロしてるか、夏期講習かな」

 長い間拘束されるのは好きではない。少し憂鬱な気分になってくる。勉強なんて誰だって嫌いだろう。垣村とて好きとは言えない。趣味に使う時間が欲しいと垣村は切実に願っていた。

 笹原からの質問に答えたのはいいが、これは聞き返さなくてはいけないものだろう。別に聞くまでもない話だし、興味もないのだが、垣村は彼女に聞き返した。

「笹原さんは、何するの?」

「皆と遊ぶかな。花火も見に行く」

「……そう」

「聞いたのにそこまで興味なさそうに返事しないでよ」

「遊びに行く間柄でもないし、まして……友達ってわけでもないでしょ」

 彼女と自分は友達じゃない。笹原はトップカースト。垣村はカースト下位。遊んでいるところを見られたら誰かに茶化され、笹原は現在の地位から落ちていくことだろう。それは垣村にとっては別にどうでもいいことだが、周りが騒がしくなるのは嫌だった。だから事を荒立てたくはない。こうして二人で会話するのも、どこで誰に見られているのかわかったものではない。

 それなりに拒絶するような言葉だったはずなのに。視界の隅に映っている笹原の横顔は曇ってはいなかった。意外だ。眉をひそめて睨みつけてくるかと思っていたのに。

「友達じゃないかもしれないけど……こうして話したりするのも、普通じゃないよね。じゃあ、特別な関係ってこと?」

 何を言っているんだお前は。思わずそう言ってしまいそうになる。けれどあまりにも不意打ちなその言葉に、飲み込んだ言葉以外の言葉を失っていた。なんて言うべきだ。西園相手なら馬鹿じゃないのかって言えるのに。女子にそれを言うべきなのか。

 垣村が何も言えずに笹原のことを見ていると、彼女も自分の言った言葉の意味に気がついたのか、慌てて手を振り、先程の言葉を否定し始めた。

「ち、違う! 特別な関係って、そういうのじゃなくて!」

「自分で言ったのに」

「だから言葉の綾だって!」

 あまりにも必死に否定してくるので、思わず垣村も笑いがこみあげてきそうになった。笑いそうになるのをぐっと堪えて、口元を右手で隠す。けれど笹原はそれを笑っていると捉えたのか、垣村の左肩を軽く叩いて「笑うな」と怒っていた。

「知り合い以上友達未満で、駅でだけ会話する。普通じゃない特別感あるでしょ」

「錯覚だよ。俺が中学の同級生と会ったら多分そうなると思う」

「交友薄っ。中学の時からそんな感じなの⁉」

 中学の時からそんな感じとは、君たちもじゃないのかと言いたくなる。成長してないよなって。さすがに言うことはないが、適当に「そうだよ」と垣村は返事をする。

 自分と彼女は特別な関係ではない。でも普通でもない。じゃあ異端か。それとも違う気がする。二人の関係をどう表したらいいものなのか。垣村は電車が来るまで頭の中で考えてみたものの、それらしい答えは出てこなかった。

 人のいない電車に乗って、端っこに座って。そしてその隣に笹原は躊躇い無く腰を下ろす。広々とした電車でわざわざ隣に腰を下ろすのは、友達未満の関係でやることなのだろうか。いや、それがトップカーストの普通なのであって、垣村にとっては特別な事のように感じてしまっているだけなのかもしれない。優越感など抱いてはいけない。垣村は隣に座る笹原を見ないように、向かい側の窓の外を見つめていた。



 次の週になり、さすがにもう笹原が自分の元まで来ることはないだろうと思っていた垣村だったが、予想に反して彼女は隣の椅子に座り、イヤホンを取り上げてくる。正直な感想は、毎度毎度鬱陶しいだろう。音楽を聴いて自分の中で物語やインスピレーションを閃かせようとしている時にそれをされるのだから。

 けれども垣村は彼女には怒れない。怒ったら逆ギレされて晒しものにされる可能性がある、という理由だけでなく……単に、笹原が笑っているからだ。満面の笑みというわけではない。イヤホンを耳から取り外しては、口角をほんの少し上げるように笑いかけてくる。そして放課後だというのに「おはよう」と場違いな挨拶をして、次の電車が来るまで待つのだ。

 その次も。また週が変わっても。笹原は垣村の隣に座って話しかけてくる。途中からは垣村も来るのだとわかってきて、いつも取り外される左耳だけイヤホンをつけずに彼女を待つことにした。足音が聞こえて、少しだけ顔を向ける。その日は垣村がいつもと違う様子だったためか、笹原は驚いた顔で彼を見つめてから、やはり少し笑って「おはよう」と挨拶してきた。なんてことはない、誰もが使う挨拶。けれどもこの場では不思議な特別感があった。学校でも顔を見て、帰りの道も一緒なのに同じ時間に帰らず、駅で待ち合わせをしているわけでもないのに、元から決まっていた約束があったかのように日陰の椅子で隣り合わせになる。さながら「おはよう」とは、垣村にとって合言葉のように感じられた。

 そして夏休み前最後の週。駅のホームで片耳だけのイヤホンから流れ出る音楽を楽しみながら、右耳で外の世界の音を拾う。生徒たちはもうすぐ夏休みだということで浮き足立っているようだ。黄色の線のすぐ近くで三人の女子生徒たちが夏休みの計画を話していて、遊園地に男子を誘って告白するだのという内容だった。遊園地で告白すると別れるという噂を垣村は聞いたことはあったが、所詮は噂だ。垣村が影でありもしないことを言われるのと同じこと。

(男を誘う勇気がよくあるよなぁ。そこら辺、やっぱり世渡り上手は違うのかな)

 女子を誘うなんて夢のまた夢だ、と垣村は自嘲する。彼女らの恋バナは止まる所を知らない。未だに楽しげな声が垣村の耳に届いてくる。誰にも聞こえないように、静かにため息をついた。

(夏の熱に僕は憂かされ、君は恋の熱に浮かされる)

 夏。女子生徒。君と僕。パズルがハマっていくような感覚を覚え、頭の中に言葉が浮かぶ。なるほど、中々悪くない。垣村は今の言葉を忘れないように脳裏に焼きつけた。幸いにも焼きつけるための熱は嫌という程感じている。なんて、くだらないことを考えていたら誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。

「垣村、おはよう」

 場違い。いや、時違いな挨拶と共に笹原はやってきた。垣村が挨拶を返すよりも早く彼女は隣の椅子に座って体を伸ばす。

「あぁー、あっつい」

「男子よりも涼しげな格好だけど」

「大して変わらないって」

 暑い暑いと何度も呟きながら彼女は顔の近くで手をパタパタと動かして風を感じようとしていた。横目で彼女の仕草を見ていると、額に薄らと汗が滲んでいるのが見える。それが頬を伝い、首筋を通って胸元へと消えていく。彼女の襟元には鎖骨が出ていて、男のそれは屈強そうに見えるのだが、女のそれはどこか変な気分にさせられる。

(……鎖骨が見えるのがいいって西園は言ってたけど、わからなくもないな)

 いつか西園が言った言葉を思い出し、一人心の中で頷いた。横目で彼女の鎖骨辺りを見ていると、何故だか垣村自身も暑くなってくる。カバンの中から黒の下敷きを取り出して団扇代わりに扇いだ。涼しい風が垣村を癒していくが、隣に座る彼女は不服そうにそれを見ていた。

「垣村、それ貸して」

「自分のはないの?」

「取り出すのめんどくさい」

「俺も暑いんだけど……」

「……傘は無理やり貸すくせに」

 ボソリと聞こえるように呟かれた言葉が垣村の心臓をえぐっていく。眉間にシワが寄りそうになるのを堪えて、仕方なく下敷きを彼女に渡した。受け取ったらすぐに扇ぎ始め、「涼しぃー」と頬を緩める。対照的に垣村は仏頂面だ。

(反則だろう、その言葉は……)

 あれから時が経ったとはいえ、垣村にとっては忌まわしき過去。当事者でもある笹原からの言葉は、鳩尾に拳を入れてくるような鈍痛を感じさせる。

 過去を思い出して恥を感じ、また体温が上がっていく。下敷きの貸し借り以降、二人の間にそれといった会話はない。手元にある携帯を眺めながら時間を過ごす。隣同士なのに会話がないのは、出会った頃は窮屈で仕方がなかった。しかし今の二人はそれを感じない。無言でも苦しくない。たった手摺りひとつ分の距離感。それが適切だった。

 やがて電車が生徒たちを連れ去っていき、垣村と笹原だけが取り残される。それでも気にせず垣村は携帯を眺めていると、耳に届いていた扇ぐ音が聞こえなくなった。そこから数分、環境音だけが周りに響く状態が続く。やがてそれを破ったのは、どこか固い彼女の声音だった。

「ねぇ、垣村」

「……なに?」

「もうすぐ、夏休みだね」

「あぁ。明明後日からは、学校に来る必要がなくなる。気楽だよ」

 わざわざ学校で勉強する必要もない。部活も入っていない。趣味に時間をかけられる素晴らしい期間。宿題も適当にやっていけば期間内には終わる。それが明明後日からやってくるのだ。周りの浮かれている生徒たちと同様に、垣村も楽しみであった。

「気楽、かぁ」

 だがしかし、笹原はそうではないらしい。なんとも言えない微妙な表情を浮かべては、どこか遠くの方を眺めている。

「友達と会えなくなって、暇だなとか寂しいとか思ったりしないの?」

「……いや、特には。西園しかいないし、時折遊びに行く程度で気分は満たされると思う」

「そっか」

 垣村から見て、笹原は友達と会えなくて暇だなとは思えど、寂しいとは思わないだろうと感じていた。しかし今の彼女の様子だと、そうではないらしい。女子同士の繋がりというのはよくわからない。集団で行動して、何が面白いのか音楽に合わせて踊る動画を撮って、ろくに食べもしないパフェを写真だけ撮ってはネットに上げて。挙句自分の顔写真を簡単に載せるのだから、ネットリテラシーもあったものではない。

 それにSNSを見ていると女子高生は変な言葉を使う。ゎたしとか、ぴえん、だとか。訳の分からない言語を使うなと言ってやりたくなる。どうせ笹原もそんな感じなのだろう。

「女子ってね、結構大変なんだよ。メッセージはすぐに返したり、最近の話題とかにも注意しないといけないし。しばらく会わなかっただけで、関係が拗れたみたいになる」

「……それって、友達?」

「私にとっては」

「男子よりも面倒だね。女子は男子よりも成長が早いって言うけど、まるで子どもじゃないか」

「私が子どもだって言いたいの⁉」

「子どもでしょ、俺たち。背伸びしたって、ろくな事にならないよ」

 煙草を吸う生徒がいれば、酒を飲む生徒だっている。垣村の中学時代にも、素行不良の生徒が学校で煙草を吸って集会が開かれたことがあった。何故そんなことをするのか、垣村にはわからない。言った通り背伸びしたいのか。それか、現実を忘れたい程のストレスでもあるのか。

 それは女子高生にも言える。高いブランドの服だとか、カバンだとか。垣村にはどうにも理解できない。気に入った服ならなんでもいいし、靴だって質素なものでいい。わざわざ一万を超えるような靴を買う必要性を感じない。価値観の違いと言えばそこまでだ。垣村には女子生徒、ひいては笹原のことなんて理解できるはずもない。垣村と笹原は、生き方が違うのだ。

「……電車、来ちゃったね」

 笹原の声が聞こえる反対側から、電車がやってくる。目の前でゆっくりと速度を落としていく鉄の箱には、やはり人は少ない。これから塾だというのが少し憂鬱だが、仕方のないことだ。

垣村は立ち上がって電車に乗り込むが、近くに笹原の気配がなかった。後ろを振り向いてみれば、彼女はまだ椅子に座ったまま動いていない。どこか俯きがちなその姿に、さすがに心配の情がわく。普段は教室でも明るい彼女が、あの打ち上げの日の夜みたいな暗さになっている。

「笹原さん、乗らないの?」

「……乗るよ」

 顔を上げた彼女は不機嫌そうだった。思わず、何かしてしまったのかと不安になる。けれども原因は思い当たらない。半ば逃げるように垣村は端の席に座ると、笹原も少し遅れてその隣に腰を下ろす。垣村が降りる駅まで会話はなく、笹原の急な機嫌の変化もあって、息苦しい状態のまま彼らは別れを告げていった。


 居酒屋。酒の匂いと焼き鳥の匂いが混ざり、時間も相まってとてもお腹が空く。塾帰りを見計らっていたかのように待ち伏せしていた庄司によって、垣村はまた居酒屋へ連れてこられたのだ。テーブル席に向かい合って座り、既に届けられた焼き鳥と飲み物を口に運んでいく。庄司は相変わらずジョッキのビールを呷っては幸せそうに「くはぁー」っと言葉を漏らしていた。

「うーん、やっぱり仕事終わりのビールは美味いねぇ。カキッピーも大人になったらこれの良さがわかるよ」

「お酒は、まぁ……。でも苦いの苦手ですし」

「いやいや、青いねぇ。この苦味がわかったとき、少年は大人になるのだよ」

 彼は相変わらずのほほんとした人だった。頼んだ枝豆を食べてから、ニヤニヤと笑って垣村に尋ねてくる。

「それでどうなの、カキッピー。気になるあの子との進展は」

「気になるって……別に、なんとも。そもそもそういう関係じゃないんですけど……」

 酒が回ってぐいぐいとくる庄司に根負けして、仕方なく垣村はこれまでのことを話し始めた。駅で会って、隣り合わせで座り、適当に会話をする。ただそれだけの関係なのだと。けれども庄司は垣村の話を聞いて、より一層楽しげに笑い始めた。

「進展してるじゃないのー。いいねぇ、若いねぇ」

「別に、いいとは思ってないです。多少気楽になったかと思えば、今日は最後不機嫌でしたし」

「なーにがあったんだろうねぇ。あれかな、女の子の日かな」

「とばっちりくらっただけじゃないですか」

 ちょっとヤケ食い気味に焼き鳥を頬張る。染み付いたタレが口内に届いていき、噛んで飲み込む頃には先程までの苛立ちも鳴りをひそめる。そんな垣村の様子を見ていた庄司はニヤニヤと笑っては「羨ましいもんだねー」と言うばかりだ。

「実際、カキッピーはどうなの? 女の子と会話してて、案外楽しかったんじゃない?」

「そうでもないです」

「またまた、意固地になっちゃってー」

「俺は、なんとも思っていません」

 笹原と過ごすことを特別だと思ってはいけない。彼女にとってはなんてことはない日々のはずで、垣村との会話は暇つぶしで。だから驕ってはいけない。天狗になってはいけない。笹原が垣村に何か思うことなんてあるはずもない。彼女が居るべき場所と、自分が居るべき場所の差は明確だ。感じ方も価値観も違う。だから、なんとも思ってはいない。否、いけないのだ。

「カキッピーって、自己肯定感が低いよねぇ」

 庄司の目つきが変わる。細められた目が垣村を逃がさんとばかりに見据えていた。心の奥まで見透かすような彼の様子に、垣村は言葉を失ってしまう。

「何をそんなに恥ずかしがったり、拒絶したりする必要があるのかなーって、オジさんは思うわけよ。むしろ見ていて痛々しいくらいさ。こうに違いない。だから自分はこうあるべきだーって決めつけてるんじゃない?」

 庄司の言葉は、垣村の心を読んだのではないかと思う程に正確だった。反論する言葉もない。軽く俯き、グラスの中に注がれたコーラの水面を見つめる。そこには何も映し出されていない。言い当てられた虚しさを表しているようで、悔しさが増してきた。

「事実はどうあっても変わらないことだよ。女の子と過ごすなんて、普通に考えたら嬉しいことじゃない。男の子なんだし、そう考えるのは当たり前のことだよ。恥ずかしいことでも、悪いことでもない。オジさんだったら舞い上がってオヤジギャグ連発しちゃうね」

 なぜオヤジギャグなんだろう、というツッコミが頭に過ぎるが……事実はどうあっても変わらないことだという庄司の言葉が、不思議と耳に残っていた。垣村は笹原と話をした。それは変わらない。垣村は女の子と会話をした。事実だ。イヤホンを外して彼女を待っていたのも、おはようという挨拶に何か特別性を感じたことも、事実なのだ。

「……そう、ですね」

 グラスを傾けて中身を飲み干していく。自分ばかりがそう思っていたのだという空虚さを飲み込む。俯きがちな顔を上げ、自嘲するように笑いながら垣村は答えた。

「案外、彼女が来ることを期待していて、楽しんでいたのかもしれません」

「うんうん、それでいいんだよ。いいなぁ、高校生。セーシュン、アオハル、羨ましいねー」

 茶化すように笑ってきた庄司に対して、垣村もまた照れくさそうに口元を抑えて笑い返した。


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